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この世において人が人を裁くのは、あの世では人は裁かれないと考えるからではないのか。
何故ならもしあの世で人が裁かれると考えるのであれば、この世で人を裁く必要など無いからである。
しかし現実には古今東西この世のどこにあっても人は人を裁いている。
これはたとえあの世についてどれほどの教えを授けよーが、どれほどの教えを受けよーが元より誰もあの世があるなど考えてはいない何よりの証拠ではないのか。
 

 

A 回答 (25件中1~10件)

人を裁くことができるのはただ「宇宙の法則」のみ。

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この回答へのお礼

 
>人を裁くことができるのはただ「宇宙の法則」のみ。


あまりに正しすぎる。

あ~、アルケー。
 

お礼日時:2012/09/18 21:20

>「まず第1に、裁判官や検事の行いが、彼らの信仰と無関係では有り得ないゆーこと。


何故なら、裁判官や検事の脳ミソと信仰する彼らの脳ミソは同一のものだからである。」

だから、(一宗教の教理で、法律問題を裁いちゃったら、)「末代までの恥」
個々の裁判官や検事が「あの世がある」など考えていようがいるまいが、・・・そういうことである。

この回答への補足

  
>だから、(一宗教の教理で、法律問題を裁いちゃったら、)「末代までの恥」

信仰なき裁判官や検事がある訳がない。
何故なら裁判官や検事は裁判官や検事である前に人間であるからである。
仮に信仰なき裁判官や検事があるとすればそれは人間ではなく機械である。
今日の機械文明の中にあってはそのよーな機械を作ることはさして難しくはあるまい。
わしが思うに皆人に裁かれるよりは、むしろ機械に裁かれたほーが良いと思っているはずである。
 

補足日時:2012/09/24 00:37
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この回答へのお礼

 
甘い、あまりに甘すぎる。

教理なしでやってる裁判官や検事なんておりわせん。

また今いる裁判官や検事に恥なんてこと気にするもんがいる訳なかろー。
 

お礼日時:2012/09/23 18:50

>あの世のことはこの世でしか考えることが出来ず、あの世に行ったらあの世のことは考えることは出来ないと思うから人は宗教やるんではないの、違うかな。



 ん~微妙に違うと思いますがね・・・多分宗教的には修行とか悟りとかを開かせる事を従事させたりしますよね?崇拝をするという宗教もあるみたいですが、おそらくあの世で極楽や魂が救われるとか輪廻転生ですばらしい人間に生まれ変わるとかの為の修行という意味合いで宗教をやるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

 
最近悟ったこと。

宗教の最大の目的はこの世で念仏し踊ることに違いあるまい。
 

お礼日時:2012/09/23 18:53

Ano.11です。



>「もしもあの世があるのならこの世で人が人を裁く行為は神や仏の下では違法行為であり、この世に裁判所を作ったり、裁判官になって人を裁いたり、検事になって人に罪を負わせたりする行為は神や仏によって裁かれることになるかも知れんのである。」


この世における、裁判官や検事の職責は、彼ら個々の信仰とは別の問題と思われます。
・・・(信仰とは「合理的」とはイコールではない、ということに注意のこと!?)
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この回答へのお礼

 
>この世における、裁判官や検事の職責は、彼ら個々の信仰とは別の問題と思われます。

まず第1に、裁判官や検事の行いが、彼らの信仰と無関係では有り得ないゆーこと。
何故なら、裁判官や検事の脳ミソと信仰する彼らの脳ミソは同一のものだからである。


第2に、この世のルールがあの世で通用するはずもなかろー。
 

お礼日時:2012/09/19 02:25

>主語なしで使える日本語は便利なよーで、便利でないゆー一面が露呈してしまったよーである。



ごもっとも しかし
 
>くれぐれも気つけんといけません。>

と説教されましても気をつけようつけまいが個人の自由です。自由権は侵害しないでください。


>さて本題に戻るとして、
>>これは言えてると思いますね、「無意識にあの世で裁かれる保証は無い」とどこかで感じているからでしょうね。
>ではあの世は何のためにあるのか、何のためにあの世を語る必要があるのかゆー疑問が自然と湧き出て来るであろー。

 あの世があると思う人がいるからじゃないですか?宗教的な暗示の人もいるし哲学的に導き出した人もいるでしょう。それを証明した僕なんかの文でも読んだ人かもしれません。しかしあの世があるとするとある意味希望がもてるという一面が出てくるからなのだと思います。個人的にはあの世の事はあの世で考えればいいだけの話で今を精一杯エンジョイすればいいんじゃないかと思いますがね。(正当にですよ。犯罪や悪意的なのは逆に自分を不幸にしますからね)
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この回答へのお礼

 
>>くれぐれも気つけんといけません。>

>と説教されましても気をつけようつけまいが個人の自由です。自由権は侵害しないでください。

違う違う・・・、それはわしがこのわしに向かってゆーたことであります。

反省しておるゆーこと。


>あの世の事はあの世で考えればいいだけの話で今を精一杯エンジョイすればいいんじゃないかと思いますがね。

あの世のことはこの世でしか考えることが出来ず、あの世に行ったらあの世のことは考えることは出来ないと思うから人は宗教やるんではないの、違うかな。

 

お礼日時:2012/09/18 23:49

No.17 です。

お礼いただき、ちょっと訂正ですね。

「お金を団体に納めた人間は、みな仏として極楽にいける」

が新興宗教のTOPがいいそうな言葉ですかね。

尚、この 仏 と言う字なんですが。

仏:これは単純に、死んだ方、あるいはご先祖をさすことが多いです。

佛:こっちが、いわゆる阿弥陀様だったり、お釈迦様だったりのほうですね。


南無阿弥陀仏 だけで、佛 になれるかって話でね。

まぁそれだけです。

失礼しました。 こっちは終わりましょうね。

 #小乗の中でも、南無阿弥陀佛 と唱えながら、しっかり人助けもして、

 #要するに大乗の修行をかねているような(区別は難しい!)ものもあるので、

 #一概には言えません。 質問者さんもいけるのかもしれないし、

 #いけないかもしれない。どうもσ(・・*)はこのままだと、いけないなぁ~と思う。

余計なお世話ですが、ご自分に都合のいい回答者だけにいいお礼を書かれていては、

これもこっちの、不瞋恚(思うとおりにならないことで腹を立てたりすること)の戒って

いうのがあります。

まぁ、余計なお世話です。

現にお礼を下さるわけですから。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
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この回答へのお礼

 

>南無阿弥陀仏 だけで、佛 になれるかって話でね。


あの親鸞聖人がそーゆーておるんであるから、間違いないんでないの。

皆そ~信じて南無阿弥陀仏と念じておるんです。

嘘だと思うんなら浄土真宗のお坊さんに訊いてみるがよろしい。
 

 

お礼日時:2012/09/18 23:14

>>裁いて貰いたいと思う人が居るからじゃないでしょうか?



世の中の人間、それほどMでは無いと思うが。

もちろん中にはムチで叩かれて喜ぶMはいると聞いているが。>

違う違う・・・主語を足すと「被害者が加害者を」という意味であって・・・決してSMのM君の心理の話をしているわけではありませんよ
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この回答へのお礼

 

主語なしで使える日本語は便利なよーで、便利でないゆー一面が露呈してしまったよーである。 
くれぐれも気つけんといけません。


さて本題に戻るとして、

>これは言えてると思いますね、「無意識にあの世で裁かれる保証は無い」とどこかで感じているからでしょうね。

ではあの世は何のためにあるのか、何のためにあの世を語る必要があるのかゆー疑問が自然と湧き出て来るであろー。
 

お礼日時:2012/09/18 20:54

裁いて貰いたいと思う人が居るからじゃないでしょうか?



>何故ならもしあの世で人が裁かれると考えるのであれば、この世で人を裁く必要など無いからである。

単純にあの世では我慢できないとかあの世で裁かれる保証がないからではないでしょうか?
だから今すぐにでも裁いて貰いたいと思うのは当然だと思われますがね?あまり不思議な話じゃないと思います?

>しかし現実には古今東西この世のどこにあっても人は人を裁いている。
これはたとえあの世についてどれほどの教えを授けよーが、どれほどの教えを受けよーが元より誰もあの世があるなど考えてはいない何よりの証拠ではないのか。

これは言えてると思いますね、「無意識にあの世で裁かれる保証は無い」とどこかで感じているからでしょうね。
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この回答へのお礼

>裁いて貰いたいと思う人が居るからじゃないでしょうか?

世の中の人間、それほどMでは無いと思うが。

もちろん中にはムチで叩かれて喜ぶMはいると聞いているが。
 

お礼日時:2012/09/18 18:03

人は常に、他人を裁いています。

自分のモノサシ(価値観や思想や信条など)によって他人を評価しています。

裁判だって、突き詰めれば同じ事です。法律は多くの人の共通するモノサシを寄せ集めたものですから、それに従って裁かれると言うことは、個人が日常、他人を自分のモノサシによって評価しているのと何ら変わりはないと思います。


この世において人が人を裁くのは何故か

→人間のモノサシがそれぞれ違うから。だと考えます。
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この回答へのお礼

  
>人間のモノサシがそれぞれ違うから。だと考えます。


あなたは正しい。

「人の道」を歩んでるのですね。
 

お礼日時:2012/09/18 18:06

No.14です。

お礼をいただいてますので。

人が人を裁くことを禁じている → 「人の道の教え」

了解しました。一般的かどうかの確認だけですので、

この一文で理解できます。

 #余り一般的ではないようですね。

南無阿弥陀仏・親鸞上人ね。

浄土真宗かとお見受けいたします。

小乗(この言い方はあまりしないということになっているそうです)、に区分されていますよ。

まぁ、人が区別するものですから、やり方の問題だけですけれどね。


根本的なことだけ(説明すると冗談じゃなく長くなりますから)。

自分だけ、他人様は知らん! 毀損しても、だましても構わない。

ただ、自分だけ極楽へ渡れればそれでいい。

そのために阿弥陀様にすがり、助けを求める。

基本線、こういうものを小乗と呼びます。


対して、できるだけの修行をこの世で積み重ね、他人様のため、不惜身命なんて言葉がありますが

 #ちょっとこの言葉嫌い。

禅なら禅で、苦行なら苦行で修行という努力を重ね、自分がお釈迦様や観音様、阿弥陀様と

同じところに行こうと努力して、みんなで彼岸にわたる(極楽に行くとは言わないかな?)。

これが大乗です。


「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽にいける。これは他人様のことを余り考えませんね。

『誰でも極楽にいける』あるいは『誰でも仏になれる』というのは、

新興宗教のTOPがよく言うようなことです。


これは小乗です。他人様を客観的に救おうという気持ちがなければ、

自分さえよければそれでいい! という風になり、独りよがりの佛の教えになってしまいます。


大変失礼ながら、幸○○○○学 の教祖や主張と似ているなぁ~と、思っています。

 これは邪推ですが、「人間界に降りてきている神」であれば人に裁かれるのは

 「お前は何様だ!」と思われることでしょうね。現にたくさん、訴えが上がってあるし。


宗教の話はここでとどめます。

質問の趣旨に対しての答えとしても、これで終えます。

【一般的な思想法でないものに対して、答える回答を持ちえません。】

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
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この回答へのお礼

 
>『誰でも極楽にいける』あるいは『誰でも仏になれる』というのは、

>新興宗教のTOPがよく言うようなことです。


新興宗教のTOPはそんなこと言わんと思うな。

新興宗教のTOPがゆーことは決まってて、金貢いだら極楽へ行けるでないの。
 

お礼日時:2012/09/18 18:17

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