大乗仏教の学派である中観学派と瑜伽唯識学派、それぞれの思想について簡単に教えてください。
 短くまとめて、人に説明できるようにしたいのですが、量が多く、難解でまとめることができません。
 どちらか片方でもありがたいです。
 辞書的ではなく、わかりやすくお願いします。

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A 回答 (4件)

>仏教の思想を知ることにより、これからの人生をより豊かに生きていただくことが目的です。


と、そもそものご質問である、
>中観学派と瑜伽唯識学派、それぞれの思想について
から、「仏教の思想の中で、特に中観学派と瑜伽唯識学派の教えによって人生をより豊かに生きていただくこと」
と受け取ってよろしいでしょうか?
人生の豊かさについてなら、在家向けにはむしろ「少欲知足」について解説するのが一番いいのです。
即ち、「現在あるもの、現在与えられた物、現在の能力で手にすることができるもの」 で満足することです。

まづ、中観論は早い話が、「両極端を捨てよ」という教えですので、
「様々な負の情念で悩み苦しんでいる自分を客観的に見つめるように心掛け」
「何でもほどほどに」とか、「思いつめない」とか、言えばいいでしょう。

唯識を用いるなら、迷いの状態である九識は定義だけさらっと説明し、九識が「転成」したところの「五智」を「深秘」な説でなく「浅略」に、つまり現実的に即して説明してはどうでしょう。
妙観察智:物事を分析する智慧。文章を理解する能力、数学の能力など。進んで人の心を理解するとか。
平等性智:浅薄な好悪善悪の判断で物事を分別する「差別」(しゃべつ)の心(我執の四煩悩を交えて解説する)を克服した謂わゆる善平等の心。
大円鏡智:過ぎ去ってしまったことにとらわれない心。過ぎた事はとり戻せないのですので、反省はしても何時までもくよくよするのは止めましょう。
法界体性智:自分のポジションを的確に把握して、
成所作智:自分が為すべき事を為す智慧。

これらを骨にして、sabazusi21さんの知見と言葉で「少欲知足」に持っていくように説明してあげるといいでしょう。
60歳以上の方には社会現象や、仕事、家庭のことに即して、
中高生なら、悩み事は大抵学業・友人・性・恋愛、そして殊に最近は家庭の悩みでしょう。
sabazusi21さん自身が中高生の頃を思い出して中高生の立場になってみた上で応用を利かしてみてください。
少人数なら(大人でも)ダイアログによってそのグループがどういうことに興味を持ってるか聞き出し、
その辺から手がかりにすればよいです。大人数では一般的な社会事象で、中高生でも知ってそうなことで
説明してあげればよいでしょう。ここらあたりのポイントは「人を見て法を説け」ですね。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明と、アドバイス本当にありがとうございます。

>少人数なら(大人でも)ダイアログによってそのグループがどういうことに興味を持ってるか聞き出し、 

 私のように若い者が、人生経験が豊富な方々に「人生をより豊かに」と言うのは
おこがましく、また大変勇気のいることです。「何か感じてくれるのだろうか?」「勝手な事を言ってしまうではないか?」と、頭をよぎります。
しかし、興味を持っていることを伺い、共に考えていく方法ならば、うまくいきそうな気がします。

>「人を見て法を説け」
 その通りですね。どんな事でも教えるときには、相手の事を知らなければ真に伝わらないのですね。

 何日もお付き合いいただいてありがとうございました。繰り返しお礼申し上げます。

お礼日時:2001/05/23 09:14

「如来」の概念すらわからない人に対してですか。

何とかがんばって仏教用語を使わずに説明してみましょう。

説明する相手はどういうような人を想定すればいいでしょうか?

特に中観は経理系、唯識は30~40歳以上の人生経験者なら、用語の壁さえ乗り越えればそんなに難しい概念ではないのですが。

とりあえず説明する相手はどういう類いの人であるか知らせてくだされば相応した説明を考えてみます。

この回答への補足

 御丁寧にありがとうございます。
 
 相手は、中学生から高校生の方々と、60歳以上の方々です。
一緒に説明する日と、別々の日とあります。

 学問としてではなく、仏教の思想を知ることにより、これからの人生をより豊かに生きていただくことが目的です。

 年齢に幅というか差があるので、一番人数の多い中学生を中心に説明したいと思っています。

 お手数かけますが、よろしくお願いします。

補足日時:2001/05/21 10:00
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十大煩悩の中に「辺見」と言うのがあります。

両極端な物の見方をすることです。
この辺見を乗り越えて正しく物事を見ることを「中観」とか「中道」と呼びます。
殊に、「縁起の法」を辺見に限って適用し、両極端を差し引きして零、
即ち「空」とし、(ゼロも空もインドでは同じ言葉)この空であることを
さとるのが悟りであるとします。
その空の「智慧」即ち「般若」(言葉の意味は一緒)を尊び、「信仰」します。

瑜伽唯識学派はいわば仏教の深層心理学みたいな物で、まず、心を九層に分け、
(ただし、八層に分ける学派もある)その凡夫の九識が転じて如来の五智となって
(表面の五識を一括して「成所作智」とする)悟りが完成するとするのです。
悟りに関して中観より踏み込んだ分析をしています。
あとは九識と五智との関係をしっかり把握すれば人に説明できるようになるでしょう。

参考までに自我と他者との関係について唯識と中観を引いた議論がありますので興味があれば参考URLをぞうぞ。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=68425

この回答への補足

 ありがとうございます。
 八識は知っていましたが、九識のアマラ識については全く知りませんでした。もう少し調べてみようと思います。
 あまり仏教について知らない方々に説明するので、たとえば「如来」というような基本的な語から説明することになると思います。仏教は、一つの語でも国や地域、時代によって意味が違ってくるので頭がこんがらがってしまいます。
 今回の二つの学派の教理は、特に理解しにくく困っていました。有部の実存の思想についても正しく理解できていないためか、それに対抗した思想であるという「空」思想は、本を読んでもいまいちわかりませんでした。
 もっと砕いた説明がしたいと思います。日常生活の出来事などを例にして、何とか説明できないでしょうか。

補足日時:2001/05/19 21:45
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 「教育」>「文系の学問」>「哲学」のカテゴリーに仏教思想に詳しい方がおられます。


 管理者にメイルして、この質問を移動してもらってはどうでしょう。その方が答えが得られやすくなると思います。

(事後、この回答は削除のこと)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
さっそく管理者の方へ移動をお願いしました。

お礼日時:2001/05/18 00:14

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ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。
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ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として...続きを読む

Aベストアンサー

 アニメを基にして思想哲学出来る人がいて、その人は何でも解っているそうです。

 私以上の回答をしてくれるだろうから、その人が投稿してくれるまで待ちましょう。

 きっと良い回答をしてくれると想います。

Q小乗仏教と大乗仏教

小乗仏教と大乗仏教ついて、他の資料や、既出の質問と回答などは読みました。
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唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか?

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>>唯識論は八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである
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というとやはり今の科学では脳だと思ってしまいますね、、、
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Q大乗仏教 悟りについて 如来と羅漢 

前から疑問に思っていたんですが、一番最近成仏された方が釈尊で、次は弥勒さんですよね。釈尊や阿弥陀さんとか如来となられた方の「悟り・解脱」とその他大勢の羅漢さん達の「悟り・解脱」は別モンなんですか?
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また、俗に言う菩薩さんたちで(観音・勢至など)あえて成仏せずに菩薩位に留まっている方もいますが、もし成仏したら、羅漢ではなくて如来になるんでしょうか?
同じ「悟り」なのに一方は「如来」で一方は「羅漢」なのはどういうことですか?
あくまで大乗仏教で、「解脱」「悟り」や「如来」や「羅漢」という存在があるという仮定でお答え下さい。乱文失礼しました

Aベストアンサー

こんばんは。。

 自分の個人的な考えなので、きちんと仏教教理を踏まえているかどうかは自信ないのですが・・・

 大乗仏教までの「悟った人」が羅漢までなのは、釈尊を神聖化しすぎた結果、とても同じ境地まではたどり着けないと思い込んでしまい(=信じてしまい)、自身で自縛して留まってしまったことが大きいのではないかな、と思います。

 大乗仏教で「菩薩」は、修行者の理想像として、また「如来」は仏教の考える理想的人格像として、たくさん想定され、経典に説かれるようになり、信仰を集めるようになりましたが、数々の如来・菩薩は、人々を仏教に引き入れるための「方便」だと思います。
 (大乗仏教以降で説かれる菩薩は、悟りを開くと「如来」になるとされていると思いますが・・・)

 仏教の信奉の対象は「法」(=真理)であって、如来や菩薩のご利益や救済、そしてその存在自体が「客寄せパンダ」であり、「お手ごろなバラ売り」でしょうね。(←けっして悪い意味で言っているのではありませんが・・・だいいち、仏教の「法」は極めてミもフタも取り付く島もないほど厳然としたものですから・・・「方便」というのは、実に素晴らしい発想だと思います。)

 少し脱線してしまいました・・・要するに、弥勒菩薩の救済と、それまで仏が出ないという話しも、額面通りには受け取れないと思うわけです。
 悟りは悟りであって、自ら得た境地に満足して自縛し立ち止まるか、魔境に陥るか、妙なカン違いをしていない限り、仏教の悟りは釈尊の悟りであり、「如来」の境地だと思いますけど。

 即身成仏は釈尊の悟りと同じだと言えると思います。

 大乗仏教の論師たちを「菩薩」と呼ぶこともあります。
 ご質問文にも触れておられるように、悟りに至ることが十分にできるのに、他者救済の行を続ける修行者が「菩薩」ですから、そのあり方に、仏法を解き明かそうと努める論師たちをなぞらえているのだと思います。

 論師たちや祖師様方を「如来」と言えるかどうかは、信仰している宗派の違いなどで、見解の分かれるところですし、経典に説かれる少々現実離れした理想像としての如来と単純に比べられないですけど、到達した境地は、「如来」と言って差支えないとは思います。(←個人的には。)
 また、大乗仏教の経典の作者たちにも、釈尊の同じ境地に至った方がおられると思います。
 
 他のご回答の方に対するコメントに割り込んでしまったかっこうになり、すみませんです。
 自分の思ったところは、こういうところです。では。

こんばんは。。

 自分の個人的な考えなので、きちんと仏教教理を踏まえているかどうかは自信ないのですが・・・

 大乗仏教までの「悟った人」が羅漢までなのは、釈尊を神聖化しすぎた結果、とても同じ境地まではたどり着けないと思い込んでしまい(=信じてしまい)、自身で自縛して留まってしまったことが大きいのではないかな、と思います。

 大乗仏教で「菩薩」は、修行者の理想像として、また「如来」は仏教の考える理想的人格像として、たくさん想定され、経典に説かれるようになり、信仰を集め...続きを読む

Q輪廻転生と唯識

輪廻転生と唯識の関係について教えてください。

輪廻転生はヒンズー教の思想で、唯識は仏教の一派ですが、
どのように関係しているのでしょうか。


また、輪廻転生と唯識を説明したいのですが、
どのような切り口で、どう説明すればよいかわかりません。
私自身殆ど知識がなく、相手も初心者(20代)です。

Aベストアンサー

こんにちは。。

 仏教も、教えを広めるにあたって、インド古来からの輪廻の考え方を取り入れています。唯識思想が興る前から、仏教もまた、当時は輪廻転生とその輪廻からの脱出を説く教えとして認知されていたと思います。

 ややこしいところですが、仏教と輪廻の関係は、いろんな見解があって、一定ではないです。「方便」として、人々に広く信じられていた輪廻を取り入れた、と捉えることもできますし、お釈迦さまは本気で輪廻を説いたと考えることもできなくはないです。(自分はどちらかというと前者。)

 仏教の説く輪廻は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻が有名です。
 表向き、仏教は輪廻転生を繰り返す世界を「苦」とし、輪廻から脱して転生しない世界に安住することを「悟り」として、悟りを目指して実践を積むよう奨め、説きます。

 「表向き」としたのは、仏教は一方で「無我」を説いているためで、これは輪廻転生とは相反する考え方になります。
 物事には不変の実体はなく、縁によって変転するのみ、と説く無我説では、「輪廻する主体」が想定されていません。

 輪廻する主体は何だろう?何が輪廻するのだろう・・・これは仏教にとって極めて重大な問題となりました。

 唯識は、仏教元来の唯心論的な傾向と、無我説をさらに推し進めた大乗仏教の空思想、輪廻の主体の探求、さらに瞑想体験を成立要因として生まれた思想だと言ってよいと思います。

 あらゆる事象すべてが「深層心理」から作り出される・・・外界にあると思えるモノ、自身の心、見るもの、聞くもの、感じること、考えていること、すべては自身が考えているのではなく、実体を持たない深層心理が生み出したものと考えるのが、唯識的な考え方だと言えると思います。
 そして、唯識思想では、輪廻する主体をその「深層心理」としました。深層心理には人の業が染み着き、その染み付き具合によって、さまざまな因果が廻っくるのだと考えています。

 唯識思想は、実体を持たない深層心理が輪廻することで、無我だけど輪廻するという世界を解き明かした思想と言えると思います。
 そしてそれは、単につじつまあわせの理論ではなくて、瞑想体験に裏打ちされ、確信をもって説かれた、深層心理学だと言えるでしょう。

 思いつくまま書いてしまってまとまりないですが・・・取り付く島ぐらいにはなりますかね??

こんにちは。。

 仏教も、教えを広めるにあたって、インド古来からの輪廻の考え方を取り入れています。唯識思想が興る前から、仏教もまた、当時は輪廻転生とその輪廻からの脱出を説く教えとして認知されていたと思います。

 ややこしいところですが、仏教と輪廻の関係は、いろんな見解があって、一定ではないです。「方便」として、人々に広く信じられていた輪廻を取り入れた、と捉えることもできますし、お釈迦さまは本気で輪廻を説いたと考えることもできなくはないです。(自分はどちらかというと前者...続きを読む

Q大乗の思想の最古の文言は?

中村 元訳「維摩経」
深く道を求める心は、すなわちぼさつの浄土である。ぼさつが仏と成ったときに、徳を具えている衆生がやって来てその国に生まれるであろう。

1 この文言の意味を正しくは理解できませんが、ここにはどうやら大乗仏教の発想がはっきり表れている気がします。この感覚は的外れですか。
2大乗の教えに直結する最古の文言を探すとします。どんな経典に初登場していますか。維摩経でなく般若経内を探す方がよさそうですが、般若経といっても山ほどあるのではないですか。大乗の思想が端的に表れた最古の文言は何という経典にありそうですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

sono-higurashi様、お世話になります。

原始仏教と大乗仏教は、空の思想で、一直線につながっていると思います。インド論理学者の石飛道子女史は、龍樹の『中論』は阿含部経典のエッセンスであるという立場を表明しています。

http://homepage1.nifty.com/manikana/b&rlogic/b&rlogic.html
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation3.html

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

『マッジマ・ニカーヤ』第121経で釈尊は、「空」と「空性」の境地を明確に区別し語り、「空性」という言葉を使う時には、「空」ということを一切におよぼしたときの悟りの境地として語っています。「空性」とは私たちの日常の言語活動の一切をおおいつくす境地といえます(『ブッダと龍樹の論理学』219P)。

釈尊は、『スッタニパータ』で解脱の境地を、「想い(サンニャー)を想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないものでもなく、虚無を想うものでもない。―このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こるからである。」(874)と説き、多様な言語世界が滅することにより、解脱というものがあると説いています。聖者の境地として、「多様な言語世界が滅する」境地とはいかなる境地であるかは、私というよりも、凡人の理解のレベルを超えた境地ですので、説明することはできませんが。

龍樹も『中論』の中で、「行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な思い(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な言語・表象世界(プラパンチャ)は空性(シューニャター)の中に滅するのである。」(18.5)と、自らの禅定の境地を語っています。

ゆえに、釈尊は、すべての万物は実体のないものだと説きます。必然的に般若経の教えとも直結することになります。
「色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用は陽炎のごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである、と日のみ子(釈尊)は説きたもうた。
瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく、空虚である。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

しかし、ご承知のように説一切有部等の部派仏教では、75法のダルマの実体を説き、釈尊の説いた一切皆空の教えが忘れ去られてしまうことになったのです。僧侶は人里から遠く離れ、高邁なダルマの体系の哲学論議に明け暮れていた時代にあって、もう一度、釈尊の原点に返って、空思想を蘇らせようとしたのが、大乗仏教における般若思想であり、それを論理的に大成させたのが龍樹であったのです。

原始経典においても、仏教とは、もともと空の教えであり、しかし、この空の教えは深遠であるゆえ、いつの日か、それが忘れ去られるであろうことが説かれています。

「修行僧らよ。未来世に修行僧どもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それらが説かれたときに、われらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしない、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべく熟達すべきものであるとは考えないであろう。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

釈尊も龍樹も、私たちの言語活動の一切を聖者の空性の境地から止滅させ、これによって煩悩を消滅させ、解脱を得たことが知られます。言語活動の一切を聖者の空性の境地から止滅させ、すなわち、否定したということは、一切皆空と悟達したことを意味しています。
『ウダーナヴァルガ』12.7に、「<一切の形成されたものは空である>(一切皆空)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。」とありますが、釈尊のこのような解脱のプロセスを見れば、ここに説かれている「一切皆空」が、大乗仏教の一切皆空と概念的に同一であることが判明します。

宮元啓一氏は、大乗衰退の一因として、般若経典が編纂された当初は、空の教えで既成の仏教を批判した高揚感にみちみちていましたが、気がついてみると、自分たちが広めていたのは、原始経典に説かれた釈尊の教えであったと気づき、みるみる新しい仏教を広めようとする高揚感が失われていったとしています。龍樹はその辺は百も承知で、釈尊の心の襞にまで精通していたのだと思います。やはり、龍樹以降が問題でしょうか。

空と大乗の菩薩思想との関係ですが、この点については、中村元氏が『空の論理』の著の中で、「空はいかに慈悲を基礎づけ得るか?」の章の中で語っていますが、要約すれば、「慈悲とは自己を捨てて全面的に他の個的存在のために奉仕することである。<中略>他の個的存在のための全面的帰投ということは、自己と他者との対立が撥無される方向においてのみ可能である。」と述べられ、お互い、相対立するもの同士の間でも、深層の命においては、すべてが空という点で絶対に平等であるという共通の認識が、それを可能とする根拠となると結ばれています。

その意味では、智慧第一のサーリプッタは、『テーラーガーター』の中で、般若波羅蜜に達したことが説かれていますが、同時に、中村元氏によれば、慈悲の教えに極めて精通していたということです。日本の仏教はサーリプッタ教であるとも語っていました。慈悲の思想は釈尊の教えの根幹でもあり、サーリプッタは深くそれを体得していたのでしょう。釈尊は六年におよぶ苦行の中では、断食や、止息行等の苦行が語られますが、同時に、この時期に「慈心を修する」修行をしていたことが原始経典に説かれているようです(中村元著『原始仏教の思想I』だったかと思いましたが)。中村元氏は、このところは深く活目すべきであると語っていました。

しかし残念ながら、釈尊入滅前に没したサーリプッタに対する釈尊の教えは、原始仏典には、ほとんど残っていないのが実情です。増谷文雄氏は、釈尊がサーリプッタに対して説いた深遠な教えは、圧倒的に多かったはずであり、それらの教えが原始経典にはほとんど残っていないと語っており(角川ソフィア文庫『仏教の思想1 知恵と慈悲』)、中村元氏も『仏弟子の生涯』の中で、サーリプッタに語ったブッダの教えはどこへ行ってしまったのかと語られれています。

また、解空第一といわれたスプーティの教えが、『テーラーガーター』には一句しか残されていません。これは明らかに、大乗の空の教えが、経典編纂者により抹殺されたものであろうと中村元氏が語っています。

仏性の教えについていえば、角川ソフィア文庫『仏教の思想4 認識と超越<唯識>』の中で、服部正明氏は、大乗仏教の仏性につながる、「自性清浄心」の教えは、釈尊の教えとして滅後まもなくは権威をもっていたそうですが、上座部はこれを無視し、また説一切有部においては、かえってこの教えに対して反駁し、その結果として、原始仏典には今日わずかに散在するのみとなってしまったと語っています。

このように見ると、大乗仏教の教えは、原始経典から、サーリプッタの経典結集前の死のような場合もあれば、故意的に原始経典から抹殺される場合もあり、その最古を探すのを、極めて難しくしているように思います。

とはいえ、大乗仏教の根本思想である「空」という点についていえば、原始仏典にその出処を明らかに見出すことができるかと思います。

sono-higurashi様、お世話になります。

原始仏教と大乗仏教は、空の思想で、一直線につながっていると思います。インド論理学者の石飛道子女史は、龍樹の『中論』は阿含部経典のエッセンスであるという立場を表明しています。

http://homepage1.nifty.com/manikana/b&rlogic/b&rlogic.html
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation3.html

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

『マッジマ・ニカーヤ』第121経で釈尊は、「空」と「空性」の境地を明確に区別し語り...続きを読む

Q大乗仏教の中観思想と唯識思想

 大乗仏教の学派である中観学派と瑜伽唯識学派、それぞれの思想について簡単に教えてください。
 短くまとめて、人に説明できるようにしたいのですが、量が多く、難解でまとめることができません。
 どちらか片方でもありがたいです。
 辞書的ではなく、わかりやすくお願いします。

Aベストアンサー

>仏教の思想を知ることにより、これからの人生をより豊かに生きていただくことが目的です。
と、そもそものご質問である、
>中観学派と瑜伽唯識学派、それぞれの思想について
から、「仏教の思想の中で、特に中観学派と瑜伽唯識学派の教えによって人生をより豊かに生きていただくこと」
と受け取ってよろしいでしょうか?
人生の豊かさについてなら、在家向けにはむしろ「少欲知足」について解説するのが一番いいのです。
即ち、「現在あるもの、現在与えられた物、現在の能力で手にすることができるもの」 で満足することです。

まづ、中観論は早い話が、「両極端を捨てよ」という教えですので、
「様々な負の情念で悩み苦しんでいる自分を客観的に見つめるように心掛け」
「何でもほどほどに」とか、「思いつめない」とか、言えばいいでしょう。

唯識を用いるなら、迷いの状態である九識は定義だけさらっと説明し、九識が「転成」したところの「五智」を「深秘」な説でなく「浅略」に、つまり現実的に即して説明してはどうでしょう。
妙観察智:物事を分析する智慧。文章を理解する能力、数学の能力など。進んで人の心を理解するとか。
平等性智:浅薄な好悪善悪の判断で物事を分別する「差別」(しゃべつ)の心(我執の四煩悩を交えて解説する)を克服した謂わゆる善平等の心。
大円鏡智:過ぎ去ってしまったことにとらわれない心。過ぎた事はとり戻せないのですので、反省はしても何時までもくよくよするのは止めましょう。
法界体性智:自分のポジションを的確に把握して、
成所作智:自分が為すべき事を為す智慧。

これらを骨にして、sabazusi21さんの知見と言葉で「少欲知足」に持っていくように説明してあげるといいでしょう。
60歳以上の方には社会現象や、仕事、家庭のことに即して、
中高生なら、悩み事は大抵学業・友人・性・恋愛、そして殊に最近は家庭の悩みでしょう。
sabazusi21さん自身が中高生の頃を思い出して中高生の立場になってみた上で応用を利かしてみてください。
少人数なら(大人でも)ダイアログによってそのグループがどういうことに興味を持ってるか聞き出し、
その辺から手がかりにすればよいです。大人数では一般的な社会事象で、中高生でも知ってそうなことで
説明してあげればよいでしょう。ここらあたりのポイントは「人を見て法を説け」ですね。

>仏教の思想を知ることにより、これからの人生をより豊かに生きていただくことが目的です。
と、そもそものご質問である、
>中観学派と瑜伽唯識学派、それぞれの思想について
から、「仏教の思想の中で、特に中観学派と瑜伽唯識学派の教えによって人生をより豊かに生きていただくこと」
と受け取ってよろしいでしょうか?
人生の豊かさについてなら、在家向けにはむしろ「少欲知足」について解説するのが一番いいのです。
即ち、「現在あるもの、現在与えられた物、現在の能力で手にすることができるもの...続きを読む

Q仏教における小乗と大乗の違いとは?

仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。

釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。
回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.6(o`・ω・)ゞデシ!! 曹洞宗。

日蓮宗の分派ではないので、同じ大乗でも。

その点ははっきりね。

元々日蓮宗が壊れてしまったので(お金で徳を売っていたんですね)、

大乗と呼ばれるいろいろな宗派は、そこから出てくるわけでして。

曹洞宗の場合は、もちろん、ある程度の法華経は使います。

 #たくさんありまして、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」だったり。

 #通常、σ(・・*)が今もっているお経本(在家用)に二本しかないですね。

メイン経典としてではないんですよ。

曹洞宗は、修證義(しゅしょうぎ) の 2章から5章までの4章となっています。

これは後から変わったという方が正しいですが。

道元(高祖承陽大師)が書いた、「正法眼蔵」(しょうほうがんぞう)を

名前失念(広めるのに尽力された方)太祖承済大師が、漢文の読み下しに

されてあります。この一部です。


道元は悟られたんでしょう、多分ね。

ただそれは、お釈迦様と同じような悟りでしかなくて(!)、

法華経を理解する というような形ではないはずです。


一番最初の疑問にぶつかるのですが、

「即身是仏」って言いますね。 これはすなわち「みんな仏さんになれる」という発想ですね。

大乗では、仏の字を区別します。

佛 と 仏 です。

仏:輪廻の対象となる、ご先祖さんになる、霊体になる(?)こういう感じ。

佛:いわゆる仏様。阿弥陀様やお釈迦様、観音様などなど。悟りを開かれていて、

 ある程度の崇拝の対象となっていらっしゃる方々。

こういう風にはっきりと区別をします。


念仏を唱えることで、仏さんになれる。 佛ではないんですね。

小乗(上位)では、同じとみなすんですね。ここにも明白な違いです。

親鸞上人(浄土真宗)も、「南無阿弥陀仏」と唱えればいい。

と、おっしゃっていますけれど、浄土真宗はちょっと特殊でしょうかね。

 #これは感覚的なものだけど。

利他 という考えがあるのですが、自分のご利益を他人様に回す。

 #これは典型的に大乗です。 (No.1さんのに詳しいね)

これがあるので、どっちとも言いにくいような気もします。


これはまた曹洞宗に戻りますけれど、「修証一如」といいまして

修行を繰り返す(何度も輪廻して!)ことで、佛となる! と捉えます。

この辺がやはり違うかな?

即、ハイ極楽どうぞ~~!ではないんですね。

 #曹洞宗は「只管打座」とにかく座る。禅ですね。この繰り返し

八正道でも、「正見」などでは『自我観念を捨てよう』というようなやり方を取ります。

 #小乗(上位)は、ここにこだわりはそれほどありません。

その分、他人様のため! を先に考える・・・。

ここもちょこっとだけ違いますね。 No.1さんのが言い得て妙です。


南無妙法蓮華経を唱えることだったり、お布施をたくさんすることだったり、

信者をたくさん増やしたり、って言うことが、徳を積むようなことではないんですね。

 #少なくとも曹洞宗、空海さんは真言だっけ? は、こういうことはありません。


ちょっと余談ですが、般若心経はご存知かと。あれは膨大な量です。

とてもじゃないですが読めるような代物ではありません。

σ(・・*)たちが日ごろ諳んじたり(そらんじる:暗誦している)、見聞きしているのは、

ほんの一部です。

あれ観音様です。当然お釈迦様のお弟子さんですね。

「空」を説いてある。

いくつか佛教はありますが、般若心経を使わないところがほんのわずかだけあります。

 #実は浄土真宗もそうです。これは意味がちゃんとありまして・・

 #「南無阿弥陀仏」が全ての「とらわれ」をも消し去る。

 #「空」も理解しうる。と説いてあるからだそうです。

ほかの宗派は「空」を一体どう解釈してあるのか?疑問ですけどね。

大乗、小乗(上位)ともに、ほとんど使うのですがねぇ~。

すいません、長くなってしまいました。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=) 南無釈迦牟尼佛(曹洞宗はこれです)

No.6(o`・ω・)ゞデシ!! 曹洞宗。

日蓮宗の分派ではないので、同じ大乗でも。

その点ははっきりね。

元々日蓮宗が壊れてしまったので(お金で徳を売っていたんですね)、

大乗と呼ばれるいろいろな宗派は、そこから出てくるわけでして。

曹洞宗の場合は、もちろん、ある程度の法華経は使います。

 #たくさんありまして、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」だったり。

 #通常、σ(・・*)が今もっているお経本(在家用)に二本しかないですね。

メイン経典としてではないんですよ。

曹洞宗は、修證...続きを読む

Q唯識思想の阿頼耶識縁起について

唯識思想では深層心を第八阿頼耶識としています。
その阿頼耶識の働きとして(1)「種子生現行」(2)「現行薫種子」(3)「種子生種子」の阿頼耶識縁起なるものを説いていますが、(3)「種子生種子」とはどのようなものなのでしょうか?
(1)(2)は分かるのですが(3)だけわかりません。

知っている方がもしいたら宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>その阿頼耶識の働きとして(1)「種子生現行」(2)「現行薫種子」(3)「種子生種子」の阿頼耶識縁起なるものを説いていますが、(3)「種子生種子」とはどのようなものなのでしょうか?

「種子生現行」が「原因が結果を生む」の意、「現行薫種子」が「結果が次の現行(結果)の原因となる」の意だとすれば、「種子生種子」とは、文脈からして「古い原因が新たな原因を生む」という意になるのではないでしょうか。

しかも、その根本性格に関して、『唯識三十頌』では「恆転如暴流」(第四頌)とありますから、No.1さんのおっしゃるような「8識は記録意識」というような生やさしいものとしてではなく、むしろ「種子即現行」・「現行即種子」とでも言うべく、目眩くような、ダイナミックな相で阿頼耶識を捉えていると思われます。

Qいわゆる大乗仏教全般が自己の救済の放棄につながらないのは何故ですか。

回答のほうは常連ですが質問するのは初めてです宜しくお願いします。
「私は何も考えないであたまを真っ白にする特技があります」
この挨拶で始まるとっぴな回答もご覧になった方も多いと思いますが、私の場合どんなにつらくても自らを救うことを諦めきれたことはありません。
多分人間の本性として誰もがそうだろうと思います。
そうすると大乗仏教でよく使われる「仏の慈悲にすがる」と言うのがそれだけでは納得できないのではないかと考えました。
仏教の経典と膨大な研究成果は尊敬に値するものでして、その中には「仏の慈悲にすがる」についてとりすがりの拝み屋根性とは違う確かな知的理由があるのではないかと期待しています。

私は哲学にも宗教にも素人ですので判り易く平易な文章でのご回答をお願いします。

Aベストアンサー

愚見ですが返答させていただきます。

質問者さんが、私の身近にいたら、よき友達になれそうな、面白そうな方だな。
とかおもいいつつの返信です。

結論からいいますと、他を救済することが、自己を救済することと
変わらないからです。

一即一切 一切即一 という言葉があります。
仏教の方では、自己とは何かを極め尽くすものです。

それが、悟りとも見性ともいいます。
悟りとは何も特別なことではなく、当たり前のことを、当たり前と知ることです。

冬が来たら、寒くてよろしい、夏は暑くなってよろしい、
当たり前のことが、あたりまえである道理を悟るのが見性とも、悟りともいわれるものでございます。

質問者さんの質問を伺いますと、仏教は、自分よりもまず、他人を優先しなさい、といういことへの違和感に感じますが、

他を優先して、自分は後から付いて行きなさい的な考え方は、
仏教の中でも、儒教よりな考え方でありまして、

本来の仏教は自己の救済(自己とは何かを明らかに見ることが大前提です)が目的です。

わかりづらいかとは思いますが、仏教では、自己と他己との間に隔てがないので、他人を救済することが、自己の救済になる。
つまり、自己の救済の否定にならないのです。


8万4千の方便(例え)を用いて、説かれている仏教ですので、
中には、矛盾するように聞こえる内容もあるのです。


仏教は、対機説法ということを用いまして、釈迦が説かれた、真実です。

釈迦は、40年、数百、数千人の人にその人に応じた話し方でお話ししたかたです。
中には、わかりやすいように、例えを用いて、簡素に話されたこともありましょう。

その内容が、すべて弟子によって記録されて経典なっています。

ですので、矛盾を覚えることもあるとは思いますが、究極において釈迦の説かれた真実は
ひとつです。

他は自己であり、自己は他である。

つとめて、自己を明らかに見なさい。
そうすれば、自己は全世界と知ることができる。

ということです。

現在、さまざまな、仏教解釈がありますが、それは
「分け登る 麓の道は多かれど 同じ高嶺の月を見るかな」
という歌が示すように、
山の8号目あたりで、議論しているに過ぎません。
山頂まで極めつくせば、解釈は統一されます。

極めつくせば、他の救済も自己の救済も同じことであるから、
自己の救済の否定にはつながらないのかとおもいます。

愚見ですが返答させていただきます。

質問者さんが、私の身近にいたら、よき友達になれそうな、面白そうな方だな。
とかおもいいつつの返信です。

結論からいいますと、他を救済することが、自己を救済することと
変わらないからです。

一即一切 一切即一 という言葉があります。
仏教の方では、自己とは何かを極め尽くすものです。

それが、悟りとも見性ともいいます。
悟りとは何も特別なことではなく、当たり前のことを、当たり前と知ることです。

冬が来たら、寒くてよろしい、夏は暑く...続きを読む


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