マンガでよめる痔のこと・薬のこと

中学生です、、、

勉強していて、土一揆と、国一揆と、一揆の違いが分かりません(T_T)

教えてくださいm(_ _)m

A 回答 (3件)

「土一揆(つちいっき・どいっき)は、室町時代中期から後期にかけて発生した民衆の政治的要求活動をいう。



室町中期ごろ、商品経済の発達や農業生産の向上、惣結合の強化などに伴う社会情勢の変化により、まず当時の先進地域だった畿内において、民衆が連帯組織=一揆を形成して、支配者(幕府や守護など)へ政治的な要求を行うようになった。これを土一揆という。この頃には、惣村の形成に見られるように、百姓らの自治・連帯意識が非常に高まっており、そうした流れの中で、百姓や地侍、馬借らが広域的に連合する土一揆が発生したと考えられている。

土一揆のほとんどは、徳政の実施を要求した。そのため、土一揆を徳政一揆ということもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%B8%80% …

「国一揆(くにいっき)は南北朝時代、室町時代の領主層による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。国一揆が形成される要因のひとつとして外部からの政治的圧力の介入などが挙げられ、それらに対抗する為の軍事的共同形態的な結び付きが強く、目的が達成される、あるいは脅威が去った際には国一揆は解体される。代表的な国一揆として播磨の国一揆、伊賀惣国一揆、加賀一向一揆などが挙げられる。

国一揆が形成される契機として主に以下のような要因が挙げられる。

一定の政治的意図をもって上から組織される場合(南九州国人一揆など)
新任の守護に軍事的に対抗し組織される場合(安芸国人一揆など)
既存守護勢力の追放を目的として組織される場合(山城国一揆など) 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B8%80% …


簡単に分けると農民・商人などの自治組織が民衆の暮らしのために
さまざまな陳情を行ったのが土一揆

国人(武士階級)が中央から来た守護大名や既存の守護大名の
支配に抵抗して行ったのが国一揆

という感じでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございましたっ(●´ω`●)

お礼日時:2012/11/26 16:30

ついでに百姓一揆もありましたね。



http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E6%8F%86
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この回答へのお礼

ありがとうごさいますっ(●´ω`●)

お礼日時:2012/11/25 22:47

土民が主体なら土一揆、国人が主体なら国一揆。

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q倭寇と勘合貿易について

学校の教科書などの説明に、「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」とあります。

単純な疑問なのですが、確認のために倭寇の海賊船に対しのこのこ割符をもっていったら持っていた人物は略奪をうけたり殺害されたりしなかったのでしょうか。勘合符を照合する人物はなにか武力的な裏付けがあったのでしょうか。

或いは勘合符とはそういった性質の物ではなくて単に正式の貿易船と密貿易船を区別するものだったのでしょうか。そうなると一般的に海賊とされる倭寇が乱暴も働かずにすごすごと帰っていったのでしょうか。

または勘合符の役割は朝貢貿易船以外の船の平和的な排除だったのでしょうか。

どなたか詳しい方御回答をお願い申し上げます。

Aベストアンサー

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が品物を下賜する、という形態です。
明王朝の家臣である必要があります。
明王朝は、周辺の国の王に対して、明王朝の家臣としてその国を治めている、という様式をとることを強要しました。
同時に統治者に対して、お前が正式な統治者であることを認めて王と名乗ることを許すという、いわば辞令を発行していました。
古代史で有名な金印「漢委奴国王印」が有名です。
このような印を辞令として下賜しました。

この考え方は古代から清王朝が滅亡するまでの長い間続いていた中国王朝特有の考え方です。
(中華思想と呼ばれます)
明や清王朝はこの朝貢貿易以外の交易(私貿易)を一切認めていませんでした。
私貿易は全て密貿易という扱いでした。

明王朝が下賜する品物の経済的価値は家臣が献上したものよりも大きいのが普通です。
家臣の側から見れば安い品物で高価なものが入手できますから、貿易としては常に黒字ということになります。
この利益を狙って偽者が献上してくるのを防止する必要があります。
この船は正式に日本からの献上品を搭載した船です、ということを証明するのが勘合符です。
勘合符を所持した船は1401年~1547年の間で総計84隻です。
日明間での交易全体に占める割合は微々たるものです。

つまり、身分証明書ではありますが、安全を保障する効力はありません。
海上で海賊船に襲われようが、襲われまいが明王朝の与り知らないことです。

倭寇という言葉は、中国や朝鮮王朝で使われていた言葉です。
沿岸を荒らしまわる武力集団の総称です。
内容は、武装商人、日本人の海賊、中国人の海賊、ポルトガル等のヨーロッパの海賊と多岐にわたっていました。
この武装商人の中に、九州一円の大名船や博多などの商人船も含まれています。
もっとも頻繁に渡航したのは朝鮮半島です。

護送船団という考え方は存在していませんでした。
ただでさえ積載量に制限のある船に警備兵などという無駄な要員は乗せていませんでした。
乗務員が即戦闘員です。文字通り自己責任で身の安全を守りました。

海賊船と言っても、カリブの海賊ではありません。大砲をぶっ放して襲ってくるわけではありません。
船を接近させて乗り込んで白兵戦を広げるだけのことです。
こんな手間暇をかけて海上の勘合船を襲うくらいなら、中国なり朝鮮の沿岸に上陸して略奪したほうがよほど効率は良いです。
広い海上で当てもなく勘合船を探すなどという無駄なことはしませんでした。
さっさと中国大陸や朝鮮半島を目指しました。

以上がざっとした説明です、何か疑問があれば補足をお願いします。

蛇足
足利義満は、明との交易による利益欲しさに在職中にいろいろやりましたが、朝廷の家臣であることから上手くいきませんでした。
そこで引退して自由になったところで勝手に日本国王と名乗って朝貢を始めました。
息子の義持は、オレは親父とは違い他国の家臣ではない、といって止めてしまいました。
義持なき後、利に目がくらんだ連中が再開しました。

足利幕府には倭寇を働く九州沿岸の人間を取り締まる意志も能力も持ち合わせていませんでした。
明や高麗、李朝鮮は盛んに取り締まりを依頼してきますが素知らぬ顔でした。
倭寇として沿岸を荒らしまわっていた連中を排除したのは、北九州一帯の諸大名たちでした。
目的は、中国や朝鮮との交易の独占です。
倭寇を排除するのには有効だったことから、明王朝や朝鮮王朝はこれらの諸大名の交易は黙認しました。
これを組織的に徹底的にやったのが秀吉です。
秀吉の時代になってからは朱印船制度というものを設けました。
臣下の礼を要求する勘合などということを秀吉は受付ませんでした。
やがて朝鮮出兵へとつながります。

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が...続きを読む

Q札差って何ですか?

大学受験で日本史を取るので勉強中なんですが、札差(ふださし)
という言葉が出てきて、わかりません。商人みたいなものなんだろうなァ
とは思ってるんですけど・・・・。できれば他の時代の高利貸との
違いも教えてもらえたら嬉しいです。

Aベストアンサー

旗本などは年に三度、俸禄(今の給料)を米で支給されました。
その中から、自分のところで食べる分を残して、後は市中で売却しましたが、その際に、仲介をしたのが札差です。

詳細は、参考urlをご覧ください。

参考URL:http://www.jidai-show.com/i/kotoba/hu_006.html

Q東インド会社とは??

東インド会社とはいったいなんですが??はじめ茶などを輸出する会社かなあ~と思っていたら今日本を見ていたら領土拡大のため戦争もしているようで・・・
教えてください!!

Aベストアンサー

一般的にはオランダがアジア貿易の拠点として設立した会社のことです。しかし、英国も後に同じ名前の会社をインドに設立したので区別するためには夫々「英国」「オランダ」をつける必要があります。

当時のヨーロッパの列強はヨーロッパで高価に取引されるアジアの物産(生糸、コショウ、漆器、磁器など)を
買い付けるためにインド、マレー半島、インドネシア、
中国、日本に拠点を設けて競争していました。日本に拠点を設けたのはオランダ東インド会社(略称VOC)です。彼らは植民地(拠点)の確保、運営にも携わっていました。日本の浮世絵がヨーロッパに広まったきっかけはVOCが買い付けた有田焼の包装紙に使われていた浮世絵だったことはよく知られた逸話です。一方オランダ人は日本へコーヒをはじめ沢山のヨーロッパの物産をもたらしました。

詳しくは添付URLを参考にしてください。

参考URL:http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/VOC.htm

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
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そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q唐人屋敷と出島

唐人屋敷と出島についてです。唐人屋敷は面積が約3万1000平方メートルで人口が約5000人、出島は約1万3100平方メートルで数十人います。何故、面積は約3倍なのに人口は数百倍なんですか。

Aベストアンサー

出島に住んでいるのは
オランダ東インド会社社員の 長崎支店勤務の数十人だけですから。
(妻子の入国は認められず、単身赴任。男だけの寂しいところですから)
年に一、二回来る商船の船員合わせても、百人にもなりません。

対して
明・清からの船は、年に百隻近く長崎を訪れ、船員商人合わせると
長崎に滞在する中国人は大変な数で、後には長崎を本拠とし家族と共に住み込む者もいて、
今日の中華街となりました。

Q領事裁判権の撤廃

1894年にイギリスとの間で領事裁判権が撤廃されたのは何でですか??

ずっと、日英同盟を結んだから領事裁判権とかが撤廃されたのだと思っていたんですが、日英同盟の方が後の出来事だと最近知りました

あと、日清戦争も1894年ですが、領事裁判権の撤廃の方が先ですか?

回答おねがいします!

Aベストアンサー

次の質問にも絡みますが、領事裁判権の撤廃が先です。

当時日本は清とぶつかる見込みで、中国大陸で戦争となると在中イギリス人の保護やイギリスの持つ権益、資産に害がおよぼないか中国としては心配なわけです。そこで日本をある程度対等に遇することで、イギリスに対する国際法の遵守やイギリス人・資産の保護を日本に期待したわけです。
また広くは極東において最大の武力をもちつつある日本に、極東における自国権益の保護を求めたかったわけです。

この流れは日清戦争後もシベリア鉄道建設し極東進出を狙うロシアに対抗する目的で続き、日英同盟へと続き日露戦争におけるイギリスの日本支援となるわけです。すべて中国で潤うイギリス権益を日本に守らせるためです。
1894年の時点でロシアの極東進出に対抗する意図まであったかどうかはわかりません。


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