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来年高校生になる中学3年生です。

小学生の頃、漠然と死が怖かったことがありました。でもしばらくすると忘れて楽しく普通に生活していました。でも去年の今頃再び死について深く考えてしまい怖くなりました。小学生の時よりも何倍も怖く深く考えた気がします。去年もしばらくすると忘れ普通の生活の生活をしていました。でも最近、また悩むようになりました…。

死んだら無になってしまう。無になると今の生活も全てがなくなるのだ。無というのは何の感覚もなく全てがなくなることはわかっていますが、そう考えると更に怖くなります。
今私たちが当たり前にしていることの全てが出来なくなる。「自分」という存在さえも忘れてしまう。「生きる」という行為も忘れ「生きていた」といううことも忘れてしまう。こう考えると怖くて夜も眠れないくらい怖くなります。考えていくうちに私たちはなぜ今生きる必要があるのだろうか。今死のうと50歳で死のうと80歳で死のうと世界最高齢者になろうと死んでしまえば全てがなくなるのなら・・・今いくら幸せでも今どんなにつまらない人生を歩んでもどんなに悲しい人生を歩んでも最後に死んで無になってしまうのなら・・・今何をしても死んで無になるのなら私たちはなぜ元気に幸せに生きる必要があるの?とさえも考えてしまいます。
もし死刑になってもどうせ死んで無になるなら普通に死ぬのと同じだ。時は違ってもどうせ死ぬんだ。こんなことばかり考えてしまいます。
僕はこんなことを考えたあとに考える(自分に言い聞かせる)ことが2つあります。
(1)いまこんなことを考えても仕方がない。”まずは今を楽しもうではないか!”
(2)死後の世界はもしかしたらあるかもしれない。
その時は自分で納得し普通の生活ができますが、またすぐに考えこんでしまいます。

最近は考えて怖くなりすぎ調子が悪くなるほどです…。

歴史の勉強をしていてもこの人たちは皆今は無なのか。怖い・・・。とまた考えこんでしまいます。

「死」が怖くてたまりません。

これは中学生という年齢で考えこんでしまうことは普通のことなのでしょうか?
僕がおかしいのでしょうか?
もし、同じような経験をした方がいらっしゃればどのように克服されましたか?
様々な視点からの回答をお待ちしています。

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。


この回答ってちゃんと読んでもらえるのかな。死ぬことも怖いけれどそのこともちょっとコワイです。笑
中学の年齢で死を敏感に感じてしまうのはたぶん普通の事やないかな。モノの本にもそんなこと書いてたよ。なんて無責任な言いぐさかな。

余計な情報やけど、回答者の顔や生い立ちが見えないのもどうかとおもうから書くから読んでほしいけど笑…かくいう俺は中学ん時はいわゆるヤンキーだったし鈍感、つまりアホだったので君みたいに強く死を思ったことは車にひかれた日の夜くらい。

ウケ狙いでクラスの暗い友達をちゃかしてはずかしめたり無神経だった。

当時友達の家に本物の死体ばっか出てくるグロいビデオがあったから見てはしゃいじゃってね。友達に、もしお前が死んだら俺は泣くから俺が死んでも泣いてくれ、なんてよくわからない話したり。
つまり死を実感しちゃいなかったってこと。アホだよ実際。

君の年齢でちゃんと死を考えていたらもう少し別の生き方があったかも、なんて。
今いろいろつらいかも知れないけど君のことがうらやましくもある。
今とりあえず健康?ならまだ時間は残ってる。猶予はあるよ。だから長くなるけどちゃんと読んでね。笑

俺が二十歳の時に親父がアル中で死んだんだ。
親父は一人暮らしだったから発見された時は体が腐敗しかけてた。
電話で連絡を受けた時俺はプレステやってた。
ヒモだったから毎日彼女から500円のお駄賃もらいながら一日中プレステやったり図書館で本読んだりしてたんだよ。
連絡受けた後ちゃっかりセーブだけは忘れずにした記憶がある。
そんな俺に回答者の資格ないんだけどね笑
ただね、無職生活のおかげで身になったことも少しあるからそれはあとで書くよ。

もうちょいで本題に入るからちょっと待ってね。

そんでさ、親父の葬式が終わって少しあと、ある夜に部屋のコタツにひとりで横になってボーッとしてたんよ。
ヒモだから時間だけはふんだんにある。
だからふつうなら学校とかバイトに追われて生活に忙しくしてるうちに忘れたり薄れていく身内の死とか自分の死の問題。
笑っちゃうけどそれまで俺や家族だけはなんとなく死なないと思ってた。いや、死ぬんだろうけれど、死を地図でしか見たことのない知らない国みたいに、あるんだろうね、くらいに考えてた。
だけど現実問題、親父が死んだ。消えた。
漫画の主人公みたいになんか特殊なパワーで守られてると思ってた親父が死ぬんだったら俺も確実に死ぬ。消える。
そんな当たり前の認識が理屈やなく無言でドーンと来た。
無限の無。奈落。完璧なゲームセット。神様が真っ黒い口あけて俺を指さして笑ってるような気がした。
地面が抜けるような気がして、この世に確実なことや信じられることが何もない気がしてただただ怖かった。
問答無用で俺は消滅する!ちょっと待ってよなにそれ!怖い!

反射的に彼女の事を考えようとした。だけどムリだった。ひどい言い方だけど彼女の存在が恐怖をやわらげる助けには一ミリもならなかった。自分でもびっくりした。
パニック寸前の俺はもっと別のこと、たとえば天国とか愛とか魂とか神様とか生きる意味とかそれまで聞いたり読んだりした偉い人の格言とか名言とかを思い出そうとした。恐怖をやわらげてくれるものならなんでもよかった。
でもムリだった。
で、こう考えた。みんな同じだ!って。この世から去っていったであろうまたこれから去っていくであろう何億何十億人のテレビにも映らないたくさんの人達の死、俺もみんなの一員、死ぬなんて普通のこと、当たり前の事やないか!だいたい男が死を怖がるな!戦争中は悲惨だったらしいじゃない!ほら特攻隊とかさ!それとかほら今現在末期ガンと戦ってる人!それにくらべたら…それにくらべたら…それにくらべたら…。
うん、でもやっぱりムリだった。
怖かったよ。死ぬことが。
ようするにそれまで自分が考えたことや経験とか情報とか理屈とか他人の身の上なんてなんの救いにもならないって、強く感じてしまった。

いよいよどうにもならなくてとっさに立ち上がった。逆に明るく踊ろうか?とも思ったけど瞬間的に却下。そんな気分じゃないからね笑
で、部屋から飛び出した。暗闇に飲み込まれる前に逃げなきゃ!階段を一階まで駆け下りてマンションを飛び出して夜の道を走って走って走った。今思えばそんな事したら車にひかれて死ぬかもしれないのに笑
ちなみにそん時はいてたのは健康サンダルだった…。
ってここまではまだ序章なんよ。

ところでこの回答iPhoneで書いてるんだけどかなり真剣に書いたから疲れちゃった。生きるって疲れるねホント。
俺も君と同じで死を意識してる。
大事なことだからまだ長くなりそうなんだよ。わかるよね笑
本題はかならず明日くらいに投稿するよ!
生きていたらね♪
それでは後日★
アデュー
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 こんばんわ。

その不安感はよくわかります。僕も宇宙がどこまで広がっているのかを頭の中で就寝中に考えたりして小学生の頃は気持ち悪くなったりしました・・・・・・。
 つまり、好奇心が足りなくなっているのかもしれません。恐怖心の対義語が好奇心だからです。夏の日の金魚すくいの出目金や学校の教室で飼われていたメダカを思い出してください。彼等は、誰からもさほど愛されることなく死んでゆきます。でも、可愛かったと僕は思います。それが彼等の儚い命の使命だったと思います。
 生きることへの恐怖心がそのまま死への恐怖心に繋がっているのです。自分なんか忘れられてしまうのではないかと。
 でも、誰かは君を見守っていると思いますし、嫌なことがこれから待ち構えているかもしれませんが、死への恐怖を誰かに打ち明けてみてはいかがでしょうか。何かヒントがあるやもしれません。ちっぽけな自分こそ等身大の君です。何か打ち込める勉強やらスポーツで自分を愛してみてください。
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貴方と同じ年代に、貴方と同じ事を深く考えて、深く恐怖して、恐怖症にまでなった経験がありますので、その経験談とその後の事を書いてみます。



14歳の頃です、中学二年生からです。丁度中二病と言われる頃ですが、18年間の悪戦苦闘の末に、解消出来ました、その経験から貴方に書いています。

是は世界中の宗教の原点と重なっています。宗教の目的は『魂の救い』です。この意味は『死を恐がっている迷える子羊』が、死にあっても壊されない本当の幸福を手に出来る『原理』を提供している、と言う意味です。

この意味が分かる事をソクラテスは『汝自身を知れ!』と言っています。聖書では『神との和解』です。禅仏教では『自分自身を知る体験』=『見性成仏』と云う言葉で説明しています。

これ等の精神性を、東洋では道に至る、と言っています。東洋的無の思想です。

不安と言う感情の解消と言う意味では、『頭の中での理解』=『知的理解』は殆ど無効です。ですが知っておく事によって『誰でもが通って行く道』である事が分かる事によって、少しでも気が楽になる事もあると思って書いています。

貴方の不安や恐怖心は『深い人間性を確保出来た段階で解消します。』その道筋を書いてみますが、その前に『人間は如何して悩み苦しむのか?』を説明して置きます。貴方の場合もその事が判った時に解消しているはずですので、少し説明したいと思います。

人間が悩み苦しんだり、深い疑問を抱いたりする原因は聖書にも書いて在りますが、『知恵が付いたためです。』この意味は脳の機能分化の完成と言う脳の発達が関係しています。

人間に悩みが生じない状態を『天国』と形容しています。そうしてその天国に一番近い存在を『幼子』と聖書に書いてあります。その意味は脳細胞が未発達の為に心が『見ている自分』しか存在していないからです。

心が見ている自分しか存在しない時とは、全てを疑う事をしないという意味です。自分の裸さえ恥ずかしいと思えない状態です。思春期頃からノウの気の分化が完成に近くなって、見ている自分と『見られている自分』に二つになって争いを始めるようになります。

心が『一念』と『二念』になって、心の中で言い争うようになると言う意味です。或は心は『顕在意識』VS『無意識の自分』と言う風に分かれてしまって、『お互いに連絡がつかなくなってしまう事を意味します。』

この関係性を禅では『没交渉』』と形容しています。

この没交渉の相手と出会う事を、禅では『見性』と表現しています。キリスト教では『神との和解』です。

動画の中で『見性体験』や『神との和解』の体験を語っている脳科学者の話がありますので載せておきます。良く観察をしてみて下さい.

URL:

貴方が学ぶ事は『人間の意識性』という事です。この意味は『意識している自分』と『意識していない時の自分』を誰でも持っていると云う事です。

是はメンタル面が強いと言う言い方の場合では、『自我意識』が出ない様に出来た事を意味します、逆な言い方をするなら『自我意識が出ない時には』何が出ているのか?と言う意味です。

或はメンタル面が弱いと言う場合では『自我意識が出たままになって』意識地獄になってしまって『頭の中が真っ白になっている。』と言う意味です、補足するなら『無意識の自分の力が借りられなくなった事』を意味します。

無意識からの救いの手を遮っている事が『死を怖がっている事になります。』

不安解消のメカニズムは、『湧き上がる感情や考え』を避けようとしないで只そのままに『放置しておく事』を学ぶ事です。湧き上がる感情や考えに『優劣や良し悪しを付けない事です。』

幼子のように『湧き上がる考えや感情に』振回されなくなった時、不安や恐怖は『自分が勝手に拠り好みをする心のせいで、作り出していた幻』だった事が分かります。

鈴木大拙博士の著作集を読んで、自分なりに決着が付いた経験があります。
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たくさんの回答者さんがいますね。


自分なりに思った事書きます。

僕も今中学生なのですが、昔何度か自殺しようと思った事があります。
ですが、質問者さんと同じ様に怖くて出来ませんでした。
哲学的な話になりますが、どこかの誰かがこんな言葉を残しています。

「あなたが生まれたとき
周りの人は笑ってあなたは泣いたでしょう
だからあなたが死ぬときは
あなたが笑って周りの人が泣くような人生を送りなさい」

 これって良い言葉ですよね。
 
 僕には死後の世界があるか無いかは知りませんが
 死んでも覚えていてくれる人がいるとしたら、それは無ではないと思っています。
 死んだ時、悲しんでくれる人が出来るだけ多いように、生きようとすれば良いのではないでしょうか?
 
 誰だって変な話し、歴史に残ろうと思えば極悪な事をすれば少なからず残るでしょう。
 ですがそれでは貴方が死んだ時に、誰か悲しむ人がいるでしょうか?

 他の方に比べれば短文ですが、以上です。

 それと、僕の様に死にたい!
 と思う人間がいる程ですから、質問者さんはきっと普通です。
 安心して下さい。
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思春期になると、様々なことを考えだし死に対しても考えることあると思います。


No.7さんの回答と同じように思いますので、そこは割愛します。

調子が悪くなるほど怖くなってるのが気がかりなので、気になる所だけ。

質問から分かるのは、死の恐怖と無の恐怖とを持っておられて何度も意識に上がってきている。
それは意識下に小学校の頃かそれ以前に問題をかかえたのでしょう。
その問題を片付けないまま過ごしていると、時々強く上がってくることがあります。

やり過ごすことで生活に支障が無ければ、それでもいいのかもしれません。
あまりに怖く、体調不良や行動制限がかかるのであれば
その問題を片付けるために、カウンセリングに行かれてはどうでしょうか。


こういった書き込みを眼にしないと忘れていますが
私も小さい時から死の恐怖に長い間とらわれていたことがあります。
今は何も怖くないので「そう言われれば、そんなことがあったなぁ」と過去のことになってます。

自分と向き合い、自分自身の思いを整理して行くことができれば問題は解決するでしょう。
あなたがそれを今すぐやる必要があるのかは分かりませんが
時間をかけてでも、問題を解決したいと願うのであれば解決できる可能性はあります。

人には問題を解決する自分の中の時期がありますので、その時が訪れたら
思いだしてもらえればと思います。

自分の中の問題は、時間が解決するもの時間では解決できないものがあります。
今あなたが抱えている事が、どちらになるのか文章からは分かりません。
時間でも解決できない場合は、ネットに書き込むことでは到底解決に繋がりません。

スクールカウンセラーがおられましたら、まずはそちらに相談してみてはいかがでしょうか。
深い問題は文字と文字のやり取りでは解決せず、人と人とのやり取りの中で解決が見えてきます。

そのことをどこか頭の隅にでも置いていただけたら幸いに思います。
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>僕がおかしいのでしょうか?



ぜんぜんおかしくありません。

若いうちは、死を怖れるのが普通です。

年をとってくると、死ぬのが怖くなくなってきます。
これも普通です。

年齢によって死に対する恐怖心が変わってきます。
90才ぐらいになると、もう死ぬのがまったく怖くなくなってきます。
そうして自然に天寿をまっとうして人生の終わりを迎える時がきます。
天寿をまっとうして、周りの人に感謝しながら安らかに死んでゆけるのが最高の死に方です。

若い人は、死を怖れ、命を大切にしながら生きていってください。
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たくさんの方のご回答がすでにありますから、まさに「屋上屋を重ねる」ようなことになるかも知れません。


これだけたくさんの回答がいただけるというのは、中学生である質問者様が、ご自分のことをそれだけ真剣に考えていることが伝わったのでしょうね。

私はもう50歳代も後半に達していますが、昔のことを思い出すと、やはり中学生や高校生の頃には、死ということを真剣に考えたり、本当に怖がったりしたことを思い出します。
私の場合には、実の母親を小学校5年生の時に、病気で亡くしたことも影響しているかも知れません。

私自身は、心理学を学び、現在は臨床心理士の資格も持ち、大学で教えた経験もあります。

そのことを踏まえて少し書かせてもらいますと、中学生から高校生の、いわゆる思春期の年代では、自分自身の、とくに身体的な面での成長が著しいため、自分自身、自分というものに目が向くようになります。
また、その一方で、知的な能力など、精神面でもさまざまなことが発達してきて、抽象的な、目に見えないことを考えられるようになってきます。

その結果、自分自身についてや、自分の将来、自分の生き方、自分はどこから来てどこへ行くのかということについて、真剣に考えるようになります。
これは、ご自身も書いていらっしゃるように、中学生や高校生という年代では普通の、自然な発達のプロセスの段階として、誰もが経験することです。

質問者様は、とくにそのことをまじめに考えようとしていらっしゃるのではないかと、私には思えます。

昔の心理学者は、思春期のことを「第2の誕生」と呼びました。
第1の誕生は、もちろん、お母さんから生まれてくることを指していますが、思春期では、もう一度生まれるというくらい、大きな変化が精神的、心理的には、起こることを意味しています。

あまり過度に死にとらわれてしまうのではなく、これから自分はどういう道に進みたいのか、自分自身にはどういう良いところや、長所があるのか、どういう大人になるのか・なりたいのかということについて、自分自身にとって大切な課題であると思って、しっかり考えてみてください。
こうして、自分について考えていく中で、死を過剰に意識することも減っていくように思います。

以上、参考になれば幸いです。
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人は死んだらどこへ行くか


体は土へ 心は空へ されど志は人へ受け継がれる
確かこんな言い回しだったかな、好きな言葉です。
歴史に残ってる人たちの「志(こころざし」と「生き方」は今でも見事に人に受け継がれてるでしょう。
一番怖いのは死ぬことじゃありません、何も残せず死ぬこと、生きた証がないまま死ぬこと、誰の記憶にも残らず死ぬこと、そして自分らしく生きれないことです。
逆に言えば実に自分らしく生きてるので明日死んでもそれなりに悔いはありません。
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>これは中学生という年齢で考えこんでしまうことは普通のことなのでしょうか?



全員ではないでしょうが、多感な少年期には、良くあることだと思います。


>僕がおかしいのでしょうか?

おかしくはありません。個性のひとつです。


>もし、同じような経験をした方がいらっしゃればどのように克服されましたか?

私も小学生の低学年から中学生ぐらいまで、死の恐怖(=有限の生の恐怖)に取り憑かれていました。
どのように克服したのか漠然としておりますが、スポーツや勉強が面白くなってきたころ、社交的になり、だんだんと考え込む頻度が減りました。

しかし、今でも、周期的に死の恐怖に襲われますよ。
周期は長くなりましたが、襲われたときの孤独感、焦燥感は一向に軽くなりません。むしろ、重たくなってきたかも。

ただ、少年期よりも賢くなって、台風と同じように、この恐怖もやがて過ぎ去るということを経験的に知っているので、なんとか我慢できます。何も無いような顔をして普通の生活をすることもできるようになりました。
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死について考えることは時間の無駄でも、おかしいことでもありません。


また、あなたがこれから大人になっていくにつれて、死への考え方も少しずつ変化してくると思います。

1「.死」を考えることは、裏返しに「生」を考えることです。
 文学作品にしても「死」を回避しているようでは、たいした作品になりません。死と向き合った作品には深みがあり、人の心を動かしもします。
 どう生きるかーーそれはまた、死をどう理解するかということにも関係するのです。

2.生きながらの「死」がある。
肉体が滅びるというだけでなく、生きながらにして死んでいるということもあります。あなたが、人間性を失って生きているなら、それは、生ける屍(しかばね)かもしれません。肉体の死と、心の死や精神の死、魂の死とは、同じではありません。

3.死の恐怖ーーいったい何が怖いのか
 さて、死の恐怖を抱いている場合、何が怖いのでしょうか。死ぬときの肉体的な痛みでしょうか。自分が無に帰することへの恐怖でしょうか(私はちなみに無に帰するとは考えていません)。あるいは、この世界と縁が切れることでしょうか。あるいは、罪から来る後悔などでしょうか。
そこを掘り下げて考える必要もあるでしょう。
私は、死は通過点で、さほど恐怖ではありません。キリスト教徒でありますが、自分にとって怖いのは罪をかかえて生きることです。そして、聖書に書かれている「たとえ死んでも生きる」という永遠の命を信じますが、これは死が怖いから信じているわけでもありません。

4.死へのあこがれ
 人の中には、死を求める人もいます。しかし、そういう人こそ、生を求めているのかもしれません。偽善者の自分につかれているのかもしれません。死は逃避できる場所と思うのかもしれません。死をあこがれる人がいます。しかし、それなら、ぜひ、死ぬつもりで、冒険をしてください。1回の人生、価値ある行き方を求めて下さい。
自分のために生きておわるのでなく、人に仕える、人を幸せにする、人のために生きる生き方というのを考えましょう。

★自分だけで死を考えても発展性があまりないかもしれません。そういうときは、読書をおすすめします。図書館の方に死を扱った名作はないか聞いてよさそうなものを読んでみましょう。
夏目漱石の「こころ」にしても、ドストエフスキーの「罪と罰」にしても、キリスト教文学で言えば三浦綾子の「塩狩峠」にしても、死をめぐって重たい課題に取り組んでいます。(この3冊はおすすめです)

以上、ご参考になればと思います。
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