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下記のサイトに、法華経成立について、ある歴史的考察が書かれています。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhi …

それによると、法華経は、偽の経典だそうです。

お釈迦様の入滅が紀元前543年で、紙の発明が105年です。
紙がそもそも存在しないという影響もあると思いますが、古代インドでは、お釈迦様の説話を500年間に亘り、口伝で忠実に暗唱しており、後にそれを文字として経典にしたのが、パーリー聖典です。
パーリー聖典は、原始仏教の聖典であり、お釈迦様の言葉に最も忠実な内容と言われます。

一方、法華経は、お釈迦様が亡くなって約500年後に、お釈迦様以外の人が自分の説を勝手に書いたものだそうです。
それなのに、法華経がお釈迦様の意思を継ぐ物と主張する人々が居ますが、一体全体、500年前に亡くなった人の意思を、どうやって確かめたのでしょうか。

例えば、現代から見て、織田信長は、500年ほど前の人です。
織田信長の行動に反する内容の物語を、現代人が書けば、それは単に、トンデモ歴史小説と呼ばれるでしょう。

ところが、法華経については、それこそがお釈迦様の意思だと主張する人々がいます。
その根拠は何でしょうか?

A 回答 (15件中11~15件)

重ね重ねしつこいようですが、少し補足を。



>>一つだけ、思い違いをしていらっしゃいますね。
>>お釈迦様に直接教えを頂いて、悟りを開いた信者の中には、在家信者もいれば、女性もいました。
>>出家しなければ、あるいは、男性でなければ、悟りを得られないというのは、事実と異なります。

それはお釈迦様成道以後の話で、その以前は出家者が苦行をしてというのがスタンダードでしたし、仏教教団に所属するにも男性でなくてはならないとか外見が良くてはならないなどの意味不明な厳しい基準(これは、経典にも記されている)がありました。
まあ、ちょっと記憶が曖昧で申し訳ありませんけど、そういう風潮に反発した女性のみの出家集団なんていう人権団体的暴挙もあったようですが…。
あまり知られていないだけで、土着のトンデモ話は結構あり、より人間的な悪い(?)部分から目をそらし美化したのが日本人の抱くインド仏教のイメージと言えるでしょう。


>>尚、おっしゃるとおり、法華経については、実際に読んだことがありませんので、
>>岩波文庫の上中下三巻を読んでみたいと思います。

どちらの本を指しているのかわかりませんが、私が思い浮かべた文庫版のものであればお薦めは出来ません。
個人的には、中村元先生の著書や、田村芳朗先生の「仏典講座」シリーズがわかりすくて良いのではないかと。中村先生は仏教学者・宗教学者・歴史文献学者という要素を併せ持ちながら贔屓目のない解説書を入門向けから詳解まで著述されていますし、田村先生は日蓮系の学者ですけど不必要に宗教色を出すようなこともせず「これ一冊あれば、書き下し・サンスクリット本との対照・本文解説すべて大丈夫」と言えるくらいしっかりしたものを仕上げてくれています。
そもそも、世間の印象と違って宗教学者は疑問から入り経典や自宗も含めた宗派の問題点を把握している方も多いので、著者や書籍選びさえ間違えなければ研究内容やアプローチの立ち位置が質問者様に近いかも知れません。

日蓮門下は、何を勘違いしたのか折伏折伏と強気に出たがる流派もありますが、日蓮が諸宗批判に及んだ背景をきちんと理解していれば経典の見方も変わってくるはずです。
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この回答へのお礼

再三に亘りご回答頂き、ありがとうございます。

中村元先生と、田村芳郎先生の本、両方注文いたしました。
ご紹介頂き、ありがとうございました。
アマゾンの書評によると、田村先生の本には、法華経やその他の経の成立過程も詳しく載っていると言うことで、楽しみです。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/04 08:53

>ところが、法華経については、それこそがお釈迦様の意思だと主張する人々がいます。


その根拠は何でしょうか?

○お寺の山門に「あ像」と「ん像」が建ってますね。「あ」は「アルファ」「ん」は「オメガ」に相当しますね。
この山門の先に「私はアルファであり、オメガである。最初であり最後である。という仏が存在するという印ですね。」仏教以外のどの宗教にもこのような印はありませんね。
「わたしは最初であり最後である。」と言えば西洋的には全知全能の神ですね。
仏陀とはそういうものなのですよ。それを説いたのが霊鷲山説法で、それが法華経ですね。
人間釈迦程度の認識では到底理解不能というのがわかれば良いだけですね。


>理解できるとおっしゃるのでしたら、お手数でなければ、ぜひそのエッセンスをご教示下さい。
○霊鷲山説法では、釈尊の眉間から白光がとありますが、まあ映写機で宇宙の創世の最初からそれまでを見せたということですね。当時の人がそれをどう表現できたかが法華経ですから、個別の表現については意味のないものもあるでしょうね。つまり、久遠の仏陀を説いたということですね。この久遠の仏陀の側面が毘盧遮那仏、阿弥陀如来ということですね。全知全能の神は実は仏陀「釈尊の本体}ということなんですよ。菩提樹下での悟りとはこのことなんですが、話しても理解不能だから晩年に映像で見せたということですね。
仏教には秘密がたくさんあるのですね。凡人には理解不能だから秘密になっていただけですけどね。
このように真実の仏陀の悟り、お姿を話しても到底理解できないかもね。
霊鷲山説法では宇宙からもたくさん説法を聞きに来ていたんですね。それが遠い国の人々ですね。
宇宙船が大挙して来ていたのですから映写機ぐらいお手の物でしょう。
あなたの仏教に対する常識を捨てないと法華経読めないでしょ。そういうことなんですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

おっしゃるようなことは、あり得るかも知れないとは思います。
人知を超えることは、いくらでもこの世に存在すると考えています。

何度も済みませんが、疑問が2つあります。

(1)まだ、法華経を読んでいませんので、読んでからまた考えたいと思いますが、「霊鷲山説法」については、法華経そのものに、その内容が書かれているのでしょうか?
それとも、小乗教典にもそれが述べられているのでしょうか?

法華経だけに書かれているのでしたら、法華経自体を権威づけるための自画自賛だと思います。
小乗教典にも書かれているのでしたら、信憑性が増すと思います。


(2)回答者様が理解したとおっしゃるのは、ご自身がそのようなイメージを霊感として受け取った、あるいは、前世の記憶として思い出したと言うことでしょうか?
それとも、どなたか宗教の指導者の方から聞いた、2次情報でしょうか?


余談ですが、(2)のような方法で、過去の事を知ると言うことを、私は否定する物ではありません。
そのような事もあり得るかも知れないと思います。
しかし、私の理解では、そのような霊的能力と、人間性は別物です。
スポーツが得意な人、数学が得意な人、絵が得意な人、等々、人それぞれ得意な分野があります。
霊的能力は、そのような能力、あるいはテクニックの一つに過ぎません。
ところが、霊的能力がある人を、無条件で崇高な人格者であると盲信し、その人の言うことが全て正しいと思い込むのが、宗教における大きな問題だと思います。

私の身近に、霊的能力の非常に優れた人物がいますので、それがよく分かります。

そうした人物の言ったことや、既存の宗教を盲信するのでは無く、全て自分の頭で考え直すのが大切だと、お釈迦様がおっしゃっています。
お釈迦様自身の発言に対しても、それが当てはまるそうです。

但し、内容が優れてさえいれば、お釈迦様の言葉であろうが、別人の言葉であろうが、それはそれで良いと思います。
しかし、お釈迦様の威を借りて、自分の説を権威づけようとする人の話が、深く追究するに足るかどうか、と言うことです。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/08 12:21

お礼文の中の指摘にもありましたが、確かに真理とは極めて単純明快なもので、では釈迦は一体、我々に何を説き教えたかったかといえば、それは万民に分け隔てなく内在するすばらしい能力のノウハウ、つまり、我々自身の中には如何なる力が存在していて、また、その力を発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいはいかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりはいかなる逆境があろうとも行き詰ることなく、悠々と乗り越えて、誰もが最高に充実と満足の何があっても楽しめる自由自在の境涯を満喫して行けるようになる、というもので、つまり本来、自身の生命に具わる宝と言ってもよい大いなる力強い存在に目覚め、その秘められた偉大な力を開き発揮させる。



これこそが釈迦の真意であり、悟りとかよく言われますが、それは、この自身が元々持っている力に目覚めた姿と言っても過言ではないでしょう。ともかく、「何かに幸せにしてもらう」のではなく「自力で幸せになる」ことができる能力を誰もが持っていることを教え、その実生活上に活用させる、この一点に尽きるかと思われます。

そして、その手引き書が法華経になるのですが、その真贋を問うのであれば、これも単純明快なのですが、仏教においては三証というものがあり、理証(道理に適っているか)、文証(経典等に載っているか)、現証(実証が確認できるか)ですが、その中でも現証こそが最も重要であり、「理証、文証も現証には過ぎず」で、これ無くしては絵に描いた餅というか空手形みたいなもので、やはり、眼前の明らかな結果が得られなくては、誰が何と言おうが、信じるに値しないものかと思われますので、法華経を以って実践してみれば自ずと答えは出るかと思われます。

やはり、いかなる宗派経典であれ、眼前の現証こそが最も重視すべきことであり、それ以外での論争も結構ですが、価格.comではないですが、各宗教の現証.comでも設けて、興味のある人に比較検討させればよいかとは思われますが。ともかく、宗教の良し悪しは現証を以って推し量れば、万言に勝り、これ以上のものはないということです。

いずれにしましても、持っているのに使わないという万民の宝の持ち腐れを打破させて、自分の本来の価値に目覚めさせて、自ずと幸福へと至らしめることこそが釈迦の出世の本懐であり、その肝心が法華経かと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

三証について教えて頂き、なるほどと思いました。

しかし、その結論として、「その肝心が法華経かと思われます。」おっしゃったことには疑問があります。

今まで皆さんに頂いたご回答を、自分なりにまとめますと、下記の様になりました。

法華経は、お釈迦様自身の言葉では無い。
法華経は、お釈迦様の言葉によって悟った後世の人が、お釈迦様の悟りの内容を体系的にまとめた物である。
法華経の通りにすれば、悟れる。
悟れさえすれば、法華経の真贋は問題ではない。

とすると、別に法華経でなくても、真理を語る書物であれば、何でも良いわけです。
大昔に書かれた異国の本の翻訳を苦労して読まなくても、悟りを得た人物が、現代の常識に沿って、自分の言葉で書いた本を読めば済む話です。
そして、そのような本は、ベストセラーになってもおかしくないでしょう。

abc2008さんのお話では、法華経を読んで悟った方がいらっしゃるようですので、宜しければその方の著書をご紹介頂けないでしょうか。

余談ですが、
私は、そのような本が、信用できるかどうかは、著者の方が、下記の条件を満たすかどうかで判断しています。

(1)言行一致
本で書いていることを本当に自分自身が実行しているかどうか。
自分でできないことは、書かないのが原則。

(2)霊能力に頼らない
霊能力はテクニックの一つに過ぎず、それよりも人間性が大切です。

(3)生活の基盤を、宗教「団体」に依存していない。
宗教団体の権力者として君臨している人は信用できません。

(4)顔つき
人間性は、表情に表れます。


私が個人的に心服している著者の方は、下記の皆様です。

高橋信次{(2)に当てはまらないかも}
中村天風
阿部敏郎(&雲黒斎)
空不動
斎藤一人?(ちょっと疑問有り)

本の内容と本人の顔つきによって、人間性がたいてい分かります。
例えば、幸福の科学の大川氏は、大嘘つきであり、(1)(2)(3)(4)全てにおいて、不適格者です。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/11 12:33

残念ながら、ただ法華経を読んで悟ったという人はいないかと思われます。

結局、法華経は手引書、マニュアルですから、いわば説明文だけ読んで実践が伴わないのであれば、そのような境地にはなれないでしょう。確かに、我々万人に内在する偉大な力(仏教ではそれを仏性とか仏の生命、あるいは宝の蔵等と云い、世間的には潜在能力とか秘めた可能性等と云いますが)の存在を示し、その開発方途を説いていますから何らかの得るものはあるでしょう。

しかし、理屈として頭の中だけで解ったとしても、その身で読む、つまり、実践して実証を体得するという、まさに自覚(自ら持つ、その価値に実際に目覚める)しなければ、机上の悟りでしかないでしょう。早い話が『理論と実践』の両輪が伴ってこその自覚かと思われます。

例えば、油田や金鉱脈の存在を知ったとしても、それを実際に掘り出さない限り何の価値もないのと同じかと思われます。しかも油田や金鉱脈は科学的探査で前以ってその存在を確認できますが、我々に内在する力の存在は、先ずはそれを信じることから始まるかと思われます。ところが、この点をなかなか信じられない人々があまりに多かったために釈迦は何十年もかけて種々様々に説法をして法華経に至らしめたのですが、それで、その説法の中に出てくる何々仏や何々菩薩というものは、実は内在する力を人々に分かり易く説明するために様々に擬人化して説いたものだったのです。例えば、イソップ物語や日本昔話にしろ、それらには何らかの示唆や戒め等が含まれていますが、それを直接的に言っても判らない子供たちに興味を喚起し教えんがために物語形式にしたものであり、それが大人になると、その物語の含意に「なるほど」と納得できるようになるのですが、これと同じで、いきなり法華経を説いて受け入れるような人々の状況ではなかったので、擬人化もその一つの手法ですが、法華経を説くまでに様々な譬えや方便等を用いて、法華経を説いた時に、なるほどと理解納得できるようにその力の特性を印象付けたのです。

つまり、法華経を説かれた時に、今までは崇め拝するような存在だった仏や菩薩の力用が実は自分の中にこそ存在し、それを自在に発揮させていくことができると知るのです。まさに目が覚めるような思いだったかと思われます。それまでは、何らかの仏や菩薩たちが自分たちを救ってくれるのかと他力本願的思考だったものが、実はそれらの偉大な力が元々自分自身の中にあり自力本願こそが、本来あるべき姿と認識するのです。

結局、法華経以外のあらゆる教経は法華経のための補足注釈文みたいなものであり、いわゆる付則的なものなのです。ですから、それらを拠り所としても何ら覚知することも無く、かえって持てる力を死蔵するはめになるのです。

本来、仏教と云えば法華経であり、法華経と云えば仏教そのものということです。いずれにしましても、三証を念頭に『理論と実践』で法華経にしろ、誰かの著書にしろ、一体どれが心底自身の中の卓越した力の存在を確信できる境地になれるかどうかを試されればよいかと思われます。
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この回答へのお礼

再度の、ご回答ありがとうございます。

おっしゃりたいことは分かりますが、事実とご自分の願望をごっちゃになさっていますね。

>釈迦は何十年もかけて種々様々に説法をして法華経に至らしめたのですが、
>法華経を説くまでに
>法華経を説かれた時に

話が徐々に変わっていきますね。
最初の話では、お釈迦様がそのように導いたと取れますが、最後の方では、お釈迦様がそれを実際に説かれたと断言しておられますね。

この質問後さらに自分でも色々調べたのですが、法華経が、お釈迦様自身の言葉では無いことは、学術的に明白な事実のようです。
それを、あたかもお釈迦様が直接述べたような誤解へ誘導しようとするのは、誠に失礼ながら、「嘘つき」のように思えます。
そうした嘘をつくのが、あなたのおっしゃる「実践」なのでしょうか?
「法華経は、お釈迦様の言葉では無いが、お釈迦様の深い心の内を理解した後世の高僧が著した物であり、内容的には仏教の神髄であると信じる。」とでもおっしゃっれば、私もなるほど思いますが、嘘をついて事実をねじ曲げようとされるのは、いかがな物でしょうか。
そのような手法は、法華経の良さを紹介する為には、全くの逆効果だと思いますよ。


>本来、仏教と云えば法華経であり、法華経と云えば仏教そのものということです。

本来、仏教と言えば、お釈迦様であり、お釈迦様が仏教そのものです。
法華経を著した高僧は、仏教そのものではありません。
以前のお礼で、既に述べたように、お釈迦様は、盲信を戒めておられます。
お釈迦様ご自身の言葉さえも疑えとおっしゃっています。
ご自分の信念を述べられるのは結構ですが、事実と信念を明確に区分するのが、正直な立場だとお思いますが、いかがでしょうか。


>いずれにしましても、三証を念頭に『理論と実践』で法華経にしろ、誰かの著書にしろ、一体どれが心底自身の中の卓越した力の存在を確信できる境地になれるかどうかを試されればよいかと思われます。

理論と実践が大切なことは、言われるまでもなく明白です。
知識を得ただけで、実践ができていると思いこむほど、私はおめでたくはありません。
思い込みを排して、事実に基づいて正しく考えるのが、仏教の基本たる八正道ではありませんか。
少なくとも、自分の思い込みを他人に押しつけるために嘘をつく事は、現在の私にはできません。

盲信に凝り固まると、論理的な思考ができなくなると思います。
お釈迦様が盲信を戒めたのは、そのためではないでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/17 12:27

検索していたらこういうPDFを見つけました。


法華経の中では方便品の成立が古いみたいですね。
ただこのPDFを読もうとすると私の環境だとなぜかエラーが出ます。
きちんとリンクが張れているといいのですが。


法華経における根源的概念
西 康友
http://www.tais.ac.jp/related/ex_org/publishing/ …

法華経成立研究では、SP 第2章Upāyakauśalya が最
古の教説とする説が有力である2)。そこで、本論文で
は、これまでの研究と別の視点から、SP が歴史的段
階を経て編纂されたという点を明らかにし、この教説
がSP 最古であることを明示する。
また、上の仮説が成り立つとすれば、SP の根源的
な概念や思想が、この教説上に見出されると考えられ
る。そこで、SP 第2 章Upāyakauśalya の中で、SP 以
前に編纂された経典に見出されないSP に特有な教説
を検証する。
さらに、これまでの研究によって、『スッタ・ニパ
ータ』第884 偈3)とSP 第2 章Upāyakauśalya の2 つ
の教説が類似しているという指摘がある。そこで本
稿では、それは単なる類似性にとどまらず、SP 第2
章Upāyakauśalya が『スッタ・ニパータ』の教説を再
構成していることを検証する。この教説が部派仏教
や、般若経系経典の教理的な影響が見出されないと考
えられる4)ことから、仏教最古の経典の1つとされる
『スッタ・ニパータ』を取り上げ、これとSP 第2 章
Upāyakauśalya の2つの教説を検証してみたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おわりに
本稿は、SP が歴史的段階を経て編纂され、その
中でもSP 第2 章Upāyakauśalya に見られる、つねに
tathāgatajñānadarśanasamādāpana-「如来の知見に駆り立
てる」というupāyakauśalya-「巧みな方法[方便]」が
SP 最古の概念であり、SP は、この概念から構成され
発展したことを論じたものである。
この概念は、初期仏教経典や部派仏教経典、AsP の
思想的影響が見出されないことや、AsP とSP の編纂
地域も互いに異なることからも、無関係に発展したと
考えられる。それゆえに、最初期の大乗仏教経典は、
この2 つの原始AsP と原始SP の根本的概念から発展
したものと考えられるのである。
したがって、初期大乗仏教経典の起源は、原始AsP
と原始SP の根源的概念に求められ、AsP の思想の流れ
を受けて中観思想が、SP の思想の流れを受けて如来蔵
思想が、それぞれに発展したと推定できるのである。
この仮説を立証するためには、さらなる研究が必要
であるが、ここでは、それを示唆することにとどめたい
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私もこのような物を見つけました。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n27467 …

最後まで読んで、ああ、やっぱりと思いました。
これは、阿含宗が阿含経を権威づけるために書いた物で、非常に手前味噌です。
どの宗教団体も、自分の団体だけが正しく、その他の団体は間違いだと主張しています。

正邪や善悪とはそもそも、単に人間社会の利害関係を表しているだけではないでしょうか。
「自分の利益になること」を正しいと主張し、「自分の損になること」を間違いだと主張しているのです。
つまり、独善的な主張をする団体は、利害関係を主張しているも同然です。
人格が売り物のはずの宗教者が、利害関係を争うなど、言語道断だと思います。
そのような宗教団体は、全く信頼するに値しないでしょう。
「独善的な主張をすればするほど、自身の信頼性を貶める結果になる」という事実に気付くことができないとは、驚くべき事です。
盲信のなせる業でしょうか。

今回この質問をたてたのは、法華経が偽経だという主張を知って驚いたためですが、ネット内を検索すればするほど、自分の宗教の立場から、他の宗教を攻撃する内容がたくさん見つかる結果となりました。

宗教論争が不毛だとされるのに頷かざるを得ませんでした。
特に、ネットの情報は、誰でも自由に、嘘八百かける環境内の情報ですので、鵜呑みにしてはいけないことを改めて痛感しました。

しかし、一つの立場の主張だけでなく、あらゆる立場からの主張を簡単に読めますので、論理思考さえできれば、正しい結論に従来よりも短時間でたどり着けるのではないでしょうか。

尚、ご紹介頂いた論文は、法華経の根源的概念が、「大乗経典の起源」である可能性を示唆しているのであって、「お釈迦様本人の言葉」であるとは主張していないと読みました。

しかし、大変興味深く読ませて頂きました。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/20 23:19

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