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赤穂藩の例ですが、浅野家時代は5万3千石でしたが赤穂事件で改易となったので、永井家が次の藩主となりました。
永井家は3万2千石です。
さらに3年4か月後永井家の転封に伴い、森家が2万石で入封し、明治維新を迎えています。
そこで疑問が生じたのですが、
藩の石高というのは米の収穫量と思っていたのですが、転封されてきた新しい藩主の“格”で石高が決まるのですか。
ちょっと調べただけですが、浅野家、永井家、森家を通じて、赤穂藩の領地の増減はないようです。
よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

 元禄14年、赤穂事件による浅野家絶家により旧赤穂藩領は一時的に幕府領になり、翌年永井家が赤穂藩主に入って旧赤穂藩領は赤穂藩、幕府領、旗本浅野領に分割されました。

さらにその後、赤穂藩領の一部は相模小田原藩領、尼崎藩領、大阪城代の役知領などに分割されました。

 このように幕府領と各藩領が錯綜し、その幕府領もいくつかの代官支配に置かれたので、農民は水論、山論などに難儀したということです。

 ご質問への回答としては、藩領は一定ではなく、石高の増減は飛び地などの形で調整されるということになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>永井家が赤穂藩主に入って旧赤穂藩領は赤穂藩、幕府領、旗本浅野領に分割されました。

>さらにその後、赤穂藩領の一部は相模小田原藩領、尼崎藩領、大阪城代の役知領などに分割されました。

そういうふうに「分割」されたのですね。
そうでなければ理屈に合わないのでおかしいと思っていました。
よく解りました。

お礼日時:2013/02/10 09:49

>藩の石高というのは米の収穫量と思っていたのですが、転封されてきた新しい藩主の“格”で石高が決まるのですか。



基本的に(藩の石高=米の収穫量)との認識に誤りは無いものと思われますが、時勢に依る幾つかの例外も存在する、そういう事であろうかと思われます。

例えば関ヶ原の戦いでの戦功に依り安芸一国を賜った福島正則、安芸そのものは90万石程度はあろうかとの評価でしたが、当時の通例として石高が上がれば戦役他諸役の負担も増加する、依ってその事を回避したいという思惑だったのでしょう、結局本人の自己申告に依り、50数万石との事で落ち着きました。

尚豊臣家との特別な姻戚関係以外に存在したこの種のごり押しが、徳川家の新進官僚の逆鱗に触れ、後の福島家の改易に繋がる事実も併わせて明記するところ。

次いで対馬藩(宗氏)ですが、対馬という土地柄米は殆んど収穫されなかったにも関わらず、10万石格という事で、江戸期を通じて遇されております。

詳しく調べればこの種の例外は更に存在するのでしょうが、瞬時に頭の引き出しから出せる事例は、以上の2点に止まります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
福島正則が改易されたのは、そのような理由もあったのですね。
参考になりました。

お礼日時:2013/02/10 14:31

赤穂藩の領地



という発想するところが違うのだと思う。

江戸時代の基本構造は

徳川家の親分個人 = 大名個人 の個人間の関係が基本です。

その大名個人に対して、封地が列挙されるというカタチです。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/03020 …
この中には、○○藩というような、現代の地方自治体のような考え方はありません。

将軍が大名に与える石高を適当に見繕って渡すという形式です。

外様大名などは、幕府で仕事をして昇進する(石高が上がる)というようなことはありませんでしたが、譜代大名などは、出世(石高が上がる)というのがありましたので、幕府の領地から石高に見合う領地を、適当に分け与えられた。なので、飛び地だらけだったりする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC% …

「順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡に跨った分散知行となった」上記より引用。



将軍と大名の個人間の関係というと

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/a …
1634年に「徳川家光知行宛行状写」というのが発給されているのは

1623年 家光 将軍宣下
1630年 藤堂高虎逝去、高次藤堂家を継ぐ
1632年 秀忠逝去
1634年 家光 高次に宛行状を発給
1651年 家光逝去 家綱跡を継ぐ
1664年 寛文印知 < 一斉に発給する

1634年の宛行状は、家光が将軍になったのでも、高次が藤堂家を継いだタイミングでもなく、家光が徳川家の(本当の)親分になったので、改めて高次に領土を与えたという形式になっています。
だんだんと、個人同士の関係から、幕府という法人と大名家という法人の契約にして行こうというのが、1664年の 寛文印知の一斉発給となります。この段階でも、将軍家綱と大名酒井との個人間の書面となっています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>赤穂藩の領地 という発想するところが違うのだと思う。

なるほど、根本的に私の考えが間違っていました。


「飛び地」があちこちにあるのも、このような背景があったのですね。
大変よく解りました。

お礼日時:2013/02/10 10:36

>藩の石高というのは米の収穫量と思っていたのですが



その通りですね。
基本的に、その藩での米の取れ高です。

>転封されてきた新しい藩主の“格”で石高が決まるのですか。

格式だけでは、ありません。
幕府に対する功績とか罪・世継ぎによっても、石高は増減します。

>浅野家、永井家、森家を通じて、赤穂藩の領地の増減はないようです。

先ず、藩というのは領地・石高が決まっている訳ではありません。
藩と領地は、全くの別物です。
例えば、四国の讃岐(香川県)を例にすれば分かり易いかも。
秀吉時代は、生駒家が讃岐の国全土を領地(17万3000石)として高松藩を形成していました。
が、3代目藩主の時にお家騒動で改易。
その後、高松藩は松平頼重(水戸光圀の実兄)が12万石(讃岐東半分)で入城します。
※讃岐西半分は、京極家が入場して丸亀藩となります。
この様に、藩の領地・石高は固定していません。
大きくなったり、小さくなったりします。
これは、今の企業と同じですよね。
優良企業であったJALが倒産企業に転落し、優良企業であった東京電力が準倒産企業(国営化)です。
会社の名前が同じでも、中身は上下しています。(爆笑)
東京電力の社長なんか、年収が50%も少なくなって「たった、3500万円」しかありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
よく分かりました。

お礼日時:2013/02/10 09:52

同じ藩で藩主になっても 土地割りがあります


例えば赤穂藩の中にも郡があります 浅野家は赤穂藩6郡でも 永井家は赤穂藩3郡しか拝領されなかったり…
なので赤穂藩の石高は同じでも 転勤してきた大名の与えられる郡によって石高が変わります
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
よく分かりました。

お礼日時:2013/02/10 09:51

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家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

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