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素朴な疑問です。
偶像崇拝は、なぜ、ダメなのでしょうか?
そもそも、ここでいう《偶像》とは何なのでしょうか?

人や動物などを象(かたど)った、直接、礼拝や信仰の対象となる造形物。
こんなところでしょうか、偶像の一般的な定義は。
では、抽象的なオブジェ、もしくは、シンボル(石や記号など)ならば、偶像にならない(ハテナ)?
具体的な造形物は偶像でないけれど、
手足のある人間の姿をした神さまは、偶像にならない(ハテナ)??

ボンクラなわたしには、
偶像というものが、どういうものであるのか、さっぱりわかりません。

特定の宗教を攻撃しようとする意図は、まったくありません。
偶像崇拝を否定する宗教がより高度で洗練された宗教であるとも考えていません。
宗教の優劣をつけるつもりは、毛頭ございません。
ただの素朴な疑問です。
なぜ、偶像崇拝はダメなのでしょう?
よろしくお願いします。

A 回答 (14件中11~14件)

こんばんわ、ねこさん。


質問に対する回答にはならないかもですが、
質問に対する文句みたくなっちゃうかもですが、
思ったことちょっとだけしゃべります。



人間にできることは
とても少ないんだけど、

してはいけないことも
あまりないんぢゃないかなあ。




楽(ラク)をして生きたくて
楽(たの)しさを放棄するのも
その反対も
個人の自由なんぢゃないかなあ。



他人の自由を尊重しないと
わたしの自由もないんだけど。



他質問でのお礼を込めて。
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この回答へのお礼

nuetralさん、こんばんはです。
そして、
回答ありがとうございます。

神学的な立場からではなく、人権・人道的な見地からですね。
人間には人権や自由がある。
だから、
信仰・信教の自由を最大限に尊重しなければならない。

ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/13 19:52

 ねむりねこさん こんにちは。



 《神》ということばですら 《偶像》に成り得ますよね。

 そういう注意や警戒をしていれば それほどの問題ではないのかも知れません。

 オシエが絶対視され 神に代わってしまうのは つまりそれも偶像崇拝の一種であり おそろしいと思います。


 何だかふざけた言い方に聞こえるかも知れませんが 《偶像崇拝はダメ》という戒めを偶像崇拝するというおそれは ないのでしょうか。


 やぶにらみばかりしてしまいましたが。

この回答への補足

わたしの質問の仕方がまずかったのかもしれませんけれども、
神さまや仏さま、ご神体、などを拝んでいる人たちも、ご自由にご意見、ご感想をお寄せください。
この質問は、
いわゆる《偶像崇拝》と呼ばれる信仰形態の是非を問題にするものではありませんので。
《偶像崇拝》のどこがいけないのか、でも結構です。
「確かに、外面的には偶像崇拝のように見えるかもしれないが、実はそうではないのだ。これは。。。」などの回答、大歓迎です。

補足日時:2013/06/13 18:11
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

☆《神》ということばですら 《偶像》に成り得ますよね。
☆オシエが絶対視され 神に代わってしまうのは つまりそれも偶像崇拝の一種であり おそろしいと思います。
◇無反省で固定化した《教義》《ドグマ》こそ真の偶像である、というわけですね。


であるから、
☆そういう注意や警戒をしていれば それほどの問題ではないのかも知れません。
◇そういう注意や警戒があれば、つまり、それは神そのものではないという認識と理解があれば、
たとえ神仏の像や山などを拝んだとしても、それは、必ずしも、真の偶像崇拝には当たらないと。
必ずしも形式にとらわれる必要はない、というわけですね。

このように理解して、よろしいでしょうか。

お礼日時:2013/06/13 17:55

”なぜ、偶像崇拝はダメなのでしょう?”


     ↑
1,神という偉大な存在を具体的なモノに疑似化
  すること、そのものが不敬である。

2,偶像を崇拝すると、関心がその偶像に流れ、
  肝心の教えがおろそかになってしまう。
  その結果、宗教が形骸化するおそれがある。
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この回答へのお礼

なるほど、なるほど。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/13 17:43

ユダヤ教、キリスト教において、偶像礼拝とは、第一義的には、神以外のものを神とすることです。


モーセの十戒には、偶像を拝んではならないとはっきり書かれています。ちなみに、カトリックではその文言を削除して使って独自の十戒を使ったりしています。それにより何とか、聖像を正当化しております。プロテスタント教会においては、教会の屋根などにシンボルとしての十字架をかかげています。これを偶像とは認めておりません。イスラム教となると、もっと厳格に、そうしたシンボル的なものも、絵画も偶像になる、なりうると考えます。
でも、聖地だとか、カアバ神殿の黒石はどうなのかということになります。シンボルと偶像は、見方によれば同類ともなりかねないものです。

しかし、実際に、キリスト教の教典である聖書によれば、偶像とは、目に見えるもののみでなく、むしろ、自分を神とする、神を中心とする生活でなく、自分中心の生活を偶像と言うことができます。

旧約聖書の創世記は、天地創造の物語ではじまります。森羅万象は神によってつくられます。言い換えると、動物も人間も、太陽も月も、すべてのものは被造物であり、神によって造られたものであり、神ではないということなのです。

結局、キリスト教的に言えば、偶像は、神を無視した生き方であり、罪深い生活なのです。

以上のようなことでキリスト教、ユダヤ教、イスラム教での偶像が少しご理解いただけるかと思います。
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この回答へのお礼

☆ちなみに、カトリックではその文言を削除して使って独自の十戒を使ったりしています。それにより何とか、聖像を正当化しております。
◇このことは、はじめて耳にしました。
教えていただいて、ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/13 17:41

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