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心貧しいものは幸いであるとか、あなたは神に祝福されているとか、なにか全て神のよき計らいであるかのようなとんでもない詭弁を大真面目に言っているところがとてもついていけないのですけど、それと平行してなにかものすごい卑小な人類と、ものすごい権力と権威を兼ね備えた神との関係の宗教がキリスト教と言う印象を持っているわけですが、なぜこんなにも、なにもかも押さえつけるような偉大な力というものを作り上げたんでしょうか?

それは、アジア的な思想にならなかったのはなぜなんでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

 私も#3さんの意見に概ね賛成なのですが、気候風土の関係もあると思います。

イスラム教などは、そればっかりとは言いませんが、砂漠の宗教です。一方アジアの多くの多神教は、温暖湿潤で農業に適し、柔らかい自然の中にあったと思います。民俗学者の柳田邦夫の遠野物語などを読むと、そういう印象を受けます。柳田邦夫に対するような、非アジアの民俗学者を知らないのが残念です。

 でも宗教は、組織として維持される必要もあります。ここで西洋とアジアとの差が顕著になる気がします。キリスト教が、迫害を受けた砂漠に住むような民の希望なら、絶対の救いと、人の生に対する絶対の価値づけが必要だと思います。そこで、ものすごい権力と権威を兼ね備えた神との関係も、正当化されるのでは?と。神の御心のままに生きれば、人の価値は保証されるからです。
 一方アジア的多神教では、そこまで厳しくなくても良かった。思いのままに生きれば、人は自由になれる?。それを理論化しようとしたら、思いのほか面倒な事になって、それでも理論化したら、仏教になってしまった。でも言葉として最後に言う事は同じ。
 「御心のままに」「思いのままに」生きれば、人は自由になれる・・・。この二つを社会学者ウェーバーは、現世支配的エートス,現世逃避的エートスと呼びました。ウェーバーの視点は、完全に一神教支配の文化の下でのものだと思いますが、それでも一つの座標を持つと、コントラストははっきりする気はします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自然的風土、これこそが第一条件なのではないでしょうか。それにそぐわないような教えは決して市民権を得ません。厳しい自然ならばそれにふさわしい厳しい神が必要です。

お礼日時:2010/01/27 18:04

それはイエスが発せられたといわれている言葉を弟子たちが編集していって、新約聖書に載せられたものですね。

平凡に暮らしていては、本当の悪ということがわからない、悪に染まらなければ悪が認識できない、悪に陥った者が改心すれば大善人になるという意味だと思いますがね。病人にならなければ病人の本当の苦しみはわからない。貧乏人にならなければ、貧困者の苦しみはわからない。
キリスト教徒をかざしながら、目には目を的に、戦争、殺戮を行いまくっている連中もいますが、裏では悪魔を崇拝しているのでしょう。ついでに五井昌久氏の本も読んでみては。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

悪人になってみなければ、その真髄をわかることもない。病人も然り、貧乏人も然り、または成功者だってそうでしょう。人間はもっと広い世界を知らなければ大きくなれませんね。

お礼日時:2010/01/27 18:12

ごめんなさい。

読み返したら誤解されそうな書き方をしてしまった

キリスト教のくそのような教義はあなたのいう詭弁そのものだと思います。

私も、キリスト教のくそのような教義はあなたがおっしゃる通り、詭弁そのものだと思います。

という意味です。
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キリスト教のくそのような教義はあなたのいう詭弁そのものだと思います。



ニーチェの「アンチクリスト」
その現代語訳「キリスト教は邪教です」など読まれると

その理由は明確になると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私もずっとそう思ってきました。

お礼日時:2010/01/27 18:11

キリスト教の想定する神はフィクションだからではないですか?



日本の神話や古代ローマ、古代ギリシアの神々が人間味があるのは実際の人間がモチーフになっているからですね。

しかしキリスト教その他一神教の神は完全なるフィクションです。
人間の人知で考え得る完全無欠な存在=神ですから、完全無欠な存在ははこうあらねばならぬと思う人間の反映でしょう。

ですからあくまでも「人間が思い描く完全無欠な創造主」ですからね。
逆に考えれば、その逆が不完全なモノと言う価値観なわけです。

で、質問者様は「尊大」と仰ってますが、あり得ない「完全無欠」を想定するって事はそれだけ「不完全」をかの地の人々が意識してるって事でしょうね。

他人を「軽蔑」する事ができる人のみ、他人を真に「尊敬」する事もできる。これと同じ理屈ではないでしょうか?

完全無欠の絶対権力者である神をフィクションとして想定してるからこそ、人間の不完全さ、いかがわしさ、汚らわしさ等々に考えが及ぶわけですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

キリスト教は西欧人の想像力が産んだものであるからでしょうか?その点はよく知らないのですが、現世超越的な思考法と言うのは彼らのお得意芸ですよね。

お礼日時:2010/01/27 18:10

簡単に言うと、「神が人間を含め、この世の全てを作った」からでしょう。



この世は自然にできたわけでも私達の努力でできたわけでもない。だから私達を創造した神によって私達が「生かされている」。だから神が物凄い権力と権威を持っているのは当たり前、なのです。

但し、キリスト教徒を含む一神教信者は神を「偉大である」と思っていますが、質問者さんが感じているような「(無理矢理)押さえつけるような存在」とは思っていません。

例えが間違っているかもしれませんが、子供にとって親は大きな存在です。
どんなに子供が親より偉くなっても、親は親であり、同等にはなれません(考え方に個人差があると思いますが)。

同じ人間である「親」と「子」の関係でさえ子供より親が上ならば、この世を創造した神が人間より偉大な存在であることは認めなければならないことだと思います。

ちなみに、「アジア的な思想」では神はどのような存在なのでしょうか?
私は神道も仏教もあいまいな知識しかないのですが・・・
もし「アジアの神はもっと親しみがある」という意味だとしたら、キリスト教等の一神教の神も親しみを持ち慈悲深い存在です。

但し、「親しき仲にも礼儀あり」。神に対して非礼はありえません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
同等ではないが、人間として成熟したらば、自身の人生には自身が100パーセント責任を持つ、あるいは責任の所在をどこにも負わせない、と言う姿勢が強く潔くないでしょうか。

お礼日時:2010/01/27 18:09

「心貧しいものは幸いである」というキリストの言葉についての、bakaentahuな^^解釈については、前回のそちらの質問への回答に書きましたが、



ともかく キリスト自身がいかにも権威的に語ったかのような記述が新約聖書にあっても、私の印象や解釈からは、キリストが言ってること自体は 同じ人間へのメッセとしての友だちへの会話だったのだ、としか思えません。

弟子たちがその迫力に押されて またあまりにも旧信仰の世界が身にしみこんでいたため、かってに原罪をつぐのうために十字架にかかったとかいう解釈の物語を作ってしまったのだと思いますよ。

孔子の論語もまた 孔子自身が書いたものではないわけですが、 これは宗教ではないぶん弟子たちの解釈による記述という部分が明白なところもあって対比すると面白いですね。

キリストは 強大な道徳権力(自然な感性の教育による自律的自発的な道徳ではなくて、上からの軌範が必要だった社会における時代的背景からのそれ)の必要と 個人の中の権力欲の集合とによって、おそらく利用されてしまった 本来はそういう権力への反逆者だったという印象です。

そのへんの史実とかは、無学なのでよく知りませんが。

おそらく、その後の学者達の 権力擁護か、あるいは 浅知恵か、 その学者達のエゴとか何かの勘違いとかで 強い権力をいよいよ持ってしまうことになったのだろうと思います。

よく考えてみてください。

たとえ 宇宙よりも大きな存在?とかをあえて創造された存在?(皮肉っぽい言い方ですが)が神であったとしても、 神なんて虫よりも偉くなんて無いじゃないですか。

なんの努力もしないでも そんなこと朝飯前というのが絶対とかいうことでしょ。

いや朝飯前かどうかもわからない存在だといったとしてもそこに意味なんてないです。

神学者達は何を言ってるんだろう?と思ってしまいますね。

ちゃんとした知恵のある庶民達は、同じおもいだったのではないでしょうか。

ここに存在が在るのなら 時空もなにも、最初からそれは在るに決まってるじゃないですか? 神の存在の否定などではないですよ。

「わたし」は私の力で 今ここにいて、これを書いたり今これを読んだりしてるのでしょうか?  ならば 存在のその性格の不思議さとかありがたさ自体は別に否定する必要がないだけのことでしょ。    それを神への感謝なんて言葉や礼拝をしたりするより、 こうして「わたしたち」として生きているこの事実を いかに生きるかが私たちの生きてるってことへの感謝の哲学なのではないですか?  でなくて何を口先で感謝して満足していられるのでしょうね。

キリストは 十字架上でとなりの受刑者とかに「あなたの罪は赦された あなたは自分のしてることを知らないからだ」とか 息絶え絶えに言ったらしいですが、 たぶん、そんな上から目線の言葉じゃなかったと思いますよ。 「神は私の罪を赦してくれるんでしょうか?」「何いってんの、神のような存在が赦さないなんてことありえないでしょ。あなたはそれを知らないかもしれなくても、神がそれを知らないわけないでしょ、 すべての原因を神が知らないわけないんだから」とかいっしょうけんめい説明しようとしたのだと私は思います。   でもそれをなんとか聞き取った弟子たちが その意味合いを簡単に解釈して記述してしまったのだろうと思うのです。

キリスト教だけでなく、全宗教において、この権力の問題は道徳の問題とからむので難しい問題だと思いますが、 今こそこのへんをさらなるおおきな人類史から見つめ直して、もっと自然な道徳と人間的心の世界を説いてくれる学者が出てきて欲しいなと思います。

あなたこそ、そういう本物の学者をめざしてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私も同感です。神などに責任の所在をかぶせる、それとともに崇め奉るのは違うのじゃないか?もっと主体的になれ!と言う思いを強くしています。すくなくとも、もっと現実を自身の感覚で100パーセント受け止めそこから自身の信仰を編み出せと。

所詮神頼みっていうのは、なにか不遜な感じがあります。

お礼日時:2010/01/27 18:08

神が尊大なのではなく、人が神を尊大であるかのように仕立て上げた。




というのが、本当のところじゃないでしょうか。


>心貧しいものは幸いであるとか、あなたは神に祝福されているとか


わかるようで、わからない一節ですよね。

福音書によっては単に「貧しいものは幸いである」となっています。

(4つの福音書のうち3つは内容がほぼ同じだけど、詳細となるとちょっとずつ違う)



日本語にあって外国語に無い語彙ありますよね。逆もそうですが。
例えば<へそが茶を沸かす>。
<馬鹿馬鹿しい>って意味ですが、これを英語に意訳せず直訳したら、「日本人はすごい! おヘソでお茶をわかせるんだ」と思われてしまいかねない。 
または 「そんなことができるはずが無いのに、日本人って変なことを平然と言える人たちなんだ」と誤解されてしまう。



ヘブライ語にあってギリシャ語には無い語彙がある。
例えば目が見えない というのはどういう意味かというと、目が明るい という表現が「分別がつく。価値がわかる」ということを指すので、逆に目が見えないってのは、「分別がつかない。価値がわからない」って意味になる。
<目が見えない人>の箇所を直訳して<盲目の人>って訳したら、本来伝えたいことが伝わらなくなってしまう。


2000年ほど前にクムラン宗団ってのがあって、彼らは自らを「貧しいもの」と呼んでいた。
どういう意味か。自らを卑下していたのか?


ヨブ記(ヘブライ文学)のヨブは、人からも良き信仰者と評判で、裕福で子供にも恵まれていた。
そこでサタンは「ヨブは裕福で恵まれているから信仰熱心になれるのかどうか確かめよう」と神に話を持ちかけた。
(プラトンの義人の証明と同じ)

ヨブは恵みを一切奪われたんです。
家は燃えて家畜は全滅、子供も全員死亡し、自らも重い皮膚病にかかり床を転がるほどもだえ苦しんだ。
それで彼は信仰を捨てたかというと、信仰だけしかもうなくなったので、最後のこの砦で神と対決した。

幸福なときは、遠巻きに「あなたは偉大ですぅぅ」って言ってればよかったが、そういうゆとりは無くなり、もうこれしかなくなったので神に直に抗議した。
この状態を<神の御前に立つ>と表現します。


「てめー このやろう よくもこんなことしてくれたな、俺にこうした正当な理由を言いやがれってんだーー」と荒い言い方じゃないが、要するにそんなことを神ににじりよって叫んだ。 
ガチ対決。
(当時、子供に恵まれなかったり、子供が死んだり、病気になったりすることは、神からの罰だと考えられていた。)

この信仰のみしかない状態が、貧しい状態。
自宅でネットで株取引をしながら、聖書を読んですごしているってのは、貧しい状態じゃない。
何も無い 信仰しか残っていない人が貧しい人。

ヨブは貧しい人になった(神の前に立つしかなくなった)ことで、今までの暮らしでは得られたかったハッピー(満足)をついに得た って内容がヨブ記。
あくまで文学であって実話じゃないですよ。
作者は思想を物語にすることで伝えようとしたってことですね。



>それと平行してなにかものすごい卑小な人類と、ものすごい権力と権威を兼ね備えた神との関係の宗教がキリスト教と言う印象を持っているわけですが、


キリスト教の教理にはいくつも間違いがある。
ユダヤ教の教えを意訳せず直訳してしまい、本来の意味を捻じ曲げて信者に伝えてしまった。
その大罪により、神は尊大で傲慢であるかのような印象を持たれてしまうことになったわけです。
ユダヤ教で絶対に駄目だとされたことを、神の言葉を無視した人々はやってしまった結果 こうなったわけです。

一字一句たりとも って新約聖書にも書いてあるのに、作者本人が一番に契約を破ってしまっている。
福音書作家は自分の書いたものすらちっとも理解はしていなかったってことですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

信仰しかない状態というのがよく理解できました。
そのような貧しい常態になってこそ始めて信仰に本気で向き合うと言うことができるでしょうし、逆もまた然りです。

経典を訳すと言うことの不都合というのはいつの世にもあることです。

お礼日時:2010/01/27 18:06

現状としてはNo.3様の述べておられる通りですが、キリスト教、イスラム教がここまで拡大するまでは、多神教の方が地域的には多かったと思います。



これらが拡大したのは末期ローマ帝国の侵略からゲルマン民族が改宗してからの侵略、そしてアラブ民族の台頭などさらには大航海時代からのヨーロッパ各国の侵略・・あるいは通商・・によるものです。

私の推論ですが(誰か学者がすでに論じていると思いますが):
一神教はNo.3さんのご指摘にあるように被迫害者の宗教から始まった故に絶対的な「神」を造ったのですが、この神の代理人となることでその権威を「支配」に使うようになり征服者の宗教として造りかえられたのだと思います。

質問者様は「全て神のよき計らいであるかのようなとんでもない詭弁を大真面目に言っているところがとてもついていけないのですけど」とご指摘ですが、こうした「詭弁」は一神教でも多神教でもおよそ宗教には付物ですから「ご利益」があるわけです。

日本の「浄土宗」「浄土真宗」はかなり一神教的な考えだと言われますが(No.3様の親鸞の項参照)御経を読んでみれば一ぱい仏様や神様が出てきていますから、親鸞個人はともかくも、多神教と考えざるを得ません。
阿弥陀経などはまさしく「全て神のよき計らいであるかのようなとんでもない詭弁」で満ち満ちた御経です。(漢文がわかれば意味は大体わかりますよ・・。)

人間の心を癒すためにはこうした「詭弁」(仏教ではわからんやつに教えるための「方便」という云い方をします。)が必要なようです。

アジアでも一神教は何度となく現れましたが「アブラハムの神」(ヤハヴェとも云います)ほどの強い神は現れませんでした。教祖の力が弱かったのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

宗教には共通の「人心には理解できぬ超絶的なもの」という存在を祭り上げるスタイルがありますね。洋の東西を問わず確かに共通点はあると思います。

お礼日時:2010/01/27 18:03

キリスト教の神の尊大は



いち個人の具体的尊大より、小さいものであるような気がします。

勘違いだったらごめんなさい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/27 18:01

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