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心貧しいものは幸いであるとか、あなたは神に祝福されているとか、なにか全て神のよき計らいであるかのようなとんでもない詭弁を大真面目に言っているところがとてもついていけないのですけど、それと平行してなにかものすごい卑小な人類と、ものすごい権力と権威を兼ね備えた神との関係の宗教がキリスト教と言う印象を持っているわけですが、なぜこんなにも、なにもかも押さえつけるような偉大な力というものを作り上げたんでしょうか?

それは、アジア的な思想にならなかったのはなぜなんでしょうか?

A 回答 (14件中11~14件)

 こんにちは。



 ★ 卑小な人類と、ものすごい権力と権威を兼ね備えた神との関係
 ☆ この世での《ものすごい権力と権威を兼ね備えた》存在を超えたところに《神》を想定している。ただこれだけのことですよ。
 その神から見れば・あるいはつまり その神との関係において ひとはまったくちっぽけな存在である。こういうことを思うというだけのことですよ。

 ★ それは、アジア的な思想にならなかったのはなぜなんでしょうか?
 ☆ 設問をしておられたように 親鸞にとっては 阿弥陀仏と人間との関係がそういうかたちになっているはずです。
 
 文章の調子として おおよそそういう言い回しのようです。
 ▲ (パウロ:ローマの信徒への手紙 9:20-26) ~~~~~~
 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
 ホセアの書にも、次のように述べられています。

   「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
    愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。(ホセア書2:23)
    『あなたたちは、わたしの民ではない』
    と言われたその場所で、
    彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ホセア書1:10)

 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙 4:1-7) ~~~~
 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
 かえって、卑劣な隠れた行ないを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。

 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
 《この世の神》が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器(なる身体)に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 口調と言っていることの内容とは 違っているはずです。日本語で日本語に合った言い回しに言いかえればよいだけだと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

経典を訳すと言うことにはかならず不都合が起こるでしょうからね。

お礼日時:2010/01/27 18:01

考え方はいろいろあるとは思うのですが、


参考までに一神教の成立過程というものが考えられると思います

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
これらは全てアブラハムの宗教と呼ばれるもので源流は全て同じものです

そしてキリスト教やイスラム教はユダヤ教から派生したと言っていいものですので、
まずはユダヤ教を知ることがキリスト教を理解するのに役立つでしょう

ここからは私見ですが、
極端に言ってしまえばユダヤ教とは迫害された人々が希望を持つために作った宗教です
自分達に降りかかる不幸・災難を受け入れるために、
「神」という人間よりも上位の存在を規定するに至ったわけです
そして自分達に救いと、迫害する側の人間達に罰を与えてもらうためにも、
神は人間よりも遙かに力を持つ存在でなければ説得力が無かったわけなのです

アジア的思想にならなかったという点については、
現在では地球上のほとんどの地域は一神教が広まっていると言っていい状態で、
一神教が多数派ではない地域の方が実は全体から見るとレアーです
そのレアーな地域の代表がまさしくアジアということになります
インドであればヒンドゥー教、インドシナなら仏教、中国・韓国ならば儒教、
日本であれば神道といった具合に、一神教がアジアにまで伝わってくる頃には、
既に多神教の宗教観が地域に根付いていたというのが一つの理由になるかと思います

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

たいへんよくわかりました。迫害された砂漠の民が始めたものということでより厳しい超絶的な倫理が優先されるのですね。そう考えると、各々の文明の風土により宗教的土台も発声からして違っているのだ、というのが自然的な気がします。

お礼日時:2010/01/27 18:01

 私もBakaAliceさんと同じような、印象をうけていますが、これは日本語訳に問題があるのでしょうか。


 それとも原文にこうしたニュアンスがあるのでしょうか。

 回答が得られることを期待しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
期待しています。

お礼日時:2010/01/27 17:59

神そのものが人より上位のランクに位置する教えだからです。

また、
そういった教えは中世の欧米の占領政策に合っていますね。

ちなみに、これは一神教全般に言えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
もしかすると、キリスト教思想こそが大航海時代の背景にあったのかもしれません。

お礼日時:2010/01/27 17:59

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