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 人の心は、理性、感性、意志、と言う言葉で表す三つの働きがあるとされていますが、「記憶」と言う働きはどのような位置づけになるのかと、時々考えたりしています。

 今日、思ったことは理性、感性、意志、の“性や志”を取り除いて“理・感・意”とした場合、どうなるかと云う事です。

 「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。
 感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。

 また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。

 「理」についてはどうなんでしょう。
 理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。

 理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。
 そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。

 「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。
 この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。
  
 「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。

 そして、「記憶」という心の持つ能力です。
 生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・

 なんてことを考えてみましたが“回答”いただけますでしょうか。
 よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

A 回答 (13件中1~10件)

補足請求、ありがとうございます。



感情は、感性を使って感じることで情動が発してますから、すでに動きに転じています。
動きに対してのことと機能に対してのことは、同じ土俵で対比できないと思います。


> 記憶、については情報を補完するロッカーのようなものと受け止めていますが、どうでしょうか。そのロッカーを開けて中のものを取り出す作業は、意の働きに依り理や感を通して、意が結果を出す、と考えましたが。

パソコンで考えると考えやすいですよ。
知性の機能はHDDですが、記憶はデータになるでしょう。


ここのシステムは、お礼なしの補足請求でしたら、連絡が来ませんから返答が遅くなるか見落とす可能性が出ます。


言葉は概念を現していますが、それが何を意味しているのかをよくよく把握されると分かりやすいかと思います。
自己の持つ、その言葉に対してのイメージだけで捉えていますと、明確にする場合うまく整理ができないように思います。

この回答への補足

 働きと機能。
 たぶんkanto-iさんの言う“機能”の事を、私は受動的と受け止めているんだと思います。

 勝手に造語しては叱られると思いますが、次のように整理?してみました。
  
 感(性)に感情(能動)と感覚(受動)の二面がある。(あるいは持つ)
 理(性)に理解(能動)と理知(受動)の二面がある。(あるいは持つ)
 意(性)に意志(能動)と意識(受動)の二面がある。(あるいは持つ)

 二面と三要素にこだわっているんです。
 
 回答ありがとうございました。(2013/7/31)

補足日時:2013/07/31 08:37
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この回答へのお礼

 いただいた回答(以前の質問への回答も含みます)から考えました。

 心には理性と云う機能と感性と云う機能がある。

 そして理性には物事を識別する能力、いわゆる理解と云う働きがある。
 でもそれを根拠にした判断、は意志が介入している。

 感性という機能には物理的な感覚と、精神的な感覚とがあって、精神的な感覚は、感情と言う言葉で表現されている。

 意、は機能ではなく働き、なので理性・感性、とは同等には扱えない。
 
 思うに、理性・感性は意、の中に含まれるのではないでしょうか。
 そう思うと意、は心そのもの。

 意の思い、には働く力があり、それを意志と表現し、理性や感性の機能を使って生きている。(生命を維持している)

 こんなふうに考えてみました。

 回答ありがとうございました。

 

 

 

お礼日時:2013/06/29 00:15

No.12です。




>「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。
 感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。

 また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。

■九識論の中に、『眼識、耳識、鼻識、舌識、身識』とあり、六番目に『意識』とあります。これらが、相互して作り出されるのが感覚です。


>「理」についてはどうなんでしょう。
 理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。

 理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。
 そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。

■理というものは、『境涯』です。一念三千の中の『十界論』ですね。同じ物を見たり聞いたりしても、境涯が違えば受け止め方は全く別のものになってしまいます。


>「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。
 この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。
  
 「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。


 そして、「記憶」という心の持つ能力です。
 生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・

■記憶というよりも、“業”により縁をし、起因します。


>>“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・

■その通りですが、表面的な捉え方ではなくて、もっと深層心理の話しです。



《追記》
人間というものは、苦悩に苦しむ人を救うために、この世に生まれてきました。

生命。心。念心。魂。色々な言い方をされ、とり方によっては様々な捉え方をされますが、あえてここでは“命”と呼ぶ事にします。
この命は、終わることなく永遠に存続します。そこに、蓄積された“業”により、現世の貴方(貴方の心)や貴方の体、貴方の周りの家族、友人、貴方の周りの環境、社会、生活があるのです。

これらは、全て貴方の命と連動しているのです。

次元を変えますが、人は環境や病気や生活などで、様々な悩み、苦悩を抱えています。しかし、これを嘆いていても、全く変わりません。一時的に良くなったと思っていても、根本が変わらないのだから、その“良くなった”は長続きしないのです。

では、どうすればその“命”を変えることができるのか??

実は、ここに仏教の説かれた、重要な意味が存在するのです。
ですから、理性、感性、意志というものは、人間の“命”より生まれ出てくる物なのです。それを細かく説いたものが『十如是』なのです。

《十如是》

・如是 相・・・表面に表れた姿
・如是 性・・・性質、性分のこと
・如是 体・・・本体、体のこと
・如是 力・・・内在している力
・如是 作・・・力が現われて、動作になったもの、作用のこと
・如是 因・・・直接的原因のこと
・如是 縁・・・因を招くもの
・如是 果・・・因による結果
・如是 報・・・結果が形として現われたもの
・如是 本・・・全てが本と相即不離の関係であること
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。

 生命、と云うものをどう受け止めるかで結論は決まると思います。
 とりあえず、「生命」と云うものを地球上に現れたものと限定して考えて見ると・・・・・

 ホモサピエンスの誕生はたったの三秒前!

 地球の誕生から現在までを二十四時間とした場合の話です。
 我々“人間”はこの地球上には、まだ、たったの三秒しか足跡を残していないのです。

 この命を「永遠」と呼ぶ事には違和感があります。

 宇宙の本体は絶対の精神である、とした観点に立って論ずるならば、生命は永遠という受け止め方も納得しますが、地球上に現われた人間に備わる“命”を「永遠」というならば、それは夢物語的受け止め方かと思います。

 命は永遠、という受け止め方は、私が言うのも何ですが、信仰的ではあっても“哲学”的ではないと思います。

 ☆ 人間の『業』と云うものは、たったの三秒の間に作られ、そして積み重ねられてきたものだと思う。
 ☆ 人間の『業』はこの地球上に人間が現われてから。生命の『業』はこの地球上に生命が現われてから・・・・・

 

お礼日時:2013/07/19 00:49

なんか、わざわざ回答する必要もなさそうな質問である。



質問者様の経歴から言えば、非常に幼稚な質問内容だと思います。


先ずは、『一念三千法門』を、もう少し深く修学しましょう。

そこに、答えはあるでしょう。

一般の人間が、思惑で回答するよりも、明確ですよ。
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NO.6の補足です。



>知性=知(情報)を保有する機能、とありますが
 この“知性”を知覚、と言い換えて見たくなりました。

言い換えたいというのは止めません。
あなたを否定したいわけではありませんから。

私の認識では、知性があって感性があるから知覚があります。
感じないと覚えがない、感覚で認識しないことには
どんな情報もやり取りができない生き物が人間だと思います。

私の意見として受け止めていただければ幸いです。


ご自分の認識を確認したい場合は、感じ取ってチャートなどで一つ一つ出してみるといいですよ。
言葉については、国語辞典を2~3冊、頭に入れておくと便利です。
何かを調べて組み立てたいときに、とても役に立ちます。

疑問とチャレンジは、自分だけの宝になります。
楽しんでみてください(^^)v

この回答への補足

 心の“働き”(能動的と受け止めて)に意志・理性・感情を当てた場合、記憶はどう扱うんだろうというのが、今回の質問の底に在りました。

 記憶を保存箱とその中身として見た場合“働き”というより“能力”(受動的と受け止めました)と表現するのがいいのではないかと思い、そうすると感覚や意識も受動的であるようなので、心の能力(性能なんて言葉も使えるかもしれません)の三つの内容は意識・感覚・記憶である、としてみました。

 kanto-iさんは回答しながらも思索される方のように感じましたので、ご自身の現在のお考えとは別に心は「能力と働き」という内容の活動で生きている、という観点での思考を試みてほしいと思いました。

 私の表面的な上っ面だけの思い付きを深めてもらいたいのです。(2013/7/24)

補足日時:2013/07/24 20:13
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この回答へのお礼

記憶、に付いては、“働き”ではなく、“能力”と受け止めて見ました。
記憶自体が活動するわけではないと思うから。
いわゆるデータ(資料)ですよね。

心の働きを「意志、理性、“感情”」とした場合、この“働き”に記憶という“能力”を同等に扱って考えようとすることに無理があるのかもしれません。

さらに考えてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/18 12:40

 この場をお借りして。



 ☆☆(回答No.8) ~~~~
 《記憶》は 司法に 《知解》は 立法に 《意志》は 行政にそれぞれあてはまるものと考えます。
 三権分立というのは 分立しつつ協働するということですから それと同じように 《記憶・知解・意志》の三つの行為能力も 互いに一体性を持つと考えられます。つまりむろんそれは 《わたし》なる存在の実存行為としてである。こう考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 《三つのハタラキが それぞれあたかも独立しつつ しかも互いに一体となってはたらく》ということが たとえの中身です。細かい規定の前にそういう図式が得られるという見方です。



 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この文意を取って表わしたその内容です。

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ひとりの人は 《社会的な諸関係の総体》として成り立っている。という見方です。

 ・記憶・・・秩序・自治組織・経営組織・社会組織 / 司法
 ・知解・・・労働・生産・経済活動 / 立法
 ・意志・・・愛・共同自治・経営 / 行政

 というふうにそのハタラキが同じたぐいであるとたとえられます。しかも それぞれの段階ないし分野における三つは 互いに独立しつつしかも一体としてはたらいている。こういう見方です。

 神の三位一体の場合には 有限な時間を超えていますから その一体性に時間差がありません。
 けれども たとえば《記憶‐知解‐意志》や《司法‐立法‐行政》などの場合には 三つのハタラキのあいだにそれぞれ時間差をともなって長期の観点から一体であろうと見られます。

 もちろん 《光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)》にも いかに光速とは言え 時間差があります。神の三位一体には それが無限であるという説明で分かるように 時間差はありません。

 言ってみれば 神の法は その場で行政として執行されることが 司法判断にかなってすでに立法されている事柄でありその内容であるというかたちになります。経験世界においては じっさいにはあり得ませんが。


 《記憶》のハタラキについて 参考になればさいわいです。

この回答への補足

ブラジュロンヌさんは犬、ですよね。私もです。

 三、三つ。

 安定。

 五徳ならぬ三徳は、多少足の長さにばらつきがあっても、また足元が多少でこぼこしていても、『安定』をもたらします。

 今回、たくさんの三つ。三つの要素を示してくれましたが、物事の存在を“安定”と捉えた場合、それは三つの要素に依る、あるいは3つの要素を含む、あるいは3つの要素から成る、と受け止められると思いませんか。

 『3=安定』

 興味深いです。

 この世は三次元(空間)であり、時間という継続によって存在が成り立つ!

補足日時:2013/07/24 20:37
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この回答へのお礼

三権分立を、心の働きの例えにして回答を頂きましたが、これは物事の働きとか、成り立ちには三つの要素が有る、という事を物語っているようです。

今回の回答には、3、三つ、が沢山有りますね。

まだまだ思考中です。
ありがとうございました。(2013/07/18)

お礼日時:2013/07/18 12:11

>「《記憶》は 司法に 《知解》は 立法に 《意志》は 行政にそれぞれあてはまるものと考えます。



いやいや、それほど単純なことでもありません(と思います)。


一つに、「記憶→司法」を取ってみても、それでは不十分、と言えるでしょう。
「意思→行政(立法)」には、「人権を侵害しない(当たり前)」という担保も必要です。


>「《知解》は 立法に」

「違憲立法審査」というのも、あるんです。
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この回答へのお礼

 kurinalさんの視点がどういうものかわかる頭がないので、感想が書けません。
 でも一点だけ確認ですが、「記憶→司法」という例えは不十分であると、言ってますが不十分でも、そのように例えられる、との考えなのですね。

 回答ありがとうございました。(2013/7/24)

お礼日時:2013/07/24 12:53

 こんばんは。



 次のような文章を書いたのをいいことに投稿します。


 あぁ あのパン うまそうだ と腹を空かせたわたしは感じる。

 でもおカネがない。

 あのパンの一切れでも 弟や妹に食べさせてやりたい――というのは おもに意志でしょう。

 いつか仕事に就いておカネをかせぐことが出来たら おわびに来ればよいではないか――と理屈づけるのは 理性です。

 だからにせよ・そうだからでないにせよ 盗みを決行する――とすれば その行為は意志によるものです。

 食べたい でも ひと様のものをぬすむのは良くない――というのは すでに感覚として(あるいはイメージとしてでも)感性が知っていることです。



 感性は知覚します。
 それを言葉にして概念として知ることは 悟性ないし理性によります。

 これらは一般に《知解》というひとつの能力行為です。

 最終の決断と実行は 《意志》という行為能力がにないます。

 《記憶》という行為能力は 身(神経細胞などの組織)と心との秩序作用をになっていると見ます。知識や情報の倉庫でありますが その整理としての秩序作用です。

 意志や理性が わが心に逆らうかどうか これは 記憶という能力行為として そこに逆らいがあるなら 胸の動悸をはげしくしたりして知らせるものと考えられます。このヤマシサ反応をも担当すると思われる秩序作用なのではないかと。

 《記憶》は 司法に 《知解》は 立法に 《意志》は 行政にそれぞれあてはまるものと考えます。
 三権分立というのは 分立しつつ協働するということですから それと同じように 《記憶・知解・意志》の三つの行為能力も 互いに一体性を持つと考えられます。つまりむろんそれは 《わたし》なる存在の実存行為としてである。こう考えられます。

この回答への補足

 胸の動悸・疾しさ感。
 こうした言葉を示されてみると、心の不思議感をさらに追及してみたくなります。

 学んだわけでもないのに、怖い思いをすると胸の動悸を感じたり、良心に恥じる行為をしたときには疾しさが心を覆ったりと、不思議です。
 人の心は生まれつきある程度の“内容”を持っているんですね。たぶん“白紙”の状態ではなく種としてすでにあるものが成長するにしたがって「人間の心」になっていくんだろうと思いました。

 「種」、それが言うところの“業”にあたるのかも知れない。
 そして、自身ではコントロールできない胸の動悸や、疾しい気分になってしまうことは、“業”の反応なのではないか、なんてことも。(2013/7/24)

 

補足日時:2013/07/24 19:41
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この回答へのお礼

解きほぐすつもりの糸玉がさらに絡まってきた様な気分です。
盗みという行為は感性が感覚として知っているとか、感性は知覚するとか、また、知解という言葉が使われたり、記憶という行為能力は秩序作用である、といった表現にも弱い頭が付いて行けません。

自分の思索は、水面上に浮くアメンボ思考だなぁ、と実感しています。

胸の動悸、に付いてはちょっと興味が有りますね。これを考えてみることで少しは糸が解(ほつ)れるかも知れません。

心の働きとして感情(質問では感性としてます)、理性、意志、という三つの要素?をあげましたが、ここで記憶、知解、意志、と表現されてしまいました。
さらに考えてみます。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/08 15:55

こういう視点もある、という例です。



脳、とはどこまでが脳なのか。
延髄・・・脊髄・・・器官神経束・・・末梢神経・・・感覚器。
とりあえずこのあたりで止めておきます。

これに感・情・理を部位別に置いてみます。

感じること。

意識の中では感覚器が感じる感覚は、それ自体が単なる
末端からの情報ではなくて、意識を形成する要素の一つ。
何故なら、神経から伝達されてくる信号は、ただの電位パターンか
化学物質でしかありませんから。

それが脳で甘い/痛い/軽い/明るい・・・などなど、認識されて
初めて「感」となるからですが、これからは明確にセンサーからの
電圧なり周波数や波形なりに置き換えられて数値化できるものですから、
生体としての自分に対する影響の度合いを識別している、とも言えます。

この段階では、痛みは痛みを感じるための器官があり、熱さには熱さを、
冷たさには冷たさを、明るさ、色、味覚、触覚など、それぞれ専用の感覚器が
一対に存在しているので把握しやすいですが、この感覚器から出たばかりの
情報は、まだ「感」にはなっていません。

例えば、明るい、という視覚情報も、明るさを感じる視細胞の感じる能力の
65%とか、(勿論、実際にはもっと複雑ですが)単純な輝度情報でしかない。

これを(寝るには)「明るい」とか、(見つめるには)「眩しい」とか、自分が置かれた
~という状態では、この情報は~だ、という認識をして初めて「感」というものに
なる。

当然、徹夜明けだとか、体調不良だとか、楽しい野球観戦の最中だとか、
自分の体内の状態で同じ感覚情報は全く異なる捉え方をされて・・・

「明るい」から、目をつむる。

「明るい」と、思い出す。

「明るい」のでボーッとした。

などなど、感→情動の発生、に連なっていきます。

ここでも、どこからが「感」でどこからが「情動」かを区切ることには余り大きな
意味はないのかも知れません。 グラデーションを成して移ろっていく、脳内
シナプス信号の発火パターン、「相」と捉えることも出来そうです。

「理」というのを生体の行動システムという視点で見ると、記憶の再生、
そして、それを根拠にした「予測」までの一連の脳内情報処理の、「安定した
処理の再現性」を指す概念である、とも言い換えられます。

つまり、深夜なのに電気を消していない、という状況下、「明るい」ので「隣の
部屋で寝ている子供が起きてしまうかも知れない」という予測をしている。
夜中に夫婦で睦まじく抱き合ってる所に、幼い息子の襲撃を受けた経験が
或るのかも知れないし、そういう話を聞いて「理解」し、そういう可能性もある、と
「予測」することで、次の自分の行動をどうするかを決定する。

「理」とは大小さまざまな状況に対して、「~だから」→「こうする」という、予測の
システム、ないしは予測した内容だ、と見ることも出来る。
つまり、外部に対する予測システム。予測するためのパターン化された流れ、
ルーチンなどなど、それを頭の中で無意識的に再現して「こうなるだろう、
こうなるはずだ」と処理する系のことを「理」と呼んでいる。

思考の大半は、他者が標し、伝播した「理」をインストールし、それを脳内で
再現することで出来ています。
外から入って来た一つの「理」パッケージは、脳内でピンボールの玉よろしく
あっちでガチャガチャ、こっちでガチャピン、と動き回る間に、似たような事象、
似たような要素によって結び付けられて、A=B,B=CならA=C、という短絡を
起こします。
これが「ひらめき」の正体の一つでしょうけれど、大半の思考は記憶の再現の
域を出ないでしょう。

さて、ここまで脳内の情報処理を生体の自立システムの挙動・動作機序として
見てみましたが、互いに原因であり結果である相互スイッチの仕組みです。
「感」が原因になり「情」を思い出し、情が思い起こさせる感が再び他の情や
感を呼び起こす。
その中で外部に対して生体として行動なり、態度なり発言なり、何らかの
アウトプットをするために、いったん呼び起こされた各種脳内「感」と「情」を
基にして、「理」が呼び起こされ、場合によっては大きな一連の記憶の再現
まで発動する。


そして、それらの収束する「態度」「言動」などのアウトプットに必要なプログラム
としてまとまれば(小さな「態度」プログラムなら一瞬で構築されますね)、
それが発動される。

このアウトプットのプログラミングとその発動までの一連の脳内情報処理ルーチン、
若しくはルーチンを作動させるシナプス発火のエネルギーである化学反応も
含まれるかもしれません。 それらをひっくるめて、「意」と。

更に進めて考えると、「脳内時間」という、独立したCPUクロックや内部時計の
リセット、早回し、逆転などの現象が思い出されます。
卑近な例で言えば、子供の頃、時間が経つのがとてもゆっくりだった、と記憶
していることや、手術後の痛みを堪えている深夜の病室で、時計の針が
恐ろしい程ゆっくりとしか進まない事、恋人との燃えるような秘め事で時を忘れ、
瞬く間にフロントから退室時間を告げる電話がかかってきたりすることなどなど・・・

脳内の時間は一定のクロック数ではなく、しかも同じ方向に進むばかりでもなく、
飛んだり戻ったり途切れたりと、かなり自由気ままですが、これでは少なくとも
外部からみたら因果律が崩壊してしまっているはずです。

記憶というものが、この不確定な脳内時間に沿って完全にはつながっていない
切れ切れの動画ファイルやスチル画像ファイル、音源などのような、パッケージと
して脳内に存在しているらしいことはとても興味深いことです。

我々が「記憶」ということばをリリカルに扱う場合は、過去の残影としていささか
メランコリックなイメージで捉えられることが多いように思いますが、脳内の
情報の海なり樹なりを想定して科学的にとらえる場合は、時間も空間も因果律
さえも自在に前後を繋ぎ変えたり、倒置したり改変したり出来る、情報ファイルと
して扱うことになります。

つまり、過去の、という接頭語無しに、現在も未来も全て含んだ脳内処理の
一つ一つの小さなプログラムやデータのファイル群、それを「記憶」と呼ぶことに
なろうかと思います。

追補すれば、いまこうやってイメージを浮かべ論理を組み立てて文章を組み立てて
いる私の脳内活動は全てそれ自体が「記憶」ファイルが「開かれて」CPUで処理
されていること、そのもの、と言える訳です。

冒頭に書いたように、脳はどこまでが脳なのか?という見方でこれらの「感」、
「情」、「理」、「意」を眺めてみると、それぞれが互いに自在に原因となり結果となり、
離散集合を繰り返して脳内を巡っている、電位信号の総体の「相変化」ではないか、と
言う考え方に集約されてきます。

それは、あたかも移ろいゆく風景の様々な事物に次々とフォーカスを移していく
キャメラのようなものにも思えますし、どこからどこまでが、という明確な区分が
無いばかりか、「理」の中にも「感」も「情」も構成要素として織り込まれている
らしいことを(自分の思考をつまびらかに腑分けしていくとはっきりしてきます。)
考え合わせると、恐らくは、これらの感・情・理・意は虹のようにスペクトルを
持つ一連の同じものではないか、という予想が成り立つのではないか、と
私は思っています。

言葉で区分されたものは、あくまで概念であり実態をある視点から模写した
ものに過ぎません。
だから、ある角度から見ると丸いのに、別な人が見ると三角形だ、ということが
頻繁におきます。

その言葉による定義分類の枷から解き放たれて自由に感じるまま、考えたまま
思索を巡らせると、この世はなんと、ヒントになる事物に満ち満ちていることかと
瞠目できる幸せを感じます。

今回は、「情報処理システム」として心を見た場合の一見解をメモさせて頂きました。

お読みくださって、どうもありがとう。

この回答への補足

 3
 3つ

 不思議な数字
 3

 時間のとれた時に提案してみたい数字です。

 とりあえずのお礼です。
 回答ありがとうございました。

補足日時:2013/07/05 23:13
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この回答へのお礼

 たくさんの回答をいただいて考えているうちに、次のようなことを思い付きました。
 心の働き、と言いましたがこれを働きと能力とに区別して考えて見るのはどうだろうかと。
 
 こう思ったのは、記憶というものを心の働き「感情・理性・意志」とどう関連づけたらよいのか判らずにいたことが、発端です。

 心を“働きと能力”との二面に分けて、働きに感情・理性・意志があると認めれば、能力に記憶と意識が有る、と言えるように思うのです。これは心の能動と受動という分け方に当てはまるようにも思います。

 残念ながらもう一つの能力を今は思い付かないのは私が無知だから。
 ここまでの考えも、無知ゆえの思い付きのレベルでしかないのは十分承知しています。

 だからこそこうして、質問し智者たちの意見を求めているんです。
 この私の思い付き、心の“能力”として記憶、意識、ともう一つの何か?を教えてくれませんか。

 よろしくお願いいたします。

 ☆ この世界は二面性であり、その中には三要素を認めることができる。これが私の哲学?する上での基本的考えです。

 回答ありがとうございました。

 
 

お礼日時:2013/07/24 13:36

No.2のお礼、ありがとうございました。



考えとしては、それぞれですよね。


感性=感じることができる機能
理性=ことわり(法則的に論理的に)組み立てることができる機能
知性=知(情報)を保有する機能

情報の取得には感覚を使う。
五感の、視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚と、第六感(目に見える器官を通さずに得る)と言われるもの。
感覚は「感じて覚える」つまりは認識できるということ。

何を認識するのかは、入力された多くの情報の中から意を持って
個が重要だとすることを抜き出し処理するので(保管する情報の選択)
その過程で抽象化され概念化した情報を知の場所(つまり脳)に保管する。

意は方向性を持たせるものであるから、よく観察しようとすれば見ることに強い方向性を持たせるので
細部をより意識した観察が可能である。
つまりは眼からの情報量を増やすことになる。

考えることに集中しようとすれば、知性や理性を持って感性という機能を使いながら情報処理をしようとする。
この時、外部からの情報処理には意は向けられていないので、極端に外部からの情報入力は落ちる。
よって考えながらの運転などには危険を伴う。

ゆえに意は、自分が持っている機能をどう使うかを決めるものだとなる。

知性・理性・感性はもともと存在するもので特化した機能的なものであるから
それぞれは判断のためではあるが、判断は有していない。
なぜならば、一つ一つの特性に名前が割り振ってあるから。

善悪の判断は、一般的に言われるような「心が痛む」や「心無いことを」などに現されている
心が善悪の処理をしているとみなされる。
他の事象に対しても判断する機能があるが、その情報が意にフィードバックされ、意の方向性を決定付けている。

進むか退くか、発言するかしないか、今やっていることを継続させるか新たな展開を導く方向性を探るかなどなど。

意の思いは意思であり、意を向ける内容に、志(こころざし)を含む意が意志である。
言葉に違いがあるのは、意味合いが変わるということである。
意の方向性に強い影響性を及ぼしているのは心の存在である。

生命の維持にはホメオスタシスがあれば、存在だけは確保できるので
寝食事足りれば、生物学的生命維持は可能。
小さい頃から個室に監禁し、食べて寝て排泄に問題が無ければ生きれる。

それは人ではあるが人間とはならない。
人の間で生活しなければ、知性・理性・感性など、持っている機能は発達しないから。


私からみた、ざっくりとした答えです。
それぞれがそれぞれに補完しあっているから、人間として成り立つように思います。

なぜそう思うのかというと、知識だけで考えるのではなく自分の中を観ているからです。
自分の中を観る行為というのは、第六感になるのでしょうが自己の中がどう機能しているか
感じてつかむということをやっています。

理解というのは、すべてを使った合同作業だと思います。
「腑に落ちる」という言葉がありますが、その場合自己の中で感覚的にストンと来ます。
ゆえに理解は、感覚をも伴っている。

理(ことわり)を解するには、感じることも重要だということです。


知識は知識だけで考えるのではなく、知識を理解するために
それらを一度感じ取り自分のものにするという作業が重要であり
それによって理解されたものは本質の理解であるから、より深い理解を得るためには体感という作業が不可欠。

それが人間としての特性でしょうか。
人は考えるだけにあらず。
回答することで、感じるという重要性を新たにできました。

質問の投げかけ、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 私の知的レベルがkanto-iのレベルに程遠い、ということはとっくに承知されていると思いますが、それだからこそ、敢えて気づいたことを1点取り上げてみたいと思います。
 
 知性=知(情報)を保有する機能、とありますが
 この“知性”を知覚、と言い換えて見たくなりました。
 揚げ足取りのようなことになってしまいましたが、全体としては納得させられてます。

 回答ありがとうございました。

 

お礼日時:2013/07/05 23:00

ちょっと面白そうなので質問文に沿って考えてみました。


(1)情報が感覚として入力されて感性というフィルターを通して感情を伴って認識される。(受動)
(2)認識された情報を理性に照らして理解しようとする。(解釈・判断)
(3)下した判断に基づいて意志として方向性を持たせる。(能動)
こうした基本的な精神活動のひな型を記憶をキーワードに語ることもできると思います。
感覚:情報の物質のレベルでの‘記憶‘を伝達
感性:個人的体験を通じて構築された性向の記憶としてのフィルター
感情:遺伝的なプログラムとして精神の構造に組み込まれた記憶
理性:経験を通じて記憶された精神の常識的な枠組み
理解:短期記憶の突き合わせ
意志:判断に基づく方向性の記憶
回答になっているかわかりませんが、私はこんな感じで考えますということでとりあえず参加させてもらいました。
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この回答へのお礼

 いただいた回答を十分に理解できたわけではありません。
 回答(1・2・3)についてはなるほどと云ったレベルではありますが、納得させられました。
 感覚、感性、感情、についてはもう少し考えてみたいと思います。
 理性、理解、意志、についてはさらに時間を費やして考えて見なければと思いました。

 こんな感想しか述べられないのは、私の知的レベルが低いから。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 22:33

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