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日本武尊の東征はどこまでいったのでしょうか?日本書紀と古事記で違っているようですが。東北に馬文化をもたらしたのは日本武尊ではないかと思っているのですが?5世後半の中半入遺跡から馬の歯が見つかっています。景行天皇の時代が4世紀末とすると時代的に合うのでは?

A 回答 (3件)

紀伊半島を迂回して、奈良で終わります。



日本の馬は、元々日本に生息していたもので、モンゴル馬(ポニー系)とされています。
日本人がモンゴロイドと一緒で、別に伝わってきたわけではありません。

人類が文字を発明してから4千年。
人間は進化しましたか?
アフリカの黒人が、北欧に住んだからといって、白人にはなりません。
まして、同じ種族で移り住めば、何も変らないでしょう。
アメリカでは混血が進みましたが、未だに黒人はいます。
4千年後もいるでしょう。

人類が文化を持ったときには、既に世界中に、何らかの人がいたと思われます。
天変地異と供には移動できないのです。

人が何らかの方法で移動したとしても、馬はどうでしょう?
そりゃ今でなら船でというのはありえますが・・・

もっと科学が解明されればいろんな事が分かるかも知れません。
意外とファンタジーな魔法の世界が有史以前にはあったかも知れませんよ?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。縄文弥生を通じて馬の骨は発見されていないのですから、元々日本に馬はいなっかったというのが本当では?魏志倭人伝の記述とも一致します。

お礼日時:2013/07/11 22:11

古事記では相模から上総へ船で渡り、その後足柄山の神を倒して東国を平定、



そこから甲斐の国、科野(信濃)を経て尾張へ戻っていますが、

日本書紀では上総からさらに海路で北上し北上川まで行っています。

そこから南下して武蔵から上野へ移動、部下を越の国へ派遣しておいて

自分は信濃から尾張へ戻っています。

こういう英雄の物語は源義経が蝦夷地から大陸へ逃れ

ジンギスカンになったというように、どんどん広がっていきますね。

それが英雄というものなのでしょう。

馬についてですが、縄文時代の貝塚から馬の骨が出たという報告がありましたが

どうやら後世に埋められた馬の死体の骨を誤認したとの説が有力のようです。

同様に弥生時代のものとされる骨も確実とはみなされていません。

面白いのは4世紀の古墳などから馬具が出るのに

肝心の馬の骨が5世紀中葉になるまで出てこないことです。

馬具は権威の象徴として半島からもたらされたが馬はまだ伝わっていなかったとの説もあります。

とにかく5世紀半ばから急に馬の骨が全国的に出土し始めます。

半島から馬みたいなものをどうやって運ぶんだと疑問に思う人もいますが

実際馬を船に積んでみると大したスペースは取りません。馬の周囲を丸太で囲めば

幅1メートル長さ2メートルで馬一頭が収まります。昔馬術大会で馬を貨車に積んだり

船に積んだりして長距離移動したことがありますのでわかります。

逆に5世紀半ばまで馬を海上輸送しなかったほうが不思議なくらいです。

とにかく馬の文化を東国に広めたのがヤマトタケルであったかもしれないというのは

歴史のロマンですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。馬をどのようにして海上輸送したのかずっと疑問でしたが、少し納得できた気がします。馬が泳げることも最近知りました。わたしの家で戦前馬を飼っていたのですが「海は無理だけど、日本の川ぐらいなら渡るよ」とは私の父の言葉です。それで、長野県から群馬県を通って、東北の中央部の平野を利根川を泳いで渡り、東の相馬など立ち寄りながら、岩手県まで上っていったのではないかと考えたのでした。東北地方の前期古墳の広がり方は、奥羽山脈を越えて新潟から会津山形の置賜、そして山形盆地を北に向かって太平洋側に来るルートのようですが、そちらを通って馬が来たのかなとも思いました。よくわかりません。5世紀に宮城県の中央部、旧宮崎町湯ノ倉産の黒曜石が、岩手県水沢の中半入遺跡から宮城県南部の村田町までの範囲で使われていたという事実があります。中半入遺跡出土の黒曜石は9割方が湯ノ倉産です。古墳寒冷期ということからすれば、皮なめしに使ったのではないかと思っています。一つの文化圏があったと考えてよいのではないでしょうか。それを日高見国といってもいいかもしれません。宮城県のヤマトタケルをまつった神社は10以上あって、北上川沿いと阿武隈川白石川沿いにあります。岩手と宮城の県境の山の名前は栗駒山です。栗駒山をご神体とする駒形根神社の祭神はヤマトタケルなのです。

お礼日時:2013/07/11 22:04

ヤマトタケルは伝説との説は外に置きます。



せいぜい北関東から少し北へ入った程度で南へ回帰したと
考えられます。

みちのく(道奥ー陸奥)から日高見(ひたかみーきたかみ)まで
という日本書紀説は採りません。

理由の1 は言葉の問題です。
当時毛野(けぬー上野、下野)の国は早くから開けており、
豪族もいたと思われ、西方との交易もあり、やまと言葉も
片言ながら通じたはずです。
諸豪族にやまと朝廷に従うよう働き掛けもむずかしくなかった
でしょう。
一歩山を越えるとまるで異境でしょう。
蝦夷の地で人口も少なく言葉がまるで通じません。
苦労して行く価値はないと判断されます。

理由の2 は「みちのくは土地広く沃(ゆたか)」との記述
です。
当時そういう状況とは考えられません。
聞き書きか加筆と思われます。

理由の3 は日本書紀は政治色の濃い歴史書という点で
古事記は伝わる話をそのまま書いたということです
日本書紀は朝廷の威光を殊更強めたかったものと
かんがえられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。第一の言葉の問題です。4世紀末とは前期古墳の時代ですが、東北にも前期古墳が結構あります。私の住む宮城県は名取市に飯野坂古墳群という前方後方墳の集まった地域がありますし。福島の会津や喜多方市には4世紀の前期古墳がたくさん見られます。内行花文鏡が出土した田村山古墳は3世紀末です。蝦夷とは後の時代に政治的に作られたイメージであって、実際は近畿地方から北陸を通って移住した第一次移住民だと考えています。したがって使われていた言葉は大和言葉です。大化後の移住(関東系が多い)と何が違うかというと、武力を背景にして強制的に土地に入っていったやり方と、現地のアイヌ系の人々と仲良くやっていこうとした人々の姿勢考え方の違いかなと思います。「日本書紀は政治色の濃い歴史書」という点ではその通りだと思います。第2の「みちのくは土地広く沃(ゆたか)」との記述ですが、津軽平野の砂沢遺跡で弥生前期の水田跡が発見されています。古墳時代は寒冷期ということで東北の北半分にはに稲作は定着しませんでしたが、宮城県では県中央部の名取川広瀬川流域の仙台平野、県南の阿武隈川支流の白石川流域、県北部は鳴瀬川江合川流域と北上川下流域に縄文時代の集落が弥生時代の集落に発展、狩猟採集漁労を継続しながら稲作も受け入れていったことがわかっています。私には「みちのくは土地広く沃(ゆたか)」は本当ではないでしょうか。

お礼日時:2013/07/11 21:18

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