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神武天皇は実在したのですか?。日本にまだ文字が無かった2600年も前の事がなぜ分かるのですか?。

質問者からの補足コメント

  • 私も自分で調べてみましたが、第26代の継体天皇から後の天皇は実在したようですが、それ以前の天皇は神話に彩られていて実在が怪しいようです。橿原神宮は明治新政府による政治神社ですね。

      補足日時:2024/08/08 09:52
  • 一週間、皆さんの書き込みを見ていましたが、歴史学・考古学に基づいた意見は全く無かったですね。ベストアンサーは選ばない事にしました。それにしても、天皇というのは本当に宗教なんだな、と感じました。

      補足日時:2024/08/14 07:27

A 回答 (21件中1~10件)

考古学者、高倉洋彰の説によれば、すでに紀元前一世紀の後半には漢字が日本に伝来したという。

そうだとすると、奈良時代の日本書紀編纂時には、神武天皇の実名や事績に関する漢字の記録が残っていた可能性が極めて高いことになります。

神代文字を持ち出すまでもない。古代日本には文字(=漢字)があったのです。
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「第26代継体天皇よりも前の天皇は実在が怪しい」というあなたの説に反論するため、歴史学・考古学に基づいて6つの史実を書きます。



①日本書紀には第5代天皇として觀松彦香殖稻天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)が書いてありますが、その実在の証拠は、播磨国風土記にある「彌麻都比古命(みまつひこのみこと)」です。ちなみに、この天皇の在世時期は紀元後110年頃です。

②石上神宮に伝わる七支刀の銘文には「百済の王太子貴須が369年、倭王のためにこの刀を造った」と記されている。倭王とは日本の天皇のことだから、七支刀は369年当時に天皇が実在した証拠になります。ちなみにこの時の天皇は、第14代仲哀天皇か第15代応神天皇のどちらかです。

③万葉集に収録されている和歌の中で最古のものは第16代仁徳天皇の皇后、磐姫の短歌です。万葉集が磐姫皇后の歌を収録していることは、皇后の夫である仁徳天皇が実在したことを間接的に証明していませんか。ちなみに、第16代仁徳天皇の在世時期は紀元後410年頃です。

④中国の史書「宋書」によれば、雄略天皇が478年、宋の皇帝である順帝に上表文を提出した。その中で天皇は『封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿・・・・・(中略)・・・・・其余咸仮授以勧忠節。詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王』と、長々と書いて官位を要求した。これに対し順帝は雄略天皇に「使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」の位を授与したとあります。これも雄略天皇実在の証拠になります。

⑤埼玉県行田市の稲荷山古墳から金錯銘鉄剣が出土しました。その銘文によれば、鉄剣の製作年は471年。古墳の被葬者は乎獲居(ヲワケ)。彼は第21代雄略天皇の親衛隊長であると書いてある。これは第21代雄略天皇が実在した証拠になる。ちなみに日本書紀には、雄略天皇の即位は456年と書いてある。

⑥この鉄剣の銘文によれば、古墳の被葬者の乎獲居(ヲワケ)のいちばんの祖先は意富比垝(オホヒコ)、その子はタカリノスクネ、その子はテヨカリワケ、その子はタサキワケ、その子は半弖比(ハテヒ)、その子はカサヒヨ、その子が(私)乎獲居(ヲワケ)の臣です、と書いてあります。何と乎獲居(ヲワケ)は第10代崇神天皇の兄、大彦命(おおひこのみこと)の末裔だというのです。ですから鉄剣の銘文は崇神天皇の実在を間接的に証明しております。ちなみに、第10代崇神天皇の在世時期は紀元後240年頃です。
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>私も自分で調べてみましたが、第26代の継体天皇から後の天皇は実在したようですが、それ以前の天皇は神話に彩られていて実在が怪しいようです。



初代の神武天皇よりも前のご祖先については、実在したのは間違いないのだが、伝承がほとんど伝わっていない。それゆえ、神話時代にしておいても史書を編纂する目的を害さないから、記紀の編者は「神代」として記述したのです。

あなたが第26代継体天皇より前の天皇はすべて実在しなかったというのなら、神武天皇を含む25人の天皇の陵墓はすべてでっち上げられたものになりますが? そのことを歴史学・考古学に基づいて論証することはできますか?


>橿原神宮は明治新政府による政治神社ですね。

橿原神宮が明治時代に創建された神社であるのは確かです。しかし橿原神宮の北に神武天皇の御陵(おはか)があります。この御陵から神武天皇の御霊を招いて神として祀った神社が橿原神宮です。
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>[私も自分で調べてみましたが、第26代の継体天皇から後の天皇は実在したようですが、それ以前の天皇は神話に彩られていて実在が怪しいようです}




いいえ、惑わさないでください。全員実在です。
但し、NO13~17に替えた形で発想の転換が必要です。
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>[神武天皇はイエスキリストと同じ頃の人物ですね。

]
この観点から、イエスが神武天皇の時代に日本に来たという説は
出ないかなあ。
竹内文献では垂仁天皇の時代に来たことになっているが、時代をずらして
神武天皇の時代に来たという説は出せないか。

ともあれ、実際の時代とずれているので
欠史とされる綏靖~開化までの間を空白にせざるをえなかった。
事績を書こうにも書くことが出来なかった。

>「文字が無かった2600年」
これは嘘、硯がみつかっている。
神代文字があったという説有。
それに57年には志賀島金印が来たわけで、これを読める人とか、使者の通訳もいたわけですよね。

記紀の記載年数をまじめに信じてはいけません。
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神武天皇が即位したのは、私の考究によれば、紀元前660年(日本書紀)ではなく、紀元前10年ころ(プラスマイナス30年)です。

神武天皇はイエスキリストと同じ頃の人物ですね。

しかも即位したというのは誤り。当時は大王制も天皇制もなかったのだから。紀元前10年ころに「とよみけぬ」さんが一族の統領になったと考える方がいいでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<参考>天皇号が使われ始めたのは:

・607年に完成した法隆寺薬師如来像の光背銘に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故」とある。

・推古紀609年、天皇が遣隋使小野妹子を派遣して隋帝への親書を持たせた。そこには、「東天皇敬白西皇帝使人鴻臚寺掌客裴世清等至久憶方解季秋薄冷尊何如想清悉此即如常・・・云々」と書いてあった。

・推古紀620年、聖徳太子と蘇我馬子大臣は「天皇記」を編纂した。

・622年製作の天寿國繍帳にも「天皇」の文字がある。

これらの史実から、七世紀の初頭にはすでに「天皇」の称号が使われていたことが分ります。
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古事記で崇神天皇は258年頃の天皇


推古天皇:は628年頃の天皇

NO13の論理から神武天皇は紀元1世紀頃の大君と推察。
天皇という称号は天武天皇の頃に
称号名が大君・大王から天皇と変化しただけ。

そういう論理で
神武天皇を志賀島金印王=漢委奴国王として
西暦57年頃に生存時期をずらす。
実際、日本書紀なら崇神天皇は紀元前97~30年ころになるが、
古事記なら?~258年頃に出来る。

同じ論理で
神武天皇は?~57~?
という論理に持っていく。
漢委奴国王の
漢は漢の國の漢とも取れるが、
かみと読めるから
中国人にはカミ・カムも大和言葉なまりで判別定かならず。
そこで似た音でカムに漢を当てる。
委は倭の略字。
奴は古事記の中で「ヌ」と読まれ、沼と同義。

ならば、漢委奴は神武天皇の諱のカムヤマトイワレヒコの
カムヤマト=神倭=漢委に当てる。
この論理で漢委奴国王=神武天皇に当てる。

師升は次の2代目の綏靖とか3代目の安寧に当てる。
107年頃だから、?~107~?

という論理で推察。

実際、安寧は師木津日子玉手見命だから
冒頭の師と師升の師が一致。ならば師升を安寧天皇に当てる。

これらの論理で綏靖~開化までの天皇も欠史から実在に論理の転換を
行う。

こうして時代を紀元前7世紀から紀元1世紀以降に生存時期を移動する形の
発想転換で神武天皇~開化天皇も実在された可能性のある崇神天皇の
前に据えて、その実在を可能にさせる。

このような形で論理をコペルニクス的転回で
実在なんかしないと思っていた神武天皇から
古事記・日本書紀記載の天皇達も実在の場に引きずり出すことを
可能にさせる。
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>日本にまだ文字が無かった2600年も前の事がなぜ分かるのですか?。



口伝で語り部を通して伝承されていた。

推古天皇:天皇記・国記という史書が出来たが、今は散逸。
残念ながら失われてない。
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中国史書に出て来る


志賀島金印王:漢委奴国王:西暦57年
師升:107年
を時の天皇と考え、
さらに古事記の崩御干支から
崇神天皇:258年崩御:ほぼ邪馬台国卑弥呼時代。
推古天皇:628年崩御

628-258=370

33-10=23

370÷23=16
258ー16×9=144

大雑把な計算ですが、

神武天皇を紀元前7世紀に求めず、
紀元1世紀~2世紀頃に求めれば、あるいは実在可能な気がします。

どうせ、日本書紀・古事記の年齢と在位年数は日本を神仙の住む
悠久の歴史を持つ古い古い国に見せかけようとして歴史を
誇大化してわざと古く見せるための加工数値と考えて
うーんと小さく縮小をすることを考えてみてはどうでしょう。

いうなれば、加工年数ということですね。
本当の数値にあらず、
何らかの計算式というか加工方法で本当の数値に戻せる
という風に考えて、記紀のいう在位年数・年齢を
まじめに信じない方がいいですよ。

紀元2600年は所詮、作り話。

日本はもっともっと歴史の新しい国ということです。
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>第26代の継体天皇から後の天皇は実在したようですが、それ以前の天皇は神話に彩られていて実在が怪しいようです。



継体天皇にも親が実在した。その親にも親が実在した。その親にも・・・

という風に考えることはできないのですか?2000年前の祖先も、3000年前の祖先も・・・1万年前の祖先も実在した・・・と考えることはできないのですか。名前が分らないだけであり、実在したのです。

>橿原神宮は明治新政府による政治神社ですね。

それを言うなら、古事記も日本書紀も、当時の朝廷が書いたのだから政治的産物です。中国の正史である史記も、漢書も、三国志も、隋書もすべて政治的産物ですよ。
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