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 あらためての問いです。

 この哲学カテでのやり取りを見て感じる疑問です。

 すでに問いましたが どうもおかしい。

  ○ 《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?

 この一点にしぼります。

 分かり切ったことではないかという場合にも 一票を投じてご見解を明らかななかたちとしてみてください。


 わづかに 分かり切っていないという向きにあっては 《自己の〈意見〉を主張する》と《自己を主張する》とが 区別されると考えているふしがあります。

 そのような区別は できますか?

A 回答 (7件)

逆の側からいえば、「『「他人に迷惑をかけるな』と言うのは


他人に迷惑だ」という事ですね。
そうお思いですか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが 意味が読み取れません。

 質問に対する回答であるのかどうかが分かりません。

 それとは関係なく読んでも 中身が何を言っているのかが分かりません。



 ★ 逆の側からいえば
 ☆ 何の《逆の側》ですか?

  ○ 《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?

 これに逆があるのですか? 《自己主張するな》という禁止命令(かるい要請をもふくめて)の逆が

  ○ 他人に迷惑をかけるな

 なのですか? 自己主張と迷惑をかけることと どういう裏腹の関係ですか?

 ★ 「『「他人に迷惑をかけるな』と言うのは他人に迷惑だ」
 ☆ 内容がどうであれ 自己表現したものが 《他人に迷惑だ》というのは 一般には考えられません。特にこの場のように情報交換として何かを互いに問い求めようとしているときに 自己の情報を表わして伝えることにどういう迷惑があるのかが 分かりません。




 ★ 逆の側からいえば、「『「他人に迷惑をかけるな』と言うのは他人に迷惑だ」という事ですね。
 ☆ というふうに――その中身が分からずじまいであっても―― 念を押すかたちで受け応えているということは 問いに対して 問う者の趣旨に賛成するという意味だと受け取りますが それでよろしいですか?

 ★ そうお思いですか?
 ☆ という問いかけの言葉が気になりますが――つまりこの問いに対しては 思うも思わないも 意味が分からないのですから 答えられませんが それでも―― 上のように 《そのとおりだ》という回答内容だと推し測って受け取っておきます。

お礼日時:2013/07/17 20:36

迷惑だから投稿するなって言われてるだけじゃないの?


質問者は他の一般人と異なり、持論を展開して
酔っているからだと思いますよ。

とりあえず、現代の日本語を勉強しなおすのと、
心療内科での長期加療を考えましょう。
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この回答へのお礼

 ばんり_かしいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まだ行ってないの?

お礼日時:2013/07/17 20:37

 「自己主張」の設問の続きだと思いますが、



 自分の考えは、<自己の(意見)を主張する>=自己主張

          <自己を主張する内容>=自己意思 ととらえています。

 言葉の問題なんで明確にはできないでしょうが、自己表現=自己主張 +自己意思 とすると、

 前回の質問は、「自己主張のない自己表現はあるか?」 「無い」 ではなく

 「自己意思のない自己表現はあるか?」にしてもらえると、「あまり無い」でいいと思います。

 「自己主張しない」という自己意思もあるということです。(これは多い。)

 後はどういう時にどういう内容の「自己主張」をしたいか、どういう意思を持つべきかなどですね。意思とは何か?と問われると難しいです。

 
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この回答へのお礼

 のうばうんどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 「自己主張しない」という自己意思もあるということです。(これは多い。)
 ☆ ここがミソですね。

 ううーん。しかし 分っかんないなぁ。

 ★ 意思とは何か?と問われると難しいです。
 ☆ とおっしゃってますが やはりカンどころは:

 ★ 自己表現=自己主張 +自己意思 とすると
 ☆ としたとき おそらく

  ○ 《主張》とは やはり自己の何らかの《意思》をうったえること

 なのではないでしょうか? だとしたら

  ○ 自己表現とは 自己の意思を相手に伝えようとする主張である。

 なのではないでしょうか? 

 《意思》と言ったって 《こんにちは!》とあいさつする場合にもあって それはつまり あいさつをするという自分の気持ちや心(またそれを相手と交わそうとするやはり意志)のことを言うのではないでしょうか?


 と思うんですがねぇ。





 たぶん《自己主張》が もしそうだとしたら いやがられるのは いわゆる《個人プレー》ですとか《パーフォーマンスによる出しゃばり》ですとか そういった目立つことなのではないかとは 推し測ってはいるのです。

 でももしこうだとしても 問題はその自己表現が何を言っているかであって 多少の飾りがついていてもそんなことは 哲学カテで目くじらを立てて問題にすることもない。こうも思います。
 つまり ですから 《自己主張》は すべての自己表現につきものであり それは おのれの意志を表わそうとする行為であり 互いに自由におこなわれるものであって あとは互いにその中身について考え合いよい結論を問い求め合って行けばよい。――このように考えます。どうでしょうか?

お礼日時:2013/07/17 21:00

こんばんはです。




【主張】
自分の意見、説を認めてもらえるように、強く言うこと。また、その意見、説。
(明鏡モバイル国語辞典。わたしの携帯に入っている国語辞典)


主張という行為・活動は、そもそも、基本的に他者に対する働きかけであり、そして、それには自己の意思や感情、意志などの存在が不可欠です。
自己の意思や感情、意思などを離れて、自己はありえません。
なので、
《自己の〈意見〉を主張する》と《自己を主張する》は分けられない、
と思います。

それよりも、
わたしは、
○ 《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?
が、
「嘘つきパラドクスと似た構造をもっているのでは?」
ということの方が気にかかっています(ポリポリ)。

「自己主張するな」は、自己主張である。
「自己主張をするな」という自己主張をしているのではなかろうか。
であるならば、
「自己主張するな」に反しているのではなかろうか(笑)
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 次の辞書では 《認めてもらえるように、強く言うこと》のところがさらに強く表わされているようです。

 ▲ (デジタル大辞泉の解説) ~~~~
  http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E5%BC%B5 

 自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。また、その意見や持論。
 「―を通す」「自説を―する」
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ さすがに――《言い張る》はまだいいとして―― この《認めさせようとして》は 言い過ぎでしょうね。《表現の自由》を大前提において説明しょうと思えば 《させようとして》とまでは規定しないでしょう。


 つまりは すべて――やはり――自己表現ということではないのでしょうか。
 と言うよりも どんなに強く《言い張った》としても それを納得するかしないかは 相手次第だということは 知り切ったことなのですから。
 受け容れてもらいたい思いの強い弱いにかからわず 意志を伝えてその合意を欲していることに変わりないということだと考えられます。


 すなわち
 ◇ ~~~~~
 主張という行為・活動は、そもそも、基本的に他者に対する働きかけであり、そして、それには自己の意思や感情、意志などの存在が不可欠です。
 自己の意思や感情、意思などを離れて、自己はありえません。
 なので、
 《自己の〈意見〉を主張する》と《自己を主張する》は分けられない、
 と思います。
 ~~~~~~~~
 ☆ この問い求めは――つまりこの結論は―― ここOKヱーヴの哲学カテで わたしとしては参加し始めたあとのもう四五年前にして得ておくべきものでした。当たり前だと思っていても 情況を把握して一つひとつ問い求めを済ましつつすすめているべきでした。



     *

 という明確な結論を出したはいいが 何だか問題があるとか:

 ◇ ~~~~~
 それよりも、
 わたしは、
 ○ 《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?
 が、
 「嘘つきパラドクスと似た構造をもっているのでは?」
 ということの方が気にかかっています(ポリポリ)。

 「自己主張するな」は、自己主張である。
 「自己主張をするな」という自己主張をしているのではなかろうか。
 であるならば、
 「自己主張するな」に反しているのではなかろうか(笑)
 ~~~~~~~
 ☆ ええ そうですよ。あぁ 問題ではなかったんですか。ん? でも何かひっかかるのでしょうか?


 つまり質問者の心つもりとしては

  ○ 《自己主張するな》というのは 自分で禁止しようとしている自己主張をしているではないか?

 と言っています。そのことで 何か?

お礼日時:2013/07/18 22:44

注意みたいなものではないですかね。

自己主張するなというのは。注意は主張とは異なります。。
問題は、このサイトが自己主張するに適う場であるかということにあると思います。私も詩投稿サイトなどでは徒然に詩を書いたりしていますが、此方ではやや場違いであることは否めないですよね。
質問者さんのニーズ(自己表現)に合ったサイトもあると思うのですが。
ここが学問としての哲学を扱う場で、しかもQAサイトであるということを考えると、質問者さんの表現はそれから逸脱した面もあるのは否めないかな、と言った印象を受けます。スポーツにルールがあるように、ここにもルールがありますからね。それを大幅に逸脱すれば、成り立たなくなってしまいます。ファウルみたいなものです。皆に受け入れられる形にプレイを持って行くというのは、必要な努力かと思います。
一方私は、素人哲学でも良いと考えています。スポーツが下手でもやってはいけないなんてことはないですからね。最低限のルールさえ理解しておれば。

また、自己の意見を主張すると言うのは、表現として少し違和感がありますね。言うならば、自己の意見を押し通す、とか、自己の意見を表明する、ではないでしょうか。
自己を主張すると言うのはそのままですね。意見ではなく、自分の存在を主張することではないでしょうか。
こんなところで如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 あまがたりさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回のご回答内容については 基本的に見解を異にします。
 一つひとつにお応えしてまいります。

 ★ 注意みたいなものではないですかね。自己主張するなというのは。注意は主張とは異なります。
 ☆ どう《異なります》か?

 《注意する》というのは やはり自己の考えを相手に伝えることです。これを《主張》と言います。


 ★ 問題は、このサイトが自己主張するに適う場であるかということにあると思います。
 ☆ ひとが生き動き存在するときおこなう意志行為はすべて 《自己表現》です。自己のすべてを表現します。ほんとうは誰もがつねにそのおのれの全人格で自己を表現して生きています。

 意志行為であるなら 相手に何かを伝えたいという《主張》なのです。

 そしてこの質問は OKヱーヴの規約とは別のものです。規約に触れたらそれまでだという前提で あとは 哲学の議論であり問い求めです。


 ★ 私も詩投稿サイトなどでは徒然に詩を書いたりしていますが、此方ではやや場違いであることは否めないですよね。
 ☆ つまり全人格での自己表現という意志行為は――哲学カテに限るとも言わねばならないかも分かりませんが(現代の現状として物理学カテでは 人格を捨象して問題にあたりますから)―― とうぜんのごとく《詩》なら詩をもふくむのです。

 詩も自己表現であり自己主張であり 哲学の主題にふくまれます。


 ★ 質問者さんのニーズ(自己表現)に合ったサイトもあると思うのですが。
 ☆ よって この判断は とんちんかんであると見なします。

 自己表現は むしろ絶対的に――という意味は 人間が人間であるかぎりにおいてつねに――自由です。
 誰もこの自由を制限するバカな考えは持ち得ません。持って自己表現することも自由ですが そのばかさ加減についてくらいは 自明でしょう。


 それよりNo.1の回答についてその内容を解釈してくれる人はいませんかねぇ。れいんとーくさん お願いしますよ。



 ★ ここが学問としての哲学を扱う場で、しかもQAサイトであるということを考えると、質問者さんの表現はそれから逸脱した面もあるのは否めないかな、と言った印象を受けます。
 ☆ 印象批評は 例証しあるいはさらに本論としての議論を展開すべき問題です。

 せめて一つの事例を出して 説明をくわえ 《自己主張》はするものです。
 (ひょっとすると 《自己主張するな》という側にいる人たちは 誰かが哲学の――しかるべきふつうの――議論をすると(つまり そのように情報交換をすると) 自分たちは《自己主張》にさえ達していない浅い見解しか持たないので やっかみで言っているのかなぁ)。

 とにかくコミュニケーションにまでまだ達していません。子どもが 絵日記を書いた程度ですよ。


 ★ スポーツにルールがあるように、ここにもルールがありますからね。それを大幅に逸脱すれば、成り立たなくなってしまいます。ファウルみたいなものです。皆に受け入れられる形にプレイを持って行くというのは、必要な努力かと思います。
 ☆ 通報をされてわたしの質問がまるごと削除されたあと 復活したことが二度あります。これなどは 質問としてもやり取りとしても 規約にかなったかたちで哲学カテに参加していることをうらづけています。

 ええ加減なことを言わないように願います。言うのなら 例証・実証をしてからにしてください。

 いまでも 《ファウル》があると思ったなら 《通報》すればよいことです。いちいちここに書き込む必要はさらさらありません。
 いちゃもんというのは しっかりと哲学としてきちんとしたかたちで つけるよう願います。


 ★ 自己を主張すると言うのはそのままですね。意見ではなく、自分の存在を主張することではないでしょうか。
 ☆ これが 哲学としての真骨頂なのです。地べたから物申すというこころであり 姿勢です。これが哲学なのです。

 よわき立ち場に立つ者は 《自己の存在を主張する》のです。そこから哲学がうまれます。

 そうでない場合にも 存在の主張であることに――自己表現であるなら――変わりありません。ありませんが だいたい《余裕のある立ち場》からは 自分の意見を述べて――余裕にまかせて クウキの醸成をつうじて――相手に自分(=意見の発言者)の都合を飲ませるように迫る。こういう世の中のからくりになっています。

 クウキ利用者の自己表現は ただの《社会力学上の目配りや顎の上げ下げ》にしか過ぎません。むろんそれも 自己の意志行為であり自己主張であることに変わりありませんが。


 まぁ 歳の問題を強引に持ち出すなら あまい。よ。

お礼日時:2013/07/19 09:09

今回は意見を異にされるだろうなと言うのはわかっていたことなのですが、まぁそれも良いと思います。

プレイヤーがいるからルールがあるのであって、プレイヤーのないルールは意味をなさないですから。規約に触れればそれまで、でいいと思いますよ。私は相変わらず、全てが自己表現であるとは言えないですが、それもまたよいでしょう?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ひとつ。《例証》を出すこと。これが 大事です。

 むろん本論としての論文を書くのが基本です。ですが それをちぢめて意見を述べるときにも 例証が最小限 必要です。


 ★ 私は相変わらず、全てが自己表現であるとは言えないですが、それもまたよいでしょう?
 ☆ よくありません。このような言いっ放しは それだけなら 意味がなくなるからです。何も言わなかったにひとしくなります。

お礼日時:2013/07/19 10:47

自己主張しすぎるのも、しなさすぎるのも、問題だと思いますから、


けっきょくは、バランスの問題ですよね。

その一点にしぼるならば、
その言葉を発した人の意図によるとしか言えませんが、
もしあなたの自己主張に、その人自身がカチンときたのであれば、
その人なりの主張というか、我の強さ?でしょうね。

あなたが自己主張しすぎるために、
あなたに問題がふりかかっていると思われて、
素直にあなたを思われたのであれば、
愛ゆえだったのかもしれませんね。

でも、かりに愛ゆえであっても、伝え方がまずいと、何にもなりません。

この回答への補足

 ★ あなたが自己主張しすぎるために、
 ☆ うんぬん・・・と率直に書いてくださったので そういう問題として見る視点にも触れたという点で BA と見ました。

補足日時:2013/07/24 06:07
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この回答へのお礼

 かなきゅう‐さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ バランスの問題 
 ☆ つまりバランス論・均衡論は いちばん嫌いな考え方です。わたしの問題ですが。

 ○ 中庸論
 ☆ これによって案外 行動形式については 答えがいろんな場合に得られるという議論を読んだことがありますが それは 両極の均衡を図るというのとは微妙に違うらしいですよ。

 つまり 中庸の位置づけは それとしてつねにさだまった内容をもって決まる(決める)のだそうです。アリストテレスの理論だそうですが そしてわたしは間接的にしか知りませんが。

 そもそも
 ○ 自己主張
 ☆ にし過ぎるも しなさ過ぎるも ないはずです。自己表現に際しての巧拙があるくらいではないですか。

 中身がどう伝わるかだけの問題だと考えます。


 ところが 次のようなことも起きるとおっしゃっているのですよね。
 ★ ~~~~
 その一点(* つまり バランスの問題)にしぼるならば、
 その言葉(* つまり《自己主張するな》)を発した人の意図によるとしか言えませんが、
 もしあなたの自己主張に、その人自身がカチンときたのであれば、
 その人なりの主張というか、我の強さ?でしょうね。
 ~~~~~~~~
 ☆ ならば 放っておけばよいのですが この《自己主張するな》という命題には 或る程度賛成する向きがあるようなのです。

 先ほど自己主張には 巧拙の違いくらいしかないと言いましたが どうも――この・おっしゃるところの《我の強さ》の問題にしぼるなら―― けっきょくわたしの文章がその相手に対して その弱点についてあまりにもずばり明らかにしてしまった こういうことであるかと推し測られます。

 そんなことは 哲学の門をくぐった者には いろはのいであり けっきょくおのれの精神的なストリップを容赦なく余儀なくされる。ということくらいは 分かっていそうなものなのですが。

 かなきゅう‐さんは 
 ★ 愛ゆえ
 ☆ というようなうつくしい言葉で捉えようとしているようですが まづは問い求めをどこまで 互いに自由に批判しあいつつ すすめるのか? こういう問題だとわたしには思われます。
 そうではないでしょうか?

お礼日時:2013/07/19 17:34

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