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吉原の遊女について質問です!
大見世、中見世、小見世、切り見世と見世のランクがあると思うのですが、このうち、呼出、昼三、付廻(座敷持ち)と呼ばれていた花魁はどの見世に所属していたのでしょうか?
大見世の女郎だけが呼出などと呼ばれていたのか、あるいは、小見世でもトップ女郎であれば呼出と呼ばれ道中ができたのか、教えていただきたいです。
また、禿や新造を持てるのは、どのランクまでの女郎だったのかも併せて教えてもらえると嬉しいです!

A 回答 (3件)

こんにちは。


bungetsuです。

>>1800年以降の頃には、太夫もいなくなり、遊女のランクが呼出以下等のように細かくなったと私の読んだ文献にはあったので、1800~1830年頃の遊女の格や中見世、小見世の仕組みについても教えていただけると嬉しいです!

これには、吉原の火災の歴史からお話しした方が早いかと思います。

★寛政12年(1800)2月、吉原大火がありほぼ全焼してしまいました。11回目。
(これまでに計10回の火災が発生しています)
★文化9年(1812)11月、12回目の火災。(前回から12年)
★文化13年(1818)5月、13回目の火災。(前回から6年)
★文政7年(1824)4月、14回目の火災。(前回から6年)
★天保6年(1835)1月、15回目の火災。(前回から11年)
★天保8年(1837)10月、16回目の火災。(前回から2年)
★以下、慶応2年(1866)11月、23回目の火災。まで続きます。

吉原が全焼すると「仮宅」と言って、吉原の近くの田町、新鳥越、浅草山之宿、浅草聖天町、浅草花川戸などでの農家や民家、小料理屋などを借り切って商売を続けました。
中には、深川辺りまで出て来て仮宅とした者もいました。

もちろん、町奉行所への届け出をして、許可をもらってでした。

しかし、この「仮宅営業」は遊女には大変喜ばれました。と、言うのも、吉原での商売では、大門の中だけに押し込められていて廓の外へ出られるのは、桜の花見くらいのもので、年1~2回でしたが、仮宅の場合は大門という仕切りが無かったため、遊女もある程度自由に近所の散策ができたのです。

もちろん、逃げ出して見つかった場合は、遣手ババアに折檻を受け、後ろ手に縛られて鴨居に吊るされたり、庭の木に縛りつけられたりして、死ぬ場合も多かったので、遊女もそれを恐れてほとんど逃げ出す者はいなかった。

また、客にも喜ばれました。なぜかと言えば、廓の中のように十分な酒食の接待が無く、その分安く遊女を抱くことができたからです。

文化9年(1812)11月の12回目の火事~文政7年(1824)4月の14回目までの期間を見ると、わずか6年ごとに火災が発生しています。

楼主にしてみれば、その度に「仮宅」営業を強いられ、吉原の再建に費用が掛かるにも関わらず、逆に、安い料金での営業でしたので、二重苦をしいられました。
 
そして、この文政7年(1824)4月の火事以降に、吉原が再建されて「花魁」や「格子」などという高級遊女を抱えていても、庶民は仮宅での安い値段を憶えてしまい、高級遊女の需要が激減してしまいました。

そこで、花魁などが年季明けなどで順次姿を消した時点で、
格子格・・・「呼出」「昼三」
散茶格・・・「附廻」
梅茶格・・・「座敷持」「部屋持」
局~次格・・「切見世」
と、名称も変わり、庶民にも手の届き易い料金へと替わって行きました。

しかし、幕末~明治になると、これらの「格付」も「名称」も無くなり、ただ単に「遊女」と呼ばれるようになりました。そして、昭和31年に「買春防止法」が制定され、昭和33年に全ての「赤線」が廃止されました。

さて、「見世の仕組み」とはどのようなことを聞きたいのでしょうか?

格式で言えば、

前回のサイトで、大見世、中見世、小見世の区別が書かれてあったと思いますが、やはり、「呼出」や「昼三」などしか抱えない見世は大見世で、花魁道中をしたのは「呼出」と「昼三」だけでした。
以下は、前回の見世の「格付け表」に遊女の名称が変わっただけですので、上記の「格付」を当てはめてみて下さい。なお、「籬」(まがき)も同じです。

つまりは、大見世はいつまで経っても大見世でしたし、中見世もそのまま中見世、小見世もそのまま小見世で営業しました。言ってみれば、吉原の中でも見世の序列があり、その序列から抜け出すことはできなかったのです。

なお、「呼出」になれる条件としては、「禿」(かむろ)の経験者しかなれませんでしたので、当然、幼い時からの修行が条件でしたから、大見世のように遊女以外の余分な「遊女見習い」を食わせていけるだけの財力が必要だったのです。

上記にも述べましたが、幕末~明治以降は「格付」も「名称」も無くなりましたので、多少の遊女の美人、不美人あたりでの値段の違いはありましたが、ほぼ、同一料金となりました。
例えて言えば、今日のキャバクラでもNO1を指名すると、それだけ料金も高いのと同じです。

客の揚がり方のことでしょうか?

それであれば、中、小見世では、

まず、客は「籬」越しに気に入った遊女が見つかると、玄関を入ります。すぐ左手に帳場があり、女将が座っています。客は遊女を指名すると、遊女が二階へと導きます。二階は共同使用の部屋が幾つもあり、その内の空き部屋へと連れ込みます。
その後は、ある程度の酒食の接待があり、いよいよお床入りをします。
昼見世の開店は九ツ刻(午後12時)で「花魁」や「格子」以外の遊女が見世に勢ぞろいして、客引きを開始する。
昼見世での指名であれば、七ツ刻(午後4時)に一旦お客を送り出します。

夜見世の開始時間は六ツ刻(午後6時)に見世が始まります。五ツ刻(午後8時)位になるとお床入りをします。
四ツ刻(午後10時)には客の帰る時間となり、客の付いた遊女は大門まで客を送り、またの再会を約束させます。ここで一旦は大門が閉まりますが、脇に木戸があり、客はその木戸から木戸番(見世の若い衆が交代で監視している)の許しを得て自由に出入りしました。
九ツ刻(午前0時)中引け、拍子木が四つ叩かれて刻を告げる。引け四ツとも呼んだ。
八ツ刻(午前2時)大引け。遊女たちは床につく。しかし、泊まり客の場合は客と一夜を過ごしました。
七ツ刻(午前4時)遊女は泊まり客なども含めて、すべての客を大門まで送る。常連客が姉女郎に背いて浮気をした男(別の遊女と遊んだ男)を振袖新造が大門で待ち伏せして、姉女郎のところへ連れて行き折檻をするのもこの刻限。
六ツ刻(午前6時)客を全て送り出して、身の回りを片付けて、やっと遊女たちの就寝の刻限。

大見世では、花魁や格子しか抱えていないので、見世に座る遊女はいませんでしたので、「籬」も惣籬で見世の中が見えなくても良かったのです。

このような事で良いのでしょうか。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

以下のサイトを参考にしてみてください。bungetsuのサイトです。

http://bungetsu.obunko.com/

「大江戸編」をクリック→「遊女編」をクリックしてください。

さらに、「遊女編」の一番最後に 「いろいろな絵で楽しめます」 がありますので、そこもクリックして見て下さい。

まだ、不明な点があれば、どうぞ質問をして下さい。

この回答への補足

詳しいサイトを教えて下さってありがとうございます!参考になりました!
もう少し詳しくお伺いしたいのですが、1800年以降の頃には、太夫もいなくなり、遊女のランクが呼出以下等のように細かくなったと私の読んだ文献にはあったので、1800~1830年頃の遊女の格や中見世、小見世の仕組みについても教えていただけると嬉しいです!

補足日時:2013/08/24 21:51
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では少しだけ


吉原で言いますと最高ランクは太夫です
吉原でも数えるほどしかいなかった貴重な存在
まぁ今で言えばトップのAV女優とか そんな感じ

その下に 格子 散茶 新造 禿と続きます
安永のころには太夫と格子がいなくなり事実上散茶がトップ格になります


今でこそ風俗嬢なんて白い目で見られますが 江戸の時代遊女は高尚な存在であり尊敬されていました


全然参考にならないでしょうが参考までに
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