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 すべてのひとを説得することができますか

 これは コミュニケーションについての問いです。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?

 ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。
 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
 (2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。


 ☆ そもそも コミュニケーション論です。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?

 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。



 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?

 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に機能させるために きっかけとなる。
 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。
 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。

 【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?
 ・・・


 ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。
 ふるってご投稿ください。おしえてください。

A 回答 (9件)

こんにちはです。



《色》は、ロックの考えにしたがえば、《第二次性質》になります。

─────────
<第一次性質と第二次性質> ロックは物体のもつ性質を第一次性質と第二次性質とに区別する。第一次性質とは,物体から全く分離できない性質で延長、形態、固性(solidity)等である.それに対して第二次性質とは,音,色,香り,味等の感覚的観念をわれわれの内に作り出す物体のもつ力能(power)である.そしてロックは,第一次性質の観念は物体のもつ性質自体の似像であるが,第二次性質はそうではない,と言う.

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/great/lo …
─────────

ネコの考えとしましては、
ロックの《第一次性質》と《第二次性質》は逆なのではないか、
なんですがね。
音、《色(?)》、香り、味等は、まぁ~これもかなりグレー領域なんですけれども、耳や眼、鼻や舌などの感覚器官を通じて直接得られる一次的な情報なので、むしろ、こちらが《第一次性質》にふさわしく、《延長》や《形態》はそこから派生する二次的なものじゃないのか、と思うのですが。。。
いやまぁ~、《延長》や《形態》などは、先験的・《あ・ぷりおり》な認識の形式ということにすれば、《第一次性質》になるのかもしれませんが、ロックは《生得観念》を否定していますからね~。そこのところどうなのよ、という気がします。

それはそれとしまして、
《固性》(solidity)は、触覚によって得られるので、《第二次性質》に分類せねばならないのでは、という気もするんですがね~。
これをいうならば、
《固性》(solidity)ではなく、
《不可入性》(impenetrability)
にしなくてはいけない!!
絶対にそうだ!!
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 次のつながりですね。

 ◆(回答No.4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 りんごは赤い。

 たったこれだけのことにさえ、同意しない人は少なくないのです。
 何故かって?
 リンゴが赤くないからではありません。

 赤、というのが不変の一色でもなければ、そもそも色かどうかさえ
 判りません。 言葉として共有されているとは限らない、という意味です。
 りんごは赤い、と言われて「だから?」と答える者もいれば、人生も
 そうだね。と暗喩的な何かを連想して異なる意味で頷く者もいる。
 ■(回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 下記のリンゴが赤いことは説明できない。

 これはロックの第二性質ですか?

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 《色》は、ロックの考えにしたがえば、《第二次性質》になります。
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 みなさん そんなにふくざつな問題なのですか? 
 かえって むつかしく考えているのではありませんか?


 ◆(回答No.4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 りんごは赤い。

 たったこれだけのことにさえ、同意しない人は少なくないのです。
 何故かって?
 リンゴが赤くないからではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ◆ リンゴが赤くないからではありません。
 ☆ ならば いちおうすでに《リンゴは赤い》もしくは《このリンゴは赤い》という事実について 聞き手は同意しているものと思われます。
 そのあとの厄介な理屈がつけ加えられることがある。といった事態なのではないですか? 





 ところで
 ▼ (ロック) 第一次性質とは,物体から全く分離できない性質で延長、形態、固性(solidity)等である。
 ☆ 《物体》とは 形相と質料とから成る。物体のかたちつまり《形態》が 形相で 石や木やの材料は質料ですよね。
 質料で出来たかたちが 大きかったり(延長)固かったり(固性)するのですよね。
 その物体から 一般に五感を刺激する感覚内容が現われる。

 それなのに ロックってそんなことを言ってるんですか。


 収拾をおまかせします。

お礼日時:2013/09/29 14:39

B様、こんばんは。




あいかわらず、「どしろうと」のアテズッポウですが、

「コミュニケーション」とは、
「伝達と共有」ということではないでしょうか。


・・・における「文字」の有効性は素晴らしいと思います。

だから、文字以前を先史時代、文字以降を歴史(時代)と
区分けしているのではないでしょうか。

(識字率とか「読み書きソロバン」とかでは、日本は「歴史的に」強いのでしたか?)


ああ、それからなんでしたっけ、「リテラシー」という表現が浮かびました。

「欧米では、「誤解の無いように表現出来ないほうが問題だ」(発信者責任?)」に対し、
日本では、「相手の意図を正確に汲み取れないほうが問題だ」(受信者責任?)とか。

「受信者責任が問われる」とは、「KY」とか、そういうことですか
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この回答へのお礼

 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?

 【A-α-kur.】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「コミュニケーション」とは、
 「伝達と共有」ということではないでしょうか。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?



 【Q-γ】 コミュニケーションの場について
 【Q-γ-1】 その社会に歴史的に受け継がれて来ているナラワシ
 
 【A-γ-1-kur.】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「欧米では、「誤解の無いように表現出来ないほうが問題だ」(発信者責任?)」に対し、
 日本では、「相手の意図を正確に汲み取れないほうが問題だ」(受信者責任?)とか。

 「受信者責任が問われる」とは、「KY」とか、そういうことですか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?



        *

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 【A-α-kur.】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「コミュニケーション」とは、
 「伝達と共有」ということではないでしょうか。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《伝達された情報が 共有されている》ということが 重要でしょうか。

 約束をまもる問題であり 伝達した側の本人にしてみれば あのときあんたは言ったぢゃないかと言われないように《索引》がついているのがのぞましい。




 【A-γ-1-kur.】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「欧米では、「誤解の無いように表現出来ないほうが問題だ」(発信者責任?)」に対し、
 日本では、「相手の意図を正確に汲み取れないほうが問題だ」(受信者責任?)とか。

 「受信者責任が問われる」とは、「KY」とか、そういうことですか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そうですね。《グレーゾーン》の問題とそして《クウキ》の問題でしょうか。

 伝達が果たして実現したかどうか。これは 受ける側が 分からなければ尋ね返せばよいのですから それほど《発信者と受信者》との間でどちらに責任の重心が置かれているかは 程度問題であるという見方が いちおう出来るのではないかと考えます。

 その上で 世の中の風潮や社会力学上の有力無力の問題が 伝達の成否や何を伝達するかに到ってまで 左右したり影響をあたえたりするかも知れませんね。


 くりなるさんも みなさんも さらに追究していってみてくださいませんか。

 こんなのもあります。
 【Q:観念の運河を《クウキ》なるゴンドラはきょうもゆく】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8166149.html

 

お礼日時:2013/09/29 07:39

 有意義で楽しい対話の機会がもてたことに喜び、感謝申しあげます。

1つだけ、反論ではないのですが、補足させてください。

>⇒それは、「不可知の雲」の向こうのことですから、おっしゃるとおりだと思います。これこそ、形而上的な問いの極致のような命題ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> ☆ せっかく同意してもらったのに何ですが 《不可知》について次のように定義しています。

 ○ (不可知は 経験事象を言う) ~~~~~
  経験事象
    可知
     既知
     未知
    不可知(知り得ないと知った)
  非経験の場
    非知(知り得るかどうかが知り得ない)

⇒この定義に何ら異論はありませんが、先に私が「不可知の雲」という表現を用いたのは、
“The Clowde of Vnknowyng [Nubes Ignorantiae]”原著者不詳[14世紀イギリス]、奥田平八郎訳『不可知の雲』、現代思潮社(1977年)からの孫引きで、
その意図したことは、「神に象徴されるような、『人知を越えたもの』と観想者との間に介在して、直接的な認識を妨げるもの」を、(少々カッコつけて!)表現したつもりでした。 なまじ、「ええカッコ」したばかりに、誤解を与えたかも知れませんね。お詫びします。

 さて、前便のスルーの箇所をも含めて、おおむね相互理解が得られたように思います。そこで、…
          ***** お互いの「研鑽とジンテーゼ」に乾杯! *****
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この回答へのお礼

 なるほど。
 ★ 「不可知の雲」≫の向こう≪のことですから
 ☆ でしたか。これは不覚でした。

 おまけに――おっと なかい702さん あらためまして こんばんは ご回答をありがとうございます。―― そういった《 Nubes Ignorantiae 》ですか うまいこと表現した言い回しがあったのですか。

 ★ 「神に象徴されるような、『人知を越えたもの』と観想者との間に介在して、直接的な認識を妨げるもの」
 ☆ ですか。ある意味それは 人間の為すことでもありますね。《非知》なる神を 至高の善や限りなき愛といったふうに概念化して表わし さらにはこれをもはやマジナイのごとき観念として 何かあれば持ち出して来る。《善や愛》といった観念の神――また人間の想像物としての神――が出来上がれば 《その神なる愛や善は知り得ないが 知り得ないと知った》かのごとき思い・・・こういう《不可知の雲》が あり得ます。というよりも いまでも蔓延しています。

 果ては オシエが――聖書の字句が―― この観念の神になってしまっているかと思います。《無知ゆえの雲》――ねむりねこにゃーさんは 《バカの壁》と言っていましたが―― はびこっていますね。


 ★ 14世紀イギリス 原著者不詳
 ☆ なのですね。分かりました。ひとつかしこくなりました。



 今後とも 
 ★ ***** お互いの「研鑽とジンテーゼ」に乾杯! *****
 ☆ と行けたらたのしいですね。この質問についても 見守ってみていてください。
 

お礼日時:2013/09/28 23:20

bragelonneさん こんばんは



聖人アンセルムスによると、哲学をやる場合、信仰は括弧に入れるべしと言ってます。

現代でも哲学をやる場合は常識を括弧に入れるべしと何かの本に書いてました。

ですから、括弧に入れて回答します。

私はロックの原書は読んでおらず、大きなことは言えませんが、わかりやすい哲学入門書

「ソフィーの世界」ブックオッフで100円 !

から、考えることを回答します。

下記のリンゴが赤いことは説明できない。

これはロックの第二性質ですか?

私は哲学の歴史をギリシャから遡って思考してますが、昔から「哲学とは?」を哲学すると

A)「永遠・普遍・変わらないもの ア・プリオリ」学派と

B)「移りゆくもの・経験・ア・ポステオリ」学派の

時代による勢力争いに感じます。

私はヘーゲルの時代によって認識基盤は変化する、また、このような投稿をすることで、弁証法による螺旋階段の知的上昇を支持します。

bragelonneさんはA型?B型?

私は血液はO型です(笑)
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この回答へのお礼

 あめんほてぷ2000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 わたしも――意外でしょうか―― O 型ですが
 ★ 弁証法による螺旋階段の知的上昇を支持します。
 ☆ 弁証法の過程をたどるという一般的な理解について そのまま同じ立ち場にいます。

 特殊の場合には こまかい点で物言いも出て来るかと思います。テーゼがまづ 表明されるということも肝心ですから 意志表示という点で 考えるところがありました。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 下記のリンゴが赤いことは説明できない。

 これはロックの第二性質ですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 申し訳ない。ロックを読んでいません。分かりません。
 《リンゴは赤い》という説得をこころみると それをこばむ場合で 言わば正当な場合があるということですか?




 ★ 哲学をやる場合、信仰は括弧に入れるべし
 ☆ と同時に 哲学は あらゆるものごとについて思索します。《信仰》についても《神》についてもです。哲学としての流儀があります。


 ○ (ひとなる存在における信仰の位置づけ) ~~~~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2013/09/28 22:19

 「お礼」への書き込みをありがとうございました。


 おもな事柄について再伸いたします。

> 《説得する》ことは 《騙す》ことと同じでしょうか?
⇒全然違うことだと思います。ただ、両者に共通することは、「(説得しようと・騙そうと)意図されたことから外れる者が必ずいる」ということですね。

> たとえば《ひとは誰もが不幸になりたくないと思っている》といったひとつの命題を提出して そうではないかと説得することは 可能ではありませんか? 《すべての人を》です。
⇒おっしゃりたいことはよく分かります。が、演繹法でなく帰納法で、つまり、早い話が地上の70億人全員に当たってみなければ、《すべての人を》とは言えないだろう、ということです。

> ★ ゴルギアスらは、「相反する事柄の双方を弁護することができる」と言っています。
> ☆ これが妥当であるとして普遍的であるのは この世の経験的なものごとについてだと言うべきではないでしょうか。
⇒いえ、むしろ形而上的な命題のほうがより確実に当てはまることのようです。もちろん、事に当たって彼らは、「詭弁を弄する」ことをはばからないでしょうけれども。

> もし《人間には分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》という定義を 神に当てはめるなら それは 永遠に普遍性を持つ命題ではないでしょうか?
⇒それは、「不可知の雲」の向こうのことですから、おっしゃるとおりだと思います。これこそ、形而上的な問いの極致のような命題ですね。

> ☆ 申し訳ないですが 独我論はいただけません。わたしには無理です。《独我》なるワタシを 人びとよ共有してくれと言っているように思われます。《〈他人に伝えられる〉と思っている》ようです。から。
⇒そうですね、同感です。ある種の「自家撞着」を内包していますよね。(これについてはお互いアウフヘーベンできたかも知れません!)

> 第三者が 言わば触媒の役目を果たすかに思われますが じっさいには 当事者が意志をはたらかせ腹を決めなければ 何も合意には到らない。こう考えるからです。
> 言いかえると このような《当事者どうしの合意》理論とは違って 第三者がたとえば社会的な有力者であったことにより 合意が出来たというような場合には それは決して《対話としての説得》ではない。こう言わねばならないと考えるからです。
⇒なるほど、そのとおりですね。ただ、一言敷衍すれば、「それは理念ないし当為として」通用することで、心理的動物たる人間、実際の場面ではなかなか理念どおりにはいかないことが多いですね。

> ★ まして、第三者が権力者であったりする場合の影響は絶大でしょう。「時の支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)というような、恐ろしい、しかし的を射ているような金言もあります。
> ☆ 残念ながら これは 現実の社会力学には当てはまりますが 哲学にはそのままでは当てはまらない。こう考えます。意志の萎縮したところに《説得》も《対話》もあり得ません。そうではないでしょうか。
⇒まったく仰せのとおりだと思います。ただし、上で「的を射ている」と言ったのは、「現実は、不可抗力的に、その線で動いている」という意味であって、「そうであるべきだ」という意味では決してありません。

> ★ 他者の見たものと接合する姿勢が大事です。「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄できる」(オルテガ)でしょうから。
> ☆ この命題じたいにおおきなマチガイはないと思います。ただし この指針をここで持ち出して 説得ないしコミュニケーションの心がまえにするというなら それは どういう意味を持つか?
⇒おそらく、「自己を持ちながらも、常に上級の審理を求めて己にフィードバックし、自問自答し、自論の理論補強をする」ということではないでしょうか。

> そもそも説得というのなら すでに初めに自分の意見があります。自分の理論を人びとに示すというウゴキがすでに始まっています。そのときこの指針を取り出して活用したとすれば どういうことになるか?
> というよりは 自分の案や意見あるいは理論をすでに持っているということは すでにそれまでにおいて《自分の見たものと他者の見たものを接合することによって》作成し形成して来ている。とは考えられます。
> まぁ おっしゃるように 見解の発表や理論の説明の時点でも やはりアンチテーゼを受け留めつつ 弁証法過程をたどる。とは思われます。
> つまりわたしの言いたかったことは 《接合》というときに何も相手の見解を継ぎ合わせてあたらしい内容へと書き直して行くということを つねには意味しない。のではないか。つまり 一般に《対峙》してもよい。ときには《対立》してもよい。こういった道筋が思い浮かんだものですから ちょっと《いちゃもん》をつけてしまいました。
⇒この段、反論ありません。さすがご慧眼、素晴らしい《いちゃもん》をありがとうございました。

> お尋ねしたいのは
> ★ 「時の支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)というような、恐ろしい、しかし的を射ているような金言
> ☆ が
> ★ 「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄でき」たというその視点
> ☆ と同じような高みもしくは深みを持つのかどうか。です。
⇒「高み」はないかも知れませんが、「深みを持つ」とは言えるでしょうね。

 飛躍するようですが、E.フロムの「自由からの逃亡」というのがありますね。
 ナチスに、「ユダヤ人迫害を手伝え」と言われる。最初は断る。すると、「それではお前を殺す」と言われ、しぶしぶ従う。次に同じ命令をされると、黙って従う。次は、言われなくてもやる。最後は、「これは意義あることなんだ」とばかり、率先してやるようになる…。
 いわゆる、「自己合理化」ですね。人間は弱いです。自分の命を守るためには他人をも殺す。本当は殺されるのがいやだから命令に従っただけなのに、いつの間にかその行為を正当化する。本来なら、「自分は自分の命を守るためにとんでもないことをしている」という意識を持ち続けるべきなのに、「ご都合によって」自分の意識まで変えてしまうんですね。

 我々の現実社会でも、大なり小なり、似たようなことがあると思います。「時の権力者や政治家やお偉いさんが勝手に正義の何たるかを決めているではないか」、「万機公論に決すべし」が捻じ曲げられているではいないか…。純粋理性や理念と、ナマの人間の間の乖離のいかに大きいことか! でもそれは、やむを得ないことかも知れませんね。人間、死んでしまってからでは、議論も何もできないんですから。せめて、思いを致すべきは、できる限りセンシティブな感覚と感性と意識を維持し、あるべき理想・理念を抱き、現実との乖離を認識して当為を考え、乖離を少しなりと縮めるよう腐心するようつとめることでしょうか。

 最後、少しそれましたが、以上、再送まで。
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この回答へのお礼

 なかい702さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ただ、両者に共通することは、「(説得しようと・騙そうと)意図されたことから外れる者が必ずいる」ということですね。
 ☆ なるほど。としますと その《意図されたことから外れる》その仕方は どういう場合があるか? つまり説得者の責任の範囲外において《説得されない》場合があるかも知れない。そうであれば それは 説得のチカラをまだ過小評価しなくてもよい。となるかも分かりません。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > もし《人間には分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》という定義を 神に当てはめるなら それは 永遠に普遍性を持つ命題ではないでしょうか?

 ⇒それは、「不可知の雲」の向こうのことですから、おっしゃるとおりだと思います。これこそ、形而上的な問いの極致のような命題ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ せっかく同意してもらったのに何ですが 《不可知》について次のように定義しています。

 ○ (不可知は 経験事象を言う) ~~~~~
  経験事象
    可知
     既知
     未知
    不可知(知り得ないと知った)
  非経験の場
    非知(知り得るかどうかが知り得ない)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ ⇒「高み」はないかも知れませんが、「深みを持つ」とは言えるでしょうね。
 ☆ 《支配者の有力》と《上級の審理をもとめつつ思惟の高みを模索する有効》との比較ですが 前者は言わば社会現実の底の底をも浚いきるとみるほどに《深みを持つ》・・・かも知れません。




 スルーして来たようになってしまったくだりは いちゃもんをもみとめてくださったり 場合によるということで合意に到ったり 断わり書きを添えてやはり互いに合意を見たりという場合だと思います。





 あと 《支配者の有力が敷く正義》の問題があります。

 これは むつかしい問題であるのか。ことは ナツィスの事例で説明されたように パタンとして単純なのか。

 ★ ナチスに、「ユダヤ人迫害を手伝え」と言われる。最初は断る。すると、「それではお前を殺す」と言われ、しぶしぶ従う。
 ☆ この《「それではお前を殺す」と言われ》る事態が 問題だと考えます。つまり
 ★ 自分の命を守るためには
 ☆ の部分です。けっきょく 緊急避難としての行動になるのだと思います。言いかえると 脅迫は 無効の行為ですから それを避けてと言いますか それに従ってと言いますか おこなった行動は 或る種の仕方でゆるされる。かも分かりません。

 言いかえると 相手にしたがったフリをする。相手の言うことをごもっともと言って信じるフリをする。コミュニケーション途絶の状態で わが身をまもる。


 沈黙の抵抗。これを永きにわたって強いられた時期がありました。お隣りの国などでは いまもその時代がつづいているでしょうか。

 言論が権力をくづすときの来るのを俟ちます。
 ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/28 22:04

【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?



出来ません。たった一人の人間を説得することも、実は至難の業です。
何故なら、説得されることを好んだり望んだりする人は極めて少ないから。
人は望まないことに同意しません。

りんごは赤い。

たったこれだけのことにさえ、同意しない人は少なくないのです。
何故かって?
リンゴが赤くないからではありません。

赤、というのが不変の一色でもなければ、そもそも色かどうかさえ
判りません。 言葉として共有されているとは限らない、という意味です。
りんごは赤い、と言われて「だから?」と答える者もいれば、人生も
そうだね。と暗喩的な何かを連想して異なる意味で頷く者もいる。

 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?

人間の、出会いと別れの様式論。 それがコミュニケーションです。

絶対同一の存在足りえない、生きている間の私達は、お互いに
言葉や表情や態度から、自分の想定範囲に相手がいるかどうかを
確認しながら、孤独に生きている間の一定期間に時折、或いは
しばしば、本当は孤独ではないはずだ、と、その確かめ合いを
しています。

更に言えば、表面上の会話では一意の単語を連ねて共通の文法に
従えば、目的に沿った意思疎通は出来ます。

でも、それは駅員の手旗信号と同じで、必要最低限の論理的な
シーケンス(手順、段取り)を満たした伝達でしかありません。

コミュニケーションを本来の広範囲な意味で捉えれば、自分が孤独では
なく、「群に属する」ことを確認し続ける営みと言うことが出来るでしょう。

肉体の生存と言う意味においても、社会における自己の価値尺度と
いう観点に置いても、生きている間は孤独な存在でしかありえない
個体の生命、そして我々が、永遠に帰属する群を夢想しつつ、例えば
あの世であったり、神であったり、輪廻転生であったり、それらは全て
個がもはや寂しい孤独に置かれていない、巨大な海として夢想される。
パラダイスであったり、仏たる永遠の安寧であったりと様々ですが、
それらは全て死によってのみ達成しうると夢想されやすい。
だから、というか、実にパラドキシカルですが、生きている間は自己を
確立し得ないのです。 神にはなれない、と言ってもいい。

その不安定な有様は、ほっておけば倒れたり崩壊するような脆さです。

昔、ロボットの歩行というものは静歩行と呼ばれるものしかありませんでした。

片足に重心を全て載せて、バランスを取りながら片足を上げる。

次に、重心を軸足に乗せた状態で少しづつ浮かせた足を前に出す。

着地、重心移動、元に戻る。

これを繰り返して歩かせたわけです。

コミュニケーションが上手でない、ということは、引きこもりや自分勝手、
エゴイズムを指しますが、重心移動を全て自己の内部で完結しようと
する、静的歩行動態だ、と捉えることも出来ます。

それに対して、ホンダのアシモで確立された動歩行の原理は、倒れまいと
する状態をゆっくり移動していく静歩行に対して、常に転びつつある状態を
維持し続ける、という天才的なロジックによって成り立っています。

転ぶまい、というスタイルは自分は自分であり続けよう、他人に自分を
左右されずに自分は揺るぎなくあろうとする姿勢ですが、常に転び続ける
止まる時はゆっくり転び幅を縮める。 或いは、サンドウェッジでソフトに
打ったゴルフボールを、カップ傍にフェザータッチでそっと、降ろす。
そういうことにも通じる動歩行の考え方は、根本的に正反対の着想、
まさにコロンブスの卵を更にバージョンアップしたようなものです。

コミニュケーションとは、人間、或いは意識を持つ全ての生命の中に
存在する、「動歩行」のシステムを指す言葉だと私は考えます。

だから、ずっと支えたり支えられ続ける必要が無い。

一瞬、地面を蹴られればいいし、姿勢を崩さない範囲で受け止める
ことができる応力範囲にも広い許容エリアが存在する。

だから、凸凹の地面、階段、摩擦係数が異なる床、何かを持って
重心バランスが変化し続ける、などのどんな状況下でもアシモは
歩けるし、走ることも出来る。

他者と綱引きをしたり、支えたり、支えられたりしながら動くまいと
踏ん張るのではなくて、色んな「自分以外のすべてのもの」と
上手にやり取りしながら、歩き続ける、走り続ける。

ホメオスタシスに対して、ホメオダイナシス、という訳です。

そのやり取りの間欠、緩急、様々な変化を、予想することなく
逐次即応しながら移動していく。

だから、コミニュケーションは出会いと別れの様式論、と冒頭で
申し上げたのです。 別に、技術論でも確率論でも構いません。
同じものを進法を変えて表現しているだけのことですから。
255(10)とFF(16)と同じ、ということです。

停止していることさえ、動いている状態の、ある特異点に過ぎない。

一つの観点の切り口を提示させて頂きました。

説得、とか納得、という、カッコタルユルギナイカチカン、など
この考えに従えば殆どまったく意味を持ちません。

一瞬で砕け散る、ある瞬間の波の形を絶対的に数値化することに
殆ど意味が無いのと同じことです。

大体、いつも、こんな天気の日は、こんな形の波が出る。

それを体で知っているからサーファーは上手に波に乗れる。

特定の一つの波の形を絶対化する必要性など、全てのサーファーは
感じないに違いありません。 実に、無意味ですから。

ファジィだから絶対化できない。絶対化できないから、論理的に
他人を説得する理論自体が存在し得ない。
ある、と思い込んでいる、じっと動かない人がそこに佇んでいるだけです。

皆、動いている。

同じ場所を何度でも往復しながらでも、二度と同じ点は通りません。
大体、その辺りを、同じ道を通るだけです。

説得など出来ない。 納得など出来ない。

それが普通だし、理に叶っていることです。

何故なら、絶対零度の真空中でさえ時間は進む。

離散集合、変化しないものなど、この世にないからです。

そういえば、アシモは「コミュニケーション・ロボット」でしたね。

恐らく、そういうことです。
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この回答へのお礼

 らせんかいだんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 個々のご見解を取り上げつつ見てまいります。ていねいなごあいさつを抜きにして《いちゃもん》をつけてまいります。

 ★ 何故なら、説得されることを好んだり望んだりする人は極めて少ないから。 / 人は望まないことに同意しません。
 ☆ これは よくよく考えてみるに その人は すでに説得されています。説得されているけれども よっしゃ 説得を飲もうとはなかなか言わない。ほこりがあるのでしょうか。プライドでしょうか。プライドがらみになると 口は重いですね。

 でも 説得されていますよ 文句なく。


 ★ りんごは赤い。
 ☆ これだけではダメです。緑の王林も 黄色いのも 腐れば黄土色になるのも ありますから。


 ★ 赤、というのが・・・そもそも色かどうかさえ / 判りません。 言葉として共有されているとは限らない、という意味です。
 ☆ それは 説得おことわりではなく――屁理屈を返して来るようなら―― へそ曲がりです。へその曲がりを 元通りに曲げ直してもらってから 説得を始めなくてはならないのでは?



            *

 なかなか読ませる文章に接したのですが イチャモンをつづけます。
 ずばり反論です。 
 (というのは およそふつうの日常生活において妥当するご議論だと受け留めたその上で・その中で 反論があります)。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 説得、とか納得、という、カッコタルユルギナイカチカン、など
 この考えに従えば殆どまったく意味を持ちません。

 一瞬で砕け散る、ある瞬間の波の形を絶対的に数値化することに
 殆ど意味が無いのと同じことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人生には ユルギナイカチカンを持って カッコタル意思表示をしなければならないときがあります。たとえば 求婚の時。あるいは 求婚をこばむときです。
 《説得・納得》が この場合には 意味を持ちます。そうでなければ話にはならない事例です。就職する・あるいは自分の仕事をえらぶといったときにも この説得・納得がおおいに意味を持ちます。この場合には
 ★ 一瞬で砕け散る、ある瞬間の波の形を絶対的に数値化
 ☆ しなければならない。断じて 断じて。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 大体、いつも、こんな天気の日は、こんな形の波が出る。

 それを体で知っているからサーファーは上手に波に乗れる。

 特定の一つの波の形を絶対化する必要性など、全てのサーファーは
 感じないに違いありません。 実に、無意味ですから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では ダメです。断じて。
 おのれの人生の仕事(ライフワーク) あるいは わが人生の連れ合い。これは 《同じ波》ではありません。ぎゃくに《絶対化する》ほどの特別な波です。

 あめんほてぷ2000さんの文章から:
 ◆(回答No.1) スマップの「世界でひとつだけの花」の様に個人個人、独自の花の種を持ち、ナンバーワンを目指さず、オンリーワンを目指すことに大賛成!
 ☆ 《オンリーワン》の波を さがし求めるのではないでしょうか。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 説得など出来ない。 納得など出来ない。

 それが普通だし、理に叶っていることです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と分かっているひと 分かっていて話のできるひと また自分がそうであってその自分に合ったふさわしい仕事があるはずであり その仕事を推し進めて生きて行くときの連れ合い そういう特定の相手が オンリーワンとして いるはずです。

 らせんかいだんさん ほんとうはそうおっしゃろうとしているのではありませんか? 照れるのでしょうか。説得されるのは いやですか。

 われわれ人間は ロボットなんかではありません。から。


 おそらく わたしがバカ丸出しでわるびれずに言うところを・言っているところを それは ややもするとこの国わが日本では カッコウをつけていると見られてしまう。よって 逆説をるる説いて 対偶か裏かとして 質問者であるわたしを説得しておられる。

 たぶん わたしのような阿呆踊りが ひとりくらいは必要でしょう。変わって行きますよ。
 人間・現実は変わります。

お礼日時:2013/09/28 19:17

こんにちはです。





☆(1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
◇人には共感しうる能力があるので、できるようにも思うのですが、たぶん、そうはならない。
たとえば、痛みの問題です。
わたしがお医者さんにいくら「お腹が痛い」と言っても、
お医者さんは「どこも悪いところがないのだから、そんなことはない。それは、気のせいです」と、わたしのこの主張を信じてくれないことは十分に考えられます。
いくら、わたしが眼に涙を浮かべ、苦悶の表情を浮かべて、自分の現状を訴えかけても、検査結果と医師の経験に基づき、お医者さんはそれを信じてくれないかもしれません。
それでも強く主張し続けると、そのお医者さんは、わたしを嘘つき呼ばわりをするだって考えられます。
痛みという極めて素朴なものですら、このような事態が想定されます。
まして、理論になりますと、相手の知識や知的能力が関わってきますので、ますます難しくなると思います。数学が苦手な人に、高度な数学を必要とする理論を、感性や情感をもとにその理論を説明し、理解を求めよう、それを説得しようとしても、理解をしてはくれないでしょう。人からバカにされるのは誰でも嫌ですから、表面的には分かったふりをしてくれるかもしれませんが・・・。
ということで、わたしは、この件について、極めて懐疑的です。


☆(2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
◇これは、意志や意志行為の問題ではないと思います。相手が納得するかどうかは、思いやりを含む相手の理解力と、経験に基づいていると考えます。《バカの壁》は厳然と存在していると思いますよ、わたし。



☆(3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。
◇え~と、わたしの経験からしますと、万人を納得し切れるような理論というものは存在しません。
何しろ、
わたしの頭は、天動説で支配されていますから。
真面目な話、そうなんです。地球が太陽のまわりを回っているなんてちっとも思えない。わたしの経験は、太陽やお星さまが地球を中心に回っている、と強く主張します。わたしの頭の中では、太陽とお星さまが地球のまわりを回っているのです。そして、わたしはその考えに何の疑いももたず毎日を過ごしています。
そら~数学や物理を知っていますから、太陽を中心に惑星の動きを、運動方程式を解くことによって導き出すような芸当はできますけれども、それはそれ、わたしの頭と体は天動説に支配されて暮らしていますし、そのことをまったく疑っていません(笑い)。
わたしと同じような《隠れ天動説主義者》、《天動説》に支配されて生きている人は、結構、多いのではないでしょうか。
経験は強いんですよ、個人の経験に基づく、個人の経験に裏付けされた考え方は、生半可な理論くらいではビクともしませんって。
いつの日か、地動説は間違いだったという時が来るかもしれません(笑い)
量子力学なんぞは、わたしの経験と理解を越えており、これが正しい理論だとはちっとも感じられない。量子が実在だとは思えない、感じられない。理論的に示されても、それがどんなに観測事実と一致していても、これくらいではわたしのドグマは破れない。何か嘘くさいなと思っておりま~す。
現実問題としては、
説得よりも、いかに相手をうまく騙せるか、相手をいかにうまく丸め込めるか、暗示をかけるか、その技術が大切なのではないですかね~。大衆真理や群集心理といわれるものを活用してもいいんじゃないですかね~。
ヒトラーのことを考えますと、大衆心理や群集心理というものを使うと、案外、人は簡単に騙せるものかもしれませんよ(笑い)。


☆【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
◇その第三者が、中立的な存在であるのならば、その主張の真偽の判定材料の一つくらいですかね。
その第三者がどちらかの側によっているのならば、相手に対する《脅し》《威圧》になるですかね(笑い)。
双方の橋渡しをうまくできる、よき仲介者という存在はなかなかいませんよ。これには、双方の置かれている状況とその理解力を正確に見極める、能力と経験が仲介者に必要とされますので。

対話は基本的に一対一の行為ですから、
現実問題として、第三者の役割は補助的なものにしか過ぎないのではないですか。


☆(3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。
◇でしょうね。



☆【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?
◇相手に対する《思いやり》です。
説得側の意見と感想になりますけれども、
《数学カテ》にしばらくいた経験からしますと、質問者が何を分かっていないのか、どこで躓いているのか、そこから考えないとダメですね。
数学が得意という子は別ですけれども、
答案風の回答を寄せても、まず分かってくれません。
躓きの場所をわかりやすく、懇切丁寧に教えてあげないと、ダメですね。
何故そうなるのか、式の導出の過程を含めて、丁寧に書かないとダメですね。
相手の置かれている現状を想像し、《思いやり》を示しますと、質問者がそれを感じとってくれますと、どこが分からないのか、素直に答えてくれます、教えてくれます。
「この人ならば安心だ。どんな初歩的なことでも質問できる。親身に質問に答えてくれる」
となります。
信頼の場が成立します。
そこからですね、《コミュニケーション》が質問者との間で成立するのは。

ですから、
相手の置かれている現状を理解しようとする《思いやり》と《想像力》が大切なのではないですかね。
あとは、相手に対する敬意でしょうね。人をバカにしたり、そのような言動を示しては、いけませんね。
そして、
それらはすべて相手に対する《思いやり》に包括されると思います。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。順序をぎゃくにして:

 ☆☆【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?
 ◇ 相手に対する《思いやり》です。
 ☆ ですね。さらには:

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 相手の置かれている現状を想像し、《思いやり》を示しますと・・・信頼の場が成立します。
 そこからですね、《コミュニケーション》が質問者との間で成立するのは。

 ですから、
 相手の置かれている現状を理解しようとする《思いやり》と《想像力》が大切なのではないですかね。
あとは、相手に対する敬意でしょうね。人をバカにしたり、そのような言動を示しては、いけませんね。
 そして、
 それらはすべて相手に対する《思いやり》に包括されると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

         *


 ☆☆ 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 ◇(順不同に引用して) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 対話は基本的に一対一の行為ですから、
 現実問題として、第三者の役割は補助的なものにしか過ぎないのではないですか。


 双方の橋渡しをうまくできる、よき仲介者という存在はなかなかいませんよ。これには、双方の置かれている状況とその理解力を正確に見極める、能力と経験が仲介者に必要とされますので。


 その第三者が、中立的な存在であるのならば、その主張の真偽の判定材料の一つくらいですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆☆(3) 前項〔【A‐β‐1‐br.】(2)〕は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。
 ◇ でしょうね。


         *


 ☆☆【A‐ω‐br.】(3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 え~と、わたしの経験からしますと、万人を納得し切れるような理論というものは存在しません。
 何しろ、
 わたしの頭は、天動説で支配されていますから。
 真面目な話、そうなんです。地球が太陽のまわりを回っているなんてちっとも思えない。わたしの経験は、太陽やお星さまが地球を中心に回っている、と強く主張します。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについて 説得する内容を 次のような全体観として提示すればどうでしょう?

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そら~数学や物理を知っていますから、太陽を中心に惑星の動きを、運動方程式を解くことによって導き出すような芸当はできますけれども、それはそれ、わたしの頭と体は天動説に支配されて暮らしていますし、そのことをまったく疑っていません(笑い)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アマテラス科学語としては・理論としては 地動説であるという部分をも添えておくという全体観です。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 量子力学なんぞは、わたしの経験と理解を越えており、これが正しい理論だとはちっとも感じられない。量子が実在だとは思えない、感じられない。理論的に示されても、それがどんなに観測事実と一致していても、これくらいではわたしのドグマは破れない。何か嘘くさいなと思っておりま~す。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 抽象普遍性を追究するアマテラス科学語と あやまちうる現実のスサノヲ人間語との絶妙に一体となった《ことば》で表現する日がやって来ましょうか?

 現実問題としては
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現実問題としては、
 説得よりも、いかに相手をうまく騙せるか、相手をいかにうまく丸め込めるか、暗示をかけるか、その技術が大切なのではないですかね~。大衆真理や群集心理といわれるものを活用してもいいんじゃないですかね~。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とはおっしゃらずに つまりそれは社会力学としての現実であるとおさえておく。つまり 一たん普遍性に登りつめたアマテラス普遍語が みづからの自認するあやまちえない(無謬性ゆえに 神聖にして不可侵なる)状態から 浮動し浮遊するスサノヲ語たちを抱き寄せ主導するときに用いる修辞学かつ弁論術なり。と見るのが 人間と社会の現実であるというコミュニケーションの舞台へ わたしたちもそろそろ駆け上がってまいるわけにはまいりませんか?


         *



 ☆☆【A‐ω‐br.】(2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 ◇ これは、意志や意志行為の問題ではないと思います。相手が納得するかどうかは、思いやりを含む相手の理解力と、経験に基づいていると考えます。《バカの壁》は厳然と存在していると思いますよ、わたし。
 ☆ そうですね。ここで 【A‐ω‐br.】(1)をもまとめて 見て行きますが おそらく問題は:

 (あ) 《バカの壁》は厳然と存在しているとみとめたそのあとにある。

 (い) と言いますか まづ相手に 誰もがこのバカの壁を持って ほかからの話を聞かないときがあるということを知ってもらうことが先決でしょうね。

 (う) そのあと どうなるか。つまりそのあととしては 当人の《意志》の問題になりませんか。

 (え) というよりも それで《説得者の能力や努力の及ばぬところである》と断言してよいか? の問題なのですが。

 (お) 《痛み》の問題なら ほかのお医者さんの所へ行けばよいかも知れません。人間そのものの問題なら どうするか? 求婚のばあいとか もしくは求婚をこばむ場合とか。イエスやノーかの答えをはっきりと意志表示するといった人間そのものの問題です。

 (か) ・・・・(おあとがよろしいようで)・・・


 

お礼日時:2013/09/28 18:32

>すべてのひとを説得することができますか


⇒「学びて思わざるは即ち暗し。思いて学ばざれば即ち危うし」(論語)と言います。
このように引用が多いですが、古今の哲人に学びつつそれを鵜呑みにすることなく、なるべくよく咀嚼し自分なりに解釈した上でお答えしたいと思います。

> これは コミュニケーションについての問いです。
> 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
⇒「大勢を騙せてもすべての人は騙せない」という格言があります。説得の場合も同じようなことが言えると思います。つまり、悲観的な見方ですみませんが、すべての人を説得するのは至難の業と考えます。

> 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
⇒ゴルギアスらは、「相反する事柄の双方を弁護することができる」と言っています。「すべての真理は相対的で、一時的・暫定的である。なぜなら真理とは、『そう思い込んだこと』だからである」と。これに100%同意するわけではないが、確かに「すべての人びとが納得するような理論」を提示するのは、99.9…の後に9が9個つくぐらいの確率で不可能、と思います。

> (2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
> (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。
⇒仰せのとおりだと思います。「ソリプシズム」(独我論)の言うところによれば、「何かを知ることができても、他人には伝えられない。なぜなら、伝達の手段は言語だが、その言語は『感覚ではない』からである。ゆえに、他人とのコミュニケーションは、自分の錯覚である」、とのことです。独断・偏見を含む極論と見えるところがあるとは思いますが、記憶に留めておく価値、一考の価値はあるでしょう。

> 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
> 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。
⇒そうですね。弁証法ですね。正・反・合ですね。最初の発言(テーゼ)に対し、その問題点を提示し(アンチテーゼ)、吟味・検討して一段上昇する(ジンテーゼ)。そうすればそれを、次の段階の提言(新しいテーゼ)とすることができますから。

> 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
⇒その第三者が誰であるかによるでしょう。真理は相対的で、「時空の交差点」が決まって初めてそれが決定づけられます。まして、第三者が権力者であったりする場合の影響は絶大でしょう。「時の支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)というような、恐ろしい、しかし的を射ているような金言もあります。

> 【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?
⇒「パースペクティビズム」(遠近法主義)を基本におきたいですね。自分の見る世界は管見です。他者の見たものと接合する姿勢が大事です。「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄できる」(オルテガ)でしょうから。

以上、不一ながら、ご回答まで。
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この回答へのお礼

 なかい702さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ⇒「大勢を騙せてもすべての人は騙せない」という格言があります。説得の場合も同じようなことが言えると思います。つまり、悲観的な見方ですみませんが、すべての人を説得するのは至難の業と考えます。
 ☆ そうですね。質問者として率直に反応したところをしるしてまいります。

 《説得する》ことは 《騙す》ことと同じでしょうか?

 たとえば《ひとは誰もが不幸になりたくないと思っている》といったひとつの命題を提出して そうではないかと説得することは 可能ではありませんか? 《すべての人を》です。


 ★ ゴルギアスらは、「相反する事柄の双方を弁護することができる」と言っています。
 ☆ これが妥当であるとして普遍的であるのは この世の経験的なものごとについてだと言うべきではないでしょうか。

 もし《人間には分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》という定義を 神に当てはめるなら それは 永遠に普遍性を持つ命題ではないでしょうか?



 ちなみに 批判・反論が妥当性をもって提起されない場合は 《普遍性を持って説得しえた》ことをくつがえすことは出来ません。おれは説得されないぞとだけ言っているのでは 話にならない。というのは 前提事項だと考えます。
 =☆☆(趣旨説明欄) (2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。




 ★ 「ソリプシズム」(独我論)の言うところによれば、「何かを知ることができても、他人には伝えられない。なぜなら、伝達の手段は言語だが、その言語は『感覚ではない』からである。ゆえに、他人とのコミュニケーションは、自分の錯覚である」、とのことです。
 ☆ 申し訳ないですが 独我論はいただけません。わたしには無理です。《独我》なるワタシを 人びとよ共有してくれと言っているように思われます。《〈他人に伝えられる〉と思っている》ようです。から。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。

 ⇒そうですね。弁証法ですね。正・反・合ですね。最初の発言(テーゼ)に対し、その問題点を提示し(アンチテーゼ)、吟味・検討して一段上昇する(ジンテーゼ)。そうすればそれを、次の段階の提言(新しいテーゼ)とすることができますから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。このように 直前の《〈独我論〉論》がジンテーゼにまで到ることを期待します。

 
 

 ★ ⇒その第三者が誰であるかによるでしょう。真理は相対的で、「時空の交差点」が決まって初めてそれが決定づけられます。
 ☆ そうでしょうか。わたしは 当事者にくらべたら 第三者はたとえ調停者としてじっさいに調停がうまく行った場合にも あくまで《局外者》であると考えます。
 その意味は 《説得》ということ自体についてみればということですが 説得が成るというのは あくまで当事者が自分の内で自分の言葉で整理して納得が行きしかもこれを意志において飲むというところでこそ決まるのであり 基本的にそれによってのみ決まると考えるからです。

 第三者が 言わば触媒の役目を果たすかに思われますが じっさいには 当事者が意志をはたらかせ腹を決めなければ 何も合意には到らない。こう考えるからです。


 言いかえると このような《当事者どうしの合意》理論とは違って 第三者がたとえば社会的な有力者であったことにより 合意が出来たというような場合には それは決して《対話としての説得》ではない。こう言わねばならないと考えるからです。

 ★ まして、第三者が権力者であったりする場合の影響は絶大でしょう。「時の支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)というような、恐ろしい、しかし的を射ているような金言もあります。
 ☆ 残念ながら これは 現実の社会力学には当てはまりますが 哲学にはそのままでは当てはまらない。こう考えます。意志の萎縮したところに《説得》も《対話》もあり得ません。そうではないでしょうか。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > 【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?

 ⇒「パースペクティビズム」(遠近法主義)を基本におきたいですね。自分の見る世界は管見です。他者の見たものと接合する姿勢が大事です。「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄できる」(オルテガ)でしょうから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。それはそうですよね つねに。視野を広く判断材料については出来るだけすべてのものを でしょうね。

 ここでは――つまり 以上のように言ったうえで―― いぢわるのクセが出かかっています。
 出しちゃいますが
 ★ 他者の見たものと接合する姿勢が大事です。「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄できる」(オルテガ)でしょうから。
 ☆ この命題じたいにおおきなマチガイはないと思います。ただし この指針をここで持ち出して 説得ないしコミュニケーションの心がまえにするというなら それは どういう意味を持つか?

 そもそも説得というのなら すでに初めに自分の意見があります。自分の理論を人びとに示すというウゴキがすでに始まっています。そのときこの指針を取り出して活用したとすれば どういうことになるか?

 というよりは 自分の案や意見あるいは理論をすでに持っているということは すでにそれまでにおいて《自分の見たものと他者の見たものを接合することによって》作成し形成して来ている。とは考えられます。

 まぁ おっしゃるように 見解の発表や理論の説明の時点でも やはりアンチテーゼを受け留めつつ 弁証法過程をたどる。とは思われます。

 つまりわたしの言いたかったことは 《接合》というときに何も相手の見解を継ぎ合わせてあたらしい内容へと書き直して行くということを つねには意味しない。のではないか。つまり 一般に《対峙》してもよい。ときには《対立》してもよい。こういった道筋が思い浮かんだものですから ちょっと《いちゃもん》をつけてしまいました。



 お尋ねしたいのは
 ★ 「時の支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)というような、恐ろしい、しかし的を射ているような金言
 ☆ が
 ★ 「自分の見たものと他者の見たものを接合することによって、神の視点に肉薄でき」たというその視点
 ☆ と同じような高みもしくは深みを持つのかどうか。です。

お礼日時:2013/09/28 15:13

bragelonneさん こんばんは お久しぶりです。



私は宗教が絡むと「すべての人」というのは、現在の世界においては、かなり危ないと思います。

私はキリスト教のカトリックを信仰しています。

bragelonneさんの哲学も興味がありますが、やはり宗教は、それぞれの人、個人個人のよりどころと思っています。

確かに、bragelonneさんのカトリック批判は一理ありますが、私としては、信仰の関係から、bragelonneさんと、わずかな距離を置いて回答してます。

私は、私と違う、相手が、どんな宗教を信仰していても、その方の人格形成に関わっていますから、尊重します。

スマップの「世界でひとつだけの花」の様に個人個人、独自の花の種を持ち、ナンバーワンを目指さず、オンリーワンを目指すことに大賛成!

コミュニケーションには、人との微妙な距離間は大事と思います。

ジョン・レノンの「イマージン」の天国も地獄も宗教もない地球というのは、我々の子孫が達成し、現在の世界において早急に実現するのは、まだ早いと言うのが、私の考えです。

その人がおごってヒットラーのような独裁者になるのは危険。

確かにヒットラーは私が一番嫌いな人ですが、第一次世界大戦でドイツは莫大な損害賠償を戦勝国から要求された時代背景もあり、少なくとも、そのような人は危険という記録を人類に与えました。

哲学も温故知新と思います。

しかし、その哲学を作ったちっぽけな人間を将来の子孫が間違って解釈し、戦争を始める理由にしないように、bragelonneさん独自の哲学体系を作っていただき、bragelonneさんの花の色に染めてください。

賛否を解釈するのは、私達の子孫です。

Love peace !
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この回答へのお礼

 あめんほてぷ2000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ★ 私は宗教が絡むと「すべての人」というのは、現在の世界においては、かなり危ないと思います。
 ☆ 《宗教のオシエ》を受け容れよといって説得するという意味ではありません。

 そしてむろん世界中の人びとを残らずじっさいに説得するというわけでもありません。

 言いかえると 《話をすれば 話が通じないひとはいない》と言ってよいか? です。

       *

 ★ 私はキリスト教のカトリックを信仰しています。
 ☆ 余計なことですが 今後も何度か同じ表現に出会うかと思いますので わたしのほうの考え方にも触れておきます。

 人間が《信じる》というのは その対象が経験事物ではありえないと考えます。
 つまり 《オシエ》も経験事物です。
 つまり 経験的なものごとについては これを人間は《考える》のであるからです。経験合理性に照らして妥当であるかどうかについて 推論をすすめる。これが 《考える》です。

 ところが 《信じる》は 対象が雲をつかむようなものについて言う言葉です。言葉では言い表わせないナゾの何ものかについてのみ《信じる》のだと考えます。

 《キリスト教を信じる》とか《仏教を信じる》というのは 表現のマチガイです。言ってみれば その組織に所属しているとか あるいは そのオシエをまなんでいるとか あるいは その宗教の味方であるとか そういった経験的なことがらを語っているのであって 決して《信じる ないし 信仰》とは同じではありません。

        *

 ★ やはり宗教は、それぞれの人、個人個人のよりどころと思っています。
 ☆ よりどころというとき ふたつの場合があります。
 その組織やオシエやそこでの仲間やが 心の支えになる場合 これは 経験事象です。信仰ではなく 信念・信条・座右の銘・友情による助け合いなどのことです。
 そうではなく 言葉で言い表わせない謎の何ものかを心にいだくという《信じる》によって生きる場合が ほかにある。こうなります。

         *

 ★ 私は、私と違う、相手が、どんな宗教を信仰していても、その方の人格形成に関わっていますから、尊重します。
 ☆ この場合はですね。宗教がからむ場合にせよそうでない場合にせよ ひとは・つまりその存在は 何ものにもましてとうとびます。いのちという場合と同じです。
 
 しかるに ひとの考えやおこないについては 自由に批評し もし考えが違うなら 批判します。

 存在と行為とを分けてあつかいます。

        *

 ★ コミュニケーションには、人との微妙な距離間は大事と思います。
 ☆ このことは そのまま どこでも通ると思います。すなわち その存在を互いにとうとぶ場合にも そして相手の思想を批判する場合にも この人と人とのあいだの距離感は 大事だと考えます。


        *


 ★ ジョン・レノンの「イマージン」の天国も地獄も宗教もない地球
 ☆ これは わたしは 成熟した思想だとは思っていません。萌芽でしょうか。つまり 空想による理想志向なのでは?


        *

 ★ その人がおごってヒットラーのような独裁者になるのは危険。
 ☆ ヒトラーの個人的な性格なども 大きな要素要因になったと見ますが それだけでは《ヒトラー》にはなれないはずです。人びとが後押しをしたのだと見ます。

 ★ ・・・第一次世界大戦でドイツは莫大な損害賠償を戦勝国から要求された時代背景もあり、少なくとも、そのような人は危険という記録を人類に与えました。
 ☆ つまり そのような情況からの要請もあり そして何よりも人びと一般が後押しをしたということが 大きいかと思っています。

 したがって哲学は 思想については マチガイだと思えば 普段から自由に互いに批判をすることが大事だと考えます。

      *

 ★ 賛否を解釈するのは、私達の子孫です。
 ☆ どこかでも そういった考え方を見たおぼえがありますが なんで世代を飛ぶのですか? あとの世代にも継がれて行くでしょうが なんで いまこの世代において成すべきことを成しておこうという考え方をしないのでしょう?

 取り立てて《批判》するほどのことではないかも知れませんが 何だか おかしな感じです。なぜ未来へ飛ぶのかです。

      *

 ★ 独自の哲学体系
 ☆ 《哲学体系》ないし全体的な理論というのは いわゆる迂回生産として 可能性という可能性を考慮に容れて すべての交通整理をしておくといった作業だと思います。これは 地道な仕事であり 学者研究者のおこなうことだと思います。

 《独自の》というのは けっきょくそのいま現在の社会の中に・またそこに生活するひとの中に どこかあたらしい人間の社会的交通の萌芽が垣間見られたとき その萌芽の内容を 歴史的に方向づけつつ あたらしいウゴキへとみちびくような見方を提示する。ことだと考えます。

 ということは むしろ一般的な人びとのマジワリのあり方を すこし時代を先取って示すということ。
 つねに 一般性だということが 大事かと思います。

 あるいは 同じ旧態依然とした情況や人間の状態について ほんの少しズラシをともなって見方を変えてみるということ。ではないかと考えます。

 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】 ~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html

  ( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。

  ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これなどは われながら いいヒラメキだったと思っています。KY・ニート・引きこもりなる状態にある人びとがめざめたとき すでにその性格にあらわれていた内容がむしろその未来社会における常識となっている。その意味では
 ★ ・・・我々の子孫が達成し、現在の世界において早急に実現するのは、まだ早いと言うのが、私の考えです。
 ☆ という見方と通じるかも知れませんが。早いほうがいいですけれど。

お礼日時:2013/09/27 22:00

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