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 §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。

 (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。

 (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。

 (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?


 §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。

 (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。

 (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。

 (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。

 (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。

 (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。


 §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。

  (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。
   【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8314264.html

 (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。

 (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。
  【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8329251.html

 (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。

  ○ われらが因果論:

    人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)

 ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。
  
 (12) あるいは それとも

   【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7526932.html

A 回答 (35件中31~35件)

こんばんはです。



kazamidori365さんへ。

金剛般若経の和訳は、たとえば、
http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_kongoha …

抄訳のようですけれど、参考になるのでは。

で、この第五章に
─────────
「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来には特徴があると、見るべきだろうか。」

「師よ、そう見るべきではありません。
というのも、如来は、こう説かれてます。
『特徴があること、とは、特徴がないこと』」

「スブーティよ、こう考えなさい。
特徴があると断じれば、偽りであり、
特徴がないと断じるなら、偽りである。
特徴があること、かつ、特徴がないこと、
その両方から、如来を見なければならない。」
─────────


これが、
 ☆ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる。
  ゴータマ・ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる?
  で、いいんだろうか?
の回答。

《空》だから、《無自性》だから、《無相(特徴がない)》だから、《無願(執著の対象にならない)》だから。
これを《三解脱門》といいやす。

三解脱門
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%A7%A3%E8%84 …

これは観法に関係しているんです。
このように、現象を見なさい、観察しなさい、と言っているんです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ (さん‐げだつもん 【三解脱門】) ~~~~~~~
 仏語。解脱に至る方法である3種の三昧(さんまい)。

 一切を空と観ずる空解脱、
 一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、
 その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。

 三三昧(さんざんまい)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇ 《空》だから、《無自性》だから、《無相(特徴がない)》だから、《無願(執著の対象にならない)》だから。
 ☆ 分かりません。こんなの分かるんですか?

 《空解脱》は 色即是空ですね。

 《無相解脱》は 人間には無理でしょう。
 すなわち 《無相》と見たとき その認識は《無相》というひとつの相となっている。人間には その文字通りの無相の成就は 無理です。
 

 《無願解脱》も 無理です。同じ論理です。
 すなわち 《願求の念を捨てる》というとき その捨てるという意志には 願いや望みや欲求がふくまれています。

 ハカラヒ無きを自然(じねん)と言うと言っても ハカラヒを無くすことが ハカラヒであるのですから。





 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 「スブーティよ、こう考えなさい。
 特徴があると断じれば、偽りであり、
 特徴がないと断じるなら、偽りである。
 特徴があること、かつ、特徴がないこと、
 その両方から、如来を見なければならない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 次のように解釈できます。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 《特徴があると断じれば 偽りである》のが 如来である。
 (い) 《特徴がないと断じるなら、偽りである》のも 如来である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言ったのなら もう次の命題は 成り立たない。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (う)《特徴があること、かつ、特徴がないこと》
  その両方から、如来を見て 
  その何であるかを知らなければならない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なぜなら 《両方から見る》のならば (あ)にも(い)にも違反しているゆえ。

 

お礼日時:2013/11/04 21:24

般若教典の一つである「金剛般若経」における代表的な表現として、「Aは非Aにして、ゆえにAといわれる」・「Aは非Aであり、それによってまさにAである」、いわゆる「即非の論理」についての補足であります。



六、即非の論理について
http://oujyouin.com/enginorikai6.html

~~~~~~~~~~~~~~

つまり、

ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる。

ゴータマ・ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる?

で、いいんだろうか?

いみがわからない。
しかし、これが即非の論理のようです。

ブッダを否定してもこんなことを言い出す人がいるだろう。
きっと。
これで、理屈じゃない、実感しろ、さあ修行。
とか言われたら、押し切られてしまいますよ。

戯論寂滅。破邪顕正。
是非、論破してください。期待しています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる。

 ゴータマ・ブッダはブッダではない。ゆえにブッダといわれる?

 で、いいんだろうか?

 いみがわからない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おなじく意味が分かりませんよ。こんな《即非の論理》だとか言っても。

 ねこさんが 何か書いてくれているようです。

お礼日時:2013/11/04 21:07

インチキか本物か、私にはどちらとも言えないのです



何故ならあった事が無いので。

ご質問者様がインチキと言い切れる方が私には不思議です。

何故にそこまでご自信の人生を釈尊に依存するのでしょう?
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 なぜ
 ★ インチキと言い切れる
 ☆ か?

 (1) 自分だけが ブッダに成れたと言ったからです。
 《一切衆生 悉有仏性》を知らなかった。ブッダターという言葉をも知らなかった。

 (2) 四苦のうち特には 生を苦と見たからです。これは 《人間の根本的な生存欲》であるという解釈もありましょうが 無理です。たとえそうだとしても ブッダになれない原因として見るまでの《苦》だとは言うほうが――つまり そんな発想だけでもするほうが―― おかしい。理屈抜きに阿呆です。
 
 そんなに世界が苦だというのなら 勝手におさらばして行けばよろしい。

 (4・5) 《信仰》とは わが心なる《非思考の庭》のことであるとは知らなかった。

 せいぜいが 宇宙の果てにまで想像をめぐらすこととでも思っていたのではないでしょうか。



 (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。
 ☆ これゆえ インチキです。中身がない。



 (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。
 ☆ これゆえ インチキです。《人間因⇒人間果》なる因果論〔(11)〕を知らない。



 


 ★ 何故にそこまでご自身の人生を釈尊に依存するのでしょう?
 ☆ 人びとみんなと一緒に ゴータマ・ア‐ブッダなるブラックホールからの帰還を目指しているからです。
 それには 一たんそのブラックホールに落ち入った状態と同じかたちに成る。そこから出発するからです。
 

 

お礼日時:2013/11/04 16:30

ちょっとNO1に付け足し。



厳密には、
 ☆無明(=煩悩=渇愛=無知)
ではありません。

仏教では、
無明と煩悩は一応、わけて考えるべきなんでしょう。

アビダルマでは、
 無明(癡・ち)は煩悩の一つに分類されています。

無明・癡には、《moha》を当てているようですね。
 《moha》→《バカ》になったとか。
《a-vidyA》ではない。

大乗唯識〔の一派〕では、
 この無知が原因となって、他の煩悩が起きる、
と考えますけれども、
説一切有部とかは、すこし違った考え方をしているような・・・。

《a-vidyA》と《moha》が同じなのか、どうかは、
わたしの手に余ります。
同じだとは思うんですが・・・。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ◇ 無明と煩悩は一応、わけて考えるべきなんでしょう。
 ☆ ブッダになれないその原因としては 同じでしょう。



  ○ 無明(=無知≒煩悩=渇愛)
 
 としましょう。

お礼日時:2013/11/04 16:18

こんにちは。




☆ (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。
◇バラモン・ヒンズー教、ジャイナ教も同じです。


☆ (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。
◇《輪廻=生》を苦と考えるのは、仏教のみならず、《インド教》の特徴です。



☆ (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?
◇《輪廻》を含む不確定な未来への恐れではないでしょうか。


☆ (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。
◇《諸行無常》《諸法無我》であるから、変化生成は起きる。
《縁起》します。
《五蘊仮和合》は《空即是色》を言い換えたモノです。
《諸行無常》《諸法無我》の持つ否定的な一方的な面のみだけを見ています。
こういうのを《辺見》といい、ゴータマさんは強く否定しています。
《執有論》・《執無論》を否定しています。

悪見
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%82 …



☆(4)の信仰は持ち得ないと見た
◇『阿毘達磨倶舎論』によれば、《信・zraddhA・しゅらっだー》は、
 I 心の清らかさ
 II 《四聖諦》、《三宝》、《業因業果》or《縁起》を信じること
です。


☆(5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。
◇この《空観》が何を意味するのかわかりませんが、
《空観》は基本的に現象への執著を断つ対治の〔方〕法にすぎません。


☆ (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。
◇このことは否定しませんけれど、
これは現実をよりよく見る、受け入れるために行ったことです。
《観念の大伽藍》を作ることが目的ではありません。



☆ §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。
◇《ブッダ》は、眠りから目覚めた者の意味です。
これを真理を見た者ととらえるから、おかしなことになったんです。

お酒で酔っ払った状態から酔いがさめた人と考えればいいです。
酔いからさめたとしても、目の前の世界は、な~んも変わっていない。

《ブッダ》というのは、ただの尊称です。
バラモン教やジャイナ教でも《ブッダ》という言葉を使いますし、
ブディストもゴータマさんを《勝利者・jina》と呼びます。
ゴータマさんは、自身をバラモンや梵行者とさえ呼んでいます。

ジャイナ教の人たちが、マーハーヴィーラのことを《ブッダ》と呼んでいたら、
今のジャイナ教が仏教となり、
今の仏教がジャイナ教という名称になったかもしれませんよ。

単なる偶然と歴史的経緯にすぎませんって。

う~ん、
ジャイナ教が仏教と呼ばれていたら、
仏教は、
《世尊・bhagavat》教や《bhagavad》教とか呼ばれていたかもしれない・・・。
すると・・・。

ヴィシュヌ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3% …

バガヴァッド・ギーター
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AC% …



☆(11) 無明・煩悩が インチキなのである。
◇《無明・a-vidyA》は《明知・vidyA》の否定語ですし、《無明》は《明知》のない状態をいっているわけでしょう。
明知なる難しい言葉や概念を使わないで、
これを単に知識ととらえれば、
わたしたちには、知識のない状態、《無知》状態はあるわけですし、
そして、
わたしたちはこの状態の存在を認めている。
なので、インチキというほどのものではないでしょう。

《煩悩・kleza》ですけれど、これは、「悩みをもたらす・苦しめる、付着する」などを意味する√klizから生まれた言葉。
わたしたちには、現に悩みや苦しみはありますし、その悩みや苦しみには原因がある。
で、
分類法が正しいかどうかという議論はあるでしょうけれど、
仏教では、その原因を《煩悩》と呼んでいるのであって、
インチキというほどのものではないでしょう。

仏教を知っていようがいまいが、
お腹が空いていれば、その苦しみを除去するためにご飯を食べる。
何か失敗をすれば、
同じ失敗を繰り返さないために、原因追求をし、原因を除去する。

ごくごく当たり前のことをいっているだけだと思うんですが・・・。



☆  【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
◇「生まれによってバラモンになるのではない、行為によってバラモンになる」
と言うとります。
《自性清浄心》を言ったかどうか、
実在したゴータマさんは《自性清浄心》までは言っていない
と個人的には考えておりますけれど、
これはゴータマさんの言葉として、パーリ語仏典にあります。

《可能態》としてはブッダ、
《現実態》は凡夫
とでも考えればよろしいのでは。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 (1)
 ◇ バラモン・ヒンズー教、ジャイナ教も同じです。
 ☆ では カースト身分制には反対したが 倫理思想ないし宗教のオシエとしては やはり人間を品格で差別したと見られます。

 この場合は おのれ独りが 目覚めてすくわれたクラスを形成し ほかの人間はみな凡夫の階級に属すという人間差別だと考えられます。




 (2)
 ◇ 《輪廻=生》を苦と考えるのは、仏教のみならず、《インド教》の特徴です。
 ☆ だとすると これは そんな《苦》としての世界観をインドよりほかの地でも人びとは受け容れたか? という次の(3)項ともつながります。




 (3)
 ◇ 《輪廻》を含む不確定な未来への恐れではないでしょうか。
 ☆ 死のおそれ・またすくわれないというおそれ でしょうか。

 ただ前項の問いについては ほかの民族の人びとは 《苦》の世界観をそのままでは受け容れていないように思われます。

 生老病死の特に生が《苦》だって? というように まともには受け留めていないのではないかと。




 (5)
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《諸行無常》《諸法無我》であるから、変化生成は起きる。
 《縁起》します。
 《五蘊仮和合》は《空即是色》を言い換えたモノです。
 《諸行無常》《諸法無我》の持つ否定的な一方的な面のみだけを見ています。
 こういうのを《辺見》といい、ゴータマさんは強く否定しています。
 《執有論》・《執無論》を否定しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは (5)だけでは たしかに《色即是空》というひとつの側面のみを取り上げたものです。すなわち:

 ☆☆ (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (4)の信仰は持ち得ないと見た

  ◇ 『阿毘達磨倶舎論』によれば、《信・zraddhA・しゅらっだー》は、
  I 心の清らかさ
  II 《四聖諦》、《三宝》、《業因業果》or《縁起》を信じること
 です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (4)の《無梵無我一如》なる信仰類型は 《好意的に解釈した》ものです。《信》に非思考の庭であるという補助線を引いてやれば 理念型にまで行き着くかも分かりません。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《ブッダ》は、眠りから目覚めた者の意味です。
 これを真理を見た者ととらえるから、おかしなことになったんです。

 お酒で酔っ払った状態から酔いがさめた人と考えればいいです。
 酔いからさめたとしても、目の前の世界は、な~んも変わっていない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 誰もみとめないでしょうね。
 《さとりの中身を思って これをひとに説いても われよりほかに誰も理解しえないだろうと思っている》とすれば 《目の前の世界は な~んも変わっていない》としても さとりの知恵は得ていると言ったはずです。




 ◇ わたしたちには、知識のない状態、《無知》状態はあるわけですし
 ☆ いえ。ブッダに成れないところの原因としての問題です。


 ○ 煩悩
 ◇ わたしたちには、現に悩みや苦しみはありますし、その悩みや苦しみには原因がある
 ☆ これも同じですが 問題は
 ☆☆ (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。
 ☆ というように 無明の一元論 または 明知との二元論として 打ち出しているところにあります。それが インチキです。


 ◇ 「生まれによってバラモンになるのではない、行為によってバラモンになる」 / と言うとります。
 ☆ という命題は持ったのでしょう。しかも バラモン(つまり この場合 ブッダ)は おのれ独りがその階級を成し あとの人間は ブッダに成れないしその知恵や理論を説いても理解できないと考えたこと ここにマチガイがあると言うべきでしょうね。
 



 (11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ われらが因果論:

    人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ および

 (12) 【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】

 この二点でさしづめ ゴータマ・ア‐ブッダなるブラックホールからの帰還をめざします。

お礼日時:2013/11/04 16:15
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