dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。

 (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。

 (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。

 (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?


 §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。

 (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。

 (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。

 (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。

 (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。

 (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。


 §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。

  (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。
   【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8314264.html

 (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。

 (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。
  【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8329251.html

 (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。

  ○ われらが因果論:

    人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)

 ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。
  
 (12) あるいは それとも

   【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
   http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7526932.html

A 回答 (35件中11~20件)

こんにちは。




☆以前、空の処格について
文法上は場所があるとかの話もそうだけど。
◇なんすか、その《空の処格》の話というのは?
(サンスクリット表記は、京都・ハーバード方式)

般若心経の、
是故 〔舎利子〕 空中 無 色
tasmAc ChAriputra 《zUnyatAyAM》 na rUpaM
 たすまーちゅ しゃーりぷとら しゅーにゃたーやーむ な るぱーむ
ですかい?



☆般若心経とかの空は単数形なんだろうか?

panca=skhandAs tAMz ca svabhAva=zUnyAn pazyati sma.
「ぱんちゃ(五つの) すかんだーす(蘊) たーましゅ(それらは) ちゃ(そして) すヴァばーヴァ(自性) しゅーにゃーん(無い) ぱしゃてぃ(見抜く) すまー(した)」

ここでは、
《zUnya・空》の男性・複数・対格の《zUnyAn》が使われいるね~。
これは《panca=skhandAs》が男性・複数名詞だから、文法的に、それに呼応しているものなんでしょう。

《zUnyatA・空〔性〕》の方は、すべて単数みたいです。
《五蘊皆空》以外の《空》は、《zUnyatA》です。



☆amoghaで、不空と訳している。
◇空海さんのお師匠さん〔恵果さん〕のお師匠さんのお名前は、
《不空》さんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA% …




☆後世の仏教徒が、創作した話だったりして?
◇話の内容はともかく、
名前に関しては、その可能性はある、
と思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 是故 〔舎利子〕 空中 無 色

 tasmAc ChAriputra 《zUnyatAyAM》 na rUpaM
 たすまーちゅ しゃーりぷとら しゅーにゃたーやーむ な るぱーむ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 処格 ありましたね。

   -A 語幹 女性・単数・処格: -yAm




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 panca=skhandAs tAMz ca svabhAva=zUnyAn pazyati sma.

 「ぱんちゃ(五つの) すかんだーす(蘊) たーましゅ(それらは) ちゃ(そして) すヴァばーヴァ(自性) しゅーにゃーん(無い) ぱしゃてぃ(見抜く) すまー(した)」

  ◇ 《zUnya・空》の男性・複数・対格の《zUnyAn》が使われいるね~。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 確認しました。

   -a 語幹 男性・複数・対格: -An




 ○ モーガ‐ラージャ:空なる王。愚鈍の王
 ☆ これは 自分で名乗っているのか? (親による名づけなのか?) あるいは 編集者が 何かのあそびかいぢわるかで ちょっと変えてみたものか? でしょうか。

お礼日時:2013/11/06 19:44

モーガラージャ


愚鈍の王

バラモンの名前に詳しくないのでなんとも言えませんが
こんな名前をつけるのでしょうか?

親鸞みたいな人だったんでしょうか。

愚禿。

もしかしてですけど、
ひょっとして、

後世の仏教徒が、創作した話だったりして?

バラモンをわざわざ愚かと呼んで。
いや、もちろん自分から愚かという場合もありますけどね。

わからない。

そんな名前の人もいる、くらいでいいか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つづいてです。



 ひとの名前のつけ方は いろいろなのでしょうね。
 特に昔は わるいイメージの言葉でも 平気で・あるいはかえって積極的につけたようにも思われます。

 このモーガラージャの命名が そうであるかどうか分からないので 例示は 考えるのをやめます。
 現代にも ノ・テーウ(盧大愚)という大統領がいましたね。


 ★ 後世の仏教徒が、創作した話だったりして?
 ☆ までの可能性があるとすると 分からなくなります。

お礼日時:2013/11/06 07:47

読み返したら自分の



空はある。という表現は奇妙だと思った。

いわゆる、存在への問い。というのだろうか。

空が否定の概念だとしても
その空は存在している。
その存在を問題にしよう。みたいな話。

存在忘却。

以前、空の処格について
文法上は場所があるとかの話もそうだけど。


それにしても
空は単数形。世界も単数形なんですね。

仏教は世界がたくさんあるとかいいそうな気もするんですが
そうでもないんですね。

般若心経とかの空は単数形なんだろうか?

今見て、思ったんですが

mogharāja

ですけど、



パーリ語辞典 水野弘元著
mogha:a.[〃] 空虚の,無用の,愚鈍の.acc.moghaṃ 徒らに,空虚に.-jiṇṇa 徒らに老いたる.-dhamma 愚痴法.-purisa 愚人.-vāra 空時分.-suttaka 空糸.

http://palidictionary.appspot.com/#/browse/m/mogha


それで、サンスクリットのほうだと
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …

さらに調べると

amoghaというのがあって

~~~~~~~~~~~~~~~

om amogha vairocana
オーム (聖音) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E% …

~~~~~~~~~~~~~~~

amoghaで、不空と訳している。

不空羂索観音
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA% …

~~~~~~~~~~~~~~~

モーガラージャは空王
もしくは、空虚な王とも訳せるでしょうね。

空虚な王が
死の王と対比されている。

名前から詩の内容を考えたんだろうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 読み返したら自分の

 空はある。という表現は奇妙だと思った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《空》なんて言っても はじめは何のことかと思うでしょうね。そう受け取るでしょうね。

 ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~
 ・(中村元:1119) 世界が空なりと観ぜよ。
 
 ・ 1119:《空っぽ(ゼロ)なるさま〔と〕( Suññato ) 世界‐を( loka-ṃ )見なさい( avekkhassu )。

 ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~

 (え) 色即是空:
     ruupam    suunyata,
     かたち‐ハ  空っぽ(ゼロ)‐なるさま〔なり〕

 (お) 空即是色
    suunyata          iva   ruupam. 
    空っぽ(ゼロ)‐なるさまハ まさに かたち〔なり〕。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ たとえば 秋の夕暮れのなかにいて もののあはれを知ったという。世界を見たということは わが存在についても 何がしかのことを思ったということなのでしょうね。つまり 存在観のもんだいであるかも。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 モーガラージャは空王
 もしくは、空虚な王とも訳せるでしょうね。

 空虚な王が
 死の王と対比されている。

 名前から詩の内容を考えたんだろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いろいろですね。

お礼日時:2013/11/06 07:41

ふーるです。



>質問者が納得するように証明してから そういうことは言ってください。話になりません。
会ったこともないのに どうしてそんな浅はかな発言を為すにおよぶのですか?
そんなうすっぺらな自己表現しか出来ないのですか。

納得するしないは貴方の勝手でしょうねぇ。

会った事も無い貴方は、何故に無責任に他者の否定が出来るのでしょう?

私が薄っぺらなのは結構ですが、読解力と言う物も人によりけりですからね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 めちゃくちゃです。

お礼日時:2013/11/05 20:58

“Suññato lokaṃ avekkhassu,


Mogharāja sadā sato;
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca,
Evaṃ maccutaro siyā;
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ,
Maccurājā na passatī”ti.


Sutta Nipāta 5.16
Mogharājamāṇavapucchā
http://suttacentral.net/snp5.16/pi/


トップページからは
http://suttacentral.net/

Pali→Khuddaka Nikāya → Sutta Nipāta → Mogharājamāṇavapucchā

と進んでください。

~~~~~~~~~~~~~~

Suttanipata
(Pali Text)
PTS Version (Andersen/Smith)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/su …

詩句の番号は1119。

~~~~~~~~~~~~~~

とりあえず、興味があってもパーリ文が
無い人のために、該当箇所を引用しておきます。

PTS版は中村元の訳と比較できるので便利。

スッタニパータでも成立の古いとされる
第四章と第五章のうち、

第五章に、空のことばが出てくる。

やっぱり、空は昔からある、のか?

この回答への補足

 パーリ語注解です。

 1. Mogharāja / Maccurājā のラージャについて:
  
  ▽ (水野) http://palidictionary.appspot.com/browse/r/r%C4% …

   ・rājan:rājā m.[skt. 〃] 王,国王.
  (sg.) nom.rājā; voc.rāja; acc.rājānaṃ; instr.raññā,rājinā; dat.gen.rañño,rājino,raññassa; loc.raññe,raññi;
 
  ☆ -a 語基( m.; n.)ではなく -an 語基の m. (男性)。
   ・sg./ nom.: rājā;

    ・sg. / voc.: rāja


 2. avekkhassu < avekkhati:[ava-ikkhati,BSk.avīkṣate] 観察する,見る.

 水野辞典では 直説法の中に 命令形として分類されている。
 能動態ではなく 反照態(=中間態・再帰形)の命令形。
  
    sg. 1 -e / 2 -ssu / 3 -tam


 3. sato < sata : adj. [sarati √smṛ の pp.,Sk.smṛta] 憶念せる,念の,念あり,具念,正念の


 4. ūhacca : adv.(1) [ūharati< √ud-hṛ の ger.] 揭げて,舉げて; 引き出して,除いて

    ger. -ya, -tya


 5. maccu-taro の taro <  tara adj. 渡る、度脱の
      < tarati (1)( √tr) 渡る、超える、横切る


 6. siyā < atthi (skt. asti):ある。存在する。
 
     opt.(希求法):
      act. sg.1: siyam, siyaa, assam // pl.1:assaama
         sg.2: siyaa, assa //    pl.2: assatha
         sg.3: siyaa, assa //   pl.3:siyum, assu  


 7. avekkhantaṃ < avekkhanta: present active participle (ppr)

   現在分詞:語基に -t (-nt ), -nta, -maana, -aana 等を接尾する。


 8. ・・・ passatī” ti. < passati” iti.

補足日時:2013/11/06 15:42
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ▲ ( Sutta Nipāta 5.16 )~~~~~~~~~
 “Suññato lokaṃ avekkhassu,
 Mogharāja sadā sato;
 Attānudiṭṭhiṃ ūhacca,
 Evaṃ maccutaro siyā;
 Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ,
 Maccurājā na passatī”ti.

 ▼(中村元訳) ~~~~~~~~~~~~
 1119 (ブッダが答えた)、
 「つねによく気をつけ、
 自我に固執する見解をうち破って、
 世界が空なりと観ぜよ。
 そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
 このように世界を観ずる人を、
 <死の王>は、見ることがない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 こころみました。

 ○ (スッタニパータ §5.彼岸にいたる道の章) ~~~~~~~
§16 若いバラモンのモーガ-ラージャ(愚鈍-王)の質問( Mogha-rāja-māṇava-pucchā )

 1119:
 《空っぽなるさま〔と〕( Suññato ) 世界‐を( loka-ṃ )見なさい( avekkhassu )。

 モーガラージャよ( Mogharāja ) つねに( sadā ) 心に思って( sato )〔いなさい〕

 自己( Attānu- )〔の〕見解-を( -diṭṭh-iṃ ) 取り除き‐つつ(ūhac-ca ),

 このように( Evaṃ )死〔を〕乗り越えたさまに( maccu-taro ) あられたし( siyā );

 このように( Evaṃ ) 世界を( lokaṃ ) 見る‐者‐を( avekkha-nta-ṃ ),
 
 死‐王は( Maccu-rājā ) 無い( na ) 見い出す( passati )》と( iti )。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ▽ 自己( Attānu- ): attan (われ、自己)が 語基。
   sg.nom.: attā // pl.nom.(および acc. ): attā, attāno

 つまり 複数・主格の attāno と解した。けれど attāno ではなく attānu と成っている。これは ほかの読み解きを考えつかないので 苦肉の解釈。

お礼日時:2013/11/05 22:45

独り言なんですがね~、


考えてみれば、
 sunnato lokam
スッタニパータのこれ、
sunnatoが主語か、lokamが主語か、わかんないんですよね~。

sunnatoを主語と考えれば、
「空性は世界である」
の意味になる。
『般若心経』に出てくる、
《空即是色》
の意味じゃないのか、この部分は・・・。

わたしは、
倒置されているのだと考えましたが、
ここには解釈が入っている。


テキストの語順を尊重すれば、
「空は世界である」
としなければならない。
テキストは尊重されるべきである!!

lokamの語尾《m》は対格を意識しているかもしれない。
(英語でいう目的語なんです、「観察せよ」の目的語なんす、この部分)


独り言ですよ、
ひとりごと、
《ひ・と・り・ご・と》!!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 エラーがありました。

 ruupam / ruupa は -a 語基の中性で ruupam が 単数・対格だけではなく 主格でもありました。
 (水野弘元:パーリ語辞典 1989二訂版)

 lokam / loka は -a 語基で男性名詞ですので lokam は対格であるようです。

お礼日時:2013/11/05 22:56

こんばんは。




スッタニパータ1119では、
 Suññato lokam avekkhassu
でsuññataという語が出てきます。

最初は、
たいして気にも止めなかったんですが、
使われているのは、
《suñña》ではなく、《suññata》!!

「『世界は空性(?)である』と観察せよ!!」
というのが原意。
───世界は、性質ではないだろう!!───
suññata = suñña + ta:空性(?)
loka:世界、世間
avekkhati:観察する、見る

実はこれ、
般若心経の
「色即是空」
「rUpaM zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」
と同じ語法。
───色即是空以降の空はすべて《zUnytA》です───
(サンスクリットは京都・ハーバード記法)

パーリ、サンスクリットともに、形容詞ではなく、抽象名詞が使われている。
これはポイントかもしれない・・・。


で、ちょいと思ったのですが、
観自在は《Avalokiteśvara》で、観音さま・・・。

サンスクリットの《avalokate》《avalokayati》とパーリの《avekkhati》とは、意味的には大差ない。
avakkhati = ava + ikkati
ikkhatiは「see」とか「look」くらいの意味・・・。
avaは「down」、「away」、「off」くらいの意味をもつ接頭字。

√lokは、見たまんま、英語の「look」でしょうから・・・。
(調べてませんよ~)。



観音菩薩
─────────
梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3% …
─────────


似ていると思うのは、
オレだけだろうか?

ひとりごと、独り言、
《ひ・と・り・ご・と》!!


ちなみに、
般若心経の《五蘊皆空》の《空》は、
 svabhAva-zUnyAn すゔぁばーう゛ぁ しゅーにゃーん
と、
形容詞の《しゅーにゃ》が使われています。
(意味は、《自性・svabhAva》欠如している)

「《しゅーにゃ・zUnya》ではないだろう」と細かいことは気になさらず。
細かい人間は、どこの世界でも嫌われます(笑い)。

この回答への補足

 あちゃあ。エラーがありました。

 ruupam は -a 語基の中性で 単数・対格だけではなく 主格でもありました。

 lokam / loka は -a 語基で男性名詞ですので lokam は対格であるようです。


 ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~

 (え)「色即是空」:「rUpaM  zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」
     ruupam    suunyata,
     かたち‐ハ  空っぽ‐なるさま〔なり〕

 (お) 空即是色
    suunyata      iva   ruupam. 
    空っぽ‐なるさまハ まさに かたち〔なり〕。  

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2013/11/05 22:52
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ▲ (スッタニパータ1119) ~~~~~~~~~
 (あ)Suññato      lokam    avekkhassu. 
  (nom. sg.)       (acc. sg.)  (med.imper.2sg.)
  空っぽ‐なるさま〔ト〕   世界ヲ  見よ。

 ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://www.hannya.net/bongo.htm

 (い) Aryaavalokitesvaro     bodhisattvo 
    貴い‐遍く‐見られた‐あるじ  目覚めた‐存在‐性

 (う) svabhaava-suunyaan
    自‐性  ‐空っぽ

 (え)「色即是空」:「rUpaM  zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」
     ruupam    suunyata,
     かたち‐ヲ  空っぽ‐なるさま〔ト〕

 (お) 空即是色
    suunyata      iva   ruupam. 
    空っぽ‐なるさまハ まさに かたちヲ  

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ■ ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)
 ☆ このロキタは なぜ《見られた》ではないのだろう。



 わたしは 習熟 いまだしです。

お礼日時:2013/11/05 17:27

~~~~~~~~~~~~~~~



注意 (e) āse の形の複数主格は非常にまれです。 これはベーダの複数主格に対応します。

http://apostata.web.fc2.com/pali/pract-pali/05-c …


~~~~~~~~~~~~~~~

以前、問題にしたāseですけど、

結局これは古いのか新しいのか。
それがわからない。

そのサイトでもヴェーダに関係するような説明
でしょうけど、なんとも。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ▲ (パーリ語 名詞曲用) ~~~~~~~~~~~~
 120. 語幹が a で終わる男性名詞の格語尾は、以下のようになります。


 単数・・・・・・・・・複数
 ____________________
 主  o         主  a, āse
 属  ssa       属  naṁ
 与  ssa, āya    与  naṁ
 対  ṁ        対  e
 具  ina       具  ehi, ebhi
 奪  ā, smā, mhā, to  奪  ehi, ebhi
 処  i, smiṁ, mhi   処  su
 呼  (語幹と同様), ā   呼  a

 * 注意 (e) āse の形の複数主格は非常にまれです。 これはベーダの複数主格に対応します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ▼(水野弘元:パーリ語辞典) ~~~~~~~~
  -a 語基  m. 語例: buddha (仏)/ dhammma (法)

nom. sg.: buddho / dhammo

nom. pl.: buddā ( buddhāse ) / dhammā ( dhammāse )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ふつう -ā と -āse とふたつの語形があれば 長いほうが古いと考えられるとは思うのですが。でも わたしでは何とも言えません。《ヱーダ》って言っていますね。

 

 ▲ i (短い) で終わる名詞の曲用 ~~~~~~~~~~
   http://apostata.web.fc2.com/pali/pract-pali/05-c …

 130. i で終わる男性名詞の格語尾

 単数・・・・・・・・・・・・・複数
 _____________________
 主 ――          主 ī, yo
 属 ssa, no       属 naṁ
 与 ssa, no       与 naṁ
 対 ṁ           対 ī, yo
 具 nā          具 hi, bhi
 奪 nā, smā, mhā     奪 hi, bhi
 処 smiṁ, mhi      処 su
 呼 ――          呼 ī, yo


 * 注意 (e) いくつかの古形がまれに見られます:

 (i) 単数属格 -e:  例 mune。
 (ii) 単数処格 -o:  例 ādo、また
 (iii) 単数処格 -e: 例 gire。
 (iv) 単数具格 -ena: 例 raṁsena。
 (v) 複数主格 -no: 例 saramatino

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 確かにこの古形が使われているかどうかで 原典のふるい・あたらしいが判定されうるかも分かりません。

お礼日時:2013/11/05 10:59

悟ったつもりの者をインチキと言うのであれば、


質問者の妄言を戯れ言ではないと主張できる
根拠があるのですか?

造語と思い込みで自己主張しているのは、哲学とは言いません。
造語無しで日本語を記載する事はできませんか?

これができなければ、タダの厨二病でしかありません。

キチガイにキチガイ扱いされるのは、該当人物の評価を上げ、
発言者の評価を著しく下げるだけなのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 質問者の妄言を戯れ言ではないと主張できる根拠があるのですか?
 ☆ 根拠を示して 考えを述べ これを問うています。

 それは《妄言》だ ただの《戯れ言》だというご見解であれば その理由を示して回答を寄せてくださいな。

 哲学カテにおける情報交換というのは そういうかたちで成り立ちます。



 ★ 造語と思い込みで自己主張しているのは、哲学とは言いません。
 ☆ あたらしい哲学には あたらしい言葉も必要です。ですから いづれにしても 理由を示して ご自分の見解をあきらかにしてください。

 《自己主張》でない自己発言は ありません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 造語無しで日本語を記載する事はできませんか?

 これができなければ、タダの厨二病でしかありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぢゃあ じんるいの言葉は ホモ・サピエンスと成ったその時点での語彙から増えた部分は みな《厨二病》のしわざだとなります。



 ★ キチガイにキチガイ扱いされるのは、該当人物の評価を上げ、 / 発言者の評価を著しく下げるだけなのです。
 ☆ ここは 削除されるでしょう。

お礼日時:2013/11/05 08:53

ふーるです。



そうですねぇ、釈尊の肩を持ちまくっていますねぇ、私w

別に擁護するつもりは全く無いのですが、耳にする限り、良い人ですよ?

勿論、現状の寺に行っても全く声は聞こえませんがw


>さとりを得たというのに その中身は言わない。

これは別にケチって言わないのではないのです。

言えないと言うか、伝えられないのです。

大体言葉で言えれば文字で残せます。

別に私は釈尊以前・以降に同じ境地に至った人間がいない等と思っていません。

しかし、布教の人生を歩みきった人間はいなかったと思っています。

私だって文字に出来るのならば証明したいぐらいですよ。

私はすごいんだぞってw
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 耳にする限り、良い人ですよ?
 ☆ 質問者が納得するように証明してから そういうことは言ってください。話になりません。





 ★ 別に私は釈尊以前・以降に同じ境地に至った人間がいない等と思っていません。
 ☆ 会ったこともないのに どうしてそんな浅はかな発言を為すにおよぶのですか?

 そんなうすっぺらな自己表現しか出来ないのですか。

お礼日時:2013/11/05 06:26

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!