プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんにちは。

蕪村の名句と言われるものにこのような句があります。

「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」

蕪村の想像の句でしょう・・・
それでも往時を偲ばせて面白いのです。
ただ色々な解釈は出来るのでしょうね。
どう、解釈されますか?

A 回答 (3件)

私は、与謝蕪村は、なんだかとても合理的で、”菜の花”などの世界観も、男性的かつ整合性があって、柿本人麻呂を思わせるように感じていました。

”月と星が夜の川を渡る”、という情景に似ています。出身が大阪ときいて、なるほど、と頷いています。ニテンズさんのご質問がなければ、背景を調べることもなかったでしょう。

江戸時代後期の大阪といえば、各藩の蔵屋敷があったりして、経済的にも、文化的にも、江戸をリードしていたでしょう。近松門左衛門をはじめ、上方の浄瑠璃・歌舞伎作者が、和事=義理人情の芝居の分野を切り開いて、江戸文化に強い影響を与え続けていました。その、大阪出身で、上田秋声と親交があった。。。ということで、回答をしてみようかなぁ、と踏ん切りをつけました。

雨月物語は、江戸好みの、怪奇小説集ですが、その中に”白峰”という段があり、崇徳上皇の白峰陵を訪ねる西行の話で、実際に崇徳さんと西行さんが言葉を交わします。そんな物語を書いた秋声に感化された一句だったように感じたからです。

保元の乱の前後、崇徳上皇と西行法師の生きた時代は、藤原氏の摂関政治から院政へ、そしてやがて武士が政権を取ってゆく過渡期で、”野わけ”と呼ぶに誠にふさわしかったのでしょう。ここでは、源氏物語の下味がついている、という風にとらないほうが、良いように思えます。

鳥羽殿とは、鳥羽上皇が院政を執っていた鳥羽の離宮で、時は上皇が薨去されるか、されないか、という瀬戸際だったでしょうか。崇徳上皇は、御自分が治天の君として君臨されるよう、言質を取っておきたかったでしょう。順番では、そうなるはずだったのです。

けれども、”自分が薨かったあとには、必ず世が乱れるであろう”と、予言なさっていたという、鳥羽上皇の側近は、崇徳さんを通しません。”自分の遺体に会わせないように”とおっしゃったそうです。それで、崇徳上皇は、鳥羽の離宮内の、田中殿に一週間近く滞在なさり、埒が明かなくて、京へ御環幸なったところで、乱が勃発したように覚えています。

実際の所、崇徳上皇が、騎馬で、京から鳥羽殿へむかわれたようには思えないのですが、でも、そんな風に考えると、そのドラマチックな、風雲急を告げる、一か八かの鳥羽殿行が、一幅の絵のように浮かび上がってきます。

お気の毒な崇徳上皇は、乱の後、讃岐に流されて、すさまじい最後を迎えられます。死後も、太平記などでは、日本を転覆させる天下一の大天狗として登場するおどろおどろしさです。その崇徳さんの、運命を決する最後の賭けが始まる、まさに、その時を、理性的に句にした蕪村であった、と、言うのが私の正直な感想ですが、他の方はどう思われるか。興味がありますね。ニテンズさんにもご意見がおありかと存じます。

鳥羽殿の近くには、北面の武士として仕えた西行・佐藤義清の自宅跡もあるそうで、でも、ここは、訪れたいとは別段思わず、若い日の彼の様子を想像するのが楽しいのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

おはようございます。
今ほど日課の散歩に出かける前にPCを開けて、あらッ!
散歩も最近は寒くて外もまだ暗いのですが、
どうも裏山を一回りしてこないことには落ち着きませんが、
散歩をよしにしてお礼を書かせていただきます。

別にCiaopolpoさんにお世辞を言うつもりもありませんが、
良くもまあと、感心しております・・・。
以前にどなたかへのお礼文に専攻が英文学!?
なるほどそれで漱石先生を?そう思った記憶があります。

失礼な言いようで気に障るようでしたらお詫びしますが、
これほどの理解があれば私もお話し易いのです。
蕪村、近松、上田秋声はまたのことにしましょう・・・。
長くなりますしまたお話する機会もあるでしょう。

私が蕪村のこの句の解釈を何故質問したかと言いますとね
何故、鳥羽殿で何故、野分なのかな?
これの疑問でした。
別に当時の緊迫感を表現するだけのことなら何も、
鳥羽殿の必要もないのでしょう。
まあ語呂がいいと言うことはあるでしょうけど。

保元と平治の乱のことも少し触れましょう。
良く御存知です・・・
ただ、摂関政治から院政ではなくこの二つが対立することで
平治の乱が起きるのでしょう。
崇徳と後白河、そして義朝の源氏が滅びる、面白いですねぇ
もう何やら何を言ってるのか、分からなくなりましたが、
これは崇徳上皇の歌でしたか?
「瀬を早み岩にせかるる滝川の
   われても末にあはむとぞ思ふ」
どうも大天狗の歌とも思えませんね(笑)

私の解釈のようなものを言ってみましょう。
清盛は「鹿ヶ谷」の一件で後白河を鳥羽殿へ幽閉します。
これを一期にして平氏の凋落が始まりますね。
「野分」の季語は秋とのこと・・・
蕪村が諸行無常まで考えたとは穿ちすぎでしょうか?

楽しいお話ができました。
望外のことでした。
幡隋院と水野の話もしたいと思いましたが早この長さです。
またにしたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/21 06:05

 こんにちは。

これは、、
鳥羽殿に討ちにゆくのか、援けに行くのか?
Ciaopo・・さんの後では気が引けます^^、私デタラメですから。また、
崇徳院の祟りは護良親王と同じく凄まじく、私には恐れ多いので自粛しときます(笑)。 第一、保元・平治の乱は何度見てもサッパリ忘れてますので、よく判りません。
 そこで一寸時代はずれますが、もしや?と思って源氏物語;野分、に牛車が暴れる情景でもあったかと調べても出てませんね。あれば素直に牛若か、とも取れそうですが、。
 しかし芭蕉を追って、東北行脚した蕪村です。当然、判官贔屓はあったでしょう。
清盛が後白河院を鳥羽殿に幽閉した、治承三年の政変が1179年、
あら惜しい! 九郎は二十歳、でも未だ平泉ですね。
平氏討伐に馳せ参じるのは翌'80年、富士川ですか、有名な黄瀬川の対面。
 史実では無理!でした、残念。入洛するのは'83年だとか、。
でもその正確な年が、江戸時代に識られてたかどうか? 歴史書の吾妻鏡、平家物語、それよりは後の源平盛衰記、さらに虚構を含む義経記や判官もの:謡曲・歌舞・浄瑠璃などで、贔屓されてたのではないでしょうか。  鞍馬などでの牛若の話は後者による伝説だそうですね。
 すると化政時代の蕪村ならば、九郎が鞍馬から鳥羽まで直接駆けつけた、と想像したかも知れません。 江戸の読書事情とか解りませんので、これも私の想像です。
五六騎の精鋭で、嵐のよう、あるいは本当に嵐の中、 馳せるのは、
やはり名の有る強兵では?。 法皇側の他の武士はよく知らないので、そう思いました。
 時代劇ばかり観てる私としては、夜陰に紛れて馬を走らせるのは悪者、
昼間に野分の中走るのは、イイモノ。としましょうか、あっ、でも最近、
健さんの影響で、北条平氏贔屓に為ってしまい、義経はイイモノとは限らないのでした(笑)。 ちなみにこれを、幕末:鳥羽伏見の発端だとする作家も居るそうです、
高橋治「蕪村春秋」~ヤフ知恵袋に出てました。 まあ、新撰組を討伐しまくる、鞍馬天狗もその義経の流れでしょうからねぇ(笑。
 一般には保元・平治の乱と採られてるようです。保元は7月、平治は12月。
治承は11月の政変、いずれも旧暦かどうか書いてなかった、微妙です。
 野分は秋~初冬、秋の季語だそうで、。さて、どれをお採りになります?
尚、下書き最中に締め切りになってました(泣き笑)、今回はタイミングも合い、朝6時なら間に合うだろうと思ったら、。
これはいやでも読んで頂きます!トホホ(笑)。 では
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

私はmarcさんには命を縮められそうです・・・。
運営からのメールがあると「ドキッ!」とします。
体に悪いのです。(笑)
それでなくとも最近血圧の高い病人ですから。(笑)

朝のCiaopolpoさんへのお礼文は起きがけでしょうか?
我ながら支離滅裂のようでもあります。

>鳥羽殿へ討ちにゆくのか、援けに行くのか?
あなたがどの乱を言ってるのかは分かりませんが、
討つと言うことはないのでしょう。
御座されているのは天皇なり上皇でしょうしね・・・。
少し別な話をしますとね、
marcさんが言われるとうりこの時代は本当に複雑です。
まあ、だからこそ面白いと言えば面白いのでしょうけど。
天皇も一人ではありませんからね・・・
当然天皇を退いた上皇も一人ではありません。
今度は仏門に帰依した法皇がいます、複雑なのです(笑)

Ciaopolpoさんも言っておられたけど、
朝廷政治と院政のせめぎあいが保元、平治の乱でしょうね。

源氏物語のことが出ましたので、
ついでですから少し触れましょうか・・・。
私は別段面白いとも思いませんが評価はします。
「源氏物語」にはその時代の背景と言うものが欠けてます
無理もないのでしょうね、当時政治が機能しておりません。
読めば分かるでしょう?
デカダンス文学ですよ、ただもう愛だ恋だ・・・(笑)
あの時代の泥沼に咲いた蓮の花に似ていますね。
殆ど徒花のような文学のようにも思いますが、
ただまあ美しい・・・
花の美しさについては小林秀雄の名言がありますね(笑)

私も疲れましたのでここいらにしておきましょう。
最後に、私は色々言っておりますが、
結構marcさんは気にいっております(笑)

ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/21 19:46

鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」で検索を掛ければ100件以上出てきます。



どれも言っていることは同じで緊迫感のようなことを指摘しています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんばんは。
回答いただき本当にありがとうございます。

検索を掛けると100件も?そうなのですか?
知りませんでした・・・。
緊迫感を指摘することでは同じなのですか?

まあ、たしかに句自体はそうですものね。
私もそれに否やがあるわけでもありません・・・。
ただ、蕪村ほどの俳人がそれのみを表現するだろうか?
あるいは想いを馳せることでも・・・?
そう思い質問させていただきました。

何故、緊迫感を感じるのか?
それも気になるところではありますが、
でもまあ質問文にも書きましたが、
色々な解釈も出来るのでしょうね。

回答があるものかな?
そう思っておりましたのでとても嬉しいのです。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/11/20 22:03

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!