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江戸在府の藩主は、政務は上屋敷で行うが、頻繁に中屋敷や下屋敷に戻って食事や休息をとることが多かったそうです。
また、藩主によっては趣味の集いに参加するなど、私用で外出する機会も少なくないようです。
このような外出時、乗物や御供はどうしたのですか。
乗物や御供に幕府の規制はあったのですか、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

追加修正^^投稿、失礼致しますm(_"_)m



No.3の前投稿では私「御府内での徒歩は考え辛く」と申しましたが、
(一般的な大名事例と言えるか否かは別ですが)下記によりますと、

伊達家では江戸藩邸における「御近所御歩行」を前提とした行列規定も存在したようです。

〇東北学院大学>研究・産学連携>学術誌>学術研究会>経済学論集 第177号
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/ …
『東北学院大学経済学論集(第177号)/東北学院大学学術研究会/2011年12月』(363~388頁)
「武士の嗜み、武士の威厳 その─仙台藩士の行列に関する基礎的研究─堀田幸義」
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/ …
<9/26>
(2)藩主の行列と藩士の行列
<10/26>
表7 江戸での藩主行列(6代藩主宗村期[寛保3年<1743>7月~宝暦6年<1756>5月]の規定)

4 御屋敷御近所より御直々遠方え御出之節御供御人数(計51人程)
諸士11人 凡下御扶持人14人 御駕籠之者并御挟箱持諸持夫御人足迄26人
外ニ思召次第御側之輩被召連候事、御供之輩内之者勝手次第召連候事

5 御屋敷御近所え御歩行に而被為出候節之御供人数(計20人程)
諸士8人 凡下御扶持人9人 御人足3人 外ニ思召次第御側之輩被召連候事

ほか、なかなか実例記録などには辿り着けません(><)

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
私は、徒歩で行った場合もあるはずだと想像していましたから、仙台藩の事例を教えて下さったのでとっても嬉しいです。
最初は「隣近所の藩邸へ行くのに歩いて行きましたか」という質問をしようかと思ったのですが、あまりにも単純な内容なので止めたのでした。
真田幸貫候が俳諧を通じての付き合いがあった大名・旗本の屋敷の位置を調べていくと、歩いて行けるのでは、と気付きました。
さらに、藩によっては上・中・下屋敷が近い例もあります。
ですから、どの藩主だって歩いて行ける所は、特に私用の場合は、徒歩で行って当然だと思います。
大名の生活は堅苦しいものに違いないとは思いますが、先入観・固定観念で考えると実態から離れてしまいそうです。
気の合った大名どうしの宴会では、挨拶がすむと“上下を脱いだ”という記録もありますから…。


>5 御屋敷御近所え御歩行に而被為出候節之御供人数(計20人程)  
>諸士8人 凡下御扶持人9人 御人足3人 外ニ思召次第御側之輩被召連候事

「御歩行に而」と明記されていますね。
このような規定があるということは、実際にあったからこそ、決まりを作ったのでしょう。他藩も同様だと思いますね。


前回のご回答で気付いたのですが、「茶弁当」が禁止されています。
大名も物見遊山に出かけて野点を楽しんだのでしょうが、なぜ茶弁当禁止なのか、新しい疑問です。
また、参考URLの中に「御忍駕籠」がありました。
「大名や奥方などが忍びの外出に用いた駕籠。屋根は黒ラシャで覆い、腰と棒を黒く塗った」ものだそうです。
これも興味があります。次から次へと疑問が出てきて困ります。
いずれ、図書館で調べてみようと思います。

>なかなか実例記録などには辿り着けません(><)

私は、お陰さまで疑問が氷解したので満足しています。

お礼日時:2014/04/16 14:54

>乗物や御供に幕府の規制はあったのですか



断片情報で申し訳ありませんが、
乗物や御供ともに規制はあったようです。

・『国史大系.第11巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/明治35.10』
「徳川實紀第三編 嚴有院殿御實紀 卷卅二」
寛文六年四月
〇(※四月)十八日…
…この日令せらるは、…
…在府の諸大名從者の牽馬二三本。あるは五十本。それより多くはとゞむべし。…
<296/503>(567頁下段)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991118/296

・『国史大系.第15巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/明治37.7』
「徳川實紀第七編 浚明院殿御實紀 卷卅三」
安永五年二月
〇(※二月)廿九日…
…けふ乘輿の等を定らる。打揚腰網代の轎用ゆべきは。…(以下省略)…
<245/439>(480頁下段・481頁上・下段)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991122/245
安永五年三月
〇(※三月)二日…
…この日また万石以上府内往來に。茶辨當もたす事を禁じ。
もし藥用の料にたづさへむとならば。かねて其とはり聞えあげ。
從者共よりはなれてもたすべし。出仕のときは途中にひかへ置べしと令せらる。
<245・246/439>(481頁下段・482頁上・下段)

〇(※三月)十三日…
…けふ令せらるゝは。万石以上府を往來する時。從者多くめしつれ道路の妨ともなれば。
この後定制を立らるゝと也。
一万石より先驅轎の左右ともに士十三四人。五万石よりは十七八人。拾万石よりは二十人。
此内なを分限に應じ召つるべし。たとひ國持たり共。前驅轎邊二十四五人に過べからず。
去りし巳年令せられし如く。前驅其外とも。四五間ほどづゝ間を明けて列すべし。
朝參はもとより。郭内往還の時騎士を召つるゝ事無用たるべし。
國持。溜詰。三家の庶流など。さきざきより騎士を具し。從者の槍もたするは。
郭外にては行列をへだてゝめし具す事心にまかすべし。それもさきざき令せらるゝ如く。
一騎か二騎に過べからず。その外從者の馬引せ。はた槍もたする事制の數をこゆべからず。
これらも昔より有來れるのみをゆるさるゝ也。近きほどに始しは皆停らる。
たとひさきざきより有來れるも。四品に叙せられざる内は無用たるべし。
從者の馬引せざる輩。行列におくれて馬引する事も無用たるべし。
すべて人員少くめしつれ。往來の妨をなすべからず。
郭内往來天晴る時は。合羽箱など途中にとゞめ置すゝましむべからず。
又万石以上爪折に見まがふ長柄傘をまたするものもあり。爪折は國持。溜詰。三家庶流。
越前家のたぐひさきざきよりもたせ來りし輩は。此のちももたすべし。
四品以下は持すべからず。且爪折に見まがふ傘もたする事かたく有まじとなり。
また轎の日覆もさきざきより羅紗用ふるはふるきに隨ひ。
近き此より用るは此後禁ぜらるゝとなり。
又此外に大手門より下乘までめしつるゝ從者の制。幷に下乘より内の制ども。
寶曆八年の令をかさねて示さる。(日記。)
<246/439>(483頁上・下段)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991122/246

URLは省略しますが、供廻に関しましては上記以前にも下記など
「覚」「申渡」など規制を繰り返した様子も伺えますが、
なかなか厳守には至らなかったようです。

◇元祿十二年己卯閏九月…
一、江戸中往來之節供廻り小勢に可(L)被(L)列、縦國持たりといふとも騎馬が貳騎、
供鑓貳本迄、三本に過べからず、惣體又もの等輕く可(L)被(L)列事
…【元祿享保年間御觸書】

◇安永三年甲午正月
松平周防守殿御渡候御書付
町奉行衆 大目付へ
江戸往還之節供廻り小勢に可(L)被(L)列候、縦國持たりといふ共
騎馬壹騎か貳騎、供鑓貳本か三本に過べからず、
惣體又者等輕可(L)被(L)列事
右之趣先年被(=)仰出(-)、其後も度々相達候、彌前々被(=)仰出(-)候通相守、
猥に無(L)之様可(L)被(=)心得(-)候 【明和撰要集十三】

>このような外出時、乗物や御供はどうしたのですか。

残念ながら実例記録等に巡り会えませんので、
ド素人の当て推量に過ぎませんが…

たとえ私用の外出であったとしても、乗切りの乗馬などが目的でない限りは、
江戸市中でのトラブル回避、他家との接近遭遇などを考慮した場合、
御府内での徒歩は考え辛く、自らが何処の殿様かあるいは家格など、
分かる相手には分かるように乗物を利用した方が無難のように思います。
…私用とは言ってもケース・バイ・ケースでしょうが…
小規模でも供廻の総勢は10~20人程度にはなりそうです。

他参考URL
・メタボンのブログ>
江戸城の乗物
http://ameblo.jp/1480sn/day-20120304.html
江戸の駕籠と舟-2
http://ameblo.jp/1480sn/entry-11723443648.html

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

いつもご親切な回答を頂きまして誠にありがとうございます。
『徳川實紀』から該当箇所を態々書き出して下さったので大変助かりました。

公的、私的に関わらず、幕府の指示は
「すべて人員少くめしつれ。往來の妨をなすべからず。」ということですね。
そのためには、
「國持たりといふ共 騎馬壹騎か貳騎、供鑓貳本か三本に過べからず」であること。
また、乗物については、
「けふ乘輿の等を定らる。打揚腰網代の轎用ゆべきは。…」とあって、“打揚腰網代の轎”とは何のことなのかと思いましたが、参考URLを付けてくださっていたのでよく解りました。

大名や旗本が道ですれ違うときは、とっさに相手を識別して、家格に応じた挨拶をせねばならなかったそうですが、乗物、御供の人数、家紋、鑓などで識別したのでしょう。
また、識別できるようにして外出したのでしょう。
「武鑑」の出番です。

想像以上に藩主は外出していたようです。
質問で「江戸在府の藩主は、政務は上屋敷で行うが、頻繁に中屋敷や下屋敷に戻って食事や休息をとることが多かったそうです」と書きましたが、根拠は下記の論文です。
近世大名屋敷における食生活
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007410525 

『徳川實紀』に大名の外出についての規制が記載されているということを、dayone様はよくご存知ですね。
活字が不鮮明で読みにくいネットの、しかも分厚い資料から該当する箇所を見つけることは本当に大変だったでしょう。感謝しています。
お陰さまで疑問は解消しました。

ここまで書いてきて、追加のご回答があることに気付きました。

お礼日時:2014/04/15 21:14

一人での外出など まず無かった、、と思います。



一人で外出して、イザコザに巻き込まれたら

お家は取り潰しになりますし。

ご隠居になったら、多少の自由はあったでしょうが、、。

江戸では、物価が高いので、やたら無駄使いは出来なかった、、と思います。

お国に戻ったら、自分の領地なので、江戸にいるときより、

領地内なら、自由だったかも。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

質問が拙かったです。
一見して身分や家格が分かるように御供を連れて、
あるいは乗物を使って外出したのですか、という疑問です。

お礼日時:2014/04/12 10:57

役に立たない解答ですいません。



共のもの数名を連れて輿で移動したようですが、これがお忍びゆえ好き勝手やってるのかなんらかのルールが定められていたのかよくわかりません。
旗本に騎乗できる格が定められている以上、江戸の町で諸藩の下級藩士に好き勝手に馬でのりまわされても面白くないので、なんらかのルールはあると思うのですが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「輿」ですか? 御供も大変です。

お礼日時:2014/04/12 10:58

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