A 回答 (3件)
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No.3
- 回答日時:
長州藩ですが、
元禄10年毛利吉広の参勤は、萩から三田尻まで陸路、そこから御座船(御召船)万祥丸で大阪へ、さらに淀川を遡り、伏見へそこから伏見街道で京都へ、京都からは陸路東海道で江戸に向かった。
文政8年毛利斉元の参勤は三田尻から陸路山陽道を通り、京都へ出ている。
No.2
- 回答日時:
薩摩(鹿児島藩)について
陸路、海路いくつものルートを使いました。 理由は知りません。
1陸路 鹿児島から大口または串木野経由で水俣へ出、あとは熊本、小郡を経て小倉に出、船で下関に渡り陸路山陽道を通り大阪、伏見、京都へ出、陸路東海道または中山道を通って江戸に着く。(西目筋)
2.陸路鹿児島から都城を経て日向の細島へ出、そこから海路豊後水道を通り瀬戸内海へ入り、海路大阪へ着く。 あとは陸路。(東目筋)
3.陸路鹿児島から串木野を経て、京泊に出、そこから海路長崎沖の玄界灘を通って下関へ着く。 あとは瀬戸内海路または山陽道を通り大阪へ。 あとは陸路。
当時は太平洋航路は危険が多く、大名は使わない。 鹿児島から出航しないのもそのためでしょうか。 玄界灘も季節により危険で時候を選んだのでしょう。
大阪から伏見へは淀川上りを使う事もありました。
大阪と伏見には鹿児島藩の屋敷があり、必ず泊まりました。
以上は基本ルートでいろいろバリエーションがありました。
No.1
- 回答日時:
長州藩の一部しか知らないので恐縮ですが。
お殿様は、日本海側にある萩城下を出て南に向かい、深い深~い山の中の道(ツキノワグマなどが出ていたらしい)を通り(中国山地を北から南に横切り)、今の山口市に入り、更に南下して山陽道(現国道2号線)を横切り、更に南下して、現防府(ほうふ)市の三田尻(みたじり)という港に出、そこから船に乗ったようです。船でどこの港へ向かったのか、そのあとのことは?です。
山口から山陽道へ通じる道はもともとありましたが、萩から山口までの道は毛利氏が広島から萩に来てから整備された道です。この萩から山口までの往還道は現在「萩往還」という名で、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれているようです。
歴史散歩がお好きな方が、実際に歩いて写真をたくさん載せてらっしゃるページがありました。地図も何枚か載ってます。
http://www.3.ocn.ne.jp/~kazu5958/hagi1.htm
(もし表示されないときは、 「歩いて見つけた 萩往還 街道と町並み」 で検索なさると出ると思います。)
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