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正室と側室ではどちらが愛されていたのでしょう。
そしてそれぞれどのような愛があったのでしょう。

できれば男女の愛だけではなく
江戸時代にあった様々な愛の形
(家族愛、兄弟愛、主従の愛、同性愛、ペット愛など)を
できれば
誰が、どのようなストーリーがあったのかなどをそえて
色々教えていただけませんか?

インターネットで色々と検索してみましたが
しっくりとくるものが見つかりませんでした。

お願いします!

A 回答 (3件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>正室と側室ではどちらが愛されていたのでしょう。
そしてそれぞれどのような愛があったのでしょう。

まずは、将軍家でのエピソード。

5代将軍綱吉の正室小石君(こいしぎみ・信子)には子どもができず、綱吉は側室の右衛門佐(うえもんのすけ・常盤井)を寵愛したことから、嫉妬の余り、綱吉を大奥に呼び、信子と戯れていたところ、信子は突然として懐剣を取り出して綱吉を殺害した。宝永6年(1709)1月10日。そして、信子も同日自害した。
徳川実記では、信子の死を1月11日としているが、殺害を裏付ける証拠としては、綱吉の墓所である寛永寺に信子の墓もあるが、明治になるまで、罪人に被せる「投網」が被せられていた。
愛するがゆえの出来事かもしれませんね。

>>江戸時代にあった様々な愛の形

江戸時代は儒教の精神が浸透しており、「男女七歳にして席を同じゅうせず」でした。
「席」とは「寝床」のことで、七歳になったら「雑魚寝」は禁止されていました。
そして、儒教の精神で、
主従の愛は忠義。
親子の愛は孝行。
夫婦の愛は貞淑。
でした。
人生の春が近づけば血も騒ぐ。よんどころない事情で用事もないのに男女が表で立ち話をしていると、それが噂となり口から口へと伝わる時代。恋や愛には悲哀がつきまとった。

武家や商家の大店などになると、「許婚」(いいなずけ)制度が徹底しており、自由恋愛は全くと言って良いほどできなかった。

紀文の恋・・・。

紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれましたが、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた。職を転々とするうちに商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになった。やがて二人は恋仲に落ちたが、商家の箱入り娘と使用人。主人が許すはずもなかった。しかし、可愛い娘の説得で松木屋の主人は紀文に、
「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができなければ一生この店でただ働きをしてもらう」
と、条件をだしました。
そこで、紀文は情報収集をし、紀州では「二束三文」の「蜜柑」(みかん)が江戸では結構な値段で取引されていることに目をつけ、紀州で蜜柑を買いつけ船で江戸へ運び、みごと1年後には2,000両を手にしました。そして、めでたく綾野と結ばれました。

これなどは「異例中の異例」かも知れませんね。

比丘尼との恋・・・。

江戸時代の天和年間(1681年頃)になると、諸国勧進に廻っていた尼さんが江戸で春を売るようになった。坊主頭を抱くのも少々愉快だが、
「三が日待たず 比丘尼は見世を張り」
と、狂歌にも唄われたように、正月の三が日も待てないほど結構人気があった。
しかし、貞享年間(1687頃)、比丘尼と武士の心中事件が起き、江戸中の噂となり、ついには町奉行所も出動し、比丘尼たちがたむろしていた中宿の一掃をしてからは火が消えたように音止みとなった。

俗世を捨てても捨て切れなかった悲恋だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

たくさんのエピソードありがとうございます!
確かにどれも愛ゆえですね…。
愛にも色々ですね、勉強になりました!
そして
紀伊国屋文左衛門さん、すばらしいです

お礼日時:2011/05/01 22:58

そもそも、正室と側室でのどちらが愛されているというのは難しいのかも・・・。

果たすべき役割も立場も違うわけですし。

正室は、家格や石高などの釣り合いが考慮され、当人同士の意思など介在する余地はほとんどなかったと思います。

側室は、誰でもっていいってことはなくても、少なくとももう少し選択に幅があったのでは。

徳川将軍家でも、正室は(上位の)公家もしくは宮家の姫ですが、側室は体裁は整えたとしても、還俗した尼さんとか、八百屋の娘とかだったりするわけで。

西の公家勢力に権力を握らせないためにも正室には子供を生ませなかったそうですし。
将軍家への権威付けとしての公家の娘は必要でも、権力は渡したくない、といったようなコトのようです。

かといって、側室は、大奥のお年寄などが自己の権力保持や拡大のために、部屋付きの女中を側室あげたという側面もあるそうで。


男性同士でも、現代でいう同性愛とは違った意味での衆道というのがあったそうですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!
なるほど、確かに正室と側室では役割が違いますよね。
将軍と正室(もしくは側室)の間には
今でいう愛(純粋な)のような感情はなかったのでしょうかね?

お礼日時:2011/05/04 00:54

武士道とエロス (講談社現代新書) [新書]



このへんの書籍によれば、愛とは同性愛だけ。
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この回答へのお礼

そうなんですか!?
なんだか深そうですね。
情報提供ありがとうございます!

お礼日時:2011/05/01 22:59

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