幕末に、尊王攘夷の運動がおこり、天皇家を尊ぶようになり、それは昭和まで続いていたかと思います。
水戸の大日本史から発生した水戸学の影響があり、南朝を支えた楠正成は忠臣、はむかった足利尊氏は逆臣だとの見解が永らく共通の認識として日本人の頭の中にあった時代がありました。
そこで、ふと疑問に思ってしまいました。
尊王、勤皇といったって、それは逆臣として墓にも鞭打たれた足利尊氏がひっぱってきた北朝天皇の系譜であり、太平記・水戸史観にとっての正統たる南朝天皇の系譜ではない。
そのあたりに、疑問や矛盾を感じることはなかったのでしょうか。
もちろん北朝のほうも天皇家の血をひいていることにかわりないので、だったらそれでよしとなったのか。
ぼくには、到底そうは思えないんです。
現在、南朝の天皇家がどうなっているのか、熊沢天皇くらいしか知りませんが、幕末の志士は南朝の系譜をたどったりはしなかったのでしょうか?
また、昭和期において「忠臣楠正成は湊川の合戦で・・・」などと教育がされていたころ、そんな自分たちが奉じているのは北朝の天皇であるという矛盾に首をかしげた人はいなかったのでしょうか?
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
幕末の志士たちについては皆さんと同じ意見です。
明治以前までは北朝の光明・崇光・後光厳・後円融を後醍醐についで歴代と教えられ北朝年号が広く用いられた史実からして明治期の学者たちはあえていうなら北朝が正統という意見が主流でした。
但し、ご指摘のように朱子学的大義名分史観が「大日本史」の南朝正統論から始まり楠公崇拝熱、尊皇思想の高まりで王政復古以来の維新の主勢力にはその考えが強かったけれど、皇室の正閏を論ずる事は避け「武家の権力争奪」の問題として考えれていたようです。
ところが明治44年「大逆事件」の幸徳秋水が法廷で「今の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の子孫ではないか」との趣旨の見解が出て、事件後南北朝正閏問題が起こってきました。
1.国定教科書での扱いは足利氏が推頂戴して年号も広く行われてきた北朝の皇統と吉野で畿内と九州を押さえていた後醍醐・後村上・長慶・亀山天皇の南朝を並列的にしているのはおかしい。
2.南朝を「正」北朝を「閏」と肯定すべきではないか。
3.後亀山天皇の帰京と神器に譲渡をもって、現在の皇統が「正」になったことを明らかに教えよ。
この主張が文部省と桂内閣を巻き込み大きな政治問題になりました。時の(国史)教科書の編修責任者は喜田貞吉であり彼もまた逆順だとか大義名分だとかで評価を下すのはおかしいということで素直に南北朝対峙の実情を客観的に述べれば良いとの立場にたちました。
しかし、政治的紛糾は激しくなり喜田は休職、歴史教育界は南朝正統論に統制され、史学界でも昭和初期らか南北朝という概念を使わず吉野朝、吉野時代と呼ぶようになりました。
戦後、武士や農民の発展や大名支配の成長がこの時代の研究課題で天皇の正閏を問うことは史学や歴史教育の問題では無くなりました。
南朝の天皇家について
後亀山・後小松の間には南朝側が望んだ「譲国」の儀は実現されず、義満が了承していた後小松の後は南朝大覚寺系の皇子が皇位を継承するという和睦条件も実行されませんでした。このようなこともあって南朝の後亀山法王をはじめ諸皇子が悲惨な目にあうことになりました。出家しても反足利挙兵に利用されたりで旧南朝の皇胤を擁しての争乱は室町時代にしばしば起こりましたが皇胤を担ぎ出した武士たちは非力で結局その跡を絶たせる原因になったわけです。
熊沢天皇について
熊沢家の系譜によると後亀山の曾孫で信雅王が応仁の乱後、甲州から信州を経て奥州に至ったということで
南北朝正閏論の数年前に当主熊沢大然が当時内大臣であった桂太郎らに会い南朝後胤の旨を述べ先祖信雅王の処遇を請願したのが始まりです。
大戦後「熊沢天皇」を称した熊沢寛道はこの大然の養子になります。
南朝の子孫云々は全国至る所にあります。これらは民衆の間の判官贔屓や貴種敬重の念、それに山伏や聖などの活動や旅人の話から始まったものです。
「平家落人伝説」「義経伝説」と同じようなものと考えられます。旧家や豪族の家系だけでは真偽のはかりようは無いと思います。
つまりは、おかしいと思いつつも口に出すことははばかられた、ということでしょうか?
幸徳ほどの「大悪人」にして始めて口に出来る性質のものであった、と。
高山彦九郎なども、ぼんやりとは疑問を抱いていたのでしょうか。
No.6
- 回答日時:
明治初期の話だと思いますが、南北朝の話を歴史の教科書から削除しようとして、天皇から、事実だからそのまま載せなさいと言われたという話を読んだことがあります。
認識はしていたが、それほど気にしてはいなかったのではないかと思います。大義は西洋に対抗する近代国家の成立であり、しいては絶対君主制の確立を目指すのに都合の良い方を選んだということではないでしょうか。正統というのも、天皇の絶対性を強調するための手段ですから。
No.5
- 回答日時:
補足です。
江戸時代から維新に至るまで北朝・南朝は乱暴な言い方ですけど「どうでもいい」事だったわけです。
すなわち、南朝が正統であったが後亀山天皇の帰京と神器の譲渡の時点で北朝が正統になったわけですし、
皇統が途絶えたわけではないため問題にはされなかったということですね。
高山彦九郎がどう思っていたかはわかりませんが
「高山正之伝」によると彼は13歳のころ『太平記』を読み、後醍醐天皇の南朝が王制を打ち立てることができなかったことに強く憤ったと記されています。
これは南北云々は関係無くも「王政」ということが大事なわけではなかったでしょうか。
その証拠に
北行日記 寛政2年6月7日~11月30日
江戸―木更津―水戸―米沢―宇鉄―仙台―日光―前橋―中山道―京
仙台の帰途、細谷に寄らず、京都に急行したのは光格天皇の新皇居還幸の儀式を見るためであったとされる。
寛政京都日記 寛政2年12月朔日~寛政3年7月18日
京―伏見―京―鞍馬―京―比叡山―京―伏見―京
光格天皇に接する感激的場面。
多くの公家・文化人等と交流し、彦九郎の尊王の実践の中で重要な時代。
とあります。やはり時の天皇に対して感激しているわけですし南朝・北朝の概念など一般と同じように持ち合わせていなかったのではないでしょうか。
言い方を変えれば南朝を「正」だから北朝はおかしいなどと思っていれば当時、天皇を見て感激するわけもないし「尊皇」という思想も出てこなかったでしょう。また江戸時代には南朝の「宮家」など存在していなかった訳ですから・・・。
No.3
- 回答日時:
私も若干疑問を持ってはいますが、
北朝・南朝が並立している時代では南朝が正当ということでしょうけど、足利義満の謀略でですが、南朝から北朝に神器と共に譲位が行われましたので、それ以降は正当ということではないでしょうか?
天皇の連番も北朝天皇は「北朝第○代」ですけど、南北朝合一以降は旧北朝天皇が南朝経由で神武以来の代数を継いでますよね。
No.2
- 回答日時:
幕末の志士たちにとって最も必要だったのは、幕府勢力に対抗するためにかつぐ神輿だったわけで、歴史的な背景(南朝or北朝)はさておいて、当時、帝として認められてる人物ならそれで良かったということでは?
昭和期においても、まあ同じというか、北朝系だからニセモノってわけじゃなし、忠義というのは、疑わず信じる心が大事なのであって、自分が生きてる時代の、天皇として認められてる人に忠誠を誓い続けろ(楠さんのように)、正統性とか気にするのは不忠・不遜であるぞ、ということなんじゃないでしょうか。学問としてもタブー、まではいかないにしても、表現に気を遣う部分だったんでは?
この回答への補足
たとえば、高山彦九郎がこの疑問を抱かなかったのか、と思いました。
あれほど直情径行でラジカルな人物が、その件についてはまったく思わなかったのか。
自分の身に措いて考えてみても、
自分の尊敬する人物を追い落とした者を敬うというのは、いかにも不自然に思えてきて、どうかと思うのです。
No.1
- 回答日時:
今のように情報化時代ではなかったということと、そういうことを教育されていなかったということではないでしょうか?
昔、歴史学の先生に同じ質問をしてこういう回答をもらいました。
この回答への補足
鎖国は徳川が始めたものだとも知らず、日本の歴史については知識がなかった時代です。(歴史といえば中国の歴史)歴史についての知識は故事成語や講談話など通俗的なものや教訓的なものでしかなかったのは理解しています。
しかし、大日本史とか日本外史(こっちは武家中心だけど)を読めば、自ずと沸いてくる疑問ではないでしょうか?
教育されていなかったのは事実ですが、一部の先走った人たちは自ら学んだでしょうし、その過程で疑問に思わなかったものかいな、と。
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