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僕は日本史の勉強をサボってきたので大雑把な質問しかできなくて申し訳ないんですけど、なぜインパール作戦はうまく行かなかったのですか?

インパール作戦が失敗したのは、牟田口廉也中将の「突撃主義」が破綻したからと言われてますけど、それは具体的に、何がどうダメだったのですか?

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A 回答 (9件)

まず、作戦の目的が軍事上の必要よりもむしろ東条がチャンドラ・ボースの自由インド政府構想に参ってしまいその政治拠点を作ろうと言う政治的要素が強かった事。



牟田口が盧溝橋事件の時の現場の隊長であったため、日中戦争以来のおとしまえをつけて自分が手柄を立てて戦争を終わらせるなどと言う個人的な動機により立案した事。
川辺がそれを許容した事。

英印軍を侮り、2週間分の食料しか携行していなかった事。マラリアなど熱帯性の疾患が発生したときの備えが皆無だと言っていいほど貧弱だった事。これにより戦病死者・餓死者が続出した。日本軍の撤退路には餓死者、重病者が放置され白骨街道とまで言われた。またこの白骨転々と転がる様が後続部隊の道しるべとなったとさえ言われる。

武器弾薬の補給が全く考慮されていなかった事。
牟田口はジンギスカン作戦と称して牛に荷物を運ばせ最後にはその牛を食えばいいなどと言うフザケタ運輸方針しか持っていなかったため、山脈越えやチンドウィン川を渡河するときに牛はどんどん損耗していった。
敵は飛行機などをフルに使って補給を行ったがそれに対して無策だった事。
日本軍は山越え行軍のため軽装備であったが敵は戦車や大砲を備えた円筒陣地で待ち構え、日本軍の切り込み攻撃を無力化した。

司令官の牟田口は前線に出る事もなく知る事もなく避暑地のメイミョウあたりで安楽にしていた事。一説によればメイミョウでは遊郭まであったそうな。

現場の師団長3名の反対を押し切り牟田口が作戦を強行した事。
意見の違う師団長3名を作戦中に罷免し指揮が崩壊した事。

現場指揮官のそれぞれをみれば勇戦敢闘したケースも見られる(特に撤退時の宮崎繁三郎少将など)が、そもそもの作戦の土台自体が牟田口のアレなもので、成功する見込みははなからなかったと言える。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、うまく行かなかった理由がよく分かりました。背すじが寒くなるほどお粗末な作戦だったんですね。

お礼日時:2014/06/22 20:56

純粋に軍事的に見ると「大河で分断され交通に不便な平原地帯」というビルマの地勢は防御側に不利であり、そこで外郭の防衛のためビルマ・インド間の交通の要衝であるインパールを攻略してそこで守るという、攻勢防御作戦そのものはそれなりに合理性があります。


問題なのは当時の日本陸軍にそれを実行できる能力が無かった事です。
そして戦史を見ると同様に「軍事的には合理的な思考に基づき構想された作戦ではあったが、実行は不可能であり結果的には大きな失敗を招いてしまった」という実例は珍しくないのです。
例えば第一次大戦前のドイツ軍は参謀本部が長年にわたり練りに練ったいわゆる「シュリーフェン作戦」に基づき、フランスを一気に攻略すべく攻勢をかけていますが、現在ではこの作戦は実現不可能であり、軍部がそれにのめり込みすぎた事がドイツ帝国を英・仏・露の三大国との大戦争に引きずり込んで破滅させる遠因になったとされています。
日本陸軍は組織面で帝政ドイツを参考にした面が多々あり、この結果悪い面までまねてしまったと言えるかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。帝政ドイツを真似た弊害という視点からのご意見は大変参考になりました。その点についても勉強したいと思います。

お礼日時:2014/06/24 07:28

第31師団にたいし、コヒマ占領の報に接した牟田口は確かにディマプールへ追撃命令を出していますが、その命令はビルマ方面軍(第15軍より上級)により「第15軍司令官はディマプールへの追撃を中止すべし」と言う命令により覆されています。



コヒマ攻略の指揮官佐藤幸徳が、牟田口への反発から、敵前で進撃を停止したというのは誤っています。またコヒマを押さえたとはいえ、その西南方高地にはイギリス軍が陣地を構え、やすやすとディマプールへ「2日で」突入できる状況ではなかったようです。

ディマプール追撃の可能性については防衛省の防衛研究所の平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書に荒川 憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に—」という論文が出ていますがその中でディマプール追撃について検討されている文を引用します。原文は以下のURLで確認できます。

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum …

>果たして31師団のディマプールへの追撃は可能であったろうか。軍事的合理性の視点から検討してみよう。筆者の結論は極めて困難であるというものである。それは日英の公刊戦史を基に1944年4月4日から4月中旬頃までの両軍のコヒマ西南高地周辺への兵力進出状況を検討した結果である。英軍側は当初からこの一帯の緊要地形であるコヒマ西南側高地に陣地を確保していた。加えて逐次コヒマ周辺に増援してきた日英両軍の兵力の格差である。しかも、制空権は終始英軍側にあった。
>確かに、宮崎支隊長が4月4日コヒマ部落を占領した歩兵第58連隊3大隊を北方のチェズウエマ(Cheswema)に向かわせず、コヒマ西南側高地を背後から攻撃させていたなら、この高地は奪取できたかもしれない。しかし、奪取しえても、その後の戦闘様相は現実に繰り広げられたコヒマ西南側高地の争奪戦と同じであったろう。
>『コヒマ(KOHIMA)』の著者A・スウインソン(Arthur Swinson)は、この問題について河辺と牟田口の命令を比較した上で「牟田口の方が実際正しかった」と断言している。しかし、これは日本軍を過大評価しすぎている。ディマプールに進出できるのは歩兵第138連隊第3大隊が先頭になるであろう。その3大隊はコヒマ~デイマプール道遮断のため4月6日コヒマ西方15キロの高地に進出したが、そこで英軍部隊と接触する。大隊はこれを夜襲したが、失敗、大隊長は戦死して、以後両部隊は対峙状態のままとなった。
>結局ディマプールへの突進が成立するためには31師団に補給能力があり火力が追随しているという英側と同様な条件が必要である。

そもそも英印軍は当然自軍の弱点を想定して守りに入りますから、ここを攻められるとマズいと言う点は日本軍よりも把握しています。
また自軍の軍事常識として、ある程度の補給を維持できる作戦で攻撃してくると想定しますから、英印軍はむしろ日本軍を過大評価したと言えるでしょう。
勝者はしばしば敗者をたたえますが、それは弱敵を倒してもさほどの手柄ではないからです。ある意味リップサービスとも言えるでしょう。ガダルカナルで戦ったアメリカ兵が実体以上に日本軍は強かったと言う事があるのも同様な事でしょう。

参考URL:http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。説得力のある解説で大変参考になりました。日本軍の強さを讃えた英国側の証言についても、裏読みする必要があると分かりました。

お礼日時:2014/06/24 07:43

インパール作戦は、すくなくとも中盤戦までは、日本軍の圧勝だったのです。



インパールへの出撃に際して、牟田口中将は、
『ここに諸氏に告ぐ。
河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし』
と述べています。

そもそもインパール作戦は、迅速を旨とする作戦であったということです。

日本は初動段階で、インパールの入り口をふさぐコヒマを占領しています。
すぐ近くにディマプールという、英国軍の物資補給基地があります。
そこまでは、わずは2日の距離です。

もし日本が、その段階でディマプールを陥としていれば、補給の問題は解決していたのです。
そうなるとインパール作戦は、日本側の大勝利に終わった可能性すらある。

そのことを敵である英国側が、戦後はっきりと認めています。

まず、アーサー・スウィンソンという英国のインド駐留軍第二師団参謀は、その著書である「四人のサムライ」の中で、次のようにインパールの戦いを記述しています。

『当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった』

インパール作戦における日英の戦いは、毛筋一本で戦局が変わる微妙なものであったと書いているのです。
彼は、さらにこう述べます。

『当時のディマプールは、全地域にわたって、狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた』

双方の兵力は、英国15万、日本は9万です。
しかも、英国軍は、十分な兵站がある。
対する日本側は、毎度のことだけれど、ギリギリの装備しか持っていない。

ギリギリの装備しかなかったのは、牟田口中将の資質の問題ではありません。
日本という国自体が、貧しく、ギリギリの戦いをせざるを得なかったのです。
そこを間違えてはいけない。
日本本土だって食い物がなくて、食管法が施行され、闇米が流通し、人々に生活物資がいきわたらなかったのです。
冬は寒いけれど、石油ストーブさえ炊けなかった。
だからみんな木を燃やしたのです。
都心部では餓死者まで出る状況だった。
日本はそうした事情の中で戦っていたのです。
第15軍だけが、なにも兵站が少なかったわけではない。

それでも牟田口中将率いる第十五軍は果敢に戦い、昭和19(1943)年3月21日には、宮崎繁三郎指揮の左突進隊が、はやくもウクル・サンジャクの英国第49旅団を潰走させています。
日本陸軍は、ほんとうに強かった。

そして続く本隊が、コヒマに肉迫した。

コヒマは、ディマプールからインパールに通じる、補給路の要衝です。
日本軍の猛攻に、3月25日、英国のアジア総司令官であるマウントバッテン卿は、ロンドンにある英国統合本部に次のように打電しています。

『もはやインパール街道と、ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。
第四軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。
唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。
よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい』

その第7師団の空輸が始まったのが4月6日です。
その空輸が始まった当日に、日本軍は、はやくもコヒマを占領しています。
まさに疾風怒涛の快進撃だった。

コヒマの目と鼻の先には、英国軍最大の補給基地であるディマプールがあります。

ディマプールが陥ちれば、日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、戦いに必要な一切合財を確保することができます。

ところがここで、予期せぬ出来事が起こります。
一刻の猶予もならないと、督戦をあおる牟田口中将に対し、コヒマ攻略の指揮官が、牟田口中将兵の反発から、敵前で進撃を停止してしまうのです。
これは外敵というより、むしろまったく内部事情です。

ディマプールにいた英国スタッフォード将軍は、
「このとき、もし日本軍が、コヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、(作戦全体において、英国に勝利はなかった」と述べています。

日本側のコヒマ攻略の指揮官は、その後インパール作戦の日本側の配色が濃くなったとき、補給途絶の故をもって、無断撤退して抗命事件を起こします。

なぜか戦後史観では、この命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が将兵1万の命を救ったと高い評価を得ているのだけれど、実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、あと二日の距離を急進し、ディマプールを陥としていたら、戦況はまったく違うものになっていた、ということなのです。

たしかにインパール作戦は、困難な作戦でした。
しかし、当時、タイに駐留していた牟田口中将率いる日本陸軍は、わずか3個師団なのです。
この3個師団で、英国のビルマへの浸透を抑えることは、前線が広すぎてどうにも困難です。

さらに、支那南部の雲南省には、国民党十万の大軍がいます。
この大軍は、通常の寄せ集めの支那兵と異なり、米軍のジョセフ・スチルウェル中将によって、米式で徹底的に鍛えあげられた軍団です。

時間が経てばたつほど、日本側は不利になる。
しかも彼らには、十分な補給がある。

簡単にいえば、東海道を東進する圧倒的大軍の敵を、箱根(インパール)で討つか、関東平野(ビルマ)まで引き入れて迎撃するかという選択が、インパール作戦となっています。

これだけではありません。
インパール作戦の実施は、日本とその同盟国との関係が大前提となっている。

そもそも大東亜戦争というのは、日本によるアジアの植民地からの「解放」戦争です。
特ア三国以外のアジア諸国は、みんなそう理解している。

なぜならそれが本当のことだからです。
異を唱えているのは、特ア三国だけです。

特ア三国は、大東亜戦争においては、日本とも諸外国ともまったく戦闘をしていません。
当時、八路軍と呼ばれた毛沢東率いる中国共産党は、単に中国奥地に隠れていただけだし、金日成は、名前も登場しない小者にすぎない。
韓国を建国した李承晩は、米国亡命中で日本軍には会ってもいない。
彼らは強力で規律正しい日本陸軍を前に、逃げ回っていただけです。

戦後の東京裁判で、日本陸軍だけが裁きの対象となり、海軍にはまったく罪が及んでいない事情がここにある。
要するに、実際には日本軍とまったく相対することのなかった連中が、後年になって、「我こそは抗日戦線の英雄」などと、嘘八百を言い募るものだから、その三国だけが、おかしな歴史認識となっているのです。

それ以外のアジアの国々は、すべて、日本のおかげで独立できたと認めています。
日本は、おおいに自信を持つべきです。

実際、大東亜戦争のさなかである昭和18(1943)年11月に、東京で大東亜会議が開催されています。
会議の席上で、ビルマのウー・バー・モウ総理は、次のように述べています。

『インドの独立なくしてアジアの独立なし』

そして特別参加していた自由インド政府首班のチャンドラ・ボーズは、特に発言を求めて烈々たる気迫で、次のように語った。

『他国は、あるいは英国と講和ができるかもしれませんが、インドとしては絶対に英国と講和はできない』

これを受けて、東条英機総理は、

『日本は、いよいよインド独立のため、全幅の協力をする決意』

と述べています。

この会議で、日本がその時点ですでに占領していた、インド領アンダマンとニコパル両諸島が、自由インド政府に帰属することになった。
この会議で、日本はインドの独立のための具体的支援行動に出ることを、国際的に約束したのです。

約束は守らなければなりません。
日本は、大東亜会議の二か月後である昭和19年1月に、インパールへの進攻作戦を決定する。

軍は、国家の命によって動きます。
国が、インド独立支援を決めたのなら、それに沿った軍事行動をする。
それが軍隊というものです。

この決定の時点で、牟田口中将以下の第十五師団は、タイで道路工事をしています。

軍隊というと、戦闘以外のときは、なにやら教練をしているくらいしか仕事がないと思っているなら、大間違いです。

諸外国の軍隊はそうかもしれないけれど、日本陸軍は、戦闘以外のときは、地元のために植林事業をしたり、ジャングルに物流の中核となる道路を造ったり、橋をかけたり、公共施設や病院を建てたり、地域のために休みなく大土木工事を行っていた。

ぜんぶ、当該地域住民のためです。

とにかく、休んだり、暇にしていることがない。
24時間、365日、休みなく、地域のために働き詰に働いていたのが、日本軍です。

本国から命令を受けた牟田口中将は、具体的なインド独立のためのインパール作戦の詳細を煮詰めます。
その作戦の詳細が煮詰まった、昭和19(1944)年3月8日、牟田口中将によって発動されたのが、インパール作戦です。

ただし、日本のインド独立支援という国家の命題を背負った牟田口中将と、現場の戦線だけを監督する現場指揮官との間には、その意識において、この時点で大きなギャップが生まれています。

つまり、日本国の決定としては、インド独立支援を行う。
ところが、この時点で、すでに日本は全体の戦線を縮小する方向にあったわけで、にもかかわらず、
「なぜいまさら戦線を拡大するインド攻略などしなければならないのか」
という意識が、現場指揮官内に万延していたのは否めません。

そして起こったのが、コヒマ攻略隊の造反でした。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。当時の事情がよく分かり、大変参考になりました。しかしコヒマを攻略しディマプールを目前にして、なぜ攻略隊は造反してしまったのか、それが痛恨の極みです。

お礼日時:2014/06/23 17:30

失敗は補給の問題と、効を欲しがる軍司令官の個人的わがままです。



約束の補給料を第15、31、33の3コの各師団に、第15軍司令官の牟田口廉也中将ができず、麾下部隊の命令の無視によって、戦線は大崩れになっています。

責任は、牟田口中将の上部機関のビルマ方面具、南方軍、大本営にもありました。
牟田口中将の作戦を裁可したことです。

原因として考えられるのは、大本営としても、押し詰まった昭和19年の戦局に、作戦成功の良い知らせを欲しい大本営の問題、国民に良い知らせをしたいとが欲が出た陸軍省です。

当初、牟田口中将は、補給の為、全陸軍の1/3に及ぶ大規模な補給部隊を要求しました。
それは、陸軍としては、到底不可能な事でした。
それが、大本営までの作戦申請の過程で、上部機関により、ドンドン減らされて、また認可されても、また降りてくる過程でドンドン減らされました。
その数字は、要求した数字を、はるかに下回り、たった3コ師団の補給も危ぶまれる程になっていました。
結果、3コ師団は、食料として、生きた羊、山羊をつれて出発しました。
物資輸送に使う、象も、物資消費が済んだ暁には、食用にする計画でした。
また、陸軍お決まりの、糧は敵に求めるの精神で、インパールまでの給養で進撃し、インパールで敵の糧食を得る計画でした。
中国戦線で、長年培われた、この精神で、作戦はスタートしたのです。

結果は、ご存知の通り、大失敗です。
師団長をはじめ、どんな優秀な現場指揮官がいても、作戦の結果は、見えていました。
反対した3人師団長をはじめ、第15軍参謀長まで更迭しました。
司令部の参謀も、内心では反対していたけれども、参謀長の更迭を見て、何も言えなかったと言われています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。解説は参考になりました。作戦失敗に官僚制の弊害のようなものを感じました。

お礼日時:2014/06/23 15:57

馬鹿の一つ覚えで「鵯越」をしたからです。


シンガポールはこの作戦で陥落出来ましたが、イギリスも察知して、
二度目は、待ち構えていました。

更に、グアムでも「鵯越」をして、支援部隊は壊滅しました。

山本五十六が”陸軍さんは「桶狭間」と「鵯越」ばかり”と批判して、
陸軍から命を狙われ、戦艦長門に司令長官として、逃げ込んだとか・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。山本五十六長官が「陸軍さんは桶狭間」と揶揄したのは、織田信長の正面突破説と迂回奇襲説のうち、後者を前提に語ったのですか?

お礼日時:2014/06/22 21:18

mkfdhさん、こんにちわ。



インパール作戦の代名詞になっていることは補給問題を無視した無謀な作戦として有名です。もともと大本営がたてた作戦だと言われています。しかし、実際に実施するにあたってその時期は敗色が濃くなった昭和19年でした。この間にいろいろな人事が行われ、第15軍の麾下にあった3個師団の師団長が更迭されたり、参謀長も更迭されたりします。一説によると反対者を追っ払うためだといわれています。
大本営も敗色濃厚になった局面を変えるために積極攻勢に出る作戦としてこの作戦を実施させようとします。
案の定補給路が険峻な山岳路で牛馬でも困難な移動ルートでした。また空からの攻撃には格好の的になりました。
そして、敵の陣地を攻撃するときには急襲のために軽装備であったため、敵の堅固な陣地を突破できませんでした。


詳細は下記のURLを参照ください。


インパール作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。

お礼日時:2014/06/22 20:59

日本陸軍お得意の現状把握実務能力の欠如というかルーピー脳。



具体的には補給がない見込めないのに戦線を伸ばしたということでしょう。飢え死にです。ホントに愚か。軍隊の愚かなことは馬鹿が指揮官になると兵は間違いなく死ぬという例です。東条英機はじめ日本軍人は論理的思考の出来ない馬鹿ばかりだった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/06/22 20:51

武器弾薬の補給がない


食料も現地調達という無計画
そもそも物資を輸送する手段もない
兵員に持てるだけの装備を持たせてあとは戦場で調達するというその場凌ぎだった

ろくな道路も無いところを短期間で徒歩移動して、航空支援も敵情の確認も出来ず遮二無二机上の予定表に従って突進する

例えインパールでなくとも、世の中そんなに単純ではない
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。最後の一文は正論だと思います。

お礼日時:2014/06/22 20:50

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「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

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○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

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○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む

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 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げられる、「インパール」や「ガダルカナル」のような悲劇が起こったのでしょうか。

 一つにはとにかく日本軍が貧しかったということがあります。「日清日露戦争」や「日中戦争」に見られるように、銃剣突撃や白兵戦を常に攻撃の主体においていたのには、この貧しさが大きな原因となっています。

 つまり、攻撃前の十分な準備射撃には膨大な弾薬が必要となりますが、これを用意できなかった(あるいは惜しんだ)ため、結果的に肉弾による最後の決戦に挑んだということです。旧日本陸軍では日清日露戦争当時から、戦闘時における砲弾や銃弾の不足に常に悩まされていましたが、これは製造能力が無かったというよりは、やはり弾を惜しんで一発必中的を推奨する軍内部の精神的な悪癖がありました。

 もうこれは日本の文化といっても良いもので、現在に至るも自衛隊での訓練における弾薬の一人当たりの消費量は、南米の小国であるニカラグアのそれよりもはるかに少ないということも、なんだか笑ってしまうほどの哀しい文化だというしかありませんし、警察や海保なども似たり寄ったりの状況です。

 質問にある「糧が敵に因る」や「現地調達」という思想は元々旧日本軍からでた発想で、外国から強いられた発想ではありません。旧日本陸軍に大きな影響を残し、陸軍参謀本部の生みの親でもあるドイツ軍人メルケル少佐は、つねにその講義の中で兵站や補給の重要性を説いていました。

 旧日本軍が兵站戦でも敗北した理由のもう一つに、戦線での制空権と制海権の喪失があります。いくら補給をしたくとも、途中でその輸送艦船が壊滅させられればどうしようもありません。それでも「ガ島」の例にあるように、「ネズミ輸送」とか「アリ輸送」などのように揶揄されながらも、必死に補給を続けようとしていましたし、「インパール」にしても輜重出身であった第15軍参謀長の小畑少将が、その兵站無視の無謀な作戦に最後まで抵抗をしていました。

 よくアメリカ軍の補給能力の高さが取りざたされますが、それも相対的な戦局の有利があってのことです。そのアメリカでさえ細かな戦闘を取り上げれば、それなりに補給に苦しめられた戦線が多々ありました。ただアメリカのすごいところは、一旦これは必要不可欠なものだと理解したら、官民上げての協力体態勢を即座に構築し、一丸となってことに当たる覚悟の良さです。
 倒的な物量、言い換えれば国内での大量生産体制があってのことでもありますが、アメリカの思考方法の柔軟さは今でも見習うべきところがあります。

 第一次湾岸戦争(イラクを第二次と呼ぶならばですが)で見せた、あの圧倒的なロジスティック能力と物量を見るにつれ、この国はやはり戦争の時になればなるほど生き生きとするんだなとあきれるばかりでした。

 閑話休題 

 今に至る日本軍兵站思想の貧しさを非難する風潮は、たしかに事実として部分的には当たってはいます。旧陸大の輜重科を卒業し輜重将校になったのは、全卒業生の1パーセントにも満たないし、その中から大将までに登りつめたものもいません。それは明治維新の幾多の戦闘において、新政府側がその輜重業務を当時の地域の博徒(つまりはヤクザですね)達に任せていたことが、後々までに輜重に対しての悪いイメージを遺していったという面もあるかもしれません。

 旧日本海軍にしても輸送関係の部署を「ボロ士官の捨て所」とよんで侮蔑していましたので、この前近代的な伝統は根深いものがありました。

 しかし前述したように、軍部内部にも心ある人物はいて兵站に関する重要性を常に説いていましたし、大きな犠牲を払いながらも補給を継続しようとする意思と行動を続けていたことも事実です。しかしあまりにもその数が少なく、兵站に関しての人材不足はやはりどうしようもなく、旧日本軍の大きな欠点でした。

 それに軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったことも日本にとっては不幸なことだったと思います。

 たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。

 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げら...続きを読む

Q大本営発表ってなぜバレなかったんですか?

 太平洋戦争中、日本は負け戦も勝ち戦と虚偽の発表を連発してきましたが、普通に考えてバレバレだと思うんですが、なぜ国民は信じ続けていたのでしょうか?

・開戦からの戦果を総合すると空母50隻撃沈くらいになるはずなのに、内地には艦載機が押し寄せてくる。対する日本の戦闘機は殆ど見ない。
・連戦連勝のはずなのにガダルカナル→サイパン→フィリピン→硫黄島→沖縄とだんだん敵が内地に近づいてくる。
・パイロットや水兵は途中何度も内地に帰ってきて休暇を取って国民と接触しています。そこで戦地の悲惨な状況が国民に漏れる。いくら緘口令があっても全員が新聞報道どおりの嘘をつき続けるのは難しいと思います。

↑こんな状況なら「新聞は嘘。実は日本は負けてる」と噂になっても良いような気がしますが、勝っていると信じている人が多かったそうです。なぜですか?

Aベストアンサー

>普通に考えてバレバレだと思うんですが、なぜ国民は信じ続けていたのでしょうか?

大本営発表は、レイテ湾会戦以降誰も信じていませんよ。
レイテ湾敗北後、軍部は「兵士に、緘口令」を命じましたが「口に戸を立てる事は不可」です。
色んな情報が、正確に日本に流れています。
田舎に住んでいた私の爺さんも、知っていましたし・・・。

>勝っていると信じている人が多かったそうです。なぜですか?

「負けている」と一言でも言うと、非国民・国賊として憲兵・特高に逮捕されて拷問が待っています。
逮捕されないまでも、村八分です。
今でも、中国・韓国の報道を見れば理解出来るでしよう。
自国・自政府に都合の悪い事は、全て「無かった事に!」が合言葉ですよね。
報道機関では、一切報道しません。
韓国人も、皆が皆「加害者(日本)の罪は、1000年たっても消えない(朴大統領)」「天皇は、土下座して謝罪しろ(明博前大統領)」と思っている訳ではありません。
反日行動をすると、韓国政府から報奨金が貰えるので「小遣い稼ぎ」で行っているに過ぎません。
※「日本人10人を殺すと、ハワイに御招待」という、ブラックジョークも流れています。^^;
韓国南部では、北九州発の日本の番組を見る事が出来ますからね。
※朴大統領になって、報道規制も宗主国中国並みになっているようです。
福島原発事故に関して、大本営(東京電力広報・政府)発表を信じる人が少ないのと同じです。(笑)
民主党政権時の枝野幸男官房長談話は、大本営発表!と看做されていましたよね。
当時も今も、同じです。

>普通に考えてバレバレだと思うんですが、なぜ国民は信じ続けていたのでしょうか?

大本営発表は、レイテ湾会戦以降誰も信じていませんよ。
レイテ湾敗北後、軍部は「兵士に、緘口令」を命じましたが「口に戸を立てる事は不可」です。
色んな情報が、正確に日本に流れています。
田舎に住んでいた私の爺さんも、知っていましたし・・・。

>勝っていると信じている人が多かったそうです。なぜですか?

「負けている」と一言でも言うと、非国民・国賊として憲兵・特高に逮捕されて拷問が待っています。
逮捕さ...続きを読む

Q空母のカタパルトは、米国でしか造れない?

ここしかないのでお訊きします。だいぶ前なので、現在は状況が違うかもしれないですが何度か空母のカタパルトについて、イギリスやフランス・ロシア等が開発しようとしたけど無理で米国だけだと本で見たような。これ自体は軍事や戦略等から見ると大した話ではないでしょうが、事実ですか?単に、米国以外は大型のジェット戦闘機を空母から飛ばそうとしなかったり目的・戦略が違っただけとか。それに何年か前に、フランスの今までの原・水爆実験で得た情報と米国の情報を交換するとニュースで見たり、エシュロンという世界規模の盗聴網で米・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスの白人クラブがあるとEUの議会で取り上げられたのを見るとカタパルトの技術くらい教えそうですが。
それに現在は、先進国間で留学等の知の交流があるし物質工学や工作機械や設計・加工技術等の差がそんなにあるのか疑問ですが。

Aベストアンサー

シャルル・ドゴールのカタパルトはアメリカ製のようですね。

というか、アメリカ以外の最近の空母でカタパルトで離艦するのってってシャルル・ドゴールだけじゃないでしょうか。
なお、フランスの旧艦ですが、クレマンソー級の蒸気カタパルトはイギリス製のようですから、アメリカでしか作れないと言うことではないようです。

ただ、現在、イギリスやロシアの空母はカタパルトではなく、スキージャンプを使った離艦です、おそらく、今後のアメリカ以外の空母はSTOL能力の高い機材で運用というのが世界的な流れでしょう。アメリカにしても、強襲揚陸艦などにはSTOL+スキージャンプというのが登場するかもしれません。

アメリカ以外で蒸気カタパルトを作らないのは、空母の思想が変わってアメリカ以外での需要がないからだと思いますよ。外国で作ったとしても売れなきゃどうしようもないですから。

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q日本が太平洋戦争で犯した最大の失策

みなさん、日本が太平洋戦争で犯した最大の失策はなんだったと思いますか?

また、アメリカとの国力差をみると負けるのは当然としても、もう少し善戦できなかったのかと考えてしまいます。



どうすれば、より善戦できたか。
また、善戦できなかった最大の理由はどこか、を教えてください。

Aベストアンサー

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋戦争が始まった時も黒人達は、対外戦争での勝利と、国内での人権向上の権利を得る戦いに勝つ、二つの勝利を目指す「2つのV」というスローガンを掲げていたぐらいです。
政府としては国内を平穏にしておくためと、不足する労働力を得る必要性から黒人への権利拡大に動きます。
その結果、それまで白人しか働けなかった職場に黒人が配置されたり、黒人がそれまで就けなかった地位に就くようになりました。
しかし、これに反発したのが白人労働者で「黒人と一緒に働くくらいならヒットラーやヒロヒトが勝ったほうがましだ!」とストライキや暴動を起こしています。軍需工場によっては白人労働者の9割が職場を放棄したり、2万人の労働者が職場放棄した造船所もありました。
1942年8月のライフには緊迫する軍需産業都市デトロイト(軍需物資の3割以上を生産していた都市)について「デトロイトでは人種対立が激化し、ヒットラーと戦う前に互いに憎しみをつのらせている。モラルの低下は国内でも最悪の状況で、デトロイトはヒットラーを粉砕する前にアメリカを吹き飛ばしてしまう危険がある」という記事を載せています。
実際、翌年にはデトロイトでは大規模な黒人対白人の人種暴動が発生し34人が死亡し1000人が負傷し、軍が動員され暴動が鎮圧されています。
こうした暴動はデトロイトだけでなく全米各地で発生しており47都市で100を超える人種暴動が発生しており、軍需生産にもかなりの影響を与えています。メキシコ系住民と白人との間にも暴動は発生しています。
人種対立は軍需産業における労働者だけではありません。
アメリカ軍内部でも発生しています。白人兵による黒人兵への差別、暴力は多く、それが暴動にまで発生した事件もありました。ルイジアナで起きた黒人兵の暴動では28人の黒人兵が射殺され3000人が逮捕されています。3000人といえば丸々1個連隊に相当する人数です。それが戦争に行く前に内部対立で失われているのです。
だから当時の黒人兵が回想で「我々が戦うべき相手はドイツ兵なのかアメリカの白人兵なのか」というような事を証言しています。
日本は白人と黒人、メキシコ系などの有色人種の対立を加熱させ利用するべきでした。
アメリカの国力は日本の10倍です。しかし、その巨大な工業力も人がいなければ動きません。
工作員を多数確保し白人側には黒人の社会進出の不満を煽り、黒人などの有色人種には白人支配の不満を爆発させるようにして、白人側、有色人種の側、双方から煽り対立を激化させアメリカ国内を紛争状態にし、その工業力を発揮させないようにするのです。有色人種が武器を持ち立ち上がり内乱状態にもっていければ最高です。
日本はスペイン人を利用して戦時中にアメリカ国内にスパイ組織を確保していますが、このように第三国を利用して工作員を多数確保するのもありでしょう。できれば戦前から工作員を確保しておくべきです。
日露戦争の時に明石元二郎大佐がロシア国内の反政府勢力を援助してロシア軍の大部隊を国内に釘付けにさせる事に成功していますが、そのような成果を狙えれば、なお良いでしょう。もしアメリカ最大の石油生産地帯である南部で大きな反乱が起こり、石油の流通に滞りがでればさらに良いでしょう。
日本も戦前からアメリカの弱点の一つとして黒人社会と接触していますが、その工作は規模が小さすぎ大きな力とはなっていないように見えます。これは完全な日本軍の手落ちでしょう。
なお、前述したデトロイトの暴動は日本人工作員によって発生したらしいという話しもありますが、確実な証拠に乏しく詳しい事は判明していません。

アメリカの国力は大きいですが、それが軍需産業としてフル活動するには時間がかかります。だから1942年10月には太平洋で無傷の大型空母は0隻になるという状況も発生しています。エセックス空母の1番艦が実戦に出て来たのは1943年からですし、アメリカ軍の戦力が大きく増強されるのは1943年以降です。
それまでの間にアメリカ国内で人種対立を激化させ内乱状態にまで持っていければ、アメリカは国内問題を先に解決しなければならず、日本に有利な態勢で講和という事もありえるかもしれません。
要は敵の内部を撹乱するのは兵法の常道でもあるにも関わらず、それを怠った大本営の作戦ミスです。

後はミッドウェー作戦での空母戦力の分散でしょう。
アリューシャン作戦を行い空母を分散させました。連合艦隊内部にもアリューシャン作戦は中止し、その空母を南雲機動部隊に合流させるべきだの意見がありましたが、採用されませんでした。
戦後、ニミッツ元帥もこの兵力分散を批判し、兵力を集中していれば日本が勝利していた可能性がある事を指摘しています。
ミッドウェー海戦では日本の暗号が解読されていた事を敗因に挙げる人もいますが、暗号を解読していたにもかかわらず空母ホーネットの爆撃隊は日本の空母を発見できず、20隻近いアメリカ潜水艦も空母を第1目標にするよう命令されていながら1隻も戦果を上げれなかった事からわかるように、必ずしも絶対的な要因ではありません。
もし、日本がミッドウェー作戦で空母を集中投入していれば勝利していた可能性はかなりあるかと思います。
そして、ミッドウェー海戦で勝利していれば、その後の展望も大きく違ってくるかと思います。

さらに日本潜水艦隊による通商破壊戦を全力で行う事でしょう。
アメリカは開戦時、Uボートの活躍で石油不足に陥っていますし、イギリスもUボートの活躍で海上交通路を攻撃され危機的状況にありました。これに日本の潜水艦による通商破壊戦の戦果が加われば、両国は一層苦しめられた筈です。
しかし、日本は潜水艦を全力で通商破壊戦に投入する事はしませんでした。潜水艦部隊から通商破壊戦実施の要望が出されてはいましたが採用されませんでした。

つまり・・・
(1)アメリカ本土での人種対立を激化させ国力を発揮させなくする。
(2)ミッドウェー作戦では空母を集中投入する。
(3)潜水艦による通商破壊作戦を全力で行う。
この三点だけでも成功すれば戦局は大きく動くでしょうし、日本の勝利の可能性もあるかと思います。

細かい事を言えば、まだまだありますが、多くの皆さんが言うように、日本の勝利が不可能だとは、少なくとも私は思っていません。善戦どころか勝利する可能性もあったのに、日本の軍部の作戦ミスで敗北したと私は判断しています。

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む


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