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人々は何処ででも争論します。このミニマムなQAサイトでも、諍いがあります。(だから議論は禁止というルールがあるのでしょう)
しかしながら、争論を超えるという事態については、中々見られません。勝敗に拘り、溜め込んだエゴを吐き出し、噛み付く。
人が、言葉を牙として使う獣の様に成り下がる。

私は、雲行きが怪しくなればその場を後にして、眺めるだけにすることが多いのですが、そうしていると、当然心は落ち着いてきて、議論に存在していた齟齬や、足りなかった姿勢などが見えて来ます。また、自分の良かった点、そうでなかった点も見えて来ます。また、引っかかっていた言葉も引っかからなくなったりします。これは、ある意味で争論を超えたとも言えるのでしょうが、場を離れた故に当然と言えば当然です。
渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。

A 回答 (12件中1~10件)

No.3と7です。


お礼ありがとうございました。

見つけたものを、割と分かりやすいので。

二項対立(にこうたいりつ)とは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。社会においての諸問題も二項対立から発生しているということであり、たとえば紛争の原点がこれである。 ウィキより

こう言う争いの手法を理解して、相手の挑発に乗らないことも
ある意味大切かと思います。

相手は渦中にあろうとも、自身が巻き込まれないでいれば
渦中にはならない訳ですし、自身がそれを使って誰かを
巻き込まないのが一番重要な気もします。

意見をぶつけ合うことが、よりよいものを出せる訳でなく
人との溝を深める図式になっているだけで
出し合うのは有益ですが、ぶつける必要は無いですよね。

争いを作らない、相手の仕掛けに乗らない
そのためにも学ぶと言うのは有効手段だと思います。

仕掛ける人は、意図的な場合もありますが
未熟でやってしまうこともあると思います。

私も20代の頃は、そう言う議論が理解しあえる元と思い込んで
友達減らしました(苦笑)

争論は、己が未熟さを超える源でもあるかもしれないと
ちょっと思いました。
摩擦を起こすから、自分の未熟さが見えてきます。

それが争論を超える元と言えるのかもしれません。

いつ気づくかは幅がありますね。
気づかず終わる人も多々おられますから。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございます。
勉強になります。
自らが他者を巻き込まないこと、争いを作らないことが重要とのこと、賛同致します。
また、争論の中に争論を超える種があるというのも同意できます。そう言った経験から成長できるチャンスも得られることでしょう。

お礼日時:2014/08/09 23:38

達観する ということではないでしょうか。



頭を冷やして一息入れれば 流れが分かってきて争論に及ぶことをおかしいと思う自分を発見できますね。
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この回答へのお礼

そうですよね、仰るとおり、一度クールダウンすることは効力抜群だと思います。炎上したままどこまでも通じない話を延々と繰り返すことはあほらしいです。

お礼日時:2014/08/10 22:37

a_hona様、こんばんは。




>「渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。」

いさぎよくする、しかないかな。
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この回答へのお礼

潔くですか、。これもまた容易ではないことですね。しかし一理あると思います。

お礼日時:2014/08/10 15:35

>修行者は己を決して捨て去ってはならないという言葉もあり、真実を求めつつも己を損なわないということこそが、本当の道なのではないかとも思いました



私の発言は「勘案」で、つまりは自分を計算に入れずに考える事を指しています。

「捨てる」ではないですね。
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この回答へのお礼

再びのご回答ありがとう。
仰るところは平等にも通じるところと思いました。自分に優位に働く様な画策はしない、そういうことと受け止めました。尤もと思います。

お礼日時:2014/08/09 23:31

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.



語りえぬことについては、沈黙するほかない。
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この回答へのお礼

その追求は不毛であるということを悟って、沈黙するのは理にかなったことだと思います。ウィトゲンシュタインの名言だと思いますが、方便という道もあるのかなと。

お礼日時:2014/08/09 19:43

思い出したので追加します。



Q&Aにおいては、言葉の選択だけでなく
文字の並べ方でも争論は起きやすくなります。

行間の使い方、行の配置などなど
読みやすさだけでなく、人間の持つ機能としての
意味も全て含めてですが。

相手に配慮する意思の有無に最後はかかわるのかな
なんて思う次第です。

最近、文章読んでて吐き気がしたとき調べて分かったことです。
行の頭が揃ってない文章を読むときは、皆さん気をつけてくださいね。
よけいに気持ちや感情を振り回されますので。

いわゆる心理学的・脳科学的な機能としての話しですが。
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この回答へのお礼

相手に配慮する意思の有無。
これは全く当たり前のことで、経験則として分かっておるべき大切なことだと思うのですが、自説に執するあまり、それを忘れることも有るのかなと、争論の現場を見て思います。

お礼日時:2014/08/09 19:40

己を勘案しない事



求めているのが真実か、己か
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この回答へのお礼

これも一つの道理かと思いましたが、修行者は己を決して捨て去ってはならないという言葉もあり、真実を求めつつも己を損なわないということこそが、本当の道なのではないかとも思いました。

お礼日時:2014/08/09 19:37

まず、真っ向から対立する考えを持つ者同士で


争論を超える事はほとんど不可能かと思います。
何故なら、それぞれの思想には感情的な基礎があると思うからです。

また、ある程度思想を共有する者同士であっても
自分の非を認めたくない、あるいは自分の方が優れていると思いたい気持ちが勝って
より高次の結論に達するのはまれではないかと思います。

ですので、お互いが、ある程度共通した思想を持った上で
いつでも自分の非を認める謙虚さを持った者同士にしか高次の結論に至る可能性は
無いのではないかと思います。

但し、このサイトでは自分と真反対の考えを持つ人の意見を読む事が出来ますので
直接やり合わなくても勉強にはなりますね。
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この回答へのお礼

最も現実的な回答かと思いました。
仰るとおりかと思います。

ご回答ありがとう。

お礼日時:2014/08/09 19:34

他人による自分への評価など意味はない、自分に


ついて一番よく知っているのは、自分自身だから。
人に自分の意見を否定されて不快に思って反論
する(あるいは逃げるのも)、自己顕示欲や自尊心と
いった、他人による評価への依存があるからだ。
私にとって、他人による自己への評価など、その人
自身の認識能力の指標でしかない。
自分の認識の深まりに役に立つなら議論を続けるし、
役立たないならば、無視するだけだ。
ただし、このサイトにおいては、継続的議論は禁止
事項なので、質問の追加と思われる場合を除き、
反論には答えない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
厳しい自己批判によって、自己を律することができているならば、まさに、自分を一番よく知っているのは自分であるという強い言葉は間違いではなくなるだろうと思いました。
サイテックスさんからは、その様な意思を感じます。
しかし、誰もがその様に自己を厳しく律して生きているわけでもないと思うのです。より柔和に、他者との関係を成立させたいと考える人もいると思います。その様な時、人に合わせるということが、思いやりとなってより良い関係が築けるのかなと考えさせて頂いた次第です。

お礼日時:2014/08/09 19:31

おはようございます。



>渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。

哲学的批判をするということではないでしょうか。
争論は、その時点でただの批判に成り下がっています。

自身を哲学的批判にさらしながら進むことで
相手と争わずに深い思考ができます。

常に自分の認識を確認するしか方法はないと思います。

普段から哲学的批判を持って自身のバランスを保ってないと
その場だけで出来るというものではないと思います。

土台人間は感情的になっている時に、よい思考ができる訳もなく
新たな道(解釈含む)を見出せる訳もなく、自身が囚われてる姿も
全部すっ飛ばしてやりあってますからね。

争いから相手を理解できるのは、子供の時の真っ向から挑む喧嘩までです。
争論が始まってから云々ではなく、争いを始めないことが大切で
争いからより高いものより深いものは生じないと理解することかなと思います。

感情に流されてる、自分の考えのみに囚われてる
そういう自身の姿が見えていないと、頭だけの理解は用をなさないと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。
自身を哲学的批判に晒しておくというのは、知的に生きるということかな、とも思いました。知性による批判、知性というもう一つの自分自身によって、感情やプライドもある生身の自分を諌める、導く。

そうすることで、自らは渦中にありながらそれを超えることが出来る。
スタンスとしては、ご回答頂いたものが適しているかと考えることができました。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/09 19:24

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