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人々は何処ででも争論します。このミニマムなQAサイトでも、諍いがあります。(だから議論は禁止というルールがあるのでしょう)
しかしながら、争論を超えるという事態については、中々見られません。勝敗に拘り、溜め込んだエゴを吐き出し、噛み付く。
人が、言葉を牙として使う獣の様に成り下がる。

私は、雲行きが怪しくなればその場を後にして、眺めるだけにすることが多いのですが、そうしていると、当然心は落ち着いてきて、議論に存在していた齟齬や、足りなかった姿勢などが見えて来ます。また、自分の良かった点、そうでなかった点も見えて来ます。また、引っかかっていた言葉も引っかからなくなったりします。これは、ある意味で争論を超えたとも言えるのでしょうが、場を離れた故に当然と言えば当然です。
渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。

A 回答 (12件中11~12件)

 「自分の考えを客観しながら発言すること」・・・と云うのはどうでしょうか。

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この回答へのお礼

これは大切なことだと思います。同時に難しいことでもあるでしょう。客観するというのは、有る意味で自分を超えるということでもあると私は思います。

お礼日時:2014/08/09 19:15

 こんにちは。




 ★ 渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。
 ☆ 論理と道理に就くということです。

 これを飽かずどこまでも問い求めるということです。

 
 そのことを
 ★ 諍い
 ☆ だとか あるいは
 ★ 勝敗に拘り、溜め込んだエゴを吐き出し、噛み付く。
 ☆ といふうにしか見ることが出来ないというのは まだ《争論》から離れてさえいないと言うべきでしょう。



 ★ 自分の良かった点、そうでなかった点も見えて来ます。
 ☆ このような見方こそが 論理と道理に就くという妥当性による判定ではなく 自分の思い持っている妥当性の基準に固執する態度です。



 このようなきよらかなおそれに基づく・対話におけるきびしい姿勢を言うと
 ★ 人が、言葉を牙として使う獣の様に成り下がる。
 ☆ と受け取るのでしょう。いつまで経っても 対話は出来ません。
 自分を活かすすべを知らないのでしょう。
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この回答へのお礼

論理と道理に就くということには賛同します。(これは、口先だけで言えるほど簡単なことではないでしょう。)しかしながら、論理や道理だけで対話は成立していないとも思われます。人は色々の想いを乗せて言葉を発しますから、その想いを汲み取ることが、論理や道理に就くということよりも、大切な場合も出てくるのではないでしょうか。

以下の三つの批判については、的を射た回答とは受け取れませんが、そういう批判もあろうと思って受け取っておきましょう。

ご回答ありがとう。

お礼日時:2014/08/09 19:12

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