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私は人のために役立ったり人が喜んでくれることをするのが好きです。でも上記のことをする事で自分に生きる力、満足感や喜びを得ているようで結局は人の為ではなく自分の為にしてるのかもと悩んでいます。私は恋愛でも人を少しでも傷つけるくらいなら自分は諦めてしまいます、人を悲しませたら罰があたりそうだからです。話が派生してしまいましたが、もし人の為に動いても結果的に自分がそこから満足感を得てるならそれは自分の為ですよね?であれば相手を傷つけるとか相手の気持ちを察するよりもっと自分中心の幸せを求めても良いのでしょうか。

A 回答 (19件中1~10件)

>>もし人の為に動いても結果的に自分がそこから満足感を得てるならそれは自分の為ですよね?であれば相手を傷つけるとか相手の気持ちを察するよりもっと自分中心の幸せを求めても良いのでしょうか。



自分と他人が別個の存在と思うと、そんな悩みが出ると思います。でも、「別の存在に見えて、実は一つの存在」つまりは、「自分も他人も同じ」と思えば、あまり悩むことはないと思います。親指と小指は別の存在、でも、「手」や「腕」という見方をすれば、同じ「手の一部」という存在になります。

例えば、会社の中に、正社員と派遣社員が混在するのは、今はよく見る風景です。「派遣社員は別会社の人である」と思えば、派遣社員に有利なことをすれば、「自社が損した」という判断になるでしょうね。でも、「同じ日本国に所属する会社で働く仲間どうし」という視点で見れば、正社員と同様に、派遣社員の待遇が良くなることは、全体として良いことです。

客観的にみれば、何も変わってなくても、考え方ひとつで、「他人の幸せは自分の幸せ」と考えることもできるし「他人の不幸は密の味(自分の幸せ)」と考えることも可能でしょう。
「他人の幸せを見るのが自分の幸せ」って思えれば「自分中心の幸せを求めても良い」となりますね。

仏教では、「上求菩提・下化衆生」(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)といわれます。
悟りを求めることは、自分だけの利益のように思えます。そっちに打ち込むと、山奥での修行、あるいは、書斎に籠もっての勉強ざんまいになりがち。
大衆布教が大事となれば、自分の悟りの修行の時間がとれませんし、低俗な悩みも増えることになります。
この矛盾した両者を、うまくやっていくことが大切だとされていますね。
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この回答へのお礼

仏教の例えを教えて頂きましてありがとうございます。少し心が和らぎました。私は慎重で悩みすぎるところがあるのですが人間である限りどのような状況でも立場でもあり得るのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/29 09:25

人のために良かれと思ってしたことでも、裏目に出る時もあります。

役立った時に嬉しくなるのは、役立ったからではないでしょうか。
「私は人のために役立ったり人が喜んでくれることをするのが好きです」ということですが、自分と他人を分けずに、自分の願いは人を助けたい、ということと人を喜ばせたいということで、その方向に自分を成長させるようにこの世の修行をしている、という点に目を向けてはどうでしょうか。人のためでなければ純粋ではないと考えることは、一面的な見方です。この世には苦しんでいる人が沢山いるから、そういう人を助けるとともに、自分の心も磨いているということです。
自分は役立つことが好きです、と考えないで、困っている人の何とか手助けをさせていただきたいと願っています、という心を自分の中に確認してみてはどうでしょうか。

なぜその人が困っているかがわかるのは、過去に同じような苦しみを経験したからではないでしょうか。
たとえば自分の祖母が坂を登れずに困っていたことを経験した人は、同じ苦しみにある人を見たときに、その苦しみが自分のことのように感じられて思わず手を差し伸べてしまう、というように、人の苦しみが自分のことのように感じられるから、なんとかそのひとのお手伝いがしたいと思うようです。

恋愛は自己愛ですので、考えなくていいと思います。
結婚するべき生涯の伴侶はそれとわかる形で来るものですので、一緒に生きてゆきたいという願いが生まれた人と付き合えばいいかと思います。

「相手を傷つけるとか相手の気持ちを察するよりもっと自分中心の幸せを求めても良いのでしょうか。 」ということですが、なんとかそのひとのお手伝いが出来て良かった、というのが、本当の悦びであるそうです。
自分中心の幸せというのは、罰を当てる神様と同じく、虚しいものですので、相手が本当にしてもらいたい事を察する気持ちの方が大切だと思います。
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>もし人の為に動いても結果的に自分がそこから満足感を得てるならそれは自分の為ですよね?


そのとおりです。でも、悩む必要はまったくありません。それでいいのです。

ひとはすべて満足感を得るために行動します。おいしいものを食べたり、異性とエッチしたりすることも、これで満足感が得られるからです。食べることやエッチすることが苦痛だったら、誰も物を食べなくなって死んでしまうし、子供が生まれなくなって人類は滅亡してしまうでしょう。

満足感を得るにはいろいろな方法があります。たとえば、知らない土地を旅行したり、仕事や勉強を一所懸命やったり、祭りの幹事を引き受けたり、人によってさまざまな方法で満足感を得ようとしています。そして、あなたのように「人のために役立ったり人が喜んでくれることをする」ことも大きな満足感が得られるでしょう。

ではなぜ、ひとは満足感を得るために行動するのでしょうか。それは、満足感を得るために行動することが、無意識のうちに人類の繁栄に役立っているからなのです。ていうか、逆に、ひとは人類の繁栄につながる行為を行ったときに満足感を得られるようにできているのです。だから人は繁栄してきたのです。

満足感を得るために、自分の好きなように行動しましょう。それが人類全体を見回したときに、発展に貢献しているのです。特に、あなたのように「人のために役立ったり人が喜んでくれることをする」ことは、あなた自身にとって大きな満足感が得られると同時に、人間社会にとっても大きな利益になっていることは明らかです。
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 子供の時は、自分が必要とする人、親や友達を求めますが、大人になると、自分を必要とする人を求めるような気がします。



 いわゆる、人のために役立ったり人が喜んでくれることをして、自分が必要とされていることを実感します。難しいのはパン屋さんやシェフが、常連のお客さんに必要とされている時に、必要とされている自分に満足するか、人のために役立っていることを喜びとするかですね。

 人のために役立っている自分に満足することは、自己中なのかという、正直自分でもまだよくわからない問いです。売れているお店の人なんかは、来てくれるお客さんに本当に感謝しているとよく聞きますが、自分の実力だと思わないかどうかですね。

 さらに検討してください。
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この回答へのお礼

考えれば考える程深いです。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/31 17:45

NO.14です。

お礼ありがとうございました。

>口では説明出来ないのですが人が喜んでくれたり、何か役に立った時に自分がいいヤツだなぁと思ったことはないのです。

質問文に「人のために役立ったり人が喜んでくれることをするのが好きです」と書いていらっしゃいます。
「人のために役に立てたり、人が喜ぶことが好き」なら、そういう自分は(無意識にでも)肯定的にとらえて
おられるはずです。「いいヤツ」という表現はピンとこないかもしれませんが、少なくとも質問者さんは
(表面的だけでも)「いい人」なんですよ。とりあえず形から入ることは、レッスン1です。
「いいヤツ」だと感じなくても、人のために貢献することを続けられたら、本当にいい人になると思います。
自己中の道に進むよりは、はるかに建設的だと思います。
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>結局は人の為ではなく自分の為にしてるのかもと悩んでいます。



そうなんだよ。
実際は、そうなの。
人が幸せになる、ということは、まわりまわって自分が幸せになるという「一歩」だと考えればいい。
実際に自分が幸せになれるかどうかは、それはわからないんだけど、でも「なにもしないで幸せになれる」ということもまずは無いわけだから。
人のためは、自分のため…それで正解。

自分が満足感を得るというのは「その時限り」だけじゃない?。
永続はしないんだけど…誰かの為になることで、誰かに与えた「エネルギー」というのは、人の「輪」を介して巡るもの。
そういうエネルギーは不滅だから。
それをいつか、君が受け取る日が来ることを信じていればいい。
わたしはもう、何度もそれを経験してる。
嘘じゃないからね。

>私は恋愛でも人を少しでも傷つけるくらいなら自分は諦めてしまいます、人を悲しませたら罰があたりそうだからです。

誰でも誰かを傷つけるのですから。
お釈迦様は、王子という地位を捨て、我が子と妻を捨てて…ある意味「逃げるようにして」国を捨てて、修行三昧の旅に出ます。
その結果として「ただ自分が苦しむだけだった」という「現実」に気付き、趺坐をして「悟り」にたどり着くわけです。
大いなる失敗をして、大いなる智慧を得たわけですね。

「罰」というのは、自らが進んで受けるものです。
誰かを傷つけぬ人などいないから、それにもし罰が付されるとするならば、我々全てみな「罪人」ではないですか?。
罪を受けぬ人間などいないというなら、甘んじて受ければいいだけのこと。
そしてそれ以上に「求める」事を止めないことです。

愛情というのは、求めることです。
捧げる愛情もありますが、愛は本質的には求めることから始まっています。
人を好きになれば、気持ちは前に出ようとするはずです。
好きになったことで、気持ちが落ち込んでいくということはありません。
考え込めばそうなりますが…一番先にたつのは、誰だって「愛されたい!」という、その一点ですよ。

だからこそ、傷つけてしまうことを恐れないことです。
罰を恐れないこと、痛みを恐れないことです。

そしてこれは「自己中」などではありません。
痛むことを、苦しむことを由として、その上で人を愛することは、奪うことではなく「捧げること」だからです。
自らを捧げることだからです。

あなたは、自分で理解していないだけで、ちゃんと「愛情」というものを知っています。
自分自身だけで考えこまないで、もっとたくさんの人との交流の中で、自分の感性を確かめていくことですよ。
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>私は人のために役立ったり人が喜んでくれることをするのが好きです。



これは「自分のため」と言うより「自己肯定感」のための行動だと思います。
(人の役に立って喜ばれる自分って、いいヤツだなぁ)と内心、思うことは悪いことではありません。
健全な「自己肯定感」は、必要ですし「健全な自己愛」にもつながります。

>相手を傷つけるとか相手の気持ちを察するよりもっと自分中心の幸せを求めても良いのでしょうか。

「健全な自己愛」と「自己中」は全く違います。
自己肯定感は健全に生きるために必要です。(自分にも良いところがあるなぁ)という満足感があれば、
人は自分で自分を愛することが出来ます。これが「健全な自己愛」で程よい自信は、人を成長させます。
自己中は(自分さえよければ周りはどうでもいい)という考え方なので、人間的成長は望めません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。自然な感情なのですね。
人の役に立って喜ばれる自分って、いいヤツだなぁ)と内心、思うことは悪いことではありません。

口では説明出来ないのですが人が喜んでくれたり、何か役に立った時に自分がいいヤツだなぁと思ったことはないのです。

お礼日時:2014/08/29 19:35

私たちの身のまわりの物は、衣食住どれをとっても


世界中からやって来ており、今や人類は1人では
生きられない社会生命(お互いに助け合って生きる)
だと言えます。
その特徴は、真に相手ののためになる事とは、相手が
能力を発揮して社会に貢献する事であり、全ての人の
ためになる=自分のためにもなる、という事です。
また、そうして誰もがみんなのために生きるならば、
その成果は全体のものであり、誰しもの喜びになる
=他人の喜びは自己の喜びであり、自分の喜びは他人
の喜びである、という相乗効果において、物質的状態
の如何によらず精神的充足量は最大化し得るのです。

人の生きる目的は、物質的な豊かさ(肉体的増殖)か、
精神的な豊かさ(精神的充足)かの違いであって。
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自分のために決まってるでしょ。

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人は自分のためにしか生きられませんし、自分のために生きるべきです。



人のために自分を犠牲にして生きている、というのは、思い上がりか、思い違いです。

>人を悲しませたら罰があたりそうだからです。

自分が罰が当たるのがイヤだから、つまり、自分のためです。

宗教者だって、究極的には自分が救われるために善行を行うし、
チャリティやボランティアも、不幸な人を救う手助けをすることで、自分自身に満足を感じるからです。

マゾだって、自分が痛めつけられることでサドが喜ぶことが、自分の快感だから喜んで苛められているのです。

自分の喜び、自分の満足、自分のため以外の行動なんで、ほとんどの人間はできません。
あなたも、「人のためになっている自分」が好きだから、人のための行動をしているのです。

>人の為に動いても結果的に自分がそこから満足感を得てるならそれは自分の為

それで当たり前、当然のことです。
だからと言って、

>相手を傷つけるとか相手の気持ちを察するよりもっと自分中心の幸せを求めても良い

というのは論理の飛躍です。

人間関係というのは、基本的にお互いの気持ちを尊重し合うものです。
どちらかの気持ちを無視していい、というものではないです。

もちろん、自分の尊厳を傷つけてまで、卑屈になってまで、相手の気持ちを尊重する必要はありません。
お互いに傷つかない、気持ちを察しあう、というのが人づきあいの基本であり、
そこに、お互いの幸せがあります。

あなたの誤解はおそらく、

自分は、自分を犠牲にして、人の幸せになるように配慮している、
自分の幸せより、人の幸せを優先している、

と思っている点です。
あなたも、他の人も、人間は自分の幸せのためにしか行動していない、ということを知り、謙虚になることが必要です。

人のために生きている、などと思い上がると、その不利益を感じた時に、
じゃ、人のためなんか考えないで、たとえ人を傷つけても、自分の幸せだけ求めていいのね、などと、極端な考えに陥るのです。
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この回答へのお礼

なかなか達観できない私には割り切れないからやっぱり生きるって辛いなぁと思いました。深い話をありがとうございました。

お礼日時:2014/08/29 10:13

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