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 プラス思考、ポジティブシンキングに対する警告(?)としてポリアンナ症候群というものを見ました。そのことに関する質問です。


 Wikipediaにはとても簡単にしかまとめられていないし、その他のサイトを見てもわかるのは『過度のポジティブシンキングで、物事の中のごくわずかなよい面だけを見て満足する』みたいな感じに書かれていました。

 私が判断した限りでは、物事の全体を認識せずに良い面だけを見て悪い面に対して対策をうたないから悪い、というように読み取りました。

 しかし、同様に逆の立場の人(?)が言っている内容が私が読んだ限りではあまりに宗教じみていてなっとくなんてとてもできなかったのですが、その人の主張によると『確かにゼロにはできないが限りなくゼロにはできる。思い込みがそれを妨げるだけだからよいように考えなければならない。起きてしまったことには手が付けられないのだから考える必要はない。ポジティブシンキングが未来のあなたの幸運を呼ぶ……』みたいな感じでした。

 こちらを私が判断した限りでは、不幸をゼロにはできないが少なくはできる。過去は変えられないのだから振り返る必要はない。信じる者は救われる。といったように受け取りました。


1 私はポリアンナ症候群を逃避ではないかと思うのですが、逃避との違いは何ですか?


2 正直なところ後者の主張の人物がポリアンナ症候群なのではないかと疑いましたが、質問はこの主張に基づけば、純粋で失敗を知らない子供はまさしく幸運の塊で、“まれに”起きてしまう失敗にさえ目をつぶっていれば将来も幸運であり続けるはずなのに、そうではないのはなぜか?


3 なぜここまで主張が食い違うのか?

A 回答 (4件)

心理学的思考でいえば、社会欲求と愛の欲求からの、esteemへの逃避だと思います。



esteemは大きくわけ二段階あり、それらは、他者からの承認の欲求、つまり他社からの尊敬の眼差しや羨ましいと思われる事、そのための努力があげられます。

マズローの理論でいうところの、第四階層に当たる部分で、第三階層である社会欲求と愛の欲求を、歪んだ愛情などのかたちでクリアしてしまったものと考えます。

そのため、例えばポリアンナ症候群は、自己啓発の類とは違うプロセスで、引き起こったものと考えられます。

簡単にいうと、拝見したサイトは自己啓発の視点でポリアンナ症候群を勘違いして語っているのでは?と思いました。それらを、混同した状態では、思考が派生して、主張の食い違いが起きるのも頷けますね。

要するに、「仰られてるように、ポリアンナ症候群は逃避の一種で、宗教や自己啓発の視点では、一概に語ることはできない。」と結論付けます。

ただ、個人的意見として、宗教や自己啓発の類が、最終的に本人にとって、良い意味でプラスに働くのであれば、薬物治療なんかより、よっぽど健全だと思いました。
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すいません、逃避ではなく、自己防衛のための逃避でした。


すこし、マズローとは違ってくるかもしれませんが、基本的に一緒です。

逃避したくなるような状況から、実際に逃避してしまい、それがエスカレートした感じです。
そのせいで、被ったことより、自分の心を守るほうが大事だったということでしょうか。

最近、私の知人の女子高生の彼女が、家にひきこもってて彼氏しかいない状況で
彼氏が歪んだ愛情を注いだことで、彼女にとっての社会承認が彼氏のみの世界で
クリアされてしまい、周りの目はないものとして、次の段階へ移行してしまい、
引きこもりを脱出したケースがあります。

ただ、歪んだままなので、引きこもりのままの体系、肥満で体系いびつで、メイド服などコスプレ用衣類をお腹のボタンを外しながら着ていて…これは、勉強になりました。
第三段階からの逃避を視認できた瞬間でした。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/07 20:58

「ポリアンナ症候群」という名称は、どのような場面で誰が使っているのですか。


心理学の研究や教育で出ては来ないのではないでしょうか。
精神医学でも出てこないのはないでしょうか。
「ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「ポリアンナ症候群」の項目を執筆しています」という説明付きで、次のサイトがあります。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%9D%E3%83 …
「ベストセラー小説………の主人公ポリアンナに由来して命名された。」 一体、誰がどこで命名し、どのように流布しているのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA% …
ある種の心理的傾向を簡単に表現するときに小説の主人公名を利用することはあっても、シンドローム、症候群のように考えるのは、行きすぎでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA% …
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/a …

“A tendency for people to pay more attention in their thought and speech to positive than negative aspects of their conceptual worlds and to process positive information more easily than negative information. ”
これは、逃避とは違うでしょう。 苦痛状況と快適状況とのどちらをより多く考え、口にするのかという場合、《快適状況をより多く選択するのは、逃避である》とは思わないでしょう。 《苦痛や不快な状況を想起するようなことを徹底して避けようとするのは、逃避である》とならば言えないことはないでしょう。

心理療法、カウンセリングを職業としている人々の一部には、「原因が分かったたとしても解決しないことが多い。原因を追及するよりも、今どうするかを考えた方が良いことが多い。原因を探って本人と接すると症状が悪くなってしまう問題がおきることが多い」という考えがあります。失敗の状況を振り返り原因を追及し対策を講じることで爾後の失敗発生を減少させる効果を期待できることもありますが、ヒトによっては、過去の失敗を振り返ることで自尊感情を失い落ち込んで行く・取り返しようのない過去にいつまでもこだわり続けることも多く、メンタルに問題を抱えて心理療法・カウンセリングを受ける状態になっているヒトでは、そのような後者のことが多いからです。 過去の失敗の事態を想起することをやめ(いわゆる忘れるようにする)・いまから進む道の順調な歩みをポジティブに思考する時間を多くすること、会話などもそうした方向で進めることが、メンタルに問題を抱えて心理療法・カウンセリングを受ける状態になっているヒトにとっては大事だからでしょう。
“まれに起きてしまう失敗にさえ目をつぶって、およそ楽観的・ノー天気に生きているこどもA”と“まれに起きてしまうかも失敗を強く懸念し、引っ込み思案でなにもしないように生きているこどもB”とでは、体験学習、失敗を乗り越えて能力を挙げる、事態に臨み異常な萎縮や緊張をせずに持てる力を発揮して成功を得るという面で、大きな差が出て来るのは当然です。
❶「失敗を知らない子供はまさしく幸運の塊で、“まれに”起きてしまう失敗にさえ目をつぶっていれば将来も幸運であり続けるはずなのに、そうではない」
❷「失敗に懲りる子供はまさしく幸運の塊で、“まれに”起きてしまうかも失敗を強く懸念し、慎重に考え、自重に徹していれば将来も幸運であり続けるはずなのに、そうではない」
❶❷どちらもあり得るでしょうが、「将来も幸運であり続けるはずなのに、そうではない」のは、❶よりも❷でしょう。
❸「失敗しても、転んでも、怪我しても、そんなことをすぐに忘れて、何度も同じようなことをする子供が、元気ですくすくと育ち、精神も知能も肉体、運動機能も良好に発達させることが多い」のだと思います。 もちろん、例外はいるでしょう。

多くの主張は、何らかの問題意識の中でなされます。
健康な子供達を相手にしているヒト、恐怖症や不安障害を抱えている子供達を相手にしているヒトでは、そのヒトが主張する内容や方向性が違うのはある意味、当然のことです。
辞書などで調べる場合でも、何のために編集された辞書なのか、誰を相手にどのような場面でどいう立場のヒトのために書かれたガイドや手引きなのかを考えることが、その主張を理解する上では大事なことと思います。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/07 20:58

>私はポリアンナ症候群を逃避ではないかと思うのですが、逃避との違いは何ですか?



心理学的には防衛機制の「打ち消し」です。(逃避も防衛の一つです)

逃避はその場から立ち去りますが、防衛は対象と向き合わなければならない場合の心理的な次元での逃げだと思います。なので私はやはり「逃げ」だと定義します。


こう思われる知り合い(A)がいます。
当人が長年付き合ってきた友人から、あることでずっと不利益を被っていたのですがその事実を認めたくなかったようなのです。(指摘するとそのつど怒っていましたから)
その友人は(病的な性格から)、人を利用し続けるような人間でトラブルをいろいろな方面でおこしていることで有名ですが、それを知るAはトラブルの当事者となっても「根は純粋な奴だから」と許し続けてきたのです。

他の回答者様が貼ったサイトに
「悪い部分に目を向けると、それによって自分の中に不安や焦燥感が起きる」
と書かれていますが、もともと、Aはそういう性格の一面がみられましたし。
また、世間とは仮面をかぶせた自分で付き合っている人ですので、相手に不満や怒りがあっても感情をぶつけることができないような、心の姿勢は、不利益を得ているという現実から逃げる以前に、打ち消すという考え方をさせてしまっていると考えます。

確かに「友人」は根っからの悪人ではなく、どちらかというと純粋な人なのかもしれません。ですが周囲が被る迷惑は、具体的な現実です。付き合いを続ける上で、そのような抽象論だけでは限界があります。

Aがそれを許し続けているということは、友人を怒らせたくない、失いたくないからなのです。
小賢しい人間は、こういう心理を巧みに利用しますが、Aもそれを許し続けるということは、甘えさせ続けていることになりますが、それは自分も相手に甘えたいという気持ちがあるからです。
当人同士が感情を直接ぶつけられない分、Aも友人も、彼らにとってより、身近な人間にフラストレーションをぶつけます。
当人同士の偽善的な関係は、周囲からは何も問題はおきてないとみえます。
ですからこれは共依存の心性であるともいえます。
(なんとか症候群という仕分けは、たくさんありますが、原因はシンプルだと思っています。たとえば恋愛症候群というのはまさに共依存のことしょう)

当人同士はお互いに対し、心理的には敗北を認めているわけです。
対等な戦いでしたら、勝敗が決まった時点で決別しているでしょう。

ポリアンナ症候群の例として挙げられているように、「残り1%の状態を認めることができない」ということは「残り1%になるまで99%の搾取」に対して、気付かなかった、またそのふりをしてきた、ということではないでしょうか。
Aにとっての残り1%というのは、相手が変わってくれるであろうという期待です。
期待と同時に相手に対する不信もあるのですから、そこに利用されるのは、相手のよいところ(純粋である)という抽象論です。
ですがそれは、起きている現実と関係なく、現実を認めたくないがための自分へのすり替えにすぎません。

という、身近な人間の例を挙げました。


>純粋で失敗を知らない子供はまさしく幸運の塊で、“まれに”起きてしまう失敗にさえ目をつぶっていれば将来も幸運であり続けるはずなのに、そうではないのはなぜか?

子供=純粋
子供=幸運の塊

このような方程式は間違っています。

純粋な状態というのがあるのだとしたら、それは自我を持ってない状態です。
自我があるからこそ、心の病理があります。
過去に自らにおきた失敗について、自我によって客観的に捉えられたとき、「幸運の塊」が幻だったにすぎないと悟ることもあるとは思いませんか?そのとき

>将来も幸運であり続ける

ことは、失われた「純粋な魂」が見ていたにすぎないと失望するのです。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 身近な人の例がとても分かりやすかったのでベストアンサーとさせていただきました。

お礼日時:2014/09/07 20:59

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