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孔子は「君子危うきに近寄らず」と言ったのであった。
そこで危うきものとは何かと問うてみた。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8767863.html

そこで結論を出したい。
危うきものとは要らぬもののことである。
要らぬものが危うきものなのである。
この世に危うきものは様々であり、それは姿を変え形を変え絶えず我々の身の回りに潜んでおります。
危うきものは様々であり姿形を変えて現れるが、しかしその本質は一つである。
危うきものの本質とはその存在の必然性が無いということである。
もしもそのものの存在が必然性のあるものであるなら、我々はもとよりそれを避けることは出来ないのである。
もとより避けることの出来ないものは危ういとは言わないはずである。
それは必然だからである。
必然として存在するもの、必然的に起こるものは危ういものではない。
危ういものとはそれに関わらずとも一向に支障のないもののことであり、それゆえ避けることの出来るもののことである。
つまり危ういものとは要らないものということである。
そして孔子は避けることの出来るものは避けたほうがよいと言ったのである。
「君子危うきに近寄らず」の意味、このよーに結論してよいのではないか。
  

「危うきものとは要らぬもののことである。」の質問画像

A 回答 (4件)

その洞察であってるんじゃないかと、私は思いますよ。



「危ないと感じるものに近寄らない」と言う意味にも取れますし、

さらに深く考えて、

「危ないと感じたときは手遅れじゃないのか?」と気付く人もいます。

有名になってしまうような先生やお師匠様は、

弟子やその他の人に問答を仕掛けられることが多かったでしょう。

一つのことを唱えれば、次の質問が為される。

日常からこういう状況にさらされていれば、

一つのことを教えようと思ったとき、次の質問も想定して考えますよね?

格言を残す人は、次の質問にも答えることまで考えているはずです。

何かを言う前には、自問自答を繰りかえして、自己完結するまで続ける。

そんな人物像でなければ不自然です。

また、歴史に名を残した先生ではなくとも、

その時代には同じような立場の人が沢山いたはずです。

こういう方々も同じ習慣を持っていたでしょう。

この方々が、格言を聞いたとき、質問者さんと同じ様に自分で問答し、

自分で答えを出し、時には反論しようと思い、

そして「なるほど」と納得して、高く評価するのだと思います。

これは「質問した後、どの様に相手が答えるか?」を想定しているのでしょうね。

こういう自問自答もできます。



しかし最終的には、質問する人が満足しなければ、

「上からモノをいっている」

とか、あらぬ不評を買います。



一番よくないのが、

「ある人だけわかって、自分だけ分からない」

こんな答えを出してしまうことです。

こういう先生は、その生徒に劣等感を与えてしまいます。

生徒にとっては、そういうシーンを与えた先生を恨むわけです。

自然哲学やその他の哲学(つまり学校とかの勉強一般です)であり、

分かる人と分からない人がいると、

優越感や劣等感を生んでしまう。

こんなことを引き起こすと、

先生と言うのはいつの間にか多数の生徒に恨まれ、

少数の生徒に好かれることになる。

質問者さんがいうところの、必然ですね。


ここで考えてみると、

真理に気がついた人は沢山いたのでしょう。

真理は一つですから、

(というかそうじゃないと真理じゃないですね。好みになってしまう)

同じ答えを知っている人が多数いたという事です。


違うのは伝え方、言い方へのケアですね。

奥深い話でも、それを理解できる土壌が出来ていないと、

聴いた人は不満を感じるでしょう。

そこで、話を聞く人の土壌(人生経験、知識・専門分野での習熟、心の成長)

を大別して数種類に分解してみる。

そしてどの人にも「なるほど」と感じてもらえるような、

複数の捉え方ができる言葉を選ぶことも出来ます。


多くの人に説明する人は、こういう技能を発達させているのではないでしょうか。

格言と言うのは、先生の次元にある人を唸らせるためにあると思います。

そうでない人には、「損も得もしないような当たり前のもの」で無ければならず、

一般の人が自分(つまり有名である事を自覚している)の名を使って、

子供をしつけたり、言い争いを優位に進められるものじゃないといけません。


学術書は、ダイレクトに専門家に向けて書きます。

これはやはり同じ真理を語っているわけですが、

良い事を発見しても、誰も読みません。


しかし、もし格言化することまで考えれば、

多くの一般の人が、(例え間違った解釈でも)伝えてくれます。

同じ言葉で伝わりさえすれば、

時代を超えて、別の先生たちが、「これは!」と気がついて、

再度本当の意味を見つけてくれるわけです。


仏教では、知恵のことを智慧と表現するらしいですね。

知識を蓄えているだけでは、本当に頭が良いとは言わないらしいです。

知恵を蓄えて満足している人は、

専門書や学術書をかき、その分野でしか通じない決め事を沢山覚えて習熟します。

知識は活用して実際に得をするものであり、

さらにこれが伝わって他の人が得をするから、意味がある。

というところまで考えている先生は、

智慧をつかって、後世に残す方法まで検討しているはずです。

ここに気がつくと、

歴史書を読んで示唆を得ようとする知識階層(仏教で言うところの天)や、

自然を研究してメカニズムを把握しようとする学者よりも、

さらに高い次元の知性をもっている存在が示唆されますね。

そういう人が残したものは、時代を超えて、その時代のエースに解釈され、

他の人が勘違いして解釈し伝えることも知っており、

「本当の意味はそこじゃないんだけど、それも想定して作者が残している

 わけだから、それでもいいか・・・」

と考えながら、

「xxは、こう言った。これを伝えなさい」

と言う形で、知識を学ぶ(つまり学校ですね)場所で、伝えさせたのでしょう。

こういう必然を考えたとき、

時代を超えて、その時代のエースを打ち負かしてきた超人的な人の説法のみが、

後世に残っているはずですよね?

同格の人のみがわかる、優劣。

こういうものが必ずあり、ご先祖様の時代に評価されているわけです。


真理が一つならば、

「知識を持てあそんでから伝えよう」とする人のいう事を学ぶと損をします。

逆にそういう人は、自分が新しく発明したと思い込んでしまうでしょう。

過去に気付いた人が、別の言い方で伝えている。

こういう可能性も考えないと、イタイ話になります。

逆に、そういうことが起きていると考えて、

今の時代の専門家に学ぶのではなく、

その専門家の系譜を、ジャンルとして歴史的な経緯で遡り、

その源流にいる人の話を再度読み直してみるのも一興でしょう。

再発見があると思います。


わたしは、心理学、その他の精神医学、哲学、自己啓発に関わる発見など、

同じジャンルじゃないかと思っています。




そこで、

インターネットが普及した今の時代。

大変便利ですから、それらを探してみました。

あらためて、自己啓発に類する沢山の本を読む必要が無いと感じました。

いまある本を書いている人は、

けっこう普通の人であり、

その洞察は、孔子にも至りませんし、孔子は仏陀に至らないわけです。



わたしは、

質問者さんが、論語を元に色々考えている姿勢に興味をもったんですよ。

キリストや仏陀が子供たちに指導したかったのが、

そういう姿勢のことだと思っています。

知識として伝えられるものは、その時代の覇権を争う競争として活用されてしまい、

考えるという力を人から奪います。

(いまでいう学歴を競う道具に使われてしまう)


ご質問の「危うい」は、冗長を現しているという解釈で近いと思います。

さらに、「不善」という言葉も残していますよね。

「不全」と捉えるべきじゃないかと思っています。

「小人閑居して不善を為す」

大意は一般解釈であっていると思います。

しかし不善までの経緯も語っていると思えるのです。

「天才とは1%のひらめきと99%努力である」

「逆に言うと、1%のひらめきがあっても、99%の努力を嫌がって、

 不完全なもので投げ出してしまえば、無かったとき以上に危険なものになる。

 こういうものが世の中に多いから、石橋のような人工物は、

 検証してから使うのがいい。

 更に言うならば、

 自分は他人と違って、ひらめきがあり、才があるのに、

 世の中が自分を認めないと悩む人がいる。

 つまりは偉人ではないパンピー、小人なわけだ。

 こういうひとは99%の努力の過程で、

 逃げ出して閑居している。これが原因だ。

 こういうひとが無責任に完成していない成果を残していくから、

 それを使う人が後で事故にあって苦労をする。

 つまり善ではない不善と言うものを作り出す。」


と言う意味じゃないかと私は思っています。

さらにこの不善(取り扱いに注意が必要な不完全なもの)は、

一般の人(小人)にはわかりませんから、

「あれはいいかあら、つかおう」

とか言い出す人もいます。

ここで駄目だと反対しても、逆らえないものです。

こういう雰囲気が出てくると、危ういですよね。

関わると必ず失敗する。そんな無駄なものが確かに世の中にはザンチされています。

しかも何故だか、

こうしたものに魅力を感じて、掘り出す人がいるんです。


こうした人には近づかないのがいい。


危うきとは、質問者さんが解釈するとおりじゃないかと。

必然(良し悪しの運命に転換していく経緯)を想定すると解釈がかわりますよね。

仏教では、因縁果報と唱えております。

善悪は、人の感想であり、報ですね。

これには観察すべき結果がありまして、果です。

経緯をさらにさかのぼると、因に対して作用を及ぼす縁があります。

余計な掘り起こしをする小人とその行為です。

この人はなぜか冗長性に惹かれ、そういう因を見つけては不善を働きます。

これらを観察し、似た様なことが繰り返されていると気がつけば、

こういう流れや成り行きに「危うい」という名前をつけたくなりますよね。


人の愚かさを示唆しているのならば、

仏教で言うところの、三毒の一つを示唆していますね。


質問者さんの洞察に一票です。

わたしは、何故それが危険に発展するのかを補足して見ました。

以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

 
ありがとうございました。
 

お礼日時:2014/10/01 19:29

こんにちは hitonomichi33様 (^-^)



「危ういものとは要らないものということである。」おっしゃる通りだと思います。

☆孔子のお言葉「君子危うきに近寄らず」
君子とは学があり身分の高い人のことです。

☆荘子のお言葉「礼にて人を縛るは危うきかな。」があります。
「役に立たないものこそ有用」とのことです。

孔子が楚へ行ったとき、楚の狂接輿(きょうせつよ・逍遥遊編にも出た狂人のふりをする隠者)がこんな歌を歌っていた。

 「鳳凰よ、鳳凰よ。なにゆえに汝の徳が衰えたのか。
 来たる世に望みなく、去りし時は帰らず。
 有道の世は聖人の治めるところ、無道の世は聖人の隠れるところ。
 かくも乱れし今の世は、刑を逃れて生きるのみ。
 幸いは羽毛より軽きに載せるを知らず、災いは大地より重きに避くるを知らず。
 徳にて人に望むは慎むべし。礼にて人を縛るは危うきかな。
 いばらよ、いばら。我が行く手を阻むことなかれ。我れ曲がりて行けば、我が足を損なうことなからん。
 山木は用あるが故に伐られ、灯油は自ら燃えて尽きる。
 肉桂は食らうべく伐られ、漆木は用うべく裂かれる。
 人はみな有用の用を知りて、無用の用を知らず」

☆老子のお言葉「安きに居りて危うきを思う。」『貞観政要』
人間、なまじっか順境に入ってしまうと、すぐに油断してかえって状況を悪化させてしまうものだ。
物事がうまく進んでいるときこそ、リーダーは気を引き締めてテンションを維持し、来るべき危機に備えなければならない。

☆兵法書『呉子』「危うきにおもむけ。」
「敵の弱いところをつけ」

「危うき」は要らないものでいいと思います。
人間は自分が置かれた状況により、その都度、判断して行動しなければなりません。
「人の道」を説かれるhitonomichi33様だからこそ、愚民の考えにも耳を傾けられるんだと思います。勉強になります。
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この回答へのお礼

 
ありがとうございます。

>「人の道」を説かれるhitonomichi33様だからこそ、愚民の考えにも耳を傾けられるんだと思います。勉強になります。

お褒めの言葉を頂いたのになんですが、ここでいったん次元を下げます。

危うきものとは要らぬもののことであり、決して近寄ってはならぬもの、避けて通らねばならぬもののことである。
つまり危うき者とは肉食妻帯坊主のことであり、クソジジイ、クソババアのことである。
危うき事とは十字架をきったり賛美歌を歌たりして漬かる事であり、危うき所とはアホが集まる広布の広場のことである。
そして危うき時とはこれらのものと関わったり、すれ違ったりする時のことである。
 

お礼日時:2014/09/28 15:55

その現象や存在の可避性、不可避性と選択の自由の話をしているに過ぎない。



そして、この質問の論法を使うなら、
危なくないものも必然でなくなる、必然性がなくなる。
我々は危なくないものを選ばず、危ないものを選択することが可能なのだから。
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そう結論してもよいと思いますが、結論しなくてもよいとも思います


というのも
>「君子危うきに近寄らず」
この言葉がどのような文脈ででてきたのか不明なので合ってるとも間違ってるとも
言えないためです
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