電子書籍の厳選無料作品が豊富!

武田信玄の代で武田家最盛期を迎えますが、信玄死後たった10年で滅亡してしまいました。その最大の原因は信玄の晩年の外交政策にあると思うのですが・・如何ですか?
信玄は織田・徳川に喧嘩を吹っかけて、ほとんど成果を上げぬまま無責任に病死してしまいます。遺言も「越後と和睦して3年喪を秘し決して動くな。」と見当違いです。3年の間に事が決してしまった事は史実ですね。晩年の信玄は耄碌していたのか、若しくは信長の実力を過小評価していたのでしょうか?

A 回答 (10件)

3年、喪を秘し動くな。

似たような遺言を守ったのが、西武鉄道グループの堤義明。10年間動くなの遺言を守って、その間に社内の結束を固め、それからプロ野球進出を軸に表舞台で一気に有名になりました。

3年間で家中をまとめ、力を蓄えてから天下取りのつもりの遺言だったでしょうが、勝頼さん、はやばやと動きすぎました。

 動かなかった上杉家が、関ケ原の戦いの時まで、大きな勢力のまま生き残ってますから、武田家も3年間動かなかったら、上杉同様、大きな勢力のまま生き残ってた可能性大です。
    • good
    • 2

幾つか挙げられていない問題を指摘しておきましょう。


非常に不思議なのです。
1)新田次郎先生が指摘した様に、勝頼は「ご親戚衆」に足を引っぱられ、穴山梅雪の様にはっきり裏切った大バカも居た、徳川家康と間違えられて明智光秀の部下に首を取られたが、光秀はこの役立たずと言って蹴飛ばしたらしい。なお穴山の愚れつは置いといて、既に出たお答にこの事は指摘されている。

2)真田の非常に優れた忍びはどこへ行っていたのだろう、真田は勝頼にまだ命を捨てるには早過ぎると
いさめたが、勝頼は簡単に自裁してしまった、良家の坊やはすぐ絶望したがる。真田は盟主が死んだから
自らの領地を固めた。
だが非常に変なのは、最初に挙げた真田の忍びだ、非常に優秀だった、
武田の騎馬軍団と織田の鉄砲隊が対峙した時、既に突撃してはいけない事を見抜いていたはずだ。
既に一千年前からの中国の戦史には、三段に構えたら強力な弩兵が居ると記されてきた、
弩兵は「撃つ」「弩を引く(時には三人掛かりで引く)」「矢をつがえる」の三段で休み無く撃ち続けた。
弩兵が直接攻撃にさらされぬ様、一応弩兵の前に防御をするが、弩兵の邪魔だから人間は居ない、せいぜい
逆茂木だ。
真田の忍びは織田の鉄砲隊が「戦史」通り「見え見え」の鉄砲陣を敷いた事を見たはずだ、鉄砲も弩とほとんど変わらない、三人引きの弩は青銅と皮を重ねた鎧など「撃ち抜く」ほど強力だった。
そこへ強力な防御も無しに突入したら初めから死屍累累は当たり前だった。
池波正太郎先生の真田太平記を読んでいないので、その時真田はどうしていたのかそれが知りたい。
    • good
    • 1

武田信玄の時代に金山をほりつくしたとか。



勝頼もタスク志向なリーダーでお城の建設や鉄砲など調達してます。

やるきも満々で、戦争などもしてますね。


不利な状態で家督をついだものの北条と上杉との外交の失敗や織田信長の謀略での離反などやはり人間関係がよくなかったのでは。
    • good
    • 0

No.2です。



中央集権制の話が幾つか出て来ていますから、当時の状況の補足をしたいと思います。

現実に中央集権制を実現したのは織豊政権だけで、他の勢力はみな、合議制です。

其れは先祖代々の譜代の家臣が居り、彼等は領国経営をしていましたので、独自の兵力も当然に持っていたからです。

信長の場合は家中の統率の段階で、譜代の家臣の意見を重視せずに勢力を統一しました。

其の為に、軍団の行動は極端なトップダウン方式による、「神速」とも呼べる軍事行動が可能になりました。

秀吉は其れを引き継ぎ、かつそもそも譜代の家臣は一人も居ません。

武田家では信虎が家臣団の反発を招き、追放されております。


甲斐は平地とは違い、実際に見てみれば良く判りますが山間の土地が多く、また分断されている為に生活圏が飛び飛びになっており、其々に代々の豪族が住んでいました。

また平地の様に土地の境界が接している訳ではないですから、戦に勝っても田畑の境界線を動かすと言う事は出来ません。

ですので豪族の其の土地での影響力を削ぐというのが難しく、また其れ故に独立独歩の気概も高く、纏めるのが困難な集団でした。

加えて武田家も甲府盆地で一大勢力ではありますが、逆に言うと、やはり回りとは隔絶した土地柄ですので、武田家だけでの一大勢力化は難しかったのです。


家臣団の統率がままならない状態で、北条との同盟も無くなり、上杉は頼りにならず、金の産出量も下がり、東西に敵勢力を抱えている為に高天神城の後詰めも出来ず、ますます豪族の心が離れていった・・・

確かに軍事的には兎も角、外交的・戦略的には、勝頼は優秀とは言えないのは事実だと思いますが、そもそも信玄が此処まで大きくしたのが驚異的でしょう。

そして諸豪族の力を削がずに抱えざるを得なかった為に、空中分解という面が強いかと思います。
    • good
    • 0

そもそも、武田信玄そのものが過大評価の固まりでしょう。



信虎が親族や、豪族の力を削ぎ、権力を武田家に集中させようと中央集権化を試みたが、逆に配下の親族や豪族たちに担ぎ上げられた若き晴信が、信虎を追放。

以後、合議制で運営し武田本家の武力が低いまま晴信が亡くなり勝頼へ。

勝頼、時代遅れの武田家の中央集権化に乗り出すも反発をくらう。

1582年。
最後の決戦を挑むことすらできず、親族や豪族が離反、空中分解し天目山にて勝頼自害。


全ては、担ぎ上げられて信虎を追放した信玄の短慮、自身の死を予感しながら後継者を定めない無策ぶりと、どうして、こんな無能が名将と祭り上げられているのか謎です。
    • good
    • 0

不思議に思うことがあります。

織田は優れていたので武田に勝つのですが、最後に天下を取るのが武田家臣団を吸収して、武田によく似た徳川なのです。武田が時代遅れなら徳川も時代遅れなのです。
足利の封建制を織田の変革勢力が倒し、それを明智の封建制が倒し、それを豊臣の変革勢力が倒し、徳川の封建制が倒す。結局は足利幕府が徳川幕府になっただけ。結局はこの安土桃山時代はなんだったのだろうかと思うのです。歴史の必然性では理解できないのです。
    • good
    • 1

外交政策がどうこうより、武田家というシステムそのものが時代に合わなくなっていたのだと思います。



私が子供の頃は武田二十四将は、「優秀な家臣団が信玄を支えた」と美談調でしたが、近年の研究では「合議制で家臣団の発言力が強く、家臣団の同意がなければ信玄ひとりでは政策決定もできなかった」といわれています。
織田家では超ワンマン経営者の信長の決定ひとつで迅速な意思決定が行われますが、武田家では家臣団の合意がないと意思決定ができない。意思決定の遅さが優劣を分けるのはビジネス界と同じですね。近年の日本企業が世界の流れから立ち遅れるケースが目立つのが、この意思決定の遅さゆえといわれています。

>信玄は織田・徳川に喧嘩を吹っかけて、ほとんど成果を上げぬまま

甲斐・信濃に展開する武田家は、どこに進出しても有力な勢力とぶつかるという運命にあります。
当初は北上する戦略を取っていましたが、ご存じ上杉謙信が立ちはだかり北上戦略は頓挫します。上杉謙信というたら野戦の鬼ですから、さすがの信玄をしても正面からの決戦は挑めません。いくら武田兵が強くても、謙信はチート過ぎますのでね。
それで一時期は関東地方に活路を求めますが、実は当時の関東地方ってのはド田舎で湿地ばかりで田んぼにならない。「こっちも将来性はないなあ」と信玄公も思ったんじゃないですかね。

そうなると残るは西か南になりますが、信濃から美濃に行くには大軍が通れるルートではありませんからもう残るルートは現実的に南しか残っていないとなります。
ところが武田家には今川家シンパが多くて軍事的侵略が難しい。かといって歴史ある名家である今川家を傘下に取り込むのも不可能。結局跡取り息子である義信を文字通りに斬ってまで南下政策に舵を切りますが、そこまでの手順を踏まないといけなかったというのが信玄公のつらいところだったでしょうね。

また、人的資源が少ない甲斐・信濃では兵農分離なんてやりたくてもなかなかやれないし、既得権益集団である家臣団もそんなドラスティックな改革は望まない。結果として武田軍団は「プロフェッショナルで強兵だけど長期間の活動はできない」となりますので、兵団の動員力という点で織田・徳川連合軍に劣るのは否めなかったでしょう。
しかしその信長とて四方に敵を抱えている状態でしたから、いわゆる西上作戦といわれる元亀3年の戦役における信玄公の戦略は白眉だったと思います。戦略としては素晴らしかった。
ただ、それぞれの反信長勢力は「反信長」という点では一致したものの、それぞれに思惑があって勝手に行動したので信長を手詰まりにまで追い込むことはできませんでしたね。

ただ、もし信玄亡き後北上戦略をとったら・・・野戦の鬼謙信公に酷い目に遭わされたことになったと思いますよ。当時の武田軍と上杉軍の動員兵力はほぼ互角。兵力が互角なら謙信公に勝てる軍団はどこにもねえっす。
あと当時は北条家から上杉家に養子(景虎)が送られたりして北条家と上杉家が雪解けムードでしたから、どっちにケンカを売っても両方が敵に回る可能性が極めて大きかったので北上・東方戦略はどちらも不可能だと思います。
また、武田家の内情については私は詳しくないですが、研究者によると当時の家中は北条派や上杉派などのいろんな派閥があってその内部調整だけでも相当大変だったみたいですよ。
    • good
    • 0

言っておられることは俗に言う通説で、大河ドラマにもそのように描かれています。

しかし、少し違っていると思います。
信玄が家臣団が望まない勝頼を跡継ぎにする原因を作り、その境遇で必至に奮戦した勝頼だが、信長の力量が勝頼より勝っていたので滅ぼされたと思います。信長は甲州征伐で天下布武を確信し、後世に残る暴君に変貌したのです。

少し詳しく説明すると、
信玄は元々天下を取る気はなかったと思われる。その気でいたら上杉謙信に何度も戦いを仕掛けていないはずです。信長からの息子の嫁を取るなどの懐柔策を受け入れているのです。信長が一向宗を攻めあぐみ、反織田包囲網が形成されての上洛要請で重い腰を上げて京都に進軍した。徳川家康の桶狭間を真似た奇襲攻撃である三方ヶ原の合戦を軽くあしらい進軍するが謎の急死により撤退してしまう。若い時に正妻にうつされた結核の悪化が死因とされている。その時にでなりやっと家督を勝頼に譲り、死を3年間伏せろとの遺言するも数日内に織田に知れることになる。後に戦国大名はこの信玄の失敗を知り、家督を早めに正摘に譲るようになった。信玄は父から廃嫡されそうになり、父を追放して家督を握ったのでそれができなかったのだろう。

諏訪四郎勝頼は元々正嫡ではなく、正嫡の義信を信玄が幽閉し獄中死させたので正摘になった。勝頼の母は諏訪頼重の娘で信玄が諏訪氏を滅ぼした時に側室にした。家臣団は諏訪の娘を側室にすることを反対したと伝えられる。勝頼は家臣団には祝福されることなく生まれてきたのです。武田と名乗らす諏訪四郎勝頼と名乗っていたのです。

後を継いだ勝頼は織田・徳川を攻めて多くの出城を奪い、信玄時代よりも領土を拡大している。この時には信長は浅井・朝倉との戦いと一向宗との戦いで手一杯だったのです。勝頼は堅城の長篠城の攻略に手こずり織田・徳川軍との長篠の合戦に引きずり込まれるのです。家臣団は合戦に反対するが勝頼は突撃命令を出して大敗するのです。信長の巧妙な作戦が勝利をもたらしたのです。

これに勝利すると信長の甲州征伐が始まるのです。勝頼は高遠城を攻められた時にそれを見捨てたことで家臣団の信頼を失うのです。防備を固めるために新府城を作らせるが、その出費の多さに家臣団は織田に寝返ってゆくのです。最後は親戚の穴山信君の寝返りを受け未完成の新府城に火を放ち逃亡しようとすのが、助ける味方はおらず滝川一益の追っ手に観念して自害した。

家臣団の合議制で支えられ、カリスマ性のない勝頼が率いる武田軍と権力集中され軍略の天才の信長か率いる織田軍とでは戦い方が違っていた。
    • good
    • 0

武田滅亡の原因は、単純な理由に帰結する事は難しいと思いますが、私なりの考えでは、家督継承問題が大きかっただろうと推察します。



実は武田勝頼は、本来「諏訪四郎勝頼」であって、諏訪家の総領でした。

其れが後継者の断絶で武田家の総領に滑り込んだのですが、諏訪家の家臣団と武田家の家臣団での軋轢が此処で生じてしまいました。

また勝頼には武田家の通字の「信」が使われておらず、「頼」は諏訪家の通字である事も、興味を引きます。


最近の研究では勝頼の実像は、大分に有能だった可能性も指摘されています。

実際に領国は勝頼の時代に最大版図になりますので、領国経営其の物が下手だったとも言い切れません。


また合議制から中央集権制への政治形態の移行が、家臣団の反発を招いた可能性も指摘されております。
    • good
    • 0

ん??


武田滅亡の原因は勝頼ですが…

ちなみに「越後と和睦」とは言ってません
「難儀国難事象有時景虎助力懇願」という遺言です
つまり「勝頼がどうも立ちゆかなくなったら上杉謙信を頼れ」と言っているだけで越後と和睦しろとは遺言していません

それに3年死を秘して と言うのは3年かけて国内を固めろを言う意味です
しかし勝頼はその意味を理解していませんでした

仮に言うとおり信玄の晩年の無謀さが滅亡の原因だとしても勝頼が有能なら十分立て直せましたよ?
現に勝頼は信玄を凌ぐ領土を得ています


譜代の意見を聞かず自分の独断で内政・外交を断行した勝頼に愛想をつかした家臣が
離れていった内部崩壊が滅亡の原因です


実際 信長はそんなに恐ろしい武将でも無い
現にシンゲン謙信を恐れていたのは信長の方です
だからこそ真っ先に信長の方から和睦しましたし
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!