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それとも最初から心の場所は脳だったのでしょうか?
一応、頭でもいいです。

ウパニシャッドでアートマンが心臓に宿っていたりするのは、
まだ心といえば心臓というような昔だったからでしょう。

それがいつごろ頭とか脳になっていくのか。

A 回答 (7件)

こんばんは。




>「なぜ大乗仏教がひたすら待つなのでしょうか。
弥勒を待っているのでしょうか。」

「救って下さる」、つまり「他力」だからでしょう。


「自力」のはずの「小乗」が、いつの間にか「他力」の大乗になってしまった。




>「それがいつごろ頭とか脳になっていくのか。 」

むしろ、先祖返りでしょう。
(というか、「心の場所」って、それほど問題だったのですか?)
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この回答へのお礼

大乗仏教の起源など知りません。
たとえば仮に今の上座部が長い年月が経過すれば
大乗仏教になるというのであれば
今の対立は何なのか、そもそも成立したときの
起源が別なのではないかとすら思いますが
それはともかく。

たとえばカニシカ王とアショーカ王などの相違があるわけです。
第三仏典結集で話がとまっています。
だれもその続きを話すような人はいくら待っていても
哲学カテゴリーにはいないようです。
たとえばどこかの外国人がカニの化け物とクレーン
などといやみをいってきたていどです。

心の場所はそれほど問題ではないし、
さっさと締め切ろうと思っているのですが、
妙に反響があるというか。

「心の安らぎ」の「心」とはなんだったのだろう
ということです。

お礼日時:2014/12/05 04:22

心の場所とは、《意根》の意味ですかい?



正統的な仏教(説一切有部など)では、
 《無間滅(むけんめつ)の意》
Thera-vadaでは
 心臓
ですね。

ほいで、日本の仏教は説一切有部の教義に従っているので、
 《無間滅の意》
となります。

これがこの先変わることは、おそらく、ないでしょうね。
これは仏教の教義とも密接に関係しているので、簡単に変えることができないから。
 ───たとえば輪廻、これが説明できなくなる───

無間滅の意というは、「今の心の前にあった心」くらいの意味ですかね。
無間だから、間がないくらい、間をおかず、今の心に先行し存在していた心。
これが無間滅の意といわれるもの。
要するに、
今の心に先行し存在した、前の心が《意根》
というわけです。

この回答への補足

こんなのを見つけました。

~~~~~~~~~~

<こころ>と<ことば>の言語学
青木三郎
筑波大学人文社会系
国際比較人文社会研究センター

http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/13120301.pdf

manas - citta
• サンスクリット語 citta(チッタ) manas(マナス)
• 『リグ・ヴェーダ』 manas
• mind(知力、記憶、理性)
• intellect (思惟能力)
• perception(知覚作用、認知)
• sens(感覚機能、知覚、観念)
• will(意志、決意、意欲)
• soul(霊魂、精神、心、生気)
• thought(思考、思索、意見、配慮)
• meno, memor(ギ) meminisse, monere(ラ)
• meinen (独), mean (英)
• manas – citta (thinking, observing, desiring,
intending)

フリド/フリダヤ hrd hrdaya
• 『リグ・ヴェーダ』
フリド= こころのはたらき、感情・情緒のよりどころ
Herz(独) heart(英)
• 古英語 heorte < ゲルマン祖語 *xirtan < 印欧祖語 *k̑erd-
• 同系のゲルマン語: オランダ語 hart, ドイツ語 Herz, スウェー
デン語 hjärta
• 同系の印欧語別語派: ギリシア語 καρδία, ラテン語 cor, アイ
ルランド語 craidd, ロシア語 сердце, リトアニア語 širdis

~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2014/12/04 16:25
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

マナスとフリダヤの違いとかこの質問では、そこまで細かくするつもりはありませんでした。
眠りネコさんはさすがというか。

別の質問で脳の回答をした人がいたので
ついでに仏教の話題にもしてみました。

~~~~~~~~~~~~~~

ブッダは、人の心がどのように変化するかを、因果関係に基づいて論理的に分析した。そして瞑想によって集中して考え、自分の心の状態がどうなっているか、きちんと把握することが悟りへの道であるとした。最終回では、大阪大学大学院の教授で認知脳科学を研究している藤田一郎さんを招く。人間の脳は、物事をどのように認識しているのか、ブッダの教えを脳科学の面から検証する。そして今シリーズの講師役・佐々木閑教授とともに、「真理のことば」が、現代に生きる私たちに発しているメッセージについて語り合う。

100分de名著
名著11 ブッダ『真理のことば』
第4回 世界は空なり
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/05_dhamma …


~~~~~~~~~~~~~~

NHKですら仏教と脳科学を結びつけるようなことをしているわけで、
いつからこうなったのかなあ、と。

あと、あまりくわしくないので
なんともいえないのですが、

説一切有部は正統的な仏教なのでしょうか?

龍樹とか中観派が批判したらしいから
あまり正統という気がしていませんでした。
ウィキペディアでもほら。

~~~~~~~~~~~

中論 (madhyamaka kArikA) (正確には頌のみ彼の著作) 説一切有部を代表とする実在論を否定し、世俗においては、すべてのものは実体として認識することはできず、単に言葉によって施説されたものであると説く(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」)。勝義においては、それらすべての言語活動すら止滅する(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」において、その全ての否定)。この主張を受け継いだのが中観派である。

龍樹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/12/04 01:19

kazamidori365様、こんばんは。




「社会への適応(「社会」の、強(力)化)」ということが、顕著になるに連れ、
例えば、(「待った」の利かない)「強姦魔」とか「常習犯」というのは、
「淘汰」されていった・・・という事情も、あるようです。

(対して、「大乗仏教」が何を言うか、というと、
「「その時」が来るのを、ひたすら待つしかない」というようなことの、ようですが。)
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この回答へのお礼

なぜ大乗仏教がひたすら待つなのでしょうか。
弥勒を待っているのでしょうか。

お礼日時:2014/12/04 22:02

昨日の回答が何故丁寧か教えてやろう。


べろべろに酔っ払っていたため、シラフだったからだ。

そんなこといわれても、死んで無なら、既に死んだ釈迦もいないし、成仏の主体もないのでは?

これが、
観念世界で私は永遠に生きる。
君達は死にっぱなしだ。

これと同様に、釈迦の言った。
私は涅槃に行く。
君達は苦に満ちた輪廻から抜け出せない。

古来のこの対比の由来だ。
君達の真実への導きを求める心が真摯で有れば、釈迦も涅槃の内訳と自らの信仰を明かしたかもしれない。
しかしそれは無く、君達は苦しみ抜くと言ったのだ。
私も、私自身の心を発見して、イデアはこんなだと、永遠の生を語っても、それ自体は所詮君達の役には立たない。
君達は死を信じ、科学的学説で裏付けを取っている。
釈迦の救いなんてないよ。
慈悲は慰めや憐れみだ。
釈迦と同じく、私も、(記憶の墓標作戦を記憶しているかね)自らとは違う見解を君達に示している。
承知の上でコケにしてんだ。
まあいいじゃないか。
信教の自由だ。
君なりによろしくやりなよ。
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古来、仏教に限らず、ひたいの真ん中に第三の目を


描く例は数多い。
見えているのは2つの眼球なのに、2つに見える訳で
もなければ、右目から見た像でも、左目から見た像で
もなく、(目の存在しない)真ん中から見た立体像と
して見えるところに精神の所在を推測する、という。
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この回答へのお礼

白毫から光とかいうあれですか。

白毫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB

お礼日時:2014/12/04 16:28

カトリックのように古典を絶対視する習慣がないから、感情は脳の化学反応だと解明された瞬間、仏教では心は脳なのでしょう。


この見解では、脳が死んで腐敗すれば、心は消滅することになる。
そうすると全ては無になる。
心はつかの間の幻だ。
そうなる。
教義と一致しています。
そして、死ねば無になり、釈迦の元で暮らす、その成仏の主体は心以外となります。
貴方のお礼で、心以外にそれは何だと思うか聞かせてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

Flareonさん、いつもと様子というか口調が違いますね。

>そして、死ねば無になり、釈迦の元で暮らす、その成仏の主体は心以外となります。

そんなこといわれても、死んで無なら、既に死んだ釈迦もいないし、成仏の主体もないのでは?

お礼日時:2014/12/01 00:48

昔は心は心臓にあると言われ、心のことを英語で「ハート」というのも、その名残です。


でも、その後心臓は血液を浄化するためのポンプに過ぎないと分かり、今では心は脳にあるに違いないと言われるようになりました。
何よりも、脳は未知の部分が多く、神秘的ですから、心のある場所としては最適だと思われたからでしょう。
だけど、仏教は最新の脳科学なんて知りませんから、脳に心が宿っているなんて言っていないと思います。
それがいつごろに心といえば心臓に宿っていると考えるようになったのか、私は詳しいことは分かりません。

ただ、現代の「心の哲学」では心は脳に宿っているとは考えていないようです。
なぜならば、脳を解剖したからと言って、心が見つかるものでもないからです。
心というのは脳状態に他ならない、という「心脳同一説」があり、心的状態は脳状態と連関している、あるいは対応している、と言っていますが、心は非物質的なもの、それに対して脳は物質的なものですから、非物質的なものと物質的なものが、どこに接点とか、接触面があるのか、それが不明ですから、「心脳同一説」は成り立たないと思います。
接点とか接触面がないと相互作用をどのように及ぼすのか、それが謎です。
人間同士、動物同士なら、種類が同じだから、接点があり、接触面もあるでしょうが、心と脳は非物質と物質であり、種類が違うので、接点なんてどこにもありません。

現代の「心の哲学」では、心は脳の機能状態を示すものだと思われています。
つまり、外的刺激・インプットに対して反応・アウトプットがある、その真ん中にあり、中継して変換する装置が心だと考えられています。
「機能」というのは車でたとえれば、「走る」こと、そして車が走るのはエンジンだけでも走れないし、シャーシだけでも走れない、車輪だけでも走れない、だから脳だけでも考えられない、心は脳にだけあるものではない、と考えられています。
そして機能主義によれば、外的刺激・インプットがあり、それに対して反応・アウトプットがあれば、その中間にあるものが何であるか問わないから、現代の人工知能研究にとって有効な考えだから歓迎されています。
もし、ものすごく精巧なロボットが出来て、人間の質問に的確に応答できれば、ロボットにも心を持っていると考えることができます。
インプット・アウトプットの中間に何があっても、機能を果たせばいいのですから。
それは車が走るのにガソリン・エンジンだろうと、水素エンジンだろうと問わないのと同じです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

仏教と脳科学を結びつけるような話
というかゲストに脳科学者が来ただけかもしれませんが

第4回 世界は空なり
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/05_dhamma …


NHKでもやっていたようです。
私はこの放送は見ていないので、
なんともいえなくてすみませんが。

>だけど、仏教は最新の脳科学なんて知りませんから、脳に心が宿っているなんて言っていないと思います。

まあ、そうでしょうね。

お礼日時:2014/12/01 00:15

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