プロが教えるわが家の防犯対策術!

修行僧として、学びたいとも考えたのですが、

私は精神科の先生から、職業支援施設の紹介を受けています。

具体的な病名はまだわからないのですが、そういう健全な状態ではないので諦めています。


http://homepage2.nifty.com/shusse-kannon/budda/b …

私はこちらのページを参考に、

ノートへの書き写しをしようと思っています。

しかしこれは、私の浅知恵による思いつきであり、

正しい勉強法なのか不安です。


出家以外に、

檀家の方達が行う、仏教の正しい学び方は、

どのようなものがあるのでしょうか。

どなたか私にご教示お願致します。

A 回答 (4件)

こだわらず、ネットを利用したほうが良いと思いますよ。



私は臨済宗のお坊さんが作ったHPを見て救われたことがあります。

当時は良く理解できませんでした。

ただ、読んでいるうちに気分が良くなりました。

そのあと、調子が悪いときは、救いを求めるように読みました。


内容としては、

教えをそのまま書くのではなく、歴史上の僧がどうであったか、

仏教の教えはこうらしい(お坊さんなのに)とか、

自分の趣味を書いたり、非常に楽しいブログでした。

今は閉鎖されているようで、寂しい限りです。



人とは人の感覚(その人の考え方、心の動き、観察の仕方楽しみ方)

に感化されて救われるのだと体感できました。



思考のお手本があればよいと言う事ですね。



仏教を理解すると救われるのではなく、

救われた人がどのように感じて、どうの様に考えるのかを知る。

感じたり考えたりするためには、お題が無いといけません。

救いの目的は、心が軽くなって、人生を楽しめることですから、

人が悩むことをテーマにしたほうが、需要に合いますよね。

そのために、そういった話が多いだけです。


何か知識を得たからといって、救われるわけではないようです。

そのために、仏教では、知識と智慧を分けています。

お釈迦様の教えをしって、理解し、知識を得るよりも、

お釈迦様のように感じて、考えて、行動できるほうが良いですよね?

「こっちのほうが大事じゃないかい?」

これを智慧(知恵という表現が知識を含むニュアンスがあるので分け

ているそうです)と呼んでいるようです。

わたしは、これが仏教の教えの本質だと捉えています。



そのお坊さんが最後に悟りについて現代的な解釈で教えてくれました。

人は自分と他人の境界をわける感覚を持っている。

例えば、つばを外に吐き出したとき、

体の中にあったときは気にしないのに、外に出た瞬間汚いと感じる。

そうである以上、

「自分とそれ以外を分ける感覚を誰もが共通して持っている。」

と自覚できます。

同じものなのに、好き嫌いが逆転するということは、

目の前にある事実に対して振る舞いが一定じゃないと言う事です。

自分だと感じれば、好意的に解釈し、他人だと感じれば、汚いとして

排除しようとする。


つば自体の役割を無視してそうなります。

つまり、損得を考える余地が消えてしまう。

事実を観察し、そこにある因子と法則から結果にいたる過程を知る。

これは自然科学ですよね。

仏教では因縁果報と呼んでおり、自然科学の部分が因縁果です。

これについて人が感想を述べると、報が生まれる。

そしてこの報は、さきほどの


”自分なのか、それ以外なのか?”


という感覚により支配されてしまい、個人事情が混ざってしまうんです。

ところが人が会話をすれば、報だけの話になります。

それを真に受けると、自然の法則で保障されている利得に達せず、

余計な損をしてしまうわけです。


仏教では、オカルト的な利得は無理だと伝えています。

つまり、魔法は無理。

ただ、自然の法則で保障されている限界くらいまでは得が出来る。

これに至らないロスを無くし、それ以上は諦めなさいと伝えているんです。


ところがそうならない、心理的なメカニズムが実際にあるため、

これらを細分し、どう対処するかの処方箋を作っています。

とくに、教えとして伝えられる部分は、心理メカニズムのリストです。

対処法は各お坊さんが一子相伝(弟子に)で伝えるそうです。(禅の場合など)

そのため禅では弟子入りすることが非常に大事であり、

このために試験があります。

とくに、責任転嫁を物凄く嫌います。

最初の試験のゲートは、責任転嫁をするか否かだそうです。

こういう性質が少しでもある人は、教えても無駄であるとして、

お断りをしていると書いてありました。


そして、どんな知能の高い人や魅力的な人も、

人間の脳の中にある、”自分と他人を分ける感覚”を持っており、

これがあるうちは、これに逆らえず、事実をそのまま捉えることが出来ない、

なので50歩100歩だとしています。

しかし、普通は脳内のこの機能が壊れますと、統合失調症になります。

彼らは修行により、安全にこの機能を破壊し、良いところだけが残るようにする

方法を編み出そうとしています。(禅の場合)

弟子入りするとは、この副作用のない”自他判別機能”の破壊法を習うと言う事です。


自他の区別がつかなくなれば、全ての他人(世界の万物)と自分の境がわからなく

なるため、自分のように感じて、自分のように考え、自分のように行動できる。

親が子に感じる感覚に近いでしょう。


こうした理念をたどっていくと、キリスト教の教えとかなり近いです。

キリスト教は、脳機能からの説明ではなく、

対処法や捉え方、実践方法を述べているわけです。

(理由を伝えて、対処法を秘匿するか、対処法を伝えて理由を秘匿するかの違い)


このような話をお坊さんが記事にするのですから、

現代と言うのは恵まれた時代ですよ。


お坊さんと言うのは、

古典的なプロのカウンセラーですし、かなり命がけで自分を磨いています。

そのノウハウにも歴史があります。

また学生であったときは、私たちと同じように勉強をし、色々と調べています。

そのため、

(プロ意識から)現代のカウンセリングに使われる本なども研究しています。

(と言う人でしたw)

私は思うのですが、真理が一つならば、どちらも同じ事を言っているはずです。

なので、理解も早いのだと思いますよ。


仏教が面白いのは、その原典が科学信望であること。

観察と類推により、いまの大脳生理学に近い仮説をあてているようです。



例えば、ストレスを抜くためには、音楽療法が(音楽はギリシャの数理物理学者

ピタゴラスが抗ウツ作用を期待して発明したもの)良いとされています。

ところが、これの本当のエッセンスは、拍子にあったようです。

ナンマイダーは3拍子ですし、ナンミョウホウレンゲイキョウは8分の6拍子です。

(つまりともにリラクゼーション効果がある)

また、論理的な思考に誘うことで、大脳の活性化が行われます。

お経を読むとはそういう効果もあります。

(メンタル失調の人は、サーモスタットで見ると、脳に血がいきわたっていない。
 
 大脳を使うような文字を読むとか、計算をするような行為が治療になり、

 快感になる。拍子をつけることは、本質的なストレス改善になる)

というように、隠れた効果の法を工夫しています。


さてご質問の答えになります。

本質的には、脳を楽にすることが主眼です。

脳の仕組みである、ニューラルネットワークと言う仕組みは厄介でして、

自分を苦しめるバグをこしらえてしまうんです。

感覚として非常に苦しく、辛い。

微熱や頭痛まで生じますし、自分でやめることが出来なくなります。

これらは精神病とされていますよね。

早期に発見し、改善すると、こうした癖が強化されずに済みます。

(こういった話をマザーテレサが格言で残しています)

また、道徳の様なものでも思考を調整できますから、

日本でも採用され普及しています。


現代のウツ病治療では、自分が正常だった頃の感覚が分からなくなった人

のために、薬物投与で擬似的感覚を作り出し、それを焼き付けるようです。

音楽療法でも、音楽によりリラックスした感覚を体験させ、

これを思い出させるのが目的となります。(拍子が大事)

お経を読んでもいいわけですね。(拍子が無ければ効果がほとんどない)


次に、脳を楽にする考え方が定着(習慣と成った)人の思考をたどる

方法があります。

文章を読んで、同じように考えて理解していくと、同じ脳の状態になります。

つまり、冒頭に私があげた”救われた”わけです。

お坊さんの思考をたどり、脳が楽になったと言う事ですね。


ヒットする作家の論理も同じでしょう。


徳の高い人が記述した文章を繰り返し読めば、繰り返し同じ脳の状態

を体験できます。

すると、いつのまにかそれがコピーされているというわけです。



そうじゃない人の文章を読んでも効果がありません。

お経が大事にされるのは、

そういった

”脳楽に出来たよレベル世界チャンピオン”

クラスの人が残したものだからです。

内容は同じでも、文章の記述により全く効果が違うわけです。


脳が苦しい人が、同じ内容を知識で得て、それを伝えたら?

読んだ人は苦しくなるわけです。


人に何かを伝えるためには、

このような訓練(自分の脳を楽にする)をしてから伝えるべきなのでしょうね。


ネットを活用するのは間違っておりません。

ただし、読んで見て、脳が楽になるか苦しくなるかを考えましょう。

同じ内容でも、気持ちが上向く場合は、その人の文章を読めば宜しいです。

仏教を理解するよりも、訓練をしたひとの脳の状態を自分に複写することが

大事です。(考え方のお手本。その人の癖を頂く)

半年もすると、同じような思考が複写されています。

逆に、そうじゃない人につきあっても、同じままだと言う事です。

だとしたら、ネットは大変強い武器になります。

(天竺まで取りに行かないですむのですから)

こだわらず、脳が楽に成ると感じた人の文章を反芻して読むことです。


以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

>こだわらず、脳が楽に成ると感じた人の文章を反芻して読むことです。

早速、実践させていただいております。

今回は、本当にご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/15 00:44

キリスト教会に日曜学校があるように


仏教のお寺でもそういった教室のようなものを開いているところがありますよ。
探してみては?
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仏教は、やり方を解いてあると思います。



多くの人は、仏教に答えが書いてあると考えているのではないでしょうか。
そう言う視点で仏教(教え)を見るならば、最初からずれていると思います。
書いてある中に答えを探しても、一向に見つからないでしょう。

解き方ですから、教えを使って日々毎々小さな問題を
解き続けて行けば、ゆっくりと理解が見えて来るので
自分の求める答えも、いつか解けると思います。

答えは、自分で出すものです。


最初、そう言う事を知らずに探したので
これといって見つけられませんでした。
気がつくまで、相当な時間を費やしましたね。

ご自分でやってみて無理でしたら、どなたかに師事を仰ぐのが
いいと思います。


通院されてあるならば、カウンセリングでもいいと思います。
やり方は、もっと分かりやすくまとめてありますから。
アプローチが違っても、行き着く先は同じ方向ですから。
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自身の生き方を模索するために仏教を学びたいと云うのであれば、とりあえず参考にしたいと云うページを活用するのは結構な事だと思います。


些細な事柄でも積み重なればそれなりの結果を出せるからです。
微々たるものですが私はやっています。例えばここで質問や回答をした時に頂いた回答や感想を受ける時、ことさらに一喜一憂する事の無いように、とか・・・

ただ、独学は徒歩で行く様なものものだから結構大変です。
また、新興宗教と云う"乗り物"は楽ちんですが、どこに連れて行ってくれるのかが不安です。

だからおすすめは、楽に通える近くのお寺に行って、大きな御本尊の前でひと時を過ごすことです。
大きな仏像の意力に驚くかもしれません。

念仏に抵抗がなければその念仏に合うご本尊のあるお寺がいいですね。
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