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人に魂のようなものがあって死後や生まれ変わりがある可能性と シミュレーション仮説がゆうように この世界がシミュレーションである可能性はどちらの方が高いのでしょうか?

A 回答 (5件)

同じくらい低い可能性でしょうね

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死とは何でしょうか。

死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html
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どっちもある可能性もある。


ただ、シミュレーション仮説だけは否定するが。
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どちらも「自分の外の環境が先験的にあり、その中に


自己が存在する」という、通俗的な世界観(素朴唯物論)
の延長であり、古典的な想像に過ぎません。
量子論において、有限な存在性(=環境)は認識される
事で派生しており、その不確定性原理の絶対的確定に
おける無限不確定性の潜在的な認識可能性の時系列化
(記憶(過去)=時間軸)と相補的に、空間軸=予測(未来)
は対発生しているのです。
そうした無限不確定(=無)からの対発生でない説明は、
第一原因からの逃避に過ぎません。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に
認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(時系列化
=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば
相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用
パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)として
の宇宙を認識するのです。
超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、仮説
的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事によって、
潜在的認識可能性(現在)から自我仮説(記憶=時間の流れ
=過去=超光速)と空間仮説(予測=空間の広がり=未来=
光速下)に相補分化するのです。

換言すれば、自己存在成立の必要として環境は派生している
と言えます。
その「環境」が自己の必要=意志の充足のためのものであり
ながら、なぜ「ぶつかる」のか?
その「意志」が、真の自己(宇宙としての自覚)ではなく、
階層現象的な物質性=肉体に流された、自己チューなもの
だからです。
いわば存在とは、自己矛盾としてぶつかっているのです。
「人に魂のようなものがあって死後や生まれ変」の回答画像2
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あると思えばあるし、ないと思えばない


どう思うかは気分や体調で変わるし、
経験や知識でも変わり
漫画や小説やドラマ、演劇などのようなもの。
事実ではなく、作り話。
でも、その作り話は人々を感動させ、世界を変える力にもなってきたのだと思います。
好きなようにイメージを膨らませて、それが自分を楽しく幸せにするなら、総じて万人を幸せに導いてくれる、望ましい姿になるのだと思います。
私はそうした作り話は芸術だ、アートだ、1つの才能だ、と思います。
今は存在しない未来の世界を予測したり、過去など今にはないのに、過去に想いを寄せたり。
さまざまな想像をすることには無限の可能性があり、いくらでも拡大していけるものなのかもしれません。好きなように自由にイメージを膨らませて、自分の想像を拡大することは無限で比べられるものとしてはあまりにも永遠だと思います。
自由に空想してください。
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