プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんにちは。
1992年生まれの22歳、大学4年生です。
皆さんにお聞きしたいのはバブル時代がどのような時代だったのかです。

私が生まれたのはバブル崩壊後で、生まれ育った時代は「失われた10年」または拡大して「失われた20年」と呼ばれています。
バブル時代のことはテレビや親からある程度聞いたことはありますが実感がわきません。
聞いたところによると、就職活動中の学生は引く手あまたで、企業側から逆にお金(交通費ほか小遣い?)を支払われてまで企業に呼ばれていたとか。

あとはディスコ?で女性がセンスのようなものを振り回して踊っているとか・・・。
ただ、このような光景は、お金持ちや陽気な人が遊ぶような場所でしか見られないような気もします。
失礼ではありますが、客観的に見て「一般人」だった皆さんにとってバブル時代はどのようなものだったのかが気になります。
実際の経験談や噂話でも結構ですのでバブル時代の経験を教えていただきたいです。

ちなみにですが、私は金融機関への就職が決まっています。
バブル景気と金融機関は関わり・影響がかなり大きかったと思いますので、その点もご存知でしたら教えていただきたいです。
回答よろしくお願いします。

A 回答 (19件中1~10件)

バブル期はちょうど中学生でした。

親はサラリーマンだったので、普通の生活でした。バブルが崩壊するまでの間は、マンションの価格が年々値上がりしてたと思います。89年は初代セルシオ、スカイラインR32 GT-R、NSXなど日本を代表する車が発売されました。この頃から日本車は世界のトップクラスになったと思います。でも、サラリーマンはマーク2とかクラウンに乗ってたと思います。あるいは、それ以下の車が多かったと思います。ベンツとか高級外車も良く走っていました。車も相当売れてた時代だと思います。

大阪の高級な店が集まる地、北新地では金曜日の夜とかは歩けない位の人だったと聞いたことあります。(今でも、金曜日の晩はそこそこ人はいますが。)ミナミや他の場所でも飲み屋さんとか結構繁盛してたと思います。
東京では(おそらく、大阪でも)タクシーもなかなか拾えなかったようです。タクシー難民が良くテレビに出ていました。(今でも年末年始の忙しい時間帯に限って言えばそうかもしれませんが。)

まあ、今でも金・土曜日は飲み屋さんもそこそこは流行ってると思います。金曜日は会社関係の付き合いで行き、土曜日は個人的な付き合いで行きという感じでしょうか。

海外旅行が広まったのもバブル期だと思います。

バブル崩壊後はほとんどいいニュースを聞かなくなったのを覚えています。住専処理とか・・・。日本的経営(終身雇用、年功序列、企業内組合)が崩れたのもバブル崩壊の頃からでしょうね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 21:59

一般的にバブル世代と言うのは、バブル景気(1986~1991年頃)による売り手市場時(1988~1992年頃)に新入社した世代(1965~1969年生まれ)を言います。

私もその世代です。

就職活動は今の氷河期時代の話を聞くと恵まれていたのだと思います。
当時はそれが当たり前でした。

以下のような事例が私の身の回りで実際ありました。誇張はなしです。

・学生はみんなイベントサークルを運営。複数のディスコと協力関係にあり、ディスコで大規模なイベントを開催して学生を集める代わりにサークルスタッフは皆、普段のディスコ通いは「顔パス」。
・サークルスタッフは儲けたお金で法人登記する者もいた。
・学生のサークル幹部は皆、初期費用20万円、月額基本料2万円のセルラー携帯電話を持っていた。
・クリスマスは皆、普通の学生でも一晩で10~20万円使うのが普通。プレゼントは7万以上。シティホテルのディナー3万円。宿泊は3万円。皆クレジットカードで払うのが主流。その為に皆バイトを掛け持ちしていた。
・バイトも時給1500円とかがゴロゴロ。塾講師とかは時給4000円等。
・大学4回になると、「うちの会社に来てくれ」と会社の方から家に電話が複数社かかってきた(あるいは直接、家に訪問)。
・東京までの面接交通費+宿泊代は全て会社持ち。複数社まとめて面接を受けると一回で数10万円もうかった。
・「内定を出すから、この場で他の会社へ内定辞退の電話を出してくれ」と言われ、そのまま慰安旅行に連れて行かれて缶詰にされる。
・留年しても、大学に籍を置いたまま採用される。
・1人で5~10社の内定を取るのは普通。

しかし、驕れる者は久しからず

入社後、ほどなくバブルは崩壊(1991~1993年の景気後退期)、ハシゴを外されたので、上記以外では、それほど「おいしい思い」はした記憶はありません。

真のバブル世代は当時、中間管理職以上だったしらけ世代(1950年~生まれ)以上の世代ではないでしょうか?その世代は「経費はつかいまくり」「タクシーチケット切りまくり」「接待受けまくり」の世代です。一番、バブルの恩恵を受けた世代だと思います。給料も右肩上がりですし。

また、当時は大学進学率は3割程度、今の進学率5割と単純比較は出来ません。そもそも、求人数自体はそれほど減っておらず、大卒の就職希望者が増えたので求人倍率が悪化したという見方もあります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 21:59

dfdgx640 さん、こんばんは。



そうですね。私もバブル世代ですが、あまり恩恵を被っていません。ただ、傍目で見てとても景気が良かったことを覚えています。
例えば、地方などは山野を開発して新しいリゾート地や道路を建設したそうですが、土地開発業者のそういう資金は銀行が多額のお金を貸してくれたようです。今では考えられないことですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:00

地価が高騰することと、お金もちが増えるという関係のなかで重要な話を言い忘れていました。



事業をやる人は、自分の不動産を担保にお金を借りたりします。
これは、お金が要るたびに土地を売っていたらやっかいだから根抵当という形で土地を
担保にお金を借りられるようにしておく。

バブル期には不動産を買ってもすぐに値上がりする状況で4000万で買ったマンションに
ローンがいくら残っていようが2000万くらいの根抵当権をつけてカードローンみたいな
形でお金を貸してくれた。庶民でさえそんな状況だから、事業主は値上がりする資産を
担保にカネを借り、収益不動産を買うことを繰り返したのですね。
キャッシュフローで黒字のうちはいいのですが、赤字を物件売却で補てんしよう思いはじめると
実際には売れずに負債ばかりが増える。そうなると借金だらけで何がなんだかわからなくなる。
かくして、不動産担保債権はすべて不良債権化する。

つけは全部貸付をおこなった銀行にいくのだけど、住専をはじめわけのわからない金融機関が
つぶれてメガバンクも大統合されて生き延びました。

>バブル景気と金融機関は関わり・影響がかなり大きかったと思いますので、その点もご存知でしたら

簡単にいうとこういうことですね。
その後、土地担保金融の仕組みが崩れて住宅ローン以外まともな融資先がなくなった日本の金融
業界自体が行き詰まってしまったということ。
銀行は、日銀がタダみたいな金利で貸し出すお金を運用する先がなくて、なんと国債を買っています。
国は、赤字を国債で補てんする。こんなことの繰り返しであかんなと思いまたぞろ地価高騰を画策して
いるのかもしれません。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:00

私自身はバブル直前の就職でしたが、就活というものは経験していません。


何もしなくても機械メーカー、外資銀行、テレビ局、アパレルなど有名企業から幾つもお誘いがあり、その中から機械メーカーを選びました。元々理系で『ものづくり』がしたかったら。

バブル期は毎年車を乗り換えていました。
『ハイソカー』と言って、若者には似合わない高級車に乗るのが流行でした。
マークII、クラウン、クラウン、レジェンドと乗り継ぎました。
冬は毎週スキーに行っていました。
映画『私をスキーに連れてって』のように仲間で数台~十数台連ねて長野や新潟に繰り出していました。

飲みに行くのは銀座が多かったですね。
ちょっとお洒落な、今で言うバル風なお店に行っていましたが、客は我々のような20代の若者が多かったですね。

バブル期を象徴する曲の一つに牛若丸三郎太の『勇気のしるし』があります。
お聞きになったことがあるでしょう。
「♪24時間戦えますか」 というフレーズが有名な栄養ドリンクのCMソングです。
その言葉通り、仕事は山ほどあったので会社に泊まりこむこともしばしば。もっとも若くて体力があったので栄養ドリンクのお世話にはなりませんでしたが。
よく働きよく遊ぶ時代でした。ワークシェアリングなんて言葉はどこにもありません。
私は20代前半でしたが、総額十数億円のプロジェクトリーダーを任されていました。ゼネコンとJVをしたときはゼネコン側のリーダーも20代でした。
今ではそんな恐ろしいことは出来ませんが、当時はそうやって豪快に人を育てることができる余裕がありました。当然、能力あるものはあっという間に経験値を積むことが出来ました。

今は社内旅行なんて文化は廃れてしまいましたが、当時はまだ健在で、海外旅行に行く所も多かったですよ。
うちはグァムでお茶を濁していましたが、カミサン(当時はまだ結婚前)の会社はオーストラリアやハワイに行っていました。

そうそう、カミサンの会社は新宿にある某金融関係でしたが、同じ部署の後輩に某自動車会社の重役の娘さんがいました。
当時F1グランプリが大流行していたのですが、その娘さんは友人とヘリコプターで鈴鹿に行っていたそうです。
バブリーですね。
そしてカミサンと言えば、当時は20代の経理のお姉ちゃんでした。給料は私と同じくらいでしたが、ボーナスは百万円以上もらっていました。
バブリーですね。

ディスコで扇子というのはジュリアナ東京のことだと思いますが、ジュリアナはバブル崩壊後のことです。
といってもバブルという言葉が一般化したのはそれより後のことです。当時は受注が減少し始めて「これから景気後退が起きるな」という感覚はあったものの、若者はまだ浮かれていましたね。
後年になってバブルのイメージにディスコが重ねられているのはジュリアナよりマハラジャのイメージがあるのはないかと思います。
私自身は踊りが嫌いでディスコには行ったことがありませんが、知り合いの男性女性でディスコに行っていた人はほとんどマハラジャに行っていました。もちろん中にはジュリアナのお立ち台で扇子を振っていた人もいます。彼女はアラフィフになった今でもそれっぽい空気をまとっていますね。

バブル景気と金融機関は関わりというのはいま中国で起きていることと一緒です。
要するに社会に溢れる余剰金が投資先を求めて不動産に流れていく過程で、金を移動させる実行役が金融機関です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:01

バブルというのは正確に言えば、不動産インフレ、株価のインフレであっていわゆる消費者物価というのはさほど上がっていないのです。


実に1970年からバブルピークの1991年までの間に消費者物価指数は100から300(3倍程度)にしか動いていません。http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h …
この間地価はhttp://www.o-uccino.jp/mansion/shinchiku/special …
平均して5倍以上に上がりそして戻しています。
消費者物価は、デフレとはいえさほど戻っているわけではない。これはどういうことかというと給与が物価に比例すると考えるなら今は不動産が買いやすい。
バブル期にねけなしの金で家を買った人はその後値下がりして大損こいたということです。

消費の面でいえば、バブル景気の間に利益をあげた不動産関係者、デベロッパー、地主接待関係の水商売の方々、ゼネコン、あと金融関係、証券会社、生保(≒不動産業)は羽振りがよかったですね。
タクシー業界では台数規制があったせいもあって、一日の売上が4万とかざらでしたから。赤坂や銀座で電話で呼んだタクシーがこないから少し飲んでいようなんてのはざら。

皆さんいろいろいうけど、あの時代結局最後には皆損をしています。都心のお屋敷町に親から相続した土地をもっている人が、新百合ヶ丘に土地を買って引っ越したとか聞きましたが、その土地は20年以上たって3000万円もしない。サラリーマンが普通にローン組んで買える。それどころか昔は2億だ3億だといっていた都心のマンションが5千万円くらいで買えるくらいだから、時代の差とはいえその差は大きいです。
バブルの時代、他人の価値観、マスコミの演出する熱狂に動かされた人が結構つらい思いをした時代かもしれません。
ただ、地価高騰は全国的な話で、地方の駅近の住宅地は取引が少ないから地価下落が遅れ
1996年くらいでもなかなか下落しなかったですね。
我々の世代は東京の郊外の私鉄沿線の土地が1996年以降安くなったといって飛びつき
大抵は2000万くらいの評価損を抱えましたね。その金がキャッシュであればとつくづく思ったものです。

恩恵を受けたのは1984年頃に23区内のマンションを買っておいて20年住んで売った人。買ったときの値段で売れるのだからこれは儲けものですよね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:01

バブル世代だけど恩恵はほとんど受けてないです。


当時3Kと言われて蔑まれるような仕事をしてましたし…。
全体が浮足立ってるだけにその恩恵に預かれない者に取ってはあまり良い点は無かったですね。
確かに給料はそこそこ貰えましたが物価自体がどんどん高くなるし…。
まあ忙しい事くらいしか記憶は無いですね。

街は派手で羨ましかったけど、自分は抱える仕事をこなすのが精一杯で派手に遊ぶ人達を横目に油にまみれて休日返上で働いてました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:01

友人がわたしの小さな事務所に遊びにきたとき


外にお茶を飲みに事務所を出たら
表にタクシーが一台
聞いたら帰りにまた使うから待たせているとのこと

お茶飲むのにタクシーを待たせていいのかなあ

別件
新宿に飲みに行ったら
別の知人ですが
タクシーで来て
帰りが拾えないからと
タクシーを待たせて飲んでいました

タクシーを待たせて酒飲んでいいのかなあ

貧乏人はこういうセコイ話でビックリしてました
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:02

現在50代。

専門商社マンとして23歳頃から27-8歳の時に受けた接待につきまして。
(1)トルコ風呂(現ソープランド)2-3回、酒池肉林。。。
(2)ミナミの台湾クラブへ連れて行ったると言われ、ついて行ったらそこが潰れてて、クラブに変ってて、まあ、良いか…てなことで、その店に入ったら、時間が早かったこともあってお客が一人のみ。私ら二人に対し、わっわっと綺麗どころが9人ついたわけ。30分位で切り上げて接待先が払ってるの見たら、29万円…決してぼったくりバーてなことではなく、高級クラブだったわけよ。何も考えず、確認もせずぽっと入ったおいら達の負け。
(3)お歳暮に貰ったカニ缶3缶。暗号と言うか、記号を分析するとなんと1缶7,500円也。もったいなくて1年以上ほったからしにしていたけど、とうとう食べちゃいました。ななんと……そこら辺のスーパーで売ってる300円くらいの缶詰めとなんら味が変わらず、がっくし。
(4)キタのてっちり屋に連れて行って貰い、たらふく食ってしこたま飲んだら二人で89,000円也。無茶うまかった。

つらつらと自慢げに書いちゃったけど、(2)や(4)なんか、今でも銀座とか行くとこ行けばもっとするだろうな。

ちなみに大学時代の連れに自慢たらしく(2)の話ししてたら、そいつは大手重電に就職して東京勤務だったんだけど、一発10億の商談が西独とできたことで、課で打ち上げした話。銀座は銀座だけどクラブやラウンジではない、普通のスナックで10人ほどで打ち上げて会計をしようとしたら、160万とあって最若手のそいつは腰をぬかしたらしい。
もう二度とあんな時代はこんやろね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:02

1970年生まれでしたので、高校卒業時はバブルまっただ中で


バブルの恩恵をモロ受けました

どの程度受けたかと申しますと、あっさり就職が決まりました
なにせ、学校に来た求人が募集を軽く上回るほどで
面接を受ければ殆ど採用で逆に落ちた場合
「お前、一体何悪い事言った?」って言われるくらいでした

また、その当時フリーターと言う言葉が流行り出しました
好きな時間に好きな仕事を好きなだけすると言ったフリーエージェント的な振る舞いで
サラリーマンより高額な給料を稼ぎ出し、企業に縛られる私達サラリーマンは
見下されている感が有りました(今は立場が逆転しちゃっていますけどね)

此方は地方なのであまり関心は無かったのですが
都会じゃ、ジュリアナ東京でワンレン、ボディコンでジュリ扇持ってお立ち台に上がるのが
一種のステータスと化していました
(岡本夏生が一番輝いていた時期かも?)

後は、車
どのメーカーも、コストを度外視した車(主にスポーツカー)を出しており
自主規制枠の280馬力を叩き出す車が普通に売れていました
NSXとか、ユーノスコスモとかA70スープラとかが
バブル期を象徴する車だと個人的に思います

最近じゃ使い勝手、燃費重視の車ばかりで寂しい限りです
(そんな中、トヨタが86出したのが妙に嬉しかったですね…買えないけど)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/19 22:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!