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近世など大砲のでる前の時代の海戦についての質問です 古代、中世ではどのようにして海戦を行っていたのでしょうか できれば海戦についての絵や動画も載せてくれるとありがたいです

A 回答 (5件)

古代:


作戦行動無し。各個戦闘が基本で、言ってみれば漁師のケンカ。海上は敵味方入り乱れ。
弓の射程が短く、板盾でも防げるため、直接戦闘の機会が多い。船は小さくて速度も遅く、相手の船を棒や鉤爪付ロープで引っ張るなどして舷側に横付けての接近戦、あるいは乗り移っての白兵戦。

中世初期:
専任の漕ぎ手の配置により船の速度が向上。火矢なども使用し、中距離レンジでの戦いも効果を上げるようになる。帆は背の低い横帆で、追い風の時に補助に使うくらい。
音や旗信号により、船の間での連絡を取りながら予め決められた作戦行動を取るようになる。

中世中期:
 奴隷を得て大量の漕ぎ手を配置(ガレー船)することで、風に関係ない機動力を得たことで、艦首に衝角(ラム)を付けて相手に突撃し、相手の船に穴を空けて沈める戦法が出現。
 カタパルトの採用により石や火壺なども用いられるようになるが、命中精度は低いために相変わらず接近戦がメイン。

中世中後期:
 弩(大型クロスボウ)の発達により、射程距離・威力ともに向上。互いに大きな的となる横腹を見せての戦闘を避けて擦れ違いの形での戦闘が増える。縦帆の出現である程度風上にも帆走できるようになり、船を止めずに中距離レンジでの戦いがメインになる。
 艦が大型化して搭載量に余裕ができたため、舷側には装甲も貼られるようになる。

中世後期:
 長射程の砲の出現により、遠距離レンジの戦いが多くなる。
 火薬がパッケージ化されて装填時間が短縮された後は、搭載量が大きい巨艦が圧倒的有利に。


ちなみに日本では武士による名誉をかけた直接対決が重んじられたこともあって、長らく白兵戦がメインであった。ガレー船のような形はあまり発展しないままに、文明開化で巨艦大砲時代に突入。
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この回答へのお礼

中世の海戦について細かく教えていただきありがとうございます! とても参考になりました

お礼日時:2015/01/23 08:30

弓矢(特に火矢、油を併用する場合も有り)、


炮烙火矢(ダイナマイトの前身のような物や火炎瓶のような物)、
乗り込んで刀で切りあいや槍で突きあい。
衝角と言われる舳先で体当たり(ギリシャやローマの軍船や一部のバイキング船等)、

ローマ船の絵画や模型や再現船で衝角は見られます。
今の船の球状艦首の位置に鯱の尻尾のようなものが着いています。
弓矢での海戦は源平の壇之浦戦が日本では著名です。
中国の三國志では赤壁の戦いが有名で映画レッドクリフで脚色の激しい戦いが鑑賞出来ます。
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この回答へのお礼

レッドクリフですか あとで見てみますね 回答ありがとうございました

お礼日時:2015/01/23 08:28

(1)体当たりによる打撃


(2)敵船に乗り込んでの剱による白兵攻撃
(3)火弓などによる敵船への放火
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この回答へのお礼

わかりやすく教えて下さりありがとうございます 海戦の手順がわかりました!

お礼日時:2015/01/23 08:27

要は相手の兵を殺傷することですから、最終的には船同士を接舷して甲板上で白兵戦を行います。


その前に陸上の戦闘と同じように弓矢の応酬が繰り広げられます。

壇ノ浦の戦い - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/壇ノ浦の戦い
抜粋
早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。

古代のローマやギリシャでは、この白兵戦を嫌って、敵船に体当たりして船体を破壊する戦法が採用されました
効率よく体当たりして敵船を破壊するために船首に巨大な衝角を設けていました。
戦闘は風頼みというわけにはいきませんので、無数のオールを装着していました。
ローマ船は甲板を二層乃至三層にして漕ぎ手と戦闘員を分けていましたが、北欧のバイキングは戦闘員が漕ぎ手を兼ねていました。

ガレー船時代の海戦戦術 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ガレー船時代の海戦戦術

ローマ史クラブ : ミュライ沖の会戦 - ライブドアブログ - Livedoor
blog.livedoor.jp/roma_latina/archives/3466531.html
抜粋
三段櫂船がとった戦形でもっともよく知られているのはペリプルスと称するもので、敵艦に対して衝角を向けながら後進し、隙を見て旋回し、敵の横腹に衝角で激突するやり方で、サラミス海戦で数にまさるペルシア軍に勝利したのもこの戦法である。ディエクプルスという戦法は、一列に並んだ艦隊の先頭艦が、敵船に衝角をぶつけて混乱に陥れるものであるが、そのためには速力と高い技術力が必要であった。防御法としてはキュクロスと呼ばれるものがあり、衝角を外に向けながら円形に陣取った。アルテミシオンの海戦でギリシア軍が用いたのはこの戦形である。

いずれにせよ木造でしたので、どこの国も民族も敵船に火をつけて焼き払うという戦法を随時やっていました。
焼打ち船と言って。藁や薪を大量に積んでそれに火をつけて、風や潮の流れを利用して敵船に漂着させます。
有名なのが古代中国の赤壁の戦いです。火が着いた船を敵の船団の中に突入させて船同士を延焼させて撃破しました。
火だるまになったバカでかい船がふらふら風にふかれて寄ってこられたら手の施しようがありません。

赤壁の戦い - OCN
www11.ocn.ne.jp/~sangoku/sekihekinotatakai.html
抜粋
黄蓋の策が採用され黄蓋は船を数十選び、たき木と草をつめてそれに油をかけた。
前もって曹操に降伏の手紙をだしておき次々と船を曹操の陣営へ進めた。
黄蓋は船と船を繋いでいたがそれを切り離し、火をはなった。
ちょうど強風がふいたため、すべての船に火が燃え移った。
人や馬は炎により焼死に、長江に落ちて溺死するものもいた。 

蛇足
大砲を搭載するようになっても、帆船時代は船体を砲撃するのではなく帆や帆柱を砲撃していましたので注意して下さい。
洋式帆船の帆柱は無数に張ったロープで前後左右に引っ張って固定してありました。
このロープが切れれば、帆柱はバランスを崩して倒壊するか途中から折れてしまいました。
要は帆を使えなくして操船できないようにした上で接舷して白兵戦を展開します。
基本的には大砲があろうがなかろうが同じです。
船体に着弾するのは結果です。船体が破損して沈没するのも結果です。
船体の建造には多額の費用と時間がかかりますので、帆が操作できなくなった敵船を戦闘終了後に曳航して付近の港で修理して使いました。
これで短期間に戦力を補強できます。
大事な戦利品になるものをぶっ壊すようなことは積極的にはやりませんでした。
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この回答へのお礼

細かく教えていただきありがとうございます 帆を攻撃していたとは考えても見なかったです

お礼日時:2015/01/23 08:25

古代の海戦で使われる軍船の船首の海面下に【衝角】という鋭角的な突起物を作っていました



この【衝角】で敵船の側面に当て船を沈めるのです
【衝角】は19世紀まで海戦で使用されました



またギリシア・ローマ時代には舳先に跳ね橋のようなもので敵船に楔のように打ち込み
そこから兵が渡り白兵戦で敵船を奪取したりしました


あとは【バリスタ】
よくわかるのはグラディエーターという映画の始めにローマ軍がゲルマン人に対し使用した大型の鉄矢を撃つ機械式の装置で
主に陸戦で使用され
その長射程を利用しアレクサンドロス大王が中央アジアで遊牧民のサカ族の騎馬弓兵を撃ち破った時にも使用されました


火砲未発達の時代で最強の海戦兵器は
ビンザンティン帝国で開発された【ギリシア火】といわれる兵器です

【ギリシア火】というのは簡単に言えば火炎放射器で
木造である軍船には極めて脅威でした

この【ギリシア火】でビンザンティンは日出の勢いであったイスラムのアラブ軍海軍を撃退しました


しかし、この兵器も万能ではなく
12世紀ビンザンティン皇帝マヌエル1世が突如国内のヴェネツィア人を逮捕しようとしました
ヴェネツィア人の中には船で脱出しようとしましたが
ビンザンティンは執拗に追い【ギリシア火】で焼き討ちました

しかしヴェネツィアの船の1隻に有能な指揮官がおり
【ギリシア火】で攻撃されることを予想し、船体に酢を浸した毛皮で覆い延焼を防ぎました

この1隻が本国へ逃げ切り、この悲報を本国に報じました

やがて30年後、この事件で失明したダンドロ総督の下、ヴェネツィアが第四回十字軍を起こすのです


【ギリシア火】は火砲開発後も使用されました
最盛期のスレイマン大帝のオスマン軍がマルタ島へ侵攻してきた時
バレッタ要塞にいたマルタ騎士団が【ギリシア火】を使用してオスマン軍の木造船を次々炎上させるなどして奮戦
オスマン軍を撃退惨敗させたのです
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この回答へのお礼

ギリシア火にそんなエピソードがあったとは知りませんでした ありがとうございます

お礼日時:2015/01/23 08:26

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