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今回のリニューアルにともない、
1/27以前に投稿された質問が一定期間すべて締切済にされてしまったので、
マイページの機能を使って、それまでに投稿された私の質問への回答の中からベストアンサーを選びました。
その後、何時間か経過したら、「教えて!goo」登録者の質問は回答できるような状態に復活したじゃありませんか。
これでは、ネムネコさんが可哀想じゃないですか(アニメ『ログホライズン》のミノリの真似)。

ということで、
質問「ドイツ音楽、オーストリア音楽の違いとは?」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8894274.html
の第2弾です、Part 2です。

前回の質問に寄せられた回答の数が増えるにしたがい、
ドイツ、オーストリアの民族、宗教、風土、文化、近隣諸国との地理的関係などなどの違いと諸要素が複雑に絡み合い、
その結果、
ドイツ、オーストリアの音楽に顕著な違いが生まれたことがあきらかになったように思います。
この2ヶ国の音楽性の違いは、単に音楽という一分野で考えるべきでも、論ずるべきものではないのでしょう。

ということで、
前回の質問の続きです。

 1 ドイツ音楽とオーストリア音楽の違いとは?
 2 この違いは、なぜ、生まれたのか?
 3 これぞドイツ音楽の真骨頂、オーストリア音楽の精髄の一曲(これを聞けば両者の特徴の違いがすぐわかる曲)

などについて質問させていただきます。


前回の質問の回答番号12をご覧になられればすぐにお気づきになられると思いますが、
youtubeなどの動画サイトのリンク先を一つだけ回答に張り付けますと、
これまでとは異なり、リンク先ではなく、動画が回答に埋め込まれます。
 ───何かスゲェ~と思うのは私だけか(ポリポリ)───

リニューアルによって新たに加わったこの新機能を是非とも使ってみたいという方は、
動画のリンク先を一つだけ貼り付けてください。
2個以上になると、この新しい機能を回答に取り込むことができないようですので♪


ドイツ音楽礼賛であろうが、
「ドイツの音楽は辛気臭くていけない。音楽の都はウィーンだし、オーストリア音楽こそ世界最高!!」、
「何を言っているんですか、イタリア音楽こそ最高。イタリアのオペラに勝るものはない♪」
といった回答もお待ちしております。
できましたら、
この根拠になる曲を挙げて欲しいと思います。
何曲でも構わないのですが、
一曲、しかも、youtubeなどの動画のリンク先を貼り付けますと、
回答に動画が埋め込まれ、見栄えのよい回答になるようです。


皆さんの回答を心よりお待ちしております。
よろしくお願いします(ペコリ)。

質問者からの補足コメント

  • 400字じゃ何も書けない!!
    お礼を400字におさめるために苦労しました(^^ゞ。
    ですから、お礼の書き漏らし部分を補足に。

    ☆オーストリア人が使うドイツ人の蔑称にPiefke(ピーフケ)というのがあります。
    ◇現代でも、あの時、プロイセンに味合わされた屈辱が今日にも残っているんですね。
    この戦争の敗北がオーストリア人にドイツ人に対する対抗心や敵対意識を喚起させたようですね。
    オーストリア人の心の中にドイツとは違うという強い意識が生まれたみたい。

    そして、
    この時、ドイツとオーストリアは決定的に分かれたみたいですね。
    ドイツ統一からオーストリアは消えた。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/02 00:33
  • おそらく、
    ベルリンフィルの団員の誇りとウィーンフィルのそれとは異なっているのでしょうね。

    ベルリンフィル:どのような指揮者であっても水準以上のことをしなければならない
    ウィーンフィル:オラッチは世界一だ。だから、オラッチは自分たちが好きなようにやるんだ

    楽曲、聴衆に対する責任感の認識の差も両者の違いとなって現われているのかもしれない(笑)。

    この二つのオーケストラの差からのアプローチもあるのかもしれないですね。
    ドイツのオーケストラは生真面目な演奏をしますから。
    自由さ、楽しさといったものをドイツのオーケストラの演奏から感じることは、ちょっとできませんし…。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/05 20:02
  • ブーレーズの指揮も。


    バーンスタインのような大時代的な指揮は、ブルックナーの9番には合っていないような気がするんですよね~。
    しかもオーケストラはウィーンフィルだし♪

    この曲は後期ロマン派の一曲として演奏するのではなく、
    20世紀の新ウィーン学派に移行してゆく音楽史の流れの中でとらえていくべきなんじゃないか。

    第2楽章のスケルツォで「音楽は美しくなければならない」という当時の音楽の常識を破壊していますし、
    2楽章を聞くと、私なぞは、ついつい、ストラヴィンスキーの『春の祭典』を髣髴してしまいます。
    どちらも音楽のもつバーバリズムを前面に出していますから。

    で、
    たぶん、この曲は音楽的構造を前面に出すよう演奏をしてはいけないんでしょう。


    釈迦に説法の真似をしてみました。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/07 21:57
  • beethoven symphony no.3

    の1楽章などを聞くと、
    「そうそう、このテンポ。このテンポ以外ありえない」
    と思っちゃうんですよ。そして、すごく嬉しい気分になってしまう。

    「我が意を得たり」と言いますか、ずっと探し求めていた物、正解を見つけたといいますか、
    そんな感じで、すごく嬉しいんですよ、楽しい気分になってしまう。

    それだけではなく、
     なんでベートーヴェンはこんな風に作曲したのだろう、
     どうして、ここで、この楽器を選択したのだろう、
    というのが分かるような気がしてくる。
    この録音を聞いて、こんな風に感じるのは、私だけなのかもしれませんが♪

    Tastenkastenさんは、きっと「教科書的で、およそ個性というものが少しも感じられない」とおっしゃるのでしょうが(^^♪

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/08 20:38
  • っん、

    はモノラルじゃなくステレオ録音か?

    音がモノラルっぽく聞こえたのでモノラルだと思いましたが、音が分離していますね。
    ステレオ初期の録音なのかな?

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/09 15:06
  • 何だかよく分からないんですけれど、この曲(・・?

    これ、協奏曲じゃなく、ピアノソナタの方がいいんじゃないですか?
    2楽章を聞いている途中にそんなことを考え始めました。
    絶対、ピアノソナタとして書いた方が良かった(^^ゞ

    3楽章は何かワルツっぽい、舞曲っぽいんですけれど、
    何か突然曲が終わった感じで、
    消化不良といいますか、
    「えっ、終わったの。これで終わり?」と狐にでも摘まれたようで気分なんですけれど。
    釈然としないものが残っているんですけれど。

    何だかよく分からない、この曲♪

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/09 22:48
  • Nora、スゴイじゃないですか♪

    本当は、オーケストラの伴奏を書いた作曲者さんの腕前がすごいんでしょうけれど♪

    No.31の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/11 15:50
  • そして、
    その属性として様々な面を有している。
    この属性の中にはあい矛盾するものが存在し、作曲者の中で同居し、矛盾を内包したままの状態で一つの統一体を構成する。
    にもかかわらず、
    我々はその属性の一部をもって作曲者、曲を理解し、語ろうとする…。

    な~んてね。
    少し格好好いことを述べてみました♪

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/11 17:56

A 回答 (33件中11~20件)


確かに、ハイドンやモーツァルトの楽しさ、ユーモア、洒落っ気はオーストリア的なものかもしれません。しかし、モーツァルトの初期の作品は、ギャラント(艶美)様式に影響を受けたものです。つまり、フランスのロココ様式です。上品で気楽で、機知にあふれ、洗練され、装飾的なものです。いかにもオーストリア人の好みという感じですが、ドイツにも入ってはいて、多感様式などと呼ばれます。ただ、比較で言うと、やはりオーストリアの作曲家たちの方がより影響を受けたのではないかと想像しています。また、イタリア音楽の歌謡性、装飾性も、ドイツ、オーストリア双方に影響を与えました。
もちろん、こういう融合は、オーストリアに限ったこととはいえません。音楽大学の教科書に使う、グラウトの「西洋音楽史」によれば、18世紀は世界主義的な時代であったと述べられています。いろいろな国の人が色々な国に移動して、学び、活動しました。フルート奏法の本で有名なクヴァンツは、あらゆる国の最良の特色を集めて出来上がったものが、理想的な音楽様式である、と説いていますし、フランスのヴァイオリニストで作曲家のミシェル・ポール・ギュイ・ド・シャバノンという人は、今日ではヨーロッパ中の音楽は一つになった、音楽こそわが大陸に共通の言語である、と宣言しました。このように、多国間での相互影響が当然であったということも押さえておかなければなりません。
ドイツの場合は、それまでの音楽が、技法の追及にばかり夢中になり、音楽の楽しさや感動をなおざりにした、という反省もあったのです。バッハの音楽なども、新しいもの、難しいものばかりを追求して、自然さ、わかりやすさを大事にしなかった、などという批判を受けます。バッハの音楽は、だんだん時代遅れになりました。バッハの息子たちは、もっと簡素な様式に移行していきましたが、やがて、バッハのような次から次へと紡ぎだす様式から、4小節単位の整った構造などで、よりわかりやすい音楽へと変わっていきます。
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この回答へのお礼

バッハは新しいのか古いのか、よく分かりません(^^ゞ

特に、
音楽の捧げ物やゴールドベルク変奏曲なんて聞くと、
調性が失われているように感じる場所が多数存在し、20世紀初頭の音楽のようにさえ思えてしまう。
しかし、使っている音楽的技法は当時からして見ても時代遅れのものですよね、確か。

メンデルスゾーンなどによって再評価されるまで、時代から忘れ去られた作曲家ですし、
この人はよく分かりません。

若い頃に書いたブランデンブルク協奏曲なんかはロココ風ですし♪

お礼日時:2015/02/09 19:09


シューベルトやブルックナーの音楽は、主観的な音楽であるという見方もあります。ベートーヴェンの場合は、主観的なものと客観的なものが一体になっていますが、シューベルトではそれが崩れてしまいます。しかし、私が師事したドイツの音楽学者は、シューベルトの失敗は、主観的なるものの新たな質を引き出すことになったので、見方を変えれば一つの成功であるといいました。一方、アドルノはアドルノで、また正反対の方から理解しようとしているようです。シューベルトを、ただ主観的な音楽としてではなく、弁証法とか何とか言っているのですが、アドルノは少し理屈っぽ過ぎるようですので、深入りはしません。また、シューベルトが活動した時期が、いわゆるビーダーマイアー期と重なっていることも少し考えた方がよいかもしれません。

ビーダーマイアー(ドイツ語版に飛ぶと、絵画や室内装飾を見ることができます)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC% …

シューベルトやブルックナーがオーストリア的な作曲家であることは確かです。ただ、ハイドン、モーツァルトからブルックナーまで一本の線が引けるかというと、そう単純ではないでしょう。私は、ねこさんがシューベルトやブルックナーから感じるオーストリア音楽の特徴というのは、シューベルト以降にはっきりしてきたものではないかとも思っています。この辺を少し整理したいと思います。
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この回答へのお礼

19世紀という時代に民族や民族国家という意識が非常に強くなりますよね。
仮にウィーン古典派の音楽を民族を超えた普遍的な音楽としますと、
ベートーヴェン以降の音楽は、シューベルトだけではなく、俄然、民族性を帯びてきます。
その意味で普遍性を失い、音楽はローカルなものへと移り変わってゆく。

ドイツでは、一応、ウェーバーということになるんでしょう。
ウェーバーが本当にドイツ的音楽の作曲家なのかどうかは、かなり疑わしいと思いますけれど。

国民音楽なんてことが言われだしたのは、この世紀ですね。
これは時代の要請でもあり、聴衆の要請でもあった。
王侯・貴族といったパトロンを失った作曲家は、こうした要請を無視できないでしょうし、大衆迎合という言葉は使いたくありませんが、聴衆の意向を汲み取り、曲に反映させなければならなかった。

特に現代においては、大衆に受ける曲を作らないといけない(^^ゞ

お礼日時:2015/02/09 18:23

長くなったので、そろそろ本当にまとめに入ります。




ブルックナーは、とにかく私生活でも非常に宗教心の篤い人で、人柄も素朴、かつ真面目でした。念入りな主題労作とか、堅固な構成とか、職人的な技巧の代わりに、抒情性や素朴さが前面に出ていることを、単純にオーストリア人の性格とだけ関連さえて考えるのは問題があるかもしれませんが、そういった面や、上部オーストリア州の風景、農民の舞曲風の音楽などが、ブルックナーの人間形成に影響していることは否定できません。
ねこさん自身もお書きのように、シューベルトやブルックナーの欠点としてしばしば指摘されるのは、形式の欠如です。抒情的な音楽の羅列のように思えるその創作美学は、オーストリア人の反主知主義的、現世享楽的、悲観主義的側面と関係しているようにも見えます。堅固な構成の音楽、ドラマティックな音楽を好む人には、物足りなく感じる面があるでしょう。しかし、フルトヴェングラーの「音と言葉」の中のブルックナーに関する文章や、アドルノのシューベルトに関する文章を読んでいると、聞き手がシューベルトやブルックナーに物足りなさを感じているときというのは、無意識のうちに、ウィーン古典派によって完成された器楽曲の構成美学を、価値判断の基準として物差しにしてしまっているのだと気づきます。シューベルトやブルックナー以前に完成された形式を唯一の完成と見ず、また別の形も可能なのだと視点を変えれば、評価は違ってきます。昨年の御質問の、シューベルトの件でもお話ししましたが、シューベルトが交響曲作曲家ではないという評価は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという流れで完成された様式や美学に照らし合わせた場合のことに過ぎない、とも言えます。例えば、シベリウスなどは、ドイツではあまり人気がないと聞きましたが、理由はやはり、伝統的な形式からはずれているから、ということのようです。そうなると、シベリウスも交響曲作曲家とはいえなくなってしまいますし、ほかにもそういう作曲家はたくさんいるでしょう。また、もともと交響曲作家ではありませんが、ヤナーチェクの音楽の価値なども、ドイツ・オーストリア音楽の伝統の枠組みで評価することは無理で、正しく評価するのには、全く別の視点から見なければなりません。
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆シューベルトやブルックナー以前に完成された形式を唯一の完成と見ず、また別の形も可能なのだと視点を変えれば、評価は違ってきます。
◇この二人は新たな表現形式の模索の連続だったんでしょうね。
シューベルトはこの道半ばで死んでしまった。
ブルックナーは例の改訂癖。
完成した曲を何度も何度も書き換え、形式的にはよくなるけれど、その都度その都度、自分らしさを喪失してゆく。


☆オーストリア人の反主知主義的、現世享楽的、悲観主義的側面と関係している
◇なるほど、なるほど。
文学的に格好良く表現すれば「永遠を一瞬に閉じ込める」とかなるのかな。
しかし、それは本来的に場当たり的なものだから、連続的な線にはならない。
そこには唐突感が常に付きまとい、構成的な弱さとして感じられてしまう、とか(^^ゞ

お礼日時:2015/02/09 17:58

>ベートーヴェンは贋物かもしれないけど、カラヤンのチャイコフスキーは本物ですよ。



何だ、昨日おっしゃったことと矛盾しているじゃありませんか。カラヤンのチャイコフスキーに文句はないんですね。
ステレオになって、細かいところまでとらえられるようになると、モノラルでは気付かなかった傷とか、表現のくせとかがわかりやすくなるんですよ。それで、最近のように、極端に技術が進むと、とにかく傷のない、清潔な録音を作ろうとします。その結果、非個性的な演奏が山ほど出来上がります。そういうものから比べたら、フルトヴェングラーであろうと、カラヤンであろうと、ムラヴィンスキーであろうと、バーンスタインであろうと、とにかく、昔の指揮者はみな個性的で面白かったっていうことです。だから、ああだこうだと言わず、なんでも聞きましょうよ。
今日は、午前中から、まとめの回答を書き続けています。今、たまたまのぞいたら補足が入っていたので、息抜きにちょっと書きました。あとで、最終的な結論を出します。お礼欄が使えるように、分けて出します。参考録音も付けますので、ゆっくりお聞きになってからご返事ください。
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この回答へのお礼

カラヤンのチャイコフスキーを挙げていましたので、
「さすがTastenkastenさん」
との思いから書いたんですよ、あれ。

400字という字数制限のために、誤解を生むような文章になってしまいました(^^ゞ

☆カラヤンのチャイコフスキーに文句はないんですね。
◇無いです。
大学の音楽の先生までもが「カラヤンはサウンド・ライク(中身は無い)」なんて言っているようではお先真っ暗だ、
との思いで書いたんですよ、あれ。


☆昔の指揮者はみな個性的で面白かったっていうことです。
◇ピリオド奏法であろうが聞くんですよ。
聞いている間は「なんか新鮮で面白いな」と思うんですが、何度も繰り返して聞く気にはなりませんけれど。
マイナー所のオケの演奏なんか聴いて、「スゴイ」なんて思ったりしているんですよ。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/09 18:49

>わ~、


何を振っても贋物呼ばわりされる《カラヤン》のチャイコフスキーだ♪

楽譜を作るだけで手いっぱいで、動画を選んでいる暇がなかっただけですよ。演奏に関する質問ではなかったので、そこは大目に見てください。
こちらのまとめは、結構書きましたが、明日さらに見直し、書き足してからにします。ぶらげろさんが待っているので、そろそろ終わりにしないと。両方並行して回答するのはちょっと無理なので。
哲学カテもぼちぼち質問が来始めているではありませんか。音楽やドイツ語は、こちらの方がたくさん質問が出ます。OKWaveを見ても、質問が増えていないので、あまり見なくなりました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「カラヤンのチャイコフスキーが贋物なら、超~個性派のムラヴィンスキーも贋物だ」と日本の音楽評論家を皮肉っているんですよ♪
ベートーヴェンは贋物かもしれないけど、カラヤンのチャイコフスキーは本物ですよ。

2つあるモノラルの方は音楽的に充実しており、後年指摘される精神性の欠如は感じない。
https://www.youtube.com/watch?v=p7J4QqoFN-Y
https://www.youtube.com/watch?v=BgIjGSPmk7I
初のベートーヴェン全集の奴
https://www.youtube.com/watch?v=nbGV-MVfgec
も、まぁいい。
https://www.youtube.com/watch?v=YObQ6bP0eDQ
になると…。

モノラルで聞くとよく聞こえるのか?
フルベンがよく聞こえるのは、モノラルだから??

お礼日時:2015/02/09 14:46

>◇私は理系出身ですから



もちろんそのことも考えましたよ。でも、やっぱり日本人にある程度共通していることなんです。日本の音楽家と一緒に演奏するのと、ウィーンの演奏家と一緒に演奏するのとでは、全く事情が違います。日本は息が詰まります。私の滞在期間は半端な年数ではないので、音楽的にはもう半分ウィーン人みたいなものです。
ベームの演奏はオーソドックスで、ウィーン的なものです。第1楽章のテンポはいいテンポです。超個性的ではもちろんありませんが、安心して聞けます。あとは個人の好みですね。
クラシック・カテにえらくややこしい質問が出て、手間がかかってしまいました。チャイコフスキーです。よろしかったらご覧ください。
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この回答へのお礼

わ~、
何を振っても贋物呼ばわりされる《カラヤン》のチャイコフスキーだ♪
紹介するならば、
音楽評論家から本物とされる《ムラヴィンスキー》のチャイコフスキーでしょう(笑)。
贋物師・カラヤン VS 超~個性派・ムラヴィンスキーのチャイコフスキー、
どちらが本物なのだろうか(^^ゞ

放送大学でやっていた西洋音楽史の最終回(ネットラジオで聞いた)で、
この講義の講師の先生まで「カラヤンはサウンド・ライク」と一刀両断していたな♪

にしても、チャイコフスキーの楽譜は音符がいっぱいで、
しかも、細かい指示が色々書き込まれていて、見るだけで頭が痛くなってしまいます。
指摘され初めてアクセント記号がついている意味が分かりました♪
単に音の強弱を表わしているんじゃないんだな、あれ。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/09 00:17

まとめを続けるつもりでしたが、一つ問題が起きましたので、ちょっと中断します。

釈迦からの説法です(笑)。

>ウィーン・フィルだと優美で流麗になりすぎて、ブルックナーの音楽の持つ素朴さ、野蛮さが前面に出てこない。

レニングラードの演奏も悪くはないですが、そこでブーレーズが出てくるのは矛盾していませんか。野蛮さはありませんね。そもそも、ウィーン・フィルというのは、結構、田舎くさい、泥臭い面も持っているのですよ。一度、ラヴェルのダフニスとクロエを国立歌劇場で見たとき、オケピットのなかでのウィーン・フィルのラヴェルの演奏が泥臭くて苦笑したことがありました。ブルックナーの時代のウィーン・フィルは、今よりさらに甘ったるい(この表現の当否は別として)演奏をしていたことは間違いありません。そして、ブルックナー自身、自分の作品をこのウィーン・フィルで聞いていたわけです。この演奏スタイルは、ウィーン・フィルだけのものではなくて、ドイツ・オーストリアの音楽家に共通するものでもあります。向こうの音楽大学では、レッスンでこういう表現をたたきこまれます。音には一つ一つ意味があり、それを表現しなければなりません。それは、ロマン派であろうと現代音楽であろうと、一貫して流れている伝統です。日本の音楽家のほとんどにはそれが欠けています。また、聞く方の側も同様で、多くの日本人に共通する感性として、あまりアクの強いもの、クセのあるもの、超個性的なものは好まない、できるだけ作為がなく、静かなものを好む、という傾向が強いです。ですから、バーンスタインのCDのレヴューをアマゾンやHMVで見ると、遅いテンポでねっとりやっているのが嫌だ、と書いている人はたくさんいます。第9の御質問の時もちょっと話が出ましたが、確か、フルトヴェングラーの演奏はテンポルバートが多くてお好きでないと書かれていたように記憶しています。ところが、向こうでは、何かあるとすぐ、日本人や中国人などの東洋人は、テンポルバーとができない、といって笑われるのです。ねこさんも、典型的な日本人の感じ方をされているように思いますが、オーストリア音楽を愛するのであれば、この点はもう少し理解してほしいですね。西洋音楽というのは、そもそもそういうものなんです。この前のショパンコンクールの時、日本人参加者が本選に進めなかったのですが、審査員の一人から、日本の参加者はただ楽譜通りに弾いているだけだ、もっと音楽を感じて弾かなくてはだめだ、と厳しい評がありました。しかしこれは、日本の、すでにかなり有名な演奏家にもある程度共通することです。テクニックはあるけれど、音楽性がない、ということがよく言われますが、これは、私が若いころにすでよくに言われていたことで、何十年たっても変わらず、頭打ち状態です。教育にも問題はありますが、日本の聴衆が望まないために伸びないということもひょっとしたらあるのかと思うと、少し心配になります。日本は日本でいいと言われればそれまでなのですが、私は非常に不満を感じています。
レニングラード・フィルについては、ロシアのオーケストラは管楽器の演奏方が違いますので、特に金管が野卑に響きすぎるのが欠点です。ブルックナーは、素朴で農民的なところはありますが、野卑ではありません。しかし、私自身は、こういう問題にはあまり執着がありません。その土地々々で、オーケストラに個性はあるのは当然です。音楽は世界共通で、どこでも演奏してもらいたい。どこのオーケストラが合う、合わない、という話は、音楽ファンにとっては大事な話題かもしれませんが、私達やっている方にとっては、それよりも演奏解釈の問題の方が大きいのです。指揮者にしても、オーケストラを選べるわけではありませんので、オファーの来たオーケストラをいかに生かすかが肝心です。
バーンスタインは、基本的には現代的な指揮者で、大時代的とはいえませんが、バーンスタインに限らず、多くの指揮者は、年を取ると、細部の表現を大事にして、テンポが遅くなる傾向があります。確かに、ブルックナーの第9の2楽章のテンポは、ブーレーズのテンポが正当であると思います。これはこれで聞いていてすがすがしいです。バーンスタインの場合、テンポを遅くすることで、原初的な力強さが出ます。中間部のテンポとの対比が効果的になるので、そのためのテンポ設定かもしれませんし、あるいは、終楽章が書かれなかったので、現存する3楽章でまとめるためには、第2楽章のテンポを少し抑える方がよい、という発想もあり得ると思います。これは、指揮者により解釈は様々です。ファンの人たちは、こうでなければいけない、と、一つの解釈にこだわりますが、作曲家自身は、結構いろいろな演奏解釈を許容することがあります。中には、絶対こうでなければだめという人もいますが、特に、自ら演奏もするような作曲家であれば、異なった演奏があっても、これはこれでいい、と受け止めるものです。
ブルックナーの第9が、新ウィーン楽派につながるのではないか、という見方は、全然わからなくはないですが、流れとしては、このあとにまだマーラーがいますし、新ウィーン楽派の作曲家にしても、初期は濃厚なロマン主義です。特に第3楽章の冒頭は、マーラーの第9の終楽章の冒頭とかなり似ており、まだ、非常に濃密な表現が似合うスタイルだと思います。また、今後の回答で触れますが、シューベルトやブルックナーの音楽は、かなり主観的なものです。ですから、ある程度主観的な感情移入をして演奏しないと生きない、ということもあります。さらに言うと、無調や十二音になってからの音楽の演奏に関しても、必ずしもメカニックな演奏がいいというわけではなく、たとえば、点描的なウェーベルンの作品でさえ、そこに旋律のラインをいかに見出して演奏していくか、という考え方もあるので、一概に、合理主義的、論理的、現代的な解釈だけしかないといえるものでもないんですよ。
まあ、この辺は難しい話になりますし、質問内容からはずれすぎるので、このぐらいにします。
ちょっと長い中断になってしまいましたが、日本の音楽家や聴衆の淡白さには常々不満を感じていて、日本人の西洋音楽理解がどこまで可能か、不安にも思うこともしばしばなので、率直に書きました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。



☆ねこさんも、典型的な日本人の感じ方をされているように思いますが
◇私は理系出身ですから、今はなき音楽評論家の「門馬直美」の音楽的感性と似ているんですよ(^^ゞ
「何かこの人と同じことを感じるな」と思って調べてみたら、この人も理系出身者であった(笑)。
ベーム好きなのも同じ♪
不自然に感じられるものは体質が許さないんですよ。
しかし、
その自然に感じるものでさえ、計算の裏づけがないといけない。

☆何十年たっても変わらず、頭打ち状態です。
◇いまだクラシック音楽を自分のものとして消化しきれていないからじゃないですかね。
浪花節や演歌のように「あのしゃがれ具合がいい」、「崩しがいい」と言えるようになった時、クラシック音楽を我が物として受け入れたことになるじゃないですか。
「守・破・離」でいうと、「守」の段階で留まっているじゃないですかね。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/08 19:48

こんばんは。



質問Part1が出てから、時々ブルックナーを聴くようにしていました。もう、だいぶ前から、ほとんど聞いていませんでした。若いころ、マーラーにとりつかれた時期には、その関連で、ブルックナーもまあまあ聞いていたのです。しかし、この仕事をしていると、聞かなければいけないものがたくさんあって、古典の曲をいつもまんべんなく聞くというわけにはなかなかいきません。
この間、第7番の話をしました。第1楽章の後半など、素晴らしいところがあるのですが(たとえば、ティンパニーのロールが続く上に高揚していく部分など)、そこへ至るまでの部分が、あまりにも静かなまま延々と続き、じれったく感じました。緩徐楽章が素晴らしいという記憶はあるのですが、今回はまだ聞き直していません。
それで、第8番を聴きかけたのですが、これは全然我慢が続きませんでした。仕事中だったせいもあるので、今日、全曲聞き直しました。やはり、途中ちょっと辛いものがありましたが、演奏と録音のせいもあったかもしれません。チェリビダッケの演奏でしたが、何しろテンポが遅いので、録音ではだめだと思います。ウィーンのムジークフェラインでチェリビダッケのブルックナーを聴いたときは、とても印象に残りました。やはり、音響の良さや、空気感、空間の広がりが感じられないと、ブルックナーの世界にはなかなか入り込めません。
仕事中にちょっと聞いて、割と抵抗がなかったのが、今までほとんど聞いていなかった第6番で、比較的短いのでまとまっているのだろうかと思いましたが、大雑把に聞き流しただけなので、はっきりは言えません。
部分的に聞き直して、楽想がもっとも宗教的で、崇高に感じたのは第5番だったのですが、やはり、第7番の時と同じような問題があって、途中で少し眠ってしまいました。一度静かになると、いつまでも静かで、それでいて、曲全体が一本の線につながらず、一つの部分が終わると終止して休符が入り、また突然次の部分が始まります。音が薄く、装飾や変奏にも乏しく、フレーズはいつも偶数で割り切れています。いかにも不器用で、愛想がありません。
第4番の緩徐楽章のテーマなどは、一度聞けば忘れられませんが、今回は聞き直しませんでした。
それで、最後に、よかったという記憶が残っている第9を聴くことにしました。Youtubeで検索したところ、最初に出たのがバースタインの演奏でした。バーンスタインといえばマーラーで、ブルックナーの演奏はほとんど残っていませんし、合わないだろうとも思っていたので、一度も聞いたことがありませんでした。ところが、これがすごかった。調べてみると、ブルックナー・ファンや、一部の批評家からかなり批判があった演奏だそうです。ブルックナーらしくない、これではマーラーだ、あまりにもバーンスタイン流だ、という意見です。しかし、まず、曲自体が8番までと全く違います。作曲技法も大きく違いますし、オーケストレーションも入念で、よく鳴ります。音楽は、おそらくこれが一番ワーグナー的でしょう。マーラーの音楽を先取りしているようなところもあります。それ以前のものより凝っているし、表現が豊かです。ひょっとして、マーラーの初期の曲でも聞いて影響されたかと思いましたが、二人の作品の作曲年代を調べれば、そうではないことがわかります。マーラーも、この曲から相当影響を受けたはずです。ですから、バーンスタインの演奏がマーラー的過ぎるという批判は、ブルックナーびいきの思い込みであって、原因は曲そのものにあります。テンポの変化や濃密な表現がブルックナー的ではないということなのかと思いましたが、テンポの変化は楽譜にも指定があるようですし、クナッパーツブッシュやヨッフムなどの古い録音を聴いてみても、そんなにおとなしい演奏はしていない。宗教観の違い、ということでの批判もあるらしいのですが、そんなことを言ったら、音楽は無だ、という禅仏教者チェリビダッケの演奏は問題外になりますし、同じキリスト教者であっても、プロテスタント的な厳格さがブルックナーにふさわしいのかと問われなければならなくなります。
この曲に関しては、部分と部分の間の亀裂があまりありません。もしかすると、ねこさんにとっては、第9は一番ブルックナーらしくなく、お好みでないかもしれないと想像しますが、私はやはりこの曲が一番すごいと思います。
ということで、とりあえず、バーンスタインによる第9番。



なぜ、ブルックナー論をやっているかというと、オーストリア的ということで、ねこさんが、シューベルトとブルックナーを特にあげていらっしゃるからです。全くタイプの違う作曲家なので、この二人を単純にオーストリア的な音楽としてくくるのは難しい。「にもかかわらず」の部分が見えてこないといけません。しかも、このあとにまだ、ハイドンとモーツァルトが残っています。それで、とりあえず、ブルックナーの特徴をおさらいしてみました。
しかし、このスレッド、終わりが来るのだろうか・・・
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

砂糖菓子の上にさらに砂糖を振りかけたような甘ったるい演奏ですね。
これはバーンスタインのせいというよりも、ウィーンフィルの音のせいなのでしょう。
私は特にバーンスタインの解釈には違和感を感じませんけれど、ウィーンフィルの音はブルックナーに合わない。ラスト3曲は特に合わない。
ウィーンフィルだと優美で流麗になりすぎて、ブルックナーの音楽の持つ素朴さ、野蛮さが前面に出てこない。
ブルックナーは現代的なオーケストラで、現代音楽的感覚で演奏すべきです。

お勧めは、ムラヴィンスキー&レニングラードフィル。
ムラヴィンスキーのブルックナーはチャイコフスキー的だとの批判はありますけれど(笑)。
https://www.youtube.com/watch?v=9vZLRCzMHvY

6番はいい曲だと思いますよ。
特に1楽章の冒頭部の弾むようなリズムが面白く感じられます。

回答、ありがとうございます。

お礼日時:2015/02/07 21:00

こんばんは。



ぼちぼち、まとめにかかろうと思ってはいるのですが、この問題は結構深くて、本来なら十分な文献研究と、ドイツ、オーストリアの、もっとたくさんの作曲家の作品そのものの楽譜や音源による分析をもとに、論文を書くべきテーマではないかと思います。とてもそこまではできないので、概観で止めることになるとは思いますが、どのようにまとめるべきか悩んでいます。ウィーナー・シュメーなど、ウィーン気質を知っていただくためにはよい例だと思いましたが、今、まとめに入ってみると、やや遠回りが過ぎたかなと思わないこともありません。しかし、前回、昨日の回答で、ウィーナー・シュメーの例の流れを受けつつ、一応、ドイツ人気質と、オーストリア人気質についてはまとめておきました。この気質の違いが、両国の作曲家の創作態度や美学にある程度関係があることは確かです。その一方で、作曲家ひとりひとりの個人の問題、時代の問題もあります。また、ドイツの音楽が重くてオーストリアの音楽は透明感がある、と感じるとき、それが、縦の音の重ね方の密度とからきているとは必ずしも言えないと思います。シューベルトやブルックナーの音楽は、部分々々はメロディアスで流れがよく、しかしそういう部分の羅列のようになっており、全体として見たときに、各部分のつながりが弱い、ということはあります。瞬間々々の美しさに集中できる人にとっては、実に魅力的なわけで、そういうときに感じる「透明感」というのは、もしかすると、曲全体を横方向、時間軸で見たときの密度の軽さを、縦方向の響きの軽さと錯覚しているということも考えられます。

続きはまた明日以降書きます。今日は、シューベルトのレントラーを、オーストリアらしい曲として紹介して、お茶を濁すことにします。レントラ―は、オーストリアから南ドイツにかけての民族舞踊で、シューベルトは、やはりこういうものを書くと、生き生きしています。娯楽的な音楽と言ってしまえばそれまでですが、ヨハン・シュトラウス一家やその周辺の作曲家の音楽に通じる、屈託のない、良くも悪くも現世肯定的な特徴が感じられます。もちろん、その裏には、オーストリア人のもう一つの側面、ペシミスティックな世界観も隠れてはいるのですが。



PS
投稿しようと思ったら、No.14に補足がありました。お礼欄にもお書きになったことなので、触れておきましょう。ウィーン・フィルの楽員は、給料もよく、エリート意識が強いです。指揮者に対する態度については、いろいろなエピソードもありますし、私が身近に体験したこともあります。
有名な話では、バーンスタインがマーラーのリハーサルをしていたとき、トロンボーン奏者たちが、こんな遅いテンポではできないといって、出て行ってしまった話、また、ジェームズ・レヴァインも、リハーサルで団員の気に入らず、二度と呼ばれなかった話などがあります。小沢征爾がニューイヤーコンサートを指揮したときも、休憩時間に、そんなに細かく振るなといって、第2ヴァイオリンの誰かに指導されたらしいのですが、結局、本番でまた細かく振ってしまったので、ニューイヤーには2度と呼ばれないのではないかといわれました。ほかにも、有名な指揮者ではないようですが、リハーサルで団員の反感を買い、本番で仕返しをされた例があります。団員たちが示し合わせて二つのグループに分かれ、わざとずれるように演奏したそうです。本番のあと、その指揮者は泣いていたらしい。本番でみじめな演奏になれば、指揮者のせいになり、評価は下がります。キャリアそのものをつぶされかねない。
今回私がメールで意見を聞こうとしていた友人は、昔写譜の仕事をしていました。国立歌劇場が、オッフェンバックの「ホフマン物語」をやるとき、新しいパート譜を作ることになったのですが(なぜかは不明)、彼の写譜能力はあまりよくなく、本人もまだ間違いが残っているとわかっていたので、まだ渡さないように言ったらしいのですが、オーケストラに渡ってしまいました。「ホフマン物語」などは、彼らは何度も演奏していて、曲はよく知っています。間違いに気づけば、その場で修正する能力もあります。しかし、間違った音をわざと大きな音で演奏したりして、結局、こんな楽譜では演奏できないとボイコットしました。そのため、リハーサル一回分のギャラを余計に支払うこととなり、裁判になりました。詳しい結末は知らないのですが、その友人は、楽譜係として、アバドのリハーサルなどにも同席していました。リハーサル中、普通なら、指揮者が言ったことを団員が自分のパート譜に書き込むのですが、ウィーン・フィルの連中はやらない。友人が、スコアに書き込み、リハーサル後にパート譜に書き写してやらなければならなかったそうです。
私の別の知人に、ウィーン交響楽団の団員がいますが、一度、ウィーン・フィルに空きができたので来ないかという話があったのですが、断ったそうです。
国立歌劇場の監督の話ですが、こちらの方は、たぶん、劇場監督と音楽監督の関係がややこしいのだと思います。だから長続きしない。
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この回答へのお礼

☆シューベルトやブルックナーの音楽は…
瞬間々々の美しさに集中できる人にとっては、実に魅力的
◇これが魅力です♪
特にブルックナーは、それまでとは無関係なメロディーが突然現われる。
そして、これが天上の世界を感じさせるほど美しい。


☆…ペシミスティックな世界観も隠れてはいるのですが。
◇刹那的なんでしょうね。
その一瞬一瞬を大切にするけれど、そこには時間的な連続性がない。
それが構成の弱さとして現われるんですかね。

モーツアルトやハイドンの時代のように曲の規模が比較的小規模ならば直感的に見通すことができるのでしょうけれど、
シューベルトやブルックナーのような作曲家は、ロマン派のような大規模な曲構成に向いていない。
断片断片が幾つも連なった纏まりのない曲になってしまうのかもしれないですね。

ところで、
ウィーンフィルは、そこまで、たちが悪いんですか♪

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/06 23:55

こんばんは。



ウィーナー・シュメーはこのくらいにして、少しずつ話をもどそうと思います。その前に、ライムント・コルナーの車内放送の実際の様子をご覧ください。長くて、また聞きとりにくいので、訳は省略します。雰囲気だけ。出だしは、もし電車が人でいっぱいのようなら、ほかの17のドアから乗ってください、みたいなことで始まります。最後の方では、感動した年配の女性がやってきて跪いたので困った、とか言っています。



オーストリアのテレビ局が制作した、「ドイツ人とオーストリア人、似ていない姉妹」という番組がYoutubeに出ていました。内容の大部分が、第二次大戦から戦後の話で、シューベルトやブルックナーの話には直接関係がないので、少しだけ抜いておきます。
まず、あるドイツ人が言うには、ドイツ人は尊敬されているが愛されていない、オーストリア人は愛されているが、尊敬されていると感じていない、とのことです。またある人は、ドイツ人は「ひとりよがり(Selbstgerecht)」、「思い上がり(anmassend)」,「教師ぶる(schulmeisterlich)」、オーストリア人は「はにかみ屋(verschähmt)」、「虚栄心が強い(eitel)」、「機知がある(witzig)」と言います。あるいは、「オーストリア人は、なんでも言いたいことを言って、それでも気持ちがいいが、ドイツ人がオーストリア人になにか言うと、一般的にきつく聞こえる。ドイツ人には、オーストリア人の言うことはみな個性的に聞こえる、とのこと。また、オーストリア人は、言葉と音楽に対する感覚にすぐれ、ドイツ人のような「きつさ」や「鋭さ」を伴わずに正鵠を射る、つまり繊細である、という意見もありました。

>オーストリア人には「ユーモアがない」が禁句だとすると、
>ドイツ人には「論理的でない」が禁句になるんですかね。

ドイツで大事なのは、規律と秩序でしょうか。それと、やはりルターが出てくるようで、ルターの言う徳は、「規律(Disziplin)」、「倹約(Sparsamkeit)」、「責任感(Pflichtbewusstsein)」、「勤勉(Fleiß)」ですね。これはオーストリア人には欠けますね。シューベルトは、書き上げた作品を引き出しにしまったら、そのまま忘れてしまうことが多かった。「未完成」が未完成に終わった理由は、いろいろ推測されていますが、結構単純な理由じゃないかと思っています。

これから再び、マグリスの著書と、アドルノがシューベルトについて何か変なことを言っているようなので、それを少し見てみます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆規律(Disziplin)」
◇ETVの「思い出の名演奏」という番組でベームが紹介されたとき、
ベルリンフィルとウィーンフィルについて質問され、
「ベルリンフィルは、プロイセン人ですから、元来、真面目で規律正しい」
と言っていたのを思い出しました。
対して、
「ウィーンフィルは、指揮者が中流以下だと、『これなら、俺たちの方がよく知っている』と団員のめいめいが勝手なことをやりだし、途中で空中分解してしまう」
と言っておりました♪

ドイツ、オーストリアの国民性の違いがここにも現われているんでしょうね。


回答、ありがとうございました。

ps
未完成については、
「第三楽章にはメヌエット、スケルツォが来るでしょうから、三拍子系が3つ続くことになるので、作曲をやめたんじゃないか」
という話を聞いたことがあります。

お礼日時:2015/02/05 19:11

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