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今回のリニューアルにともない、
1/27以前に投稿された質問が一定期間すべて締切済にされてしまったので、
マイページの機能を使って、それまでに投稿された私の質問への回答の中からベストアンサーを選びました。
その後、何時間か経過したら、「教えて!goo」登録者の質問は回答できるような状態に復活したじゃありませんか。
これでは、ネムネコさんが可哀想じゃないですか(アニメ『ログホライズン》のミノリの真似)。

ということで、
質問「ドイツ音楽、オーストリア音楽の違いとは?」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8894274.html
の第2弾です、Part 2です。

前回の質問に寄せられた回答の数が増えるにしたがい、
ドイツ、オーストリアの民族、宗教、風土、文化、近隣諸国との地理的関係などなどの違いと諸要素が複雑に絡み合い、
その結果、
ドイツ、オーストリアの音楽に顕著な違いが生まれたことがあきらかになったように思います。
この2ヶ国の音楽性の違いは、単に音楽という一分野で考えるべきでも、論ずるべきものではないのでしょう。

ということで、
前回の質問の続きです。

 1 ドイツ音楽とオーストリア音楽の違いとは?
 2 この違いは、なぜ、生まれたのか?
 3 これぞドイツ音楽の真骨頂、オーストリア音楽の精髄の一曲(これを聞けば両者の特徴の違いがすぐわかる曲)

などについて質問させていただきます。


前回の質問の回答番号12をご覧になられればすぐにお気づきになられると思いますが、
youtubeなどの動画サイトのリンク先を一つだけ回答に張り付けますと、
これまでとは異なり、リンク先ではなく、動画が回答に埋め込まれます。
 ───何かスゲェ~と思うのは私だけか(ポリポリ)───

リニューアルによって新たに加わったこの新機能を是非とも使ってみたいという方は、
動画のリンク先を一つだけ貼り付けてください。
2個以上になると、この新しい機能を回答に取り込むことができないようですので♪


ドイツ音楽礼賛であろうが、
「ドイツの音楽は辛気臭くていけない。音楽の都はウィーンだし、オーストリア音楽こそ世界最高!!」、
「何を言っているんですか、イタリア音楽こそ最高。イタリアのオペラに勝るものはない♪」
といった回答もお待ちしております。
できましたら、
この根拠になる曲を挙げて欲しいと思います。
何曲でも構わないのですが、
一曲、しかも、youtubeなどの動画のリンク先を貼り付けますと、
回答に動画が埋め込まれ、見栄えのよい回答になるようです。


皆さんの回答を心よりお待ちしております。
よろしくお願いします(ペコリ)。

質問者からの補足コメント

  • 400字じゃ何も書けない!!
    お礼を400字におさめるために苦労しました(^^ゞ。
    ですから、お礼の書き漏らし部分を補足に。

    ☆オーストリア人が使うドイツ人の蔑称にPiefke(ピーフケ)というのがあります。
    ◇現代でも、あの時、プロイセンに味合わされた屈辱が今日にも残っているんですね。
    この戦争の敗北がオーストリア人にドイツ人に対する対抗心や敵対意識を喚起させたようですね。
    オーストリア人の心の中にドイツとは違うという強い意識が生まれたみたい。

    そして、
    この時、ドイツとオーストリアは決定的に分かれたみたいですね。
    ドイツ統一からオーストリアは消えた。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/02 00:33
  • おそらく、
    ベルリンフィルの団員の誇りとウィーンフィルのそれとは異なっているのでしょうね。

    ベルリンフィル:どのような指揮者であっても水準以上のことをしなければならない
    ウィーンフィル:オラッチは世界一だ。だから、オラッチは自分たちが好きなようにやるんだ

    楽曲、聴衆に対する責任感の認識の差も両者の違いとなって現われているのかもしれない(笑)。

    この二つのオーケストラの差からのアプローチもあるのかもしれないですね。
    ドイツのオーケストラは生真面目な演奏をしますから。
    自由さ、楽しさといったものをドイツのオーケストラの演奏から感じることは、ちょっとできませんし…。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/05 20:02
  • ブーレーズの指揮も。


    バーンスタインのような大時代的な指揮は、ブルックナーの9番には合っていないような気がするんですよね~。
    しかもオーケストラはウィーンフィルだし♪

    この曲は後期ロマン派の一曲として演奏するのではなく、
    20世紀の新ウィーン学派に移行してゆく音楽史の流れの中でとらえていくべきなんじゃないか。

    第2楽章のスケルツォで「音楽は美しくなければならない」という当時の音楽の常識を破壊していますし、
    2楽章を聞くと、私なぞは、ついつい、ストラヴィンスキーの『春の祭典』を髣髴してしまいます。
    どちらも音楽のもつバーバリズムを前面に出していますから。

    で、
    たぶん、この曲は音楽的構造を前面に出すよう演奏をしてはいけないんでしょう。


    釈迦に説法の真似をしてみました。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/07 21:57
  • beethoven symphony no.3

    の1楽章などを聞くと、
    「そうそう、このテンポ。このテンポ以外ありえない」
    と思っちゃうんですよ。そして、すごく嬉しい気分になってしまう。

    「我が意を得たり」と言いますか、ずっと探し求めていた物、正解を見つけたといいますか、
    そんな感じで、すごく嬉しいんですよ、楽しい気分になってしまう。

    それだけではなく、
     なんでベートーヴェンはこんな風に作曲したのだろう、
     どうして、ここで、この楽器を選択したのだろう、
    というのが分かるような気がしてくる。
    この録音を聞いて、こんな風に感じるのは、私だけなのかもしれませんが♪

    Tastenkastenさんは、きっと「教科書的で、およそ個性というものが少しも感じられない」とおっしゃるのでしょうが(^^♪

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/08 20:38
  • っん、

    はモノラルじゃなくステレオ録音か?

    音がモノラルっぽく聞こえたのでモノラルだと思いましたが、音が分離していますね。
    ステレオ初期の録音なのかな?

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/09 15:06
  • 何だかよく分からないんですけれど、この曲(・・?

    これ、協奏曲じゃなく、ピアノソナタの方がいいんじゃないですか?
    2楽章を聞いている途中にそんなことを考え始めました。
    絶対、ピアノソナタとして書いた方が良かった(^^ゞ

    3楽章は何かワルツっぽい、舞曲っぽいんですけれど、
    何か突然曲が終わった感じで、
    消化不良といいますか、
    「えっ、終わったの。これで終わり?」と狐にでも摘まれたようで気分なんですけれど。
    釈然としないものが残っているんですけれど。

    何だかよく分からない、この曲♪

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/09 22:48
  • Nora、スゴイじゃないですか♪

    本当は、オーケストラの伴奏を書いた作曲者さんの腕前がすごいんでしょうけれど♪

    No.31の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/11 15:50
  • そして、
    その属性として様々な面を有している。
    この属性の中にはあい矛盾するものが存在し、作曲者の中で同居し、矛盾を内包したままの状態で一つの統一体を構成する。
    にもかかわらず、
    我々はその属性の一部をもって作曲者、曲を理解し、語ろうとする…。

    な~んてね。
    少し格好好いことを述べてみました♪

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/11 17:56

A 回答 (33件中21~30件)

以下の車内放送は、たぶん、緊急時にドアを開けるためのボタンをいたずらで押すことに対する警告だと思われます。



「同乗者の皆様! 私どものドアをちょっとよくご覧いただきますと、そこにちっちゃなボタンがついているのがおわかりになるでしょう。これを押しますと、実にすばらしく甲高い音を立てますが、これはもちろん、あなたが楽しむためだけに取り付けられたものです。ですから、もしあなたが、電子ゲームを家に忘れてきたのなら、このボタンを何度も押すことをためらわないでください。そうすればあなた自身を停めるだけではなく、運転士と同乗者の機嫌も停めることができますから。」
“Liebe Mitreisende! Wenn Sie sich unsere Türen etwas genauer anschauen, werden Sie feststellen, dass wir dort so kleine Knöpfe haben. Diese geben bei Betätigung einen ganz wunderbaren grellen Ton von sich und sind natürlich nur zu Ihrer Unterhaltung dort angebracht worden. Wenn Sie also Ihr Elektronikspielzeug daheim vergessen haben, zögern Sie nicht, auch mehrmals auf den Knopf zu drücken, denn damit halten Sie nicht nur sich, sondern auch den Fahrer und ihre Mitpassagiere bei Laune!”

上の放送の3分後。
「今ちょうど乗ってきた若い男性の方に申しあげます。もちろん私は、ドアを閉めるために、あなたがドアをすり抜けて飛び込んでくるその瞬間を待っていたのです。ですから、私があなたを、意図せずに挟んだなどと思わないでください!」

“An den jungen Mann von gerade eben: Natürlich habe ich genau auf den Moment gewartet an dem Sie durch die Tür springen, um diese zu schließen. Glauben Sie also bitte nicht, ich hätte Sie unabsichtlich eingezwickt!”
(本当にわざと挟んだのかどうかはわかりませんが、とにかく、飛び乗り乗車はやめろ、ということです。この件を報告している人の話も含めて、訳を続けます。)

この「若い男性」はきっと少し腹を立てたに違いない。というのは、また3分後、さらにこんな放送があった。
「先ほどの若い男性にちょっとした指示があります。あなたはもしかすると、謙虚さと辛抱強さを学ぶためには何が最善かをよく考えるべきかもしれません。ですから、私はあなたに、ウィーン交通に就職されることをお勧めします。何十年かの訓練ののちに身に付きます。間違いありませんよ!」

Der “junge Mann” hat sich dann wohl ein wenig aufgeregt, denn wieder 3 Minuten später kam dann diese Durchsage: “Ein kleiner Hinweis an den jungen Mann von vorhin: Sie sollten sich eventuell überlegen, wie Sie sich am besten in Demut und Geduld üben könnten. Ich empfehle Ihnen daher, sich um eine Stelle bei den Wiener Linien zu bewerben. Nach ein paar Jahrzehnten Übung haben Sies dann drauf, glauben sie mir!”

放送番号3のあと、乗客はみな、かなりじっとしたまま、次の放送があるかと待っていた。話の結末はこうだ。私が終点で降りると、まだその若い男がいて、ちょっと興奮気味で運転士と議論していた。もちろんそいつは、そのあとほかにするすべがないものだから、よりによって私のところへ寄ってきて、この運転士は「あくどいテロリスト」だと思わないかとしゃべりだした。(なんでいつもこういう話の最後に、キチガイどもは私のところへ駆けてくるのだ? この次は、ドアに押しつぶされてほしい。)・・・(後略)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり、こういうのが典型的なウィーナー・シュメーです。ユーモアをもって誹謗する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「乗客の皆様! もしあなたが今まだ電車に乗ろうとしていて、あなたの前の人が、まだ場所があるのに、何らかの理由で動かない場合、その人を少し(ein bisschen)、ウィーン語で言えばちびっと(ein bisserl)ですが、押してください。望まない愛撫と偶然の体のふれあいの中間に、きっと道が開けます。どうもありがとうございました。」

"Werte Fahrgäste! Sollten Sie gerade noch versuchen, in den Zug einzusteigen, und die Person vor Ihnen bewegt sich aus irgendeinem Grund nicht, obwohl noch Platz wäre, dann schubsen sie die betreffende Person ein bisschen an, so ein bisserl auf Wienerisch halt. Ein Mittelweg zwischen ungewollter Liebkosung und zufälligem Körperkontakt, da lässt sich sicher ein Weg finden. Vielen Dank."
~~~~~~~~~~~~~~~~
これは「詩的な」(?)例です。
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この回答へのお礼

☆「同乗者の皆様!・・・」
◇爆笑してしまいました。
今も笑が止まらない。


☆「先ほどの若い男性にちょっとした指示があります。…」
◇これなんかもウィーンぽくていい♪

こういうウィットは日本人にないですね。
ホント、面白い、笑が止まらない。

最後の「ウィーン風に言えば」という表現は、何度も本などで読んだことがありますね~。
本音や辛辣な言葉はこの後に続くわけですよね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/04 22:47

>急ブレーキの方は、何処が面白いのか、ちょっと分からないです(^^ゞ


>「深く反省する」を「頭に灰をかける」と表現したのが面白いのかな。
>それとも、前提とする何かの知識が私に欠如している??

ネイティヴスピーカーでないとわからないニュアンスがあるんでしょうね。私は最初、「ただいまの・・・停車は、私が弁償します。・・・頭から灰をかぶります」と訳そうかと思ったんですよ。でも、独和辞典の訳語では、さっきのようになっています。それでもやはり、auf mein Konto gehenというのはおかしく感じます。「反省する」にあたるin mich gehenもきっと面白いのでしょうし、in einem ruhigen Momentというのも(つまりMomentという語が)おかしいのではないかと思います。灰をかぶるというのは、中世時代、葬儀の時に死人の灰を頭などにかけることで哀悼の意を表したのが起源で、カトリックの「灰の水曜日」というのはこのことのようです。日常語としては、「反省しつつ自分の誤りを認める」という意味で使うのだそうですが、意味はそうでも、やはり表現自体が場違いで面白いのかもしれません。問題は、そのことよりも、地下鉄の車内でこんな放送をするか! ということですよ。「今の急停車は私が悪いんです。反省します」と車内放送があったら笑うんじゃないですか。
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この回答へのお礼

かつて「灰の水曜日」というものがあったのですか。
なるほど、なるほど。


☆「今の急停車は私が悪いんです。反省します」と車内放送があったら笑うんじゃないですか。
◇どうでしょう。
私ならば「ひょっとしたら自殺でもするんじゃないか」と心配になっちゃうじゃないかな。

その時の場の雰囲気、聞き手の心理状態によって受け止め方が大きく変わるので、
お笑いは難しいですよね、ほんと。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/04 21:33

相変わらず回り道をしていますが、ドイツとオーストリアの文化の違いを考えるための参考として、ウィーナー・シュメーを取り上げています。



ウィーナー・シュメーを調べている途中で、突然、地下鉄運転士の名前が浮かび上がりました。ライムント・コルナーという人です。残念ながら、すでに定年退職しています。地下鉄4番に乗っていたらしいのですが、私は4番線を利用する機会が少なかったので、知りませんでした。今のようにインターネットなどもなかったので、情報もありませんでした。ウィーンの地下鉄には、車掌は乗っていないので、運転士が一人で全部やります。運転しながら車内放送をするのですが、なぜシュメー(誹謗)と関係してくるかと言うと、乗客に何らかの注意をするような内容で、そこにユーモアと辛辣さが混じっているからです。苦情もあったらしいですが、ファンも多かったということです。日本でこんな車内放送をしたら、どうなるのでしょうか。まあ、会社の方がこのようなことはさせないと思いますが。ドイツでも無理なんでしょうね。最初の例ですが、ウィーンの列車のドアは、自動開閉式ではなく、乗客自らがドアの取っ手を押し下げて開けます。閉めるのは運転手です。結構固いことがあって、若い女性や年配の女性では開けられないことがあります。そういう時は、近くにいる男が、グーでガチャンとぶっ叩きます。この取っ手に、列車の走行中、立っている乗客がつかまっていると想像してください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「乗客の皆様! ドアの取っ手は、つかまるための取っ手として想定されているものではございません。技術監視協会によって定期的に検査はされていますが、走行中にドアが開いて、時速80キロもの速さの対向車と、穏やかならぬお近づきにならないと保証するものではございません。」

“Werte Fahrgäste! Die Türgriffe sind nicht als Haltegriffe vorgesehen! Obwohl regelmäßig vom TÜV überprüft, kann nicht garantiert werden, daß die Türen nicht während der Fahrt aufgehen und man eine unsanfte Bekanntschaft mit dem 80 km/h schnellen, entgegenkommenden Zug macht”
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
急ブレーキをかけた後の車内放送

乗客の皆様! ただいまの、予定外で穏やかならぬ停車は、私のせいです。申し訳ございません。仕事が終わって落ち着きましたら、反省し、悔い改めます。

“Werte Fahrgäste! Dieser unplanmäßiger und unsanfter Halt geht auf mein Konto! Ich möchte mich dafür entschuldigen! Ich werde in einem ruhigen Moment nach meinem Dienst in mich gehen und Asche auf mein Haupt streuen.”

geht auf mein Konto: (直訳)私が払う
Asche auf mein Haupt streuen: (直訳)頭に灰をかける

この車内放送を聴いた人が、地下鉄から降りて、しばらく面白がっていたところ、一人の中年の女性から、「この運転士、酔っぱらってるの?」と尋ねられた。
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この回答へのお礼

こんばんは。


急ブレーキの方は、何処が面白いのか、ちょっと分からないです(^^ゞ
「深く反省する」を「頭に灰をかける」と表現したのが面白いのかな。
それとも、前提とする何かの知識が私に欠如している??

でも、皮肉屋の私がこれを聞いたらニヤリとし、
「今、頭に灰をかけないのですかい?」
と呟くんでしょうね。
大阪人なら、
「今、かけんかい!!」
と突っ込みを入れるでしょう。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/04 20:10

オーストリアのコミュニティーサイトに、ミュンヘン在住のドイツ人から、「ウィーナー・シュメーとは何か、例えば、夕方6時に店に入った時、あと30分で店を閉めるから急いでくれ、と言われるようなことか?」という質問が出ました。

最初の回答者はウィーン人ではなく、Wikipediaを見て回答しました。当を得た説明なので紹介します。

ウィーナー・シュメーとは、ウィーンの住人に特有の、ユーモアとそれに伴う心的状態が際立っている気質を言う。しばしば、少しメランコリックであり、辛辣であり、病的、ユーモラスかつ軽視的、ときおりわずかに陰険かつ意地悪で、しばしば不機嫌(人間嫌い)だが、たいていは好意的で、微笑で迎えられる。メディアの伝えるところによると、ほかの州の人たちと比べて、ウィーンの人たちが最もよく微笑する。

これはよく書けていて、その通りだと思いますし、ここまで御紹介したジョークにも当てはまると思います。このあとに回答したウィーン人も、的確な説明だと言っています。そして、あとにつづくウィーン人の回答者が紹介したのは・・・

ウィーン交通の職員が、ウィーナー・シュメーの変わった解釈をめざしたエピソード。
年老いた女性が、バスの運転手に、「このバスで中央墓地へ行かれるか」と尋ねたところ、その返事は、「もちろん。そこに横になればね」

同じく、地下鉄での話。地下鉄には犬も乗ることができますが、口輪をはめさせなければいけないことになっています。運転士が、スピーカーからガーガー響く声で口輪をはめるよう注意したあと、最後に、「ジャック・ラッセル・テリアも犬だ、リスの仲間じゃないぞ!」

さて、この後、天才運転士、ライムント・コルナーが登場します。
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この回答へのお礼

☆少しメランコリックであり、辛辣であり、病的、ユーモラスかつ軽視的、ときおりわずかに陰険かつ意地悪で、しばしば不機嫌(人間嫌い)だが
◇ウィーン国立歌劇場の音楽監督がすぐに辞めちゃうのは、このためだとか♪
ブルックナーは、皇帝と謁見したとき、
「陛下、ハンスリックが私の悪口を新聞に書くのをやめさせて下さい」
と懇願したとか。



☆年老いた女性が、バスの運転手に、「このバスで中央墓地へ行かれるか」と尋ねたところ、その返事は、「もちろん。そこに横になればね」
◇これはまたかなりブラックな。でも、面白い。笑が止まらない。


地下鉄の方は落ちが分からない、予想できない。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/03 17:42

ウィーナー・シュメーの続きです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オーストリアの今日のユーモアは、200年前、喜劇作家ネストロイの次のセリフから始まる。「フェニキア人が金(通貨)を考えだしたんだよ」「でもなんでこんなに少しだけ?」ウィーン人はめったにシュメーには騙されないが、外国人は必ず騙され、それを「魅力」と名付ける。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ウィーナー・シュメーも、多民族文化の象徴です。その起源はあちこちにあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コメディアン、ジラルディはイタリア系、ネストロイの祖先はボヘミア出身、作家ホルヴァートはバルカン半島のマジャール人、役者ハンス・モーザーの祖先はフランス人、俳優で寄席芸人のカール・ファルカシュはハンガリー人、寄席芸人、作詞家、俳優、演出家のフリッツ・グリューンバウムはブルノ生まれ、俳優パウル・ヘルビガーもハンガリー生まれ。それでは、ウィーナー・シュメーにおけるオーストリア的なものとは一体何か? それはまさに――いかなる事情があろうとも――この国の住人を最高の上機嫌に導く混合物である。

エゴン・フリーデル
神はこの世界をそんなに深刻に受け止めていない、でなきゃこの世界を創造しなかっただろう。

フリッツ・グリューンバウム
歴史を作る一人の男には、歴史を作る千人の女が寄ってくる。

カール・ファルカシュ
神は混沌からこの世を創った、われわれはこの世から混沌を創った。

滑稽な登場人物、ボビー伯爵とルディ伯爵がオリンピックを見に行った。
ボビー「おい、お前わかるか、ルディ、いったいなんでこの人たちはここで並んで走ってるんだ」
ルディ「もちろんわかるさ、これは競争なんだよ。一人が一位になって勝つんだ」
ボビー「ああ、なるほど。でもそれなら、なんでほかの連中も走ってるんだ?」

ファルカシュとグリューンバウム
ファルカシュ「おととい道を歩いてたら、甲高い呼子の音がして、男が一人すごい勢いでそばを通り過ぎたんだ、女物の帽子をもって」
グリューンバウム「頭にかぶってたのか?」
ファルカシュ「手に持ってた。そいつはその晩、同じ洋服店に4回も盗みに入ったんだ」
グリューンバウム「じゃあ、店はからっぽだな」
ファルカシュ「いや、帽子一つだけだ、好きな女のためにな」
グリューンバウム「なんだって帽子一つのために4回も盗みに入ったんだ」
ファルカシュ「女が毎回返してよこしたのさ、取り替えてきなさいって」

次の例は、原文を挙げなければわかりません。直訳します。
二人の商人が出会った。
「やあ、なにしてる?」
「値段さ」
"Servus, was treibst du?"
"Preise!"
treibstはtreibenが原型、「駆り立てる」「急き立てる」のほか、日常会話では単純に「する」「おこなう」の意味で、「なにしてるの」というときに使うので、最初のセリフだけでは普通で、面白くはありません。答えがPreise「値段」なのがミソで、Preise treibenで、「値段を釣り上げる」の意味になります。相手の使った言葉を別の意味に使うジョークで、よくあるパターン。

以上の出典は、Kurierという新聞です。
http://kurier.at/kultur/die-geschichte-des-oeste …
http://kurier.at/kultur/das-lachen-des-jahrhunde …
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この回答へのお礼

帽子のは笑えますね。


東大数学家出身の論理学の先生の御本の相殺法の説明に、
女房を殺された男が殺した男のところに苦情を言いに行ったら、
その男に銃を突き出されて、
「お詫びに、オレの女房を撃ち殺していいぞ」
なんてブラックジョークが紹介されていました。
そして、
「これぞ相殺法!!」なんて説明してあった。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/03 17:26

そして、一つの例として次の話が。



ある女が死んだ。あけられた墓穴のそばで、その夫が、家族ぐるみの友人の男の横に立っていた。友人は完全に打ちのめされ、激しく泣いた。そこで夫はその男の肩に慰めるように腕をかけて言った。「そんなに深刻に受け止めるな。僕はきっともう一度結婚できるさ。」

これは、ちょっと読んだだけでは大して面白くないようですが、「家族ぐるみの友人」はHausfreundと言います。この語には、隠語として「間男」の意味があります。話が始まった時には、聞いている人は「家族ぐるみの友人」と思っていたのが、最後のセリフで「間男」に変わり、もう一度自分が結婚すれば、その友人もまたいい思いができるだろう、ということなのではないかと思います(気が付くまでにちょっと時間がかかりました)。まだまだありますが、今日はもう一つだけ。

オーストリアの滑稽な人物の中で不動の地位を占めるのが、成り上がり女、ポラーク。その成り上がりぶりが、いつも新たな笑いの源泉となり、生き続ける。

「想像できますか、ポラークさん、ニューヨークではね、5分ごとに一人の男が車にはねられるんですとさ!」
「まあ、かわいそうな人ね!」

原文を挙げます。

"Stellen Sie sich vor, Frau Pollak, in New York wird alle fünf Minuten ein Mann überfahren!"
"Mein Gott, der Arme!"

つまり、5分ごとに誰かがはねられるという意味でein Mannになっているのですが、これを、特定の一人と受け取って(だから、der Armeと、定冠詞がついている)、同じ人が5分ごとにはねられると勘違いしたトンデモ発言です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日はここまで。
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この回答へのお礼

最初の奴は、イギリスのブラックユーモアと似ていますね。
とある日本の音楽評論家は、
ベームがオスカー・ワイルドを好んで読んでいたことに驚いていましたが、
なるほどね~、ユーモアのセンスが似ているんだ。

ベームは真面目一徹で冗談なんか言いそうにないように見えますけれど、
あの爺さん、結構食わせ者で、痛烈な皮肉交じりの冗談を言って、インタヴューアの質問を交わしていたみたいですね、煙に巻いていた。

何で真面目に答えないのだろう、と思っていたんですけれど、なるほどね。

日本にはないけれど、冠詞と時制を使ったジョークって結構、多いですよね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/03 00:42

オーストリアと言えばモーツァルトですよね。

Part1で、映画「アマデウス」のことをお書きになっていましたが、あれは、ピーター・シェーファーの戯曲が原作で、映画でもセリフは変わっていなかったと思います。大変優れた戯曲で、映画化される前に演劇で成功しました。私も当時、舞台を見ました。江守徹がモーツァルト、松本幸四郎がサリエリでした。モーツァルト好きの人があの映画を見てどう思ったかわかりません。不快に思った人もいるのでしょうか。演じているのはオーストリア人ではありませんし、せりふも英語なので、オーストリア人らしくはありませんでしたし、演出もありますが、全然ありえないことではないですね。私の知り合いにも、ひっきりなしにバカみたいなことを口走る男がいました。Part1でご紹介した「ドイツ人のユーモア」のスレッドにありますが、ドイツ人は、まじめとユーモアを厳しく区別する、笑うための信号が変わるのを待っている、と言うところがあります。この点について言うと、オーストリア人は、信号無視です(笑)。こういうタイミングでふざけたこと言うな、と思うことがかなりあるんですよ。
それで、ちょっと閑話休題で、ウィーナー・シュメーの話を始めます。モーツァルトやハイドンを理解するには必要です。シュメーは、すでにお話ししたように、もとの意味は「誹謗」なのですが、具体的な例を見ないとわからないと思います。オーストリアの新聞Kurierに、オーストリアのユーモア史という記事がありましたので、御紹介します。まず、いきなりこういう風に書き始められています。

オーストリア人について、いくつか悪口を言うことはできるだろうが、一つだけ言えないのは、「ユーモアがない」、ということである。この国では、笑うということはほとんど死活問題であり、陽気さにおいてほかの民族とは比べ物にならない。独特のユーモアの才能に恵まれたオーストリア人には、風刺家、寄席芸人、喜劇役者が数えられるが、ゆりかごの中にいるときからシュメー(誹謗)をあてがわれた、ごく普通の人も同様である。
~~~~~~~~~~~~~~~
回答番号を変えます。
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この回答へのお礼

モーツアルトには
 音楽の冗談
https://www.youtube.com/watch?v=et5yA90GrLg
なんて曲があるじゃないですか。モーツアルトの茶目っ気が出ている。

ハイドンには「ビックリ」交響曲があるし♪


オーストリア人には「ユーモアがない」が禁句だとすると、
ドイツ人には「論理的でない」が禁句になるんですかね。
どうなんでしょう?


回答、ありがとうございました。


そうそう、プフィッツナーについてネットで少し調べたのですが、
 ロシア → プロイセン → オーストリア
の人らしいですね。
音楽から受ける印象とは異なり、かなり複雑な思想、性格の持ち主なようで驚いてしまいました。

お礼日時:2015/02/03 01:10

>プフィツナーは、名前は何度か聞いたことがありますけれど、曲は聞いたことがないので、これから聞こうと思います。



「ベートーヴェンの第9」のスレッドの回答番号11に、プフィッツナーの動画リンクを張ったのですが、お礼コメントを頂かなかったところを見ると、見落とされたのではありませんか。

>400字じゃ何も書けない!!

回答文の引用が長すぎるんじゃありませんか。なるべく小出しにするようにしますが、引用も、冒頭だけにするか、なくてもわかるときはいきなりコメントを書き始めていただくか、今までとは違う方法でないとダメですね。長いコメントを書く人はそれほど多くないので、見直してもらえるかどうかわかりませんが、しばらくは我慢しつつ、工夫するしかないですね。運営にも、戻してほしいという声を届けた方がよくありませんか。みなさんが訴えるなら、私も、問い合わせに意見を送りますが。
またあとで書きます。お礼欄、利用してください。
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この回答へのお礼

こんばんは。

聞こう、聞こうと思っていたんですが、年の瀬の忙しさにかまけているうちに年末になり、その後しばらく留守にしていたもので(^^ゞ


後期ロマン派のシェーンベルクを少し髣髴させますよね。というのが聞いた感想でした。

新ウィーンに比べると、今にも切れそうな張り詰めた緊張感というものがあまり感じられず、随分と聞きやすい曲ですよね。
難なく全曲、聞けました。
この曲はいいBGMになる(笑)。
作業の邪魔にならない(^^ゞ


回答、ありがとうございました。


ps
☆回答文の引用が長すぎるんじゃありませんか。
◇正確に議論を進めようとするもので、ついつい、あのスタイルになってしまいます。
ご指摘の通り、今回のリニューアルに適した新たなスタイルを確立しなければなりませんね。

お礼日時:2015/02/02 20:54

続きます。



Part1の質問文に、プロテスタントとカトリックのことをお書きになっていましたが、最初私は特に注目しなかったのですが、クラウディオ・マグリスの本を読んでいると、やはりこれは結構関係があるようです。オーストリア文化といっても、実質的にはその中心となったウィーンの文化といってもいいと思います。十九世紀の初めころのウィーンは、ドイツの詩人たちの旅行の目的地として重要であったようですが、ドイツに比べて、人生享楽的な雰囲気の強いウィーンについて、彼らはいろいろなことを書いています。クレメンス・ブレンターノ(民謡集「子供の魔法の角笛」の編者)は、ウィーンが放つ人生享楽の魅力と同時に、「真の精神性が欠如している」という報告をしています。「真の精神性」、いかにもドイツ人らしいですね。音楽につて考えるときも、キーワードになるかもしれません。マグリスの著書からの引用を続けますが、ハインリヒ・ラウベというシュレジア出身の演劇人、詩人は、最初は批判的な身構えでいたのが、実際にオーストリアの世界に触れた途端、その文化的孤立を憂慮し、オーストリア人の気質に共鳴したと言います。また、「プロテスタンティズムが婚姻のためにあるとすれば、カトリシズムは愛のためにある。カトリック教徒の娘たちは、愛を求めるものに従いつつ、主なる神に心を捧げる。だが、双方の板ばさみに苦しむことはない」とも書いています。ラウベは、「のらくら者天国の、享楽的で屈託のない」ウィーンの生活の魅力に引きつけられ、それまでドイツで学問に励み、理論を組み立て、自由を求める運動に身を投じてきた自分の人生が馬鹿みたいに思えたといいます。

また、もう一つ注目すべき話は、オーストリアの作家、グリルパルツァーが、十九世紀の宗教にまでなっていたヘーゲルの歴史的イデアリズムを嫌悪していたということ。マグリスは、「このようなイデアリズムへの怨恨には、幾世期もの反哲学的反主知主義的なオーストリアの伝統と、ハプスブルク的臣下であることを自覚した人間の鬱屈した精神が、決定的に関与していることは間違いない」と書いています。こういう話も面白いですね。
また改めて書きますが、オーストリア人が使うドイツ人の蔑称にPiefke(ピーフケ)というのがあります。これは、1866年、オーストリア=プロイセン戦争(普墺戦争)の折、プロイセンが、ホルシュタインのオーストリア管理地域を占領したときにはじまります。現在でも、サッカーの試合の時に、オーストリアのサポーターが使うらしい。また、オーストリアの大学でドイツ人学生が増えたといって問題が起きたときも、新聞に「Studenten-Streit: Piefke gegen Ösi - das Duell」などと出ました。Ösiがオーストリア人のことです。

今日はこのくらいにします。

ちょっと気になっているのですが、リニューアル後、回答欄の上に、

教えて!goo では、個人情報の掲載やインターネットや書籍などの内容をそのまま転記するなどの著作権の侵害、回答ではなく議論を目的とする投稿などはできません(すべて削除対象となってしまいます)。

と出るようになりました。規約そのものが変わっているわけではなくて、引用をすべて否定するわけではないようですが、なんとなく身構えてしまいますね。規約には、「翻訳サイトでの翻訳結果を転載と見られる投稿も含む」と書いてあって、これは知りませんでした。結構みなやっていると思うのですが。というわけで、出典をもう一度明記します。参考にしているのは、クラウディオ・マグリス著、鈴木隆雄、藤井忠、村山雅人訳、「オーストリア文学とハプスブルク神話」(書肆 風の薔薇社刊)です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。

☆プロテスタントとカトリックのことをお書きになっていましたが、最初私は特に注目しなかったのですが、クラウディオ・マグリスの本を読んでいると、やはりこれは結構関係があるようです。
◇私は、教会音楽の違いが両者の音楽の違い影響を与えている?と思っていたのですが、
大きな影響を与えているんですね。

☆ラウベは、「のらくら者天国の、享楽的で屈託のない」ウィーンの生活の魅力に引きつけられ、それまでドイツで学問に励み、理論を組み立て、自由を求める運動に身を投じてきた自分の人生が馬鹿みたいに思えたといいます。
◇ウィーン人はそんな単純な生き物じゃないと思いますが。
例えていうならば、
 ウィーン人 → 京都人
 ドイツ人 → 坂東武者
「ぶぶ漬けでもどうどす?」みたいな所あるんじゃないですか(笑)。
ドイツ人はこの言葉を真に受けて食べちゃうにちがいない。
回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/02 00:25

こんばんは。



昨日、遅くまで起きていたので、今日は回答を書く気力がありませんでした。Part1からの話を少しまとめます。
前回は、意外というか、やっぱりというか、世界史の記述から、ドイツ、オーストリアの区別に意味がないという意見がかなりありました。また、作曲家たちが、いろいろな場所に移動しているので、国家とは関係なく、個人の問題であるという話もありました。もちろん一理はあるのですが、しかし、そういう条件をすべて含めて考えても、やはり微妙な違いというのは感じられるわけで、それがなぜなのかを見極めるのは、かなり手間のかかることだと思います。ドイツ文化史、オーストリア文化史、といった、それぞれの文化圏を特定して研究した文献も必要だと思います。

No.1の回答で、書名を書き間違えましたが、クラウディオ・マグリス著の「オーストリア文学とハプスブルク神話」は、オーストリア文学研究の折には必ず言及される書物だそうです。幸い、まだ入手できるようなので、ちょっと高価ですが、興味がおありになれば、御一読されると面白いと思います。私自身は、この本を読むのを今まで保留にしていました。というのは、この本の中で論じられているオーストリア文学の作品をそれほどたくさん読んでいなかったからです。しかし、今、ところどころ拾い読みしていると、面白いことがいろいろ書かれています。ドイツとオーストリアの文化の違いを知るヒントも所々にあります。

ドイツが小国に分かれていたといっても、民族的には同じなわけで、それぞれの国の間で文化伝統が著しく違ったとは考えられません。「ドイツ的な文化」というのは共通してあったと思います。昨年、ぶらげろさんが、フレーゲの言語学に関連して、BedeutungとSinnについて外国語カテに質問を出され、その時の回答に書いたのですが、bedeuten(意味する)は、be+deuten、deutenは、古いドイツ語でdiuten、もともとの意味は「国民に理解させる」ということで、これが「民族」の意味となり、deutschの語源のようです。オーストリアの場合は、同じドイツ語を話していても、ゲルマン民族が大部分を占めるというわけではありませんし、チェコやハンガリーの文化との融合もあるので、ルーツから言っても、文化の発展経過から言っても、ドイツとは違ったものになっていきました。もちろん、言語が共通で、隣国でもあったので、早くから影響し合っており、完全に分けて考えられるものではありませんが、ごく大雑把にいってしまうと、ゲルマン的な文化と、多民族の文化の融合としてのオーストリア文化という対比ができると思います。

お礼欄が足りなくなるので、ここで一度切ります。
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この回答へのお礼

☆オーストリアの場合は、同じドイツ語を話していても、ゲルマン民族が大部分を占めるというわけではありませんし、チェコやハンガリーの文化との融合もあるので、ルーツから言っても、文化の発展経過から言っても、ドイツとは違ったものになっていきました。
◇オーストリアは、ゲルマン的な色彩をもっとも色濃く持っているけれど、それだけではないということなのでしょうね。
共通性は確かにある。しかし、同時にまったく違った色合いも多数もっている。
なのに、我々・日本人は、この共通性にしか眼を向けようとしない。
同じドイツ語を話しているのだから、同じなのだろうと信じて疑わない。

日本だって、東北の民謡と九州・沖縄の民謡では、明らかに違いがあるのに…♪


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/02 00:52

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