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旧国名について質問です。九州の筑紫と肥国です。筑紫は筑前と筑後、肥国は肥前と肥後に分かれていますが、肥国は筑後によって分断されています。
どうしてこのようなことになっているのでしょう。

よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

OKWaveから移籍の Kittynote です。

よろしくお願い致します。

hillomi 様と同じような疑問を抱いた方が江戸時代の著名人にもいたようです^^

上代の事ゆえ裏付けは取れませんが、本居宣長は『古事記伝』の中で、
日本書紀や風土記の地名から、当初は肥國=肥後で、
肥前はやや後に筑紫(筑前・筑後)から分かれ肥國に属したか、との見解を述べています。

○『古事記伝.1-5之巻/本居宣長撰』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ …

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_ …
[15/87]

〇『古事記伝. 第1/本居宣長著/日本名著刊行会/昭和5.2』
「五之卷〔神代三之卷〕/大八島國/廿五 肥國(ヒノクニ)
<179・180/272>(218頁14行目~220頁6行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171975/179
(219頁12行目)
是等を合て思ふに、火てふ名は、國にまれ邑にまれ、
既(ハヤ)く崇神天皇の御世に始りしなりけり。
さて此も二國に分れたり。和名抄に、肥前〔此乃美知乃久知(ヒノミチノクチ)〕
肥後〔此乃美知乃之利(ヒノミチノシリ)>とあり。
わかれたるは何の時とも知れず。書紀神功卷に、火前國と見ゆ。
後に火と云ことを忌て、肥字には改しなるべし。

〔和銅六年五月の詔に、諸國郡鄕名著(=)好字(-)とあり。此時改まりしか。
されど此記に既に肥字を書れば、彼より前に改まるか。
但中卷に火君とあれば、本はこゝも火字なりけむを、後人の肥に改しにや。
其例外にも見ゆ。
◇上に筑紫島を有(=)面四(-)と云て、肥國を其一に取れり。
然るに國圖(クニノカタ)を考るに、
肥前と肥後とは海の隔(ヘナ)りて、地接(クニツヾ)かず。
正しく二に分れたれば、面一には取がたき國形なり。
故考るに、
右に引る書紀又風土記などの、火國の故事は、地名に依るに、皆肥後國の地なり。
然れば肥國と云しは、初はたゞ肥後方のみにて、
肥前の地は、本は筑紫國の内なりしが、やゝ後に肥國に屬しにやあらむ。
肥前は筑前・筑後と地接(クニツヾ)きて、此三國は面一にも取つべ國形(クニガタ)にて、
肥後とは清く離れたればなり。
されど此らは上代のこと、さだかには辨へがたし。たゞこゝろみに驚しおくのみなり。〕

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

皆様方に、いろいろ回答をいただきましたが、なかなか納得できる説が無く、Kittynoteの回答で昔から不明だった言うことがわかり、BAとさせていただっきます。

お礼日時:2015/03/01 14:34

その昔、筑紫にある国(ムラ?)にとっては、遠くの国は全て火の国だった。


その名残が残ったのだと思います。(私の勝手な解釈です)

その後、わが国の広範囲を支配する豪族やら朝廷などが出きてきて、
それぞれの国に名前をつけようとしたときに、両方ともに火の国では
区別ができなくなるので、肥前、肥後と分けられたのではないかな~

筑紫国というのはわが国の歴史的に見ても、非常に重要な土地で、
わが国の中心であった時期もあるのではないかと思っています。
そのため、筑紫国を中心とした見方が残っていると思うのです。
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おまけ



古代の交易圏
http://yakisoba-sources.cocolog-nifty.com/blog/2 …

ギリシャの例
中学とか高校の世界史の地図にあるかとおもうけど
エーゲ海を挟んで 現在のギリシャと現在のトルコの両面が同じ文化圏 イオニア人の居住地だったりします。
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No.2です。

肝心な「肥国は筑後によって分断されています」についての見解を書き忘れました。

 No.2で言いたかったのは、「肥国」にしても「筑紫」にしても、それを分割した「筑前」「筑後」「肥前」「肥後」にしても、地元が名付けたのではなく、都が名付けたのだということです。
 地元としては、そんな「大くくり」な呼び方は生活圏を大幅に超えるので、せいぜい「小分類」(藩よりも小さな範囲)の呼び名があれば足りたはずです。同じ「肥後」の中でも、藩や集落が違えば「よそ者」であって、相手の地名をそのまま使えば済む話です。よそ者と自分たちを総括した呼び名は、特に必要ないでしょう。
 「肥前」と「肥後」が隣り合っていても、飛び地になっていても、そこに住む人には何の影響もなかったのだと思います。

 東北地方の「陸奥国」がその典型かもしれません。そもそも「地の果て」というような意味で、もともとは宮城県あたりを指していたようです。それが、平安末期から鎌倉時代に平泉藤原氏がいた岩手県に広がり、かつての「陸奥」は「陸前」になり、そしてやがてさらに奥の青森県が「陸奥」になります。
 地元の人が名付けたら、こんなことにはならないでしょう。
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地域を表わす時に、「大区分」→「中区分」→「小区分」と分類・分割していくときの、分割の仕方というだけのことでは?



 瀬戸内地方を表わす大区分「吉備国」(きびのくに)を都に近い方から「備前(びぜん)」「備中(びっちゅう)」「備後(びんご)」に分割する、同じく北陸を表わす「越国」(こしのくに)を「越前」「越中」「越後」、千葉県に相当する「総国」(ふさのくに)を「上総(かずさ)」「下総(しもうさ)」、東北太平洋側を表わす「陸奥国」(むつのくに)を「陸前」「陸中」「陸奥」(ここだけは「陸後」とは呼ばないのは、日本とはみなされていなかったから)、東北日本海側を表わす「出羽国」(でわにくに)を「羽前(うぜん)」「羽後(うご)」などと呼ぶのと同じでしょう。
 九州にしても、「筑国」「肥国」の他に、大分県付近の「豊国」(とよのくに)を「豊前(ぶぜん)」「豊後(ぶんご)」と分割しますよね。

 日本全国が、このように分けられていったということだと思います。
 都から遠く離れるほど、古くは「大雑把」に呼ばれ、だんだん「細分化」されていったのでしょう。都に近い地域(近畿、東海など)は、古くから細分化して呼ばれていたので、あまりこのような「上中下」「前中後」での分割は少ないのでしょう。

 大雑把に、下記のようなことではないでしょうか。

 大区分:吉備国、越国、総国、陸奥国など=現在の「○○地方」相当
 中区分:「備前」「備中」「備後」など=現在の「県」相当
 小区分:江戸時代の「藩」、あるいは現在の「市町村」相当
     たとえば、「筑前」には「東蓮寺藩」「福岡藩」「秋月藩」があったようです。
 さらに、地区、集落などにどんどん細分化していくことになります。
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詳しくはないので的外れかもしれませんが、熊本と長崎は有明海を挟んで非常に近いのです。

土地だけで見るとぐるりと遠回りをしないといけないのですが、陸続きでなくとも1地域なのです。

当時の人々は海を中心に生活圏を考えていた感があって、土地中心の今の見方をしていると見誤ることがよくあります。

また、肥国は火国とも言われますが、もともと日本語の『ひ』の概念の国でもあり、阿蘇と雲仙普賢岳が火国(『ひ』の国)の由来とも言われています。
違う言い方をすれば、別々の火国がたまたま近くにあったw いえこれは全くの私の想像です、すみません。

それとやはり、久留米の存在感。いまでこそ九州の中心というと博多ですが、長らくは久留米でした。筑紫国は九州を指す言葉でもあり、久留米のあるそこは、やはり筑紫国でなければならなかったのでしょう。
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