電子書籍の厳選無料作品が豊富!

倒れようとしている映像の積み木に思わす手を出してしまったり、
映像の手の上に積み木が倒れていた時に手をひいてしまったような現象、
あるいは映像空間への自身の身体の拡張感、
そして自身の現場における相手の存在感が強まるなどは、
その場所と自身との非分離な繋がりを生む身体の働きを
少なからず支援した効果であると考えられよう。

自身の身体を一度仮想身体に投影する過程が含まれることから
異なる他者と多様で豊かな関係を築くこと、
実際の現場において人との出会いは、各人の特定の性質を強化するのではなく、
自身の可能性を広げる大きな意義を持つ。
身体性・コミュニケーション・心/共立出版 からの引用


私の考えを纏めてくれていたので、引用させてもらいました。
ここから質問です。
空間を共有する人は私にとっても等身大の可能性を共有しうる人である。
対等の同じ人間と考えます。

相性や出会いの経緯、重要度によって守備側になったり攻撃側になったりはしても。

人を勝手に尊敬したり、自分に同情を乞うたり、殊更人に言い放つのは無礼なことなので
したくはないのですが、人の価値はどのように対等ではないのですか?

質問者からの補足コメント

  • 言葉は(例えば)「植物」とよんでいい存在のある数をあらわす。
    ある集合として言葉は外延的にとられたのだ。
    言葉がある定義に属するものとして理解される。
    この場合、内包的に取られたのである。

    不思議なことには三段論法も両様に理解することが出来る。
    他の集合の中におくか、外におくかの円(縁)よって
    もし観察する限りの羨望家は一人も幸福人の数に入らないなら、また
    もし全ての虚栄家は一人も幸福人の数にはいらぬと結論しなければならぬ。
    羨望家の集合は虚栄家の全集合を己の円の中におき、
    幸福人の集合を円の外におく。

    アラン/ 精神と情熱とに関する八十一章 より

    日本のような福祉国家では貧乏でも高い教育が受けられ、
    安全な生活が得られる国は『絶対幸福』値が、態度にする外延が高いと言える。

    私と彼が「人」として対等ではないなら幸福を相対的に見せる外延を見たから?

      補足日時:2015/05/19 17:21
  • 上記の訂正

    ×安全な生活が得られる国は『絶対幸福』値が、態度にする外延が高いと言える。
    ○国民が安全な生活が得られる『国家という外延』と内包的な『国民』も対等である。

    ここまでいうと、最近のクールジャパンに踊らされ洗脳されているかな?
    まだまだ不満はあるけど、全く不満も不安もない国になってしまったら
    もっとアホになるかもしれない。

      補足日時:2015/05/19 18:58

A 回答 (8件)

対等ではありません


かごに乗る人担ぐ事 そのまたワラジをつくるひと
それぞれに生き方があり立場があります
価値と対等は同じ土俵には上がりません
価値とは その品物につけられた価格 いくらで売れるか買って貰えるか
です 元値が100円の品です 品不足で欲しい人が多かったら倍額でも売れるでしょう
どう見ても欠陥商品なら売れないから価値無しですわ
同じ物でも性能のいいものと 悪いものが店に並べられている事を
あなたは対等と言っている
人間 同じ時に入って同じ仕事をしていたらたいとうでしょ って
なのになんであいつがもてるの
あいつにどれだけの価値があるんだって
と理解しましたけど
むつかしい言葉をつかつてないで正直な気持ち かいたほうが
すっきりするんじゃないの
こたえは 人間力 魅力 の有無
ひとは顔からだけでもいいヤツと根性の悪いヤツを見分けるしね
選ばれなかったヤツの言う話だね
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いかないくさん、どうも。

価値はリアルなものにある、とお礼を入れた後に「人間力の原価」についてを読んでる。
適材適所や役割分担のことを言うのはわかります。
でも、でも擬似人間は居ませんよね?人は皆「本物の人」ですよね?

お礼日時:2015/05/16 23:23

>要は上司となる「人の魅力」ということですね。



何のことを上司となる「人の魅力」と言ってるのですか?

>「収入差が人間の価値」「労働量=収入価値」なら

お礼を見てて思ったのですがmiko-desiさんが言う人間の価値というのは
序列のことを指すのではないですか?
あえて価値と表現しなければいけないでしょうか?
人間一般に通じる序列、上下関係、そういったものを人間の価値と表現してるんじゃないですか
ここで言う序列とは身分とか上司・部下などの社会的役割とは直接は関係ない
本能的に感じる「こいつ俺より上だな」とか「私よりも下だな」などの動物的感性による
上下関係のことです
それを価値という言葉で理屈付けしようとしてんじゃないですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

世の中広いもので、私を好きという人も居てくれると、
私はそこに木があれば登りたくなり(笑)
と同時に、私より更に上に祭り上げます。どんだけ人格者なのかと!
これが私の愛の秩序ですね。

動物的感性で一目惚れすることもあるし、
信頼関係を築くうち序々に好きになることもある。
私は大した人間じゃないですけど、身分と無関係に好きなら好きといいたくなり
それをお互いのためだとしても堪えるのはしんどいものですね。

人間の秩序を、絵に描いた餅の品格だけでありがたく思える人は幸せだと思います。
実際に食して美味しく楽しくないと、ありがた味も幸せも感じなくなり、
大切にしたいものも思考や安定感へと変わり、年とともに感覚は鈍感になったみたいです。

お礼日時:2015/05/24 16:03

>人の価値はどのように対等ではないのですか?



人そのものを対象にする価値観があるのであればその価値観に従い人に価値を付けられます
ただその場合、ある人とある人の価値を比べて言うことができるのは
片方の人の価値の方が高い・低い、あるいは両方とも等しいということです
つまり価値が等しいと言うことはできても価値が対等であると言うのは誤用です
例えば100円玉が二つあるとします、これらの価値は等しいですが対等であるとはいいません
また、上司と部下は立場が対等ではないですが、それは上司という人間と部下という人間の価値を
表しているわけでもないです

なのでこの質問が成立するにはまず前提として人を対象とする価値観が存在し
かつその価値観によって何らかの立場の上下が決定するような社会が存在しなければなりません

戦前・戦中の日本を例に取れば天皇がそうだと思います
庶民の命より天皇の命の方が重く、また庶民よりも天皇は立場が上です
この場合ですと生まれた身分によって人の価値が対等でないことになります
    • good
    • 1
この回答へのお礼

あじさんさんありがとうございます!

業務上与えられている「権限」の価値ですね。
会社の人間関係において上司は部下より「仕事が出来る」からですね。
実際は上司も部下と同じように苦労して仕事を覚えて
遂に仕事が出来るようになったのだから、
部下に任せた仕事を自尊心から奪ってまで仕事しないものでしょ?

仕事の出来る人は大いに活躍してもらえるといいです。
いくらやっても仕事に自信がない人はやめて、
職業選択の自由を保証されてますから出来る仕事をしたらいい。

天皇陛下は世界の権威と並んでも存在を尊重されています。
地上で唯一のエンペラーですもの。細かいことは割愛しますが、
日本に皇室があることは大変恵まれていることで私も誇らしく思ってます。

要は上司となる「人の魅力」ということですね。
「収入差が人間の価値」「労働量=収入価値」なら
収入がより少ない部下は上司より自分本位で働いている。
会社や社会全体が得させると自分は負けと思ってるとなりますか? 
ならん。というか逆もあるのが世の常だったりしますよ。
魅力のある上司に付くなら、普通は自分本位に働いてないと思います。
部下が心無いモノだったら交換は簡単ですけど、部下が消えても偉い人は偉いままなはず。

お礼日時:2015/05/23 22:21

「人の価値」は、誰が決めているのでしょうか。

常識に従えば、それは世間が決めています。世間が決める価値は、自分にとって違うと言っても、リアルな世界では通じませんので、それが嫌であれば引きこもるしかありません。人間は社会的な動物だと言われています。なんらかのコミュニティに所属するわけですから、世間が決める価値とは、そのコミュニティ内の価値とも言えます。コミュニティは組織ですから、自然と階層ができます。そしてその階層のトップが基本的には価値を決めます。
毛沢東が害鳥だと雀を指摘し一斉に駆除して結果、害虫を食べる雀がいなくなり飢饉が発生し何千万人と餓死したと言われますが、彼は今の中国で一番価値のあった人間です。
つまり人間の価値=権力です。
権力が対等のはずがありません。強大な権力に弱者が蹂躙されることが世の常です。人間がコミュニティを形成する以上、これは避けようがありません。権力のないものは価値がないんです。日本をはじめ資本主義社会では特に資本を持っているものが強い、という世界ですから、お金を持っているやつ、作れるやつが価値がある、ということになります。
そして、権力を持った人間は、それを世襲させようと考えます。赤の他人に自分の権力を渡したくないし、自分の子孫が従属させられることに耐えられません。だから今でもどの国も世襲の権力者が多いわけです。歴史を振り返れば、後ろめたい権力者は閨閥をつくって身内で権力の維持をします。
つまり人間は生まれたときからすでに対等ではありません。
それをごまかすための『機会の平等』であったり、『民主主義』です。法律を作るのは権力者です。彼らの都合で作られるルールで暮らさざるを得ません。明確に差があります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こいぷりんさんありがとうございます!

世間と権力を同一視、一致させれませんから、
もしや世間が権力に都合の悪い常識を備えてしまったら、逆に大きい権力ほど倒せる。

こういう言い方をすると権力を持つ人は悪いことするはず!?
みたいに聞こえますけど、権力を持つということ自体世間に認められていて
支援されてきてないと存続さえ危ぶまれるという意味です。

世間の良識が民主主義の善政を担うから選挙もありますし。
権力より教育、学校より親の幸福度が時代を反映すると思います。

お礼日時:2015/05/18 20:02

お礼ありがとうございます。



厳しすぎるのは辛いですよね。

哲学で「甘え」については、度々話題に上りますよね。
「甘える」のと「甘えさせる」のの違いは、実は明確に有るのですが
その違いを明確にしている人は、あまり見かけません。

明らかにするのが哲学のいい所かなと思いますが
明らかにされていない部分は、自分で明らかにするしかないようです。
他人様に明らかにしてもらうと、腹を立てるのが人間でもあります。

分からないから聴く、聴けば腹が立つ。
そんな所は、おそらく自分で出す部分だろうと思います。

価値は外に求めると他律になるので
そうすることに良し悪しがある訳ではなく
自身が他律で生きていきたいかになるように思います。

そいつは、個々が選ぶ事でありますが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

常に孤独な奴(私)ですが、皆も、この宇宙全てのネガティブは
怒りも、辛いも、忙しいも、忘れたも、お腹空いたも、
ビックバンも1人じゃ「さみしい」から来るんじゃないかと思う。
ありのままで生きていけたら・・・。

お礼日時:2015/05/18 20:15

一番確認しやすいのは、赤ん坊だと思います。


赤ん坊が人間としての出発であり、まだ影響が少ないからです。

一番何もできないとされている時期だと思うのですが
赤ん坊に価値がないか?

私は、十分に価値があると思います。
赤ん坊が生まれると喜ぶ人も多いと思います。
その人達も価値があると思っているのではないでしょうか。

何もできなくても価値はある。
では、その価値はどこから来るのか?

その価値を決めているのは、人間と言うことですね。

つまり、人間が判断している訳ですから
対等でない場合、比較などで優劣などを付けている場合です。

どのように対等でないかは、対等に思わない人の
対等でない価値基準に準じて決められます。
そして言動もそれによって変化します。

つまりは基準値のあり方かなと思います。

が、そこは大した事ではないかなと私は思います。
自らが対等にできれば、同じような人と仲良くなれるから。

対等に接してくれる友がいる。
それで十分ですね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

かんとさんコップンカー!(タイ語:ありがとう)

赤ちゃんに哺乳瓶でミルクを与えて栄養的に足りていて清潔にしてあげていても
抱きしめて微笑んでくれる人が居ないと障害や病因がなくとも衰弱すると育児書にあった。
生命力も出発は当たり前に「甘え」させてくれる人の存在を知れるかどうかなのかな。
自我に芽生えて甘えた記憶を思い出すことがなくなっても
オンリーワンの価値から自分の物差しで世界を測っていくことが出来る。

もし、自分の物差しを持たなかったら公権力とか暴力とか金力で測る、それは揃った既製品だから。
別格的な魅力的な人は勢力があるけれど、正直なことが価値。
果てない欲の延長線上は口と心を甘さで満たしてた童心ですよ。
自分が素直になれなかったからか、周りが厳しかったせいとかあるけど
価値はリアルであるはずだ!

お礼日時:2015/05/16 23:01

人間の自我および自己を構成するのは、経験を基に積み重ね拡張した思考と知識、両親から受け継ぎ、自ら積み重ねた物質および地位であると考えますが、人間同士はお互いのこれらを認識し、同時に比較します。



比較した結果、積み重ねの量が多い方を価値が上だと判断しますが、判断が主観を基準として行われるため、結果は相対的であり、普遍性かつ絶対性に欠けるものとなります。

また、物理的および精神的な距離が離れるほど、相対的な価値は下がって行きます。これらは人間の意識で行われるため、認識していない人の価値は皆無となります。

ゆえに人間の価値とは同一とならず、対等とはなりえません。



具体例で言えば、個人にとって最も価値ある人物とは伴侶であり、家族となります。人物的・社会的に尊敬できる人物が加わる事もあるでしょう。

日本人と言う枠で見れば、天皇が最も価値ある存在です。日本が日本となった時代からの積み重ねをずっと続けており、国民全員がそれを認識して共有しているからです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

らんげさんありがとうございます!

自我の形成のための、愛の経験値が多ければ、
確実ではなくても価値が上がるというものですね。

物理的、精神的な距離も相対的な価値を変えそうですよね。
どんな時でも価値が変わらない人、絶対価値はやはり家族ですね。

以前天皇陛下は普段何をなされているのかよくわかっていませんでした。
けどもある日「毎日祈られている」これを2700年近く、126代でしたっけ、
続けられているということを知って天皇陛下とは、
信じれば加護されるような宗教ではなく、また自然物でもなく極めて人工的でありながら
日本国体の歴史の垂直線上にも
国民全員が共有する平行線上にも「生きた芸術」という感じします。

お礼日時:2015/05/16 22:03

社会にとって有害か無害か、


 ということで大雑把に人の価値は決まる。
ただし、その社会が個人にとってあるいはもっと大きな社会にとって有害か無害か、
 という問題が残る。
こんな風に考えると
有益な社会に対する有益度?くらいな言い方が可能かもしれないですね。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

すずめのこっくすさんありがとうございます!

前向きな人、話が楽しい人は有益ですね!
逆にいくら偉い人でも怖い人、暗い人は「クソガキ」
大人と子供は差別の対象にします。責任とらされるのは大人だけだから。

子供は無邪気だけど、明るい子は大人も癒してくれますからね。
大人より賢いと思う。

お礼日時:2015/05/16 21:32

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す