映画のエンドロール観る派?観ない派?

神と悪魔は表裏一体のような気がします。

A 回答 (25件中11~20件)

日本に神はいるけど魔なんていないよ。

魔や悪魔は、外国かぶれした仏教の坊主や儒者や西洋崇拝の似非教養人がわけも解らずにコピーした概念だ。

日本には八百万(やおよろず)の神がいる。あんただって神になれるんだ。でもそのためには幸せな人生を全うして死んじゃだめだよ。理不尽で誰が見ても許せないような不当な死に方をせにゃならん。でも、それだけじゃ神になれない。そのあと、数年数十年に渡って天変地異が起こらにゃならん。そんなことが続いているうちに、古老たちが、

「そう言えばいついつに理不尽な死に方をした奴がおった、これはその霊の祟りじゃ」

と言うようにならなけらばならん。そして、そのあんたの霊を鎮めるためにお宮を作って、あんたを神と崇めるんだ。そうすると、間違いなく天変地異は収まってきた。これは、日本人が数百数千年に渡って得てきた経験的事実なんだ。その事実を否定でくる奴なんて今でもいない。天変地異を起せるくらいの御霊なんだから、皆に良いことをしてくれる事もできる。日本人はそう考えたんだね。天神様は御霊神社ばかりでなく、そんな霊を祀られた神社は日本中至るところにある。そして、その祟りをした御霊は皆に善行を施してくれている。

ところが、幸せに人生を全うして神になったほとんどの人のためには、日本人は神社を作ってくれないんだ。だって、そんな神はもともと善良な神なんだから、ことさらお宮を作って祀らなくても我々に良い事をしてくれるに決まっていると日本人は考えているからね。

神だ、魔だ、悪魔だなんて、理屈を覚えた思春期の連中なら誰でも言い出すような低レベルで日本人は止っていなかったんだね。ところが、漢字が読めるだの、ラテン語や西洋語が読めるだのと言うだけで、自分でオリジナルに考えることなんかできない、インドや中国や西洋の外国かぶれの似非教養人達が、日本人のこの奥深い神という概念を理解できずに、

「おれって、難しい言葉を使えるんだぜ」

ということで恍惚とするために、こんな理屈を述べている、それが、神だ悪魔だってな言葉だ。
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神は人間の「人間存在に付随する前傾」を見守るもの


悪魔は人間を「抜け出せない迷い道」へそそのかすもの
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全知全能の神が悪魔を作ったんじゃないの?詳しい方、教えて。

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神の敵が悪魔。


人間の支配者が神。
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『ヨブ記』では サタンがヨブなる人間を試すことが〔神から〕ゆるされていて ヨブは不幸な出来事に遭います。

そこからでしょうか:
 ★ 神と悪魔は表裏一体のような気がします。
 ☆ というのは。
 そしてそれは あくまで物語としての問題です。理屈抜きの文学としての問題です。
 その点について 次のような議論をして説明します。

 【Q:感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物】 ~~~~~~~~~~~~~~
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7401704.html


 ◆ 《へび》の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂

    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔::荒魂

    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。

    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。

 この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。

 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。

 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 11 いかなる事態であるか?

 もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?

 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。
 理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。
 ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。
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神と悪魔は表裏一体?


言われてみれば・・・なるほど・・そう思いました。

人の心は一つ。
そこに現れる善悪感。
それは、だから、一体だと思える。

人の心は善的になったかと思うと悪的になったりして、全く夢遊病者のように変化しますが、それも私と云う一つの心の作用だと思えて、だから云ってみれば善と悪との綱引きのような事を心はしているのだと思います。

人の心は善も悪もあって、その中心の"私"がそれを意識すると、どっちにしたらいいんだと"迷い"が生ずるんでしょう。

どっちを選択するかが"私"なんですね。

・・・と、ここまで考えながら書き込んでいたら、"私"にはそれぞれ《機根》が具わって居るんだなぁと思いました。
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人間は理性と本能どちらも持っています。


理性だけの人間、本能だけの人間は(基本的に)いません。
「神と悪魔」とは、理性と本能のバランスのことです。
理性の側に傾いていれば神としての言動も為し得ますが、本能の側に傾いていれば悪魔の所業が現れることもあり得ます。
どちらも「一人の人間」の中で起こること。
おっしゃるように「神と悪魔は表裏一体」と言えます。
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キリスト教が欧州を席捲したとき、欧州土着の


神様が悪魔になったのです。

それは欧州以外でも踏襲されました。
現地土着の神様は皆悪魔にされました。

だから表裏一体ではありません。

負けた神が悪魔にされたのです。
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全てを善と思わせる神こそ、悪の権化です。

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表=裏=表×裏=1っの統一体=一定


これが。時間=空間 空閑×時間=1(いっ) という、般若理論(と名付けた)考え方です。
神を信じる者が悪魔を信じる者であり、人を愛する者が人を憎む者となります。
神という概念(妄想)を持たない者は悪魔という概念は起こらない。
人を愛さない者は人を憎むことがない。
かって、古代インドでブッダ(目覚めた人)と呼ばれた哲人は。
人間を厭え。行い正しく知恵ある者に出会ったなら、道連れとなるがよい、そうでなければ一人でいる方がよい。と言っています。人間には心がある、その心と表裏一体として知恵がある。
まずは知恵×心=1 として、心を捨てることを最初の修行とせよ。人はその心故に厭わしく、不安と感じるものである。心を捨てた、心がない、釈迦や老子が、最も、静けさ。安堵、安心、を与える人格になる。
おっしゃるように、神と悪魔は表裏一体です、神を滅するなら悪魔も消えます。
・・と悟った者はこの世(心の世界)を捨てる。さらに・・と悟った者はこの世も、かの世(知恵の世界、)も共に捨てる。さすれば、知恵と一体で、表裏である、もう一つの知恵、老子の言う、明(道(トウ・タオ、を知る知恵)あるいは、(悟るための知恵)が現れる。そして再びこの世に生を受けることが(心の世界にわずらわされることはない)。そんな意味のことが言いたいのかも?
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