ハマっている「お菓子」を教えて!

素人の質問です。
因果律というものを、漠然とではありますが絶対的なもの
と信じて生きてきましたが、これがどうも現代においては
揺らいでいる気がします。

物理学の世界では、「因果律の破れ」という言葉があると
ききました。

学問の世界では、「因果律」は絶対ではないのですか?

A 回答 (6件)

18世紀にデビッド・ヒュームがいわゆる「ヒュームの懐疑」を発表するまでは、因果律は絶対であると考えられていました。

それは次のようなものです。

≪ ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかない。 ≫(WikiPediaより抜粋)

ヒュームの懐疑に最も衝撃を受けた哲学者がカントです。純粋理性批判はヒュームの懐疑を乗り越えるために書かれたと言っても過言ではありません。純粋理性批判の中でカントは「構成主義」という立場をとっています。構成主義と言うのは、「認識し得る世界は我々の主観が構成している」というものです。つまり、この世界を構成する際に、因果律を満たすような形式で構成しているとカントは主張します。当然因果律はア・プリオリに成立するということになります。

残念ながら、カントは「認識し得る世界が因果律を満たすような形式で構成されている」ことの根拠を示しているわけではないので、ヒュームの懐疑を正面から乗り越えているわけではなく、この問題は今なお重要な哲学上の課題となっています。

とはいうものの、カントの理論は十分傾聴に値するものであると思います。例えば、月へロケットを打ち上げる前にそのロケットが月へ到着したというような場合を考えてみましょう、私たちはどうしてもそれらのロケットを別のものと認識します。もし、月面上のロケットが今地球で打ち上げようとしているロケットそのものであると認めざるを得ないような場合に立ち至った場合は、科学者はあらたにその理由を探し始めることになります。もしかしたら月面上のロケットは時間の中をワープしたのだというようなことに行きつくかもしれません。

一見因果律を破るような状況が発生したら、その理由を因果的に説明できるような法則を探るようになります。科学とはこの世界を因果関係において理解しようとすることにほかなりません。我々の理性はどうしてもこの世界を因果関係を通して認識したがっていることは間違いのないような気がします。
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この回答へのお礼

素人にもよく分かるご回答ありがとうございます。

素晴らしいです!
哲学は「因果律」という重要な原理を解明し切っては
いないこと。それから、我々人間の理性はこの世界を
因果関係を通して理解したがっている、という言葉は
哲学に対する、激しい興味を私に抱かせるものでした。

お礼日時:2015/10/10 19:15

立ち位置違いで考えても無駄なものは無駄。

よく時間を無駄にできるものだなと皆さんをみてゲッとしているのです。
ごく、ごく常識です。
質問に答えました。もう今後、回答しないです。理解しないのならば無駄ですし。
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物理学の世界で「因果律の破れ」は御法度です。


数年前、「実験データが正しいとしたら、光速を越えたニュートリノが存在し、因果律が敗れるかもしれない」というニュースが騒がれたことがあります。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7030139.html
しかしながら、実験を検証した結果、「速度を計算する際の基準として使った地上と地下のGPS(衛星利用測位システム)時計をつなぐ光ケーブルの接続不良などが見つかり、測定精度が不十分だった可能性」にて実験結果を撤回する事態となっています。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120602/scn …

因果関係が発生しうる関係では、物理学の世界では因果律は破られることはありません。
しかしながら、因果関係が発生しえない関係では、物理学の世界でも因果律に囚われることはありません。(そもそも因果関係に無いので囚われる必要性が全くない)
代表的なものとして、EPR相関とか、非局所的相関とかいった現象(相関関係)があります。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8642295.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
勉強になります。

お礼日時:2015/10/10 19:02

因果律をぼんやりとあるいは確固とし(たつもり)て知ったものは因果律は絶対のものと捉えます。


そのとおりです。
しかし、例外は有ります。それは、純真無垢の心のものがたとえ何も知らなくともこれはおかしいと神に願った場合は、神は因果律を修正します。

あなたのみならず、因果律を考えることは時間の無駄です。理由はおつむだからです。
生活を良くする事にがんばりなさい。その方が因果律を考えるよりずっとその者の役に立ちます。
因果律を知ることはあなた方は不可能です。頑張っても不可能です。
順序があるのです。
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この回答へのお礼

あなたは、別の質問にも「考えるのは無駄」だと言いましたね?

あなたの「立ち位置」が理解できません。
「因果律」についてはあなたは理解しているが、私達には不可能
だとおっしゃっているようですが、それは、どういうことですか?
神がどうのと言っても、分かりませんぞ。

お礼日時:2015/10/10 18:52

おじさんです。


「これがどうも現代においては揺らいでいる気がします」
→初めて聞きました。
どのように揺らいでいるということでしょうか。
原因と結果はかなり結びつきがあると思います。
例えば、うつ病ですが、必ず原因があります。
自然にはうつにはならないからです。
失恋、これも必ず原因があります。
通常はこの原因を明らかにせず、曖昧にしているのでトラブルになります。
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この回答へのお礼

私が生きている「庶民」の世界での実感です。

自分の利益、自分の満足のことしかなくなって
いるということは、「因果なんて結局ないんじ
ゃないの」という漠然としたものが、蔓延して
いると私は見ています。

この「結果」には当然なんらかの「社会的な原因」
があるはず、と思います。

お礼日時:2015/10/10 18:45

「物理法則は、時間独立である」と言われます。


因果律にとって重要な、時間の流れは、物理法則には必須じゃない、
という事です。
たとえば、光量子(=光速)は瞬間相互作用とされ、素粒子同士の
相互作用を分析する経路積分(ファインマン図)において、前後
関係の置き換えは等価である、とされます。
つまり、時間の「経過」は、我々が物事の階層現象を、表面的に
(経験的&いい加減に)捉える事で生じる非光速性によって、
仮象的に派生しているものだと言えるのです。
だからこそ、「存在を原理的に確定化しようとすると無限不確定
(=無)に発散する」という不確定性原理が伴っているのであって。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に
よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの
収束の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、相対的
に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の
補完としての時空仮説=宇宙を認識する、という訳です。
無=不確定性無限の潜在としての認識可能性(感受表面での
量子相互作用=光速=現在)からの、自我仮説(時間の流れ=
記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間の広がり=予測=未来
=光速下)の対発生。
「因果律は絶対のもの?」の回答画像1
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この回答へのお礼

理数系は学生の頃は、それほど苦手では
なかったのですが、その後は苦手意識の
かたまりになり、現在に至っています。

概要だけでも理解しないといけないと思
いました。
物理学は人類の哲学に大きな影響を与え
ていると思いますし、psytexさんの回答
を理解よくできないからです。

お礼日時:2015/10/10 18:37

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