プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

(あ)
 昔むかしの話から始めます。

 感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。

 イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままなナゾとして心にしまっておいた。

 ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。

 やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。

 ヨセ人は ここであきらめなかった。

   このマボロシによって人びとを感化し 
   世の中を束ね寄せる。
   そうしてみせる。
   そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり
   世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。

 と踏んだ。



 (い)
 このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとうその根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。

 イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。

 かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。

 二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。




 (う)
 《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人にはその発言(自己表現)にもつねに 本音と建前がある。

 あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。


 (え)
 広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。

 すなわちむろんこの問題をあつかうのだ。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》逆立連関制としてのマである。

 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマ‐チガヒの正し方の問題です。

 おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?


 (お)
 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。

 問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏のイニシアチヴによる《 A (主導)- S (従属)》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。

 つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。

 イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。

 ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。


 こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。

 つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか? 


 (か)
 マチガヒからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての――二階から一階への――大政奉還。

 これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。
 
 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。

 アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。

 マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?

 じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。



 添削をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • つづきは
     【Q:《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ】
     で継ぎましょう。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/18 11:30

A 回答 (6件)

現在の社会は、形は民主主義ですが、民衆が主導権を


握ってはいないですよね?
国家も企業も巨大で、一人一人の人間の無力感ばかり
感じられます。
民衆が、自分の「ぜにかね」を追っかけているうちは
支配者の思うつぼであります。
民衆が自分たちの存在を理解したときに、はじめて権
力を倒すことができると言えると思います。

その時を到来させるためには、複雑に組みあがった国
家の一つ一つの分野を、「民衆のため、人間のため」
という哲学を基にしたものに改革しなければならない
と思います。

ですから、まず、哲学的意識を高めるために、大いに
「対話」をおこなってゆく。
ブラジュさんのなさってきた、言論のその労力に敬意
を表します。
そして、自分も含めた、多くの「行動家」が輩出され
ることを願う以外にないのでしょう。

私の「革命」へのプロセスの第一は「言論戦」「対話」
です。
インターネットあるいは活字等はもちろん有効でしょ
うが、私は小さい地域で、いかに対話の場を作るかと
いうことも重要と考えていますが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の「革命」へのプロセスの第一は「言論戦」「対話」
です。
 インターネットあるいは活字等はもちろん有効でしょ
うが、私は小さい地域で、いかに対話の場を作るかと
いうことも重要と考えていますが、いかがでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《直接の対話 Coordination by direct contact 》としてのひとつの情況の法則ですね。

 それは その単位地域においても それら地域の集合としても
 《全員参加 Coordination in the early stages - involving all the people directly concerned 》をともなっているはずでしょうね。


 あと
 ★ 「民衆のため、人間のため」
 ☆ というとき それでも人間は ぶっちゃけた話としては 自分がかわいいものです。
 無私のひとがいないわけではありません。けれども
 全面的な利他主義は かえって そのような行動によって恩恵を受けても どこか気持ち悪いものをも残します。
 負い目を背負うことになると感じる場合があり得ます。

 いくら《ひとのため》と言っても 《おれはわたくしごころのない人間だ。
 純粋におまえらのために活動し切るつもりだ》と言われても ちょっと困ります。


 ですから ものごとの判断は やはりこのあやまちうる人間によってでしかないと考えられますし
 しかも自己自身の持つ物指しによることになります。

 主観として自己表現するというのが 現実です。
 この点に気をつけて欲しいとは思います。

 物質と精神 カネと心 俗物と人格者といった二分法で世界を裁かないようにと願います。

お礼日時:2015/11/12 10:23

№4の続きです。



私が考える「ネオファシズム」は複雑な構造になっていて、
A、Sの関係が基本ですが、やっかいなのは、Aの取り込む
支持者の存在と思います。

十分に考察済みかと思いますが、例えば企業の中の「正規
雇用」の立場の人間は、自分の立場を守ろうとします。
母親、子供は様々な特典があり、守られます。守られるこ
と自体はいいのですが、特典を与えてくれる側につきがち
です。
従って、これらの人々は、Aの言うことが正義であるとの
結論にいくだろうと思います。

そして、この体制に異論を唱えるものを「悪」ときめつけ
ることによって、幾分かある「後ろめたさ」を消してゆく。

こうして、「ネオファシズム」が完成してゆくものと思い
ます。

ですから、ここでもそういう投稿をするほどに立場が悪く
なるでしょう。
だから私は、自分の非力を痛感してしまったのです。

ちょっと、言いすぎですかね?

ブラジュ先生の「日本社会の構造分析と展望」について正
確に知りたいと思っています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

すみません。――まづはご回答をありがとうございます。
 ★ 「ネオファシズム」
 ☆ についてよく承知していませんでした。
  フランスのマリーヌ・ルペンの率いる政党だとか ドイツでネオ・ナチと
 よばれる動きだと思っていました。

 安倍政権は ネオ・ファシストだと呼ばれることがあるようなのですね。

 《 A - S 連関制》について 確認します。

  《スサノヲ市民 - アマテラス公務員 / アマテラシテ(元首・国王・象徴)》連関制
   
   ・アマテラシテ:アマテラスという語を抽象名詞化したもの。
       das Amaterasität; amatérasité; amaterasity

   ・アマテラス公民:スサノヲ市民がアマアガリした者

   ・アマアガリ:《あやまちうるスサノヲ人間語》からみづからが抽象的な存在となっ
       てのように《あやまたざるアマテラス普遍語》をもっぱら駆使するようにな
       ること
        または 《神のごとく如何なるものの下にも立つまい》と堅く誓って そ
       のことを実行すること⇒アマアガリ・シンドローム

   ・アマテラス普遍語:科学語および 倫理規範をふくむ人格語

   ・アマテラス予備軍症候群:スサノヲ市民のあいだでアマアガリ現象にあこがれ ア
       マテラス公民に思想においてすり寄って行く傾向

 ☆ もしネオ・ファシストがいるとすればそれは 民族主義を容れた国民精神
  総動員のような動きをおこなうアマテラス公民とそしてアマテラス予備軍と
  してのスサノヲ市民を言うと思います。

 ☆ 労働条件としての優遇制度は 個人的なものではなく人びと一般に共通の
  ことであれば 自由に享受してよいと思われます。あたえてくれたというよ
  うに 恩に着ることもなければそちらの側へ擦り寄って行くこともないと思
  います。

  まとまりのわるい恰好になってしまいましたが 追い追いまとめて行きたい
 と思います。

お礼日時:2015/11/17 01:06

お礼ありがとうございます。



☆教えを乞うわけですから、これからはブラジュ先生と呼ばせていただきます。

☆政治団体の設立まで考えておられたとは、つくづく本格的ですね。

☆「理論武装」なのですよね。理屈を大事にしているわけでないことは私は分か
りますが、誤解が多いようです。

☆それから、喧嘩はやめましょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 せいぜい先輩のようなものですが ご自由にどうぞ。
 ときには・しばしば さん付けに戻ってくださいませ。

 理論武装は 誤解されやすいのですか。
 昔のあたまでは ごくふつうのことでしたが。

 ケンカはですねぇ。
 一点。売り言葉に買い言葉としては おそらく誰もが避けられないのではないか
と思うのですが どうでしょうかねぇ。

 また 《批判》は必要だという意味で 問うています。:
 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4803472.html

 この問題は 中国や韓国とのお付き合いでは わたしはどうしても必要であると
思っています。相手に合わせるという意味合いです。

 首相や政府要人が けんかをするのは 極力避けるものと考えますが そのほか
に誰かが けんかを買って出るという言論活動は欠かせないと思っています。

 そのように ここでは 《けんかをしない(非戦論)》基本路線と《けんかをす
る》脇道とが 同じひとりの者に求められているように感じています。

 もっとも話ができる相手ではないと知れたら そこでストップしますが。

お礼日時:2015/11/14 19:39

お礼ありがとうございます。



権力に問題あり、との発言は「ネオ・ファシズム」に陥っている
現代社会においては、とても危険なものですね。

これに対抗できるものは唯一「エンパワーメント」であると思って
きました。
以前、この点について質問を立てたのですが、回答は一件しかあり
ませんでした。
今後、多くの言論活動が必要であるということだと思います。

繰り返しますが、時代を進めなければならないと思います。そのた
めには時代の中に、わが身をさらす存在が必要でしょう。観念の遊
戯ばかりだから、何も変わらないわけです。行動が必要です。

私がブラジュさんを信頼するのは、行動をしてこられた、という一
点です。そして「視点」の広さです。
考え方の違いはこれがら議論してゆきたいと思っていますが、自分の
考えを検証したい、また知らないことは学び取りたい、というのが
本心です。(厚かましいですね)

私はこれから、本格的な言論の力を身に着けようと思っています。
そして、目的を達成させるつもりです。
もはや、何を言われて構いません。

ただ、ネットの世界は難しいですね。
ブラジュさんは、今後どのような可能性、希望をもっておられますか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
 
 ▲ (ヰキぺ:エンパワメント) ~~~~~~~~~~
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3 …
 § 4 エンパワメントの著名な例
 
 ・マハトマ・ガンディーによってインドで行われた非暴力主義による独立運動
 ・キング牧師によってアメリカで行われた非暴力主義による公民権運動
 ・日本の町内会で行われた市民公衆衛生運動(ハエと蚊をなくす生活実践運動)
 ・学生運動(1960年に起きた安保闘争と1960年代末-1970年にかけての全共闘運動・大学闘争などの闘争運動)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほかに日本赤軍もアルカイダも例に上がっていますが 《力づけ》という言葉
 が中立の概念だからでしょうか。
  草の根民主制を基礎とした動きには どんなものでも賛同できますね。


 《 A(逆立ち主導)‐ S(従属)》の連関制の中で エンパワーするのかどうか。
 でも 当面は そうするよりほかに選択肢はないでしょうね。
 クーデタをやっても しょうがありません。

  わたしは 三十歳過ぎに 《民主自由会議》という政治団体を考えましたが 仲
 間はおらず資金も何もありませんでした。

  その後言わば 理論武装しておかねばならないと思ってそうして来ました。

  OKヱーヴ/ 教えて! goo には かれこれ十年ほどいます。
  ここでは みんなの自由な参加を基礎とした《井戸端会議》という場を 仮りに
 勝手に設定して やり取りをして来ました。

  ・神およびその信仰についての一般理論 ならびに信仰の抜け殻としての宗教の批判
  ・日本社会についての構造分析およびその展望
  ・日本古代史が その基礎理論を提供していると見ての研究
  ・世界の言葉が好きなので 言語類型論と 日本語学と ソシュールの《言語記号の恣意性》説の批判

 これらがわたしのかかわったジャンルです。
 いまは 井戸端会議の延長線上にあります。

 あたらしいコトにアンテナは張っていますが いまのところ未知数ですね。

お礼日時:2015/11/14 13:24

お礼ありがとうございます。



☆全員参加というか、強制にならないような自由参加が
いいのではないかと思ってます。

☆私は「利他主義」ではありません。まず、自分自身が
苦しくなるだろうと思います。
「自他主義」としましょうか。

要するに、社会は集団生活だから、自分だけの幸せを
求めちゃいかん。という当たり前の世界観ですよ。

一つ家に住んでいて、自分が旨いものを食いたいから
窓ガラスを外して売っぱらった、なんてことしちゃい
かん、ということに過ぎません。

私だって、幸せになりたい、欲望を充足させたい、そ
う思いますよ。
そのためには、世のため人のためになることをしない
とならない。何故なら、それが私の価値観でもあるか
らです。
ブラジュさんも同じでしょ?

高尚ですよね?これからは、胸を張って、「どうだ」
といってやろうと思う。
「俺は豚で何が悪い」と開き直る人間がいるような社
会だから。

☆豚は軽蔑します。社会のために働いた人は尊敬します。
それでいいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 言いたかったことは 次の一点です。すなわち:
 
  特定の個人に歴史や社会の矛盾についての責任を負わせることは できない。

 です。次の《定式》の全体をつらぬく単純な一本の論理には従えませんが 
 責任論として次の箇所に留意します。:
 ▲ (ヰキぺ:唯物史観) ~~~~~~~~~~~~~
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9 …

 § 1 唯物史観の定式

 『経済学批判』 序言 末尾の段落中:

 ・・・ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、
 諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ 強制にならないような自由参加
 ☆ でしょうね。自由な市民による自由な連帯といったように。
 声は全員にかけると思います。


 《豚語の研究》を質問しました。

お礼日時:2015/11/12 15:54

私流の平易な解釈をすれば、


「言論の力で、大政奉還(無血革命)ができるのか?
ということになると思いますが、もちろんできると
思います。
百数十年前に、維新は成ったわけですから。

但し、当時の幕府側の人間は、新政府側の人間より
愚かであったろうと思います。

新政府側が、賢くなければ成り立たないだろうと思
います。
そこに、膨大な労力をつぎ込まなければ、ありえな
いこととして、消えてしまうのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 大きな話を承知で問うているところがあります。
 その点 至らなさを感じます。

 回答してくださったように 大筋の議論としてどう見通すかや 
 あるいは 個別の主題や論点を取り上げてさらに問い求める
 ことが出来ればよいがと思っての質問です。

 あたらしい共同自治の指導者たちやともに主体的に時代を切り拓く
 人びとの質を問うというかたちでしょうか。

 遠い昔に《くにゆづり》をしたときにゆづられた側が
 あたらしく ゆづり返すというかたちになるなら
 いちばんの名誉革命が成る。かと思います。

 あとは 日本が率先して世界に先駆けてやるのですが
 ほかの国々も この《国家》を それぞれあたらしい共同自治の
 かたちへと揚げて そのふるいところを棄てるというふうに
 なって行くことを見込んでいます。

 自然で必然的な歴史の流れであると捉えられるようになると
 単純に素直に 思っています。

お礼日時:2015/11/11 18:27

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