この人頭いいなと思ったエピソード

信仰とは、自らの進路を自分以外の何かに規定してもらいたいという欲求から生まれたのではないかと思います。
「自らの進路を規定できる」という場合、そこに恣意性が求められるはずです。
自らの進路を確実に変えるほどの力を持つと想定可能なもの、それが自然、または、それに類する現象だったのでしょう。
実際、自然は圧倒的な力を人間に見せ付けることができます。
その自然の中に神を見出すのは、極めて自然な流れであったと思いますが、自然に対すると同様の力を自らにも及ぼしてもらえる、つまり、神に恣意性を求めたことから事実誤認が始まり、ここに宗教によるあらゆる弊害の根源があるように思います。
冒頭に戻りますが、「自らの進路を自分以外の何かに規定してもらいたいという欲求」、つまり、「思考の放棄」が神を生んだのであるから、神による様々な弊害が発生するのは必然であり、これを嘆くこと自体無意味である、ということは言えるでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • >☆ いいえ。げんみつに言えば 神は 《存在》であるかどうかが分からない想定物
    です。

    「神は 《存在》であるかどうかが分からない想定物」

    【いるかいないか誰にも証明できない存在】
    にどれほどの違いがあるんですか?

    >《象徴として》というのは 何の象徴なのでしょう? 

    今さら・・という気分ですね。
    自然(または宇宙でも良いでしょう)の法則の象徴ということです。

    >何かの象徴ではなく 《神あるいは非知》という言葉≒概念がシルシとなって指し示
    すその当のものが 神です。

    全く意味不明です。
    「非知」「シルシ」の意味を噛み砕いてから挿入してみてください。
    ご自分の考えを理解してもらう気があるんですか?
    【《神》という言葉≒概念がシルシとなって指し示すその当のものが 神です。】
    こんな日本語が通用すると思っているんですかね。
    もうちょっとまともな文を書いてください。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/04 23:23
  • >(せ) いるを選んでも その存在を証明することは出来ないし いないを選んでも
    存在しないことを証明することも出来ないナゾ。です。非知は。

    ですから、それも当たり前ですよね?不可知なんだから。

    >☆ ぢゃあ その法則のことを言いかえたということぢゃないですか。わざわざ《象
    徴》ということのほどはなくて。

    あらら。
    言い換えちゃだめなんですか?
    それに「わざわざ」と言うのは、全く理解されていませんね、人間心理を。
    何かを象徴的に表現したいのは、どういう場合か。

    >つまり その意味では神は――普遍神は――いないと決めてかかっているという
    人間理性の姿だということにつながります。

    質問趣旨に立ち戻ってしまいましたが、思考を放棄しなければ、そうならざるを得ないでしょう。
    (せ)で「いない」を選んだ立場としての発言ですよ。

    次の補足に続きます。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 22:05
  • >つまり 神はすべて観念であるという大前提がすでに 変更し得ない結論として設定
    されている。ということだと見られます。

    不可知(非知でも良いですが)なのですから、それは当然でしょう。

      補足日時:2016/01/05 22:09
  • お礼欄からの続き。

    >しかも その主観内容が ほかの人の主観の中に入って行って共有されるようなことは 
    客観的に見れば無いと言えることになっています。《非知 あるいは非思考》のものが 
    ふたりの主観のあいだで比べることが出来るわけがないからです。

    「主観内容」というより「妄想内容」と捉えるべきじゃないですかね。
    見えないものを見たと言うわけですから。
    《非知》という概念(これ自体は面白いとは思いますが)を絡ませてまで論じる場面じゃありません。
    因みに妄想の共有はあり得ますよ。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/06 20:58
  • #18お礼欄からの続き

    >「普遍神」ではありません、

    本当にわからなくなりますが、これは
    >《いる》と決めてかかっている

    ことにはならないんですか?
    揚げ足取るつもりはないんですが、会話の流れが中断されてしまいますので、聞かざるを得ないんですよね。
    おそらく、いや何回も言ってるように、それは非知としての神のことだよ、とおっしゃるんでしょうね。
    しかし、それ自体が
    >《いる》と決めてかかっている

    ことになりませんかね?
    自分の言うことには、他の人と別な解釈が付与されているのだ、と言うのでもなければですが。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/06 23:42
  • #22のお礼欄の続き。

    >☆ 致命的なマチガイは 非知なる神は げんみつに言えば 《見えないもの》ではないの
    です。《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》なので
    す。

    《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》に対して、
    >げんみつに言えば 《見えないもの》ではないのです

    という断定をされる心理もよくわかりませんね。
    いずれ、新たに関連質問を立てますので、あとは、そちらでご参加いただければ幸いです。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 00:16
  • #23お礼欄の続き

    >☆ ぢゃあ どうして《いない神》をえらび心にいだくという信仰の場合があり得るのですか?

    《いない神》は、あくまで結果的な形だけのもので、言ってみれば比喩的表現じゃないですか。
    別に「心にいだく」なんてことはないでしょうし、信仰と呼ぶ性質のものとは全く異なるでしょう。
    見たことがないからいないんじゃないの?といった程度のノリだと思います。

    >非知なる神が《いる》と決めてかかっているんぢゃないか? とさらに問い返すのですか?

    邪推です。

    >それが 言葉がある ならば それは存在であるという見方を横から持って来る論法です。

    すり替えです。
    「普遍神」を言葉として使ったわけではないのに、そういうことを言ってはいけません。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:40
  • #26のお礼欄からの続きです。

    >>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
    いるかいないかの理解を超えているから その不可知のナゾを 人が自由に有
    る神または無い神としてえらべばよい。

    と説明したら、どんな弊害が生じるんですか?
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ 《いるかいないかの理解を超えている》とまづ 想定するということを明らかにす
    る必要があります。そしてそれは どういうことかとさらに説明があって 十分な定義
    となります。
    それと 《不可知》についてそちらからは 定義がありません。

    要するに、どんな弊害が生じるわけでもない、ということですね。
    それを言ってしまうと、非知云々という造語が無意味になってしまうため、慌てて話題を逸らした、ということのようです。
    どうでも良いことは聞かれもしないのに千度しゃべり倒すのに、この体たらく。
    いやはや、言葉もありません。
    次の補足欄

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 23:04
  • #26補足欄の続きです。

    >☆ すり替えだという指摘には すり替えだと応じるわけですね。

    一言も反論することなく、このご都合主義。
    大したものです。

      補足日時:2016/01/07 23:06
  • みなさん、ありがとうございます。
    大体のところは出揃ったようですので、反論の時間を若干とった後、締め切る予定です。

      補足日時:2016/01/07 23:18

A 回答 (31件中31~31件)

人間が想像し思考してこしらえた神は あくまで想像の産物です。



経験思考の範囲を出ないという意味でを伴なっての《観念の神》です。

つまりその想像や思考が 人間の恣意的なおこないであることを とうぜんのごとく
物語っています。

《自然》を神にまつりあげた場合も 人間の作為によるものであるかぎり 観念の神
です。

これだけの話ですよ。

その人間がつくった観念の神によって こんどは人間が 自分たちの好むようにチカ
ラを及ぼして欲しいというのも 観念じょうのお遊びです。

そのときは《思考の放棄》をしているのではなく むしろ思考のとおりに世界が成っ
て欲しいと思考しています。

神を介在させているので そこでおのれの思考が少なくとも中断しているとでも思っ
ているから あたかも他力によって自分が規定されるというような錯覚を持つのでし
ょう。

かくして
★ 恣意的存在としての神
☆ は 観念の神のことであり 初めからおしまいまで 人間のもてあそぶおもちゃ
の神だと言わざるを得ないでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりその想像や思考が 人間の恣意的なおこないであることを とうぜんのごとく
物語っています。

とおっしゃっているのですから、
>そのときは《思考の放棄》をしているのではなく むしろ思考のとおりに世界が成っ
て欲しいと思考しています。

というのは矛盾しているように思いますけどね。
《思考の放棄》でなければ、わざわざ神を介在させる必要はないはずでしょう。
無意識的に『むしろ思考のとおりに世界が成って欲しいと思考』しているのは、むろん、そうなるでしょう。
しかし、その無意識に気づくことなく、あたかも恣意的な力を持つ存在としての神が現存するかのような錯覚に自らを追い込む。
これが宗教じゃないですかね、ということを問うています。

>神を介在させているので そこでおのれの思考が少なくとも中断しているとでも思っ
ているから あたかも他力によって自分が規定されるというような錯覚を持つのでし
ょう。

こちらは、そのとおりでしょうね。
というか、そのために神を信じるということでしょう。
つまり、思考放棄と言って良いと思うのですが。
『おのれの思考が少なくとも中断』という状態を希求する無意識が働いていると思う、ということ。

>★ 恣意的存在としての神
☆ は 観念の神のことであり 初めからおしまいまで 人間のもてあそぶおもちゃ
の神だと言わざるを得ないでしょうね。

神自体が観念の産物なので、「観念の神」という表現は誤解を招くでしょう。
「観念でない神」はいる、などと言い出す人も出てくる。
【いるかいないか誰にも証明できないのだから、神とはあくまで象徴としての存在】ということを大前提にしないと、(根本に食い違いが生じるので)いろいろな論も前に進まない。

お礼日時:2016/01/03 23:28
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