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日本の死刑制度について皆様の意見を頂戴したいと思います。
私は大学の授業で法律を履修した際に、少しだけ死刑制度について学ぶ機会があったため、死刑制度に関心を持ちました。そのため、みなさんからの幅広い意見を頂戴したいと考え、ここに質問をしている次第です。一応、私の考えも記します。

私は死刑制度には賛成であり、今後も継続して行うべきだと考えます。同時に絶対的終身制度の導入も賛成です。
まず第一に考えるのは被害者遺族の感情だと考えます。そのため、加害者の人権を重要視するあまり被害者遺族の感情をないがしろにすることは在ってはならないと考えます。故に、被害者遺族が加害者に対し反省する姿勢を窺えないために死刑を求刑することも、情状酌量の余地がるために刑を軽くすることも、全ては被害者遺族の考えを第一に尊重し裁判を行うべきだと考えます。
ただ、冤罪の可能性がある死刑囚や加害者に対しての、死刑の求刑や執行が起こる可能性も否定はできないので、死刑の求刑や執行は、明らかに冤罪を否定できる者にのみ、許されることが大前提です。
一方、死刑になりたいがために犯罪を起こす者も少なからず居る現状から、そのような加害者の希望を叶えないためにも、絶対的終身制度の導入にも自分は賛成であります。

死刑制度及び終身刑制度の導入に賛成の理由はほかにも多々ありますが、ここで述べるときりがないため、大まかな理由のみを今回は書かせていただきました。皆様からの幅広い意見をお聞かせ頂けると、参考になり有難い限りですので、回答のほどよろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • 回答ありがとうございます。
    法の下の平等に関して、phjさんの回答を拝見したところ、やや疑問に思うことがあります。phjさんのたとえ話をでは、何かの罪を犯した者の処罰が禁錮と罰金でも法の下の平等に反するように見受けられます。日本の刑法には、犯した罪に対する処罰は、個別具体的に処罰の内容と上限が決められています。それを根拠に司法が裁判という形で加害者を罰していますよね。つまり、個々の事件に対し個別具体的に司法が裁いているわけですから、人によって差があるのは当然のことであり、それを法の下の平等に反するというのには違和感があります。
    民主主義国家だから死刑を廃止するということも疑問があります。そもそも、私人間での殺人の報復の連鎖を止めるために、被害者の報復権を政府が奪ったという話を聞いたことがあります。よって、政府が個人の代わりに死刑を実行するということは、合理的だと考えられます。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/19 00:51

A 回答 (6件)

#3です。

補足ありがとうございます。

>人によって差があるのは当然のことであり、それを法の下の平等に反するというのには違和感があります。
法の下の平等、というのはそういうことを意味するのではありません。「法律に基づいた正当な手続きで、正当に判断が下されたかどうか」ということです。
前回出した自動車過失と殺人の事例はたしかに罪刑法定主義で刑罰の上限がそれぞれ決められていますので、片方は懲役刑だけもう片方は死刑もありうる、というのは平等ということとは本質的に意味が違います。

前回、私が表現したかったのは「人の死とそれに対する加害責任」というものが、常に死刑に該当するわけではない、ということです。「死ぬ」「殺される」という点では同じでも、報復感情に違いが生まれたり、報復感情をむき出しに出来る場合もあれば出来ない場合もある、ということです。
 これは法の平等ではなく、社会的なコストであるといえます。

>私人間での殺人の報復の連鎖を止めるために、被害者の報復権を政府が奪ったという話

いわゆる報復権ということですが、そんな話はありませんし、そもそも報復権が政府から市民に付与されたこともありません。

日本だと武士においては仇討ちが法制化されていた時代があります。しかしこれは権利というよりはむしろ「武士の面目を保つための義務」という側面が強く、また農民・町人などの庶民にはまったく権利付与されていませんでした。武士は江戸時代を通して人口3%程度であり、特権階級ですから、特権階級としての責務・権利としての仇討ち権であったといえます。同様の権利はヨーロッパ貴族における決闘権などがあります。

しかし、人口の大多数を占める庶民、現代で言えば市民に報復権が与えられたことはありません。むしろハンムラビ法典からずっと「私人による報復の抑制と報復心情の解消(量刑相場と報復感情)」が政府・為政者のテーマであったといえます。

政府の統治能力が落ちれば、権力や軍事力をもつ個人は簡単に私人報復を行えます。ISISの統治している地域などを見ればそういう場所があることは理解できると思いますが、このような場所では、法が機能している、とはいえませんし、法の下の平等など望める状態ではない、といえます。

前回は字数が足りなかったので書かなかったのですが、今の死刑制度というのは、上記の点で封建主義時代の死刑となんら代わりがないのです。
つまり野蛮である、ということです。

ISISなどもそうですが、封建主義的な王や領主などは統治のために死刑を道具として利用しました。日本でも磔にした後、さらし首にして悪事を諌めていました。当時の為政者からすれば「民衆は馬鹿だから、こういう見せしめも必要」ということであり、為政者の統治に不満がでれば、大量に処刑して目をそらしたりしました。

今は違うといえるでしょうか?そもそも死刑は「為政者が統治の都合のためにやっている」といえないでしょうか。そして死刑を存続させるための方便として「8割の人々が死刑を望んでいる。だから必要」と言い訳しているとはいえないでしょうか。

私は民主主義は一人ひとりが統治者であると考えています。被害者当事者が報復感情を持つのは当然あると思いますが、そうでない第3者はもっと引いた立場で物事を考えるべきだと思います。

死刑だけが体罰であり、その存在は法体系の中で異質です。そしてそれを支えているのは「被害者感情に寄り添う市民感情」であるといえます。

質問者様は補足の中で「個別具体的に処罰の内容と上限が決められています」書かれているように、と社会システムとしての法体系を理解されていると思いますが、なぜか死刑だけはシステムではなく「感情」が優先されています。

死刑やその他の刑罰を、民主主義を運営するひとつの装置、と考えるなら統治者である私たちが執行人であります。私たちは「社会の安定という名の元に何人も殺している」と考えるほうが正しいでしょう。

死刑賛成というのもそれはそれでいいのです。いいのですが、ぜひ「死刑」の社会システムとしての意味・意義を考えていただきたいと思います。
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冤罪は、混ざる世界では、難しい問題ネットでも成りすましや道徳観の無い人が混ざっています。

ライダイハンをやって来た人達に道徳観等あるはずが無く原始社会からスタートにしてしまいます。戦国時代に変えてしまいます。唯、生存の条件を揃えるだけシンプルな、原始社会到来になるだけですね。
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一番あなたの意見で気になったところは、



「死刑になりたいがために犯罪を起こす者も少なからず居る現状から、そのような加害者の希望を叶えないためにも、絶対的終身制度の導入にも自分は賛成であります。」という点ですね。


終身刑希望で、犯罪を起こした罪人の希望を叶える事を良しとする理由を教えて下さい。と聞きたくなりました。




死刑制度に関しては、よくヨーロッパの例が持ち出されますが、「ヨーロッパの死刑廃止は、一般人の適応だけであって、有事の際の敵前逃亡は死刑などは存置されている」という点も考慮して下さい。

この点からも、「人権問題として、命に関わる冤罪だけは防がなければならない」というヨーロッパの政治家が言うような廃止理由は、建前であって本音ではない事が分かります。

人権は手段であって、目的ではないというのが世界の常識です。
健全な社会のためなら、人権は制約しても良いのです。これを言うとヒステリーを起こす人がいますが、ただの事実です。本当に人権が絶対なら、破壊消防も許されなくなります。



それと、ヨーロッパ人は、「楽に死なせてやるものか。」という価値観があります。日本人の価値観とかなり異なります。ヨーロッパの死刑廃止の広まりは、EUの加盟条件に死刑廃止が盛り込まれた影響もあるでしょうが、やはりヨーロッパ人の価値観に大きく影響しています。日本で死刑廃止が盛り上がらないのは、彼らと価値観が異なるからです。当然と言えば当然です。


死刑に関してのポイントは、

・「人権は手段であって目的ではない」
・「日本人とヨーロッパ人の死に対する価値観の違い」

この二点を踏まえて、勉強をしていくと良いと思います。
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元法学部です。

基本的に死刑に反対です。

まず、質問者様の提示された内容への回答から
>私は死刑制度には賛成であり、今後も継続して行うべきだと考えます。同時に絶対的終身制度の導入も賛成です。
まず第一に考えるのは被害者遺族の感情だと考えます。(中略)全ては被害者遺族の考えを第一に尊重し裁判を行うべきだと考えます。

死刑賛成者の多くの方が「被害者感情」を一番に上げます。そしてこの被害者感情が法執行のためには一番害悪であると私は考えます。

 刑罰はいくつもありますが、もし、死刑に該当する犯罪だけ被害者感情を考慮するなら「法の平等」対して大きな問題がでてきます。死ななかったけど半身不随・死ななかったけど植物状態、などは考慮されないのか、というような問題が起き、じゃあこれらも入れようとなれば、じゃあ半身不随ほどではないが障害者になったとか、障害者じゃないけどレイプされたとかどうかとか、際限がなくなるからです。法律というのは常にこういうことを考えながら決定されるものであることを理解してほしいと思います。

次に被害者感情そのものの問題です。昔のイスラエル(だったと思います)では、死刑の執行は被害者またはその遺族に任されたそうです。ロープを引けば死刑が執行され、ロープを引かずに許せば死刑にならずに済んだ、というものです。
 これも「法の下の平等」に反しないでしょうか?個人の感情が最終的な罰を決するわけです。実際にイスラエルでは、お金持ちの犯罪者は遺族などに多額の賠償金を払うことで死刑にならず、貧乏人は払えないので死刑になる、というような不公平が起きたために、被害者感情を取り込むの制度は廃止になりました。
 「被害者感情」というような、実はどのようにも変化する(お金などで変化する)制度は問題が大きいといえます。

そして、忘れてはならないのは、私たちはつねに第3者である、ということです。被害者に過大に感情移入する危険があるように、実は加害者に過大に感情移入することもありえるのです。たとえば、加害者が自分の知人で、被害者の方のひどいふるまいなどを説明されたら減刑嘆願書に署名するかもしれません。(実際に私には、そのような署名を求められた経験があります。私はその人を知らないので署名を断ったら「冷たい人間」とレッテルを貼られました)

加害者も被害者もどちらもまったく知らない人間であるなら、第3者である私たちは「法の下の平等」と「法の正義」においてのみ判断を下すべきだと思います。


>ただ、冤罪の可能性がある死刑囚や加害者に対しての、死刑の求刑や執行が起こる可能性も否定はできないので、死刑の求刑や執行は、明らかに冤罪を否定できる者にのみ、許されることが大前提です。
 
冤罪というはつねに起こります。質問者様は日本の警察や検察を信じているかもしれませんが、日本の司法制度はとんでもなく欠陥だらけです。常に冤罪は起こり得ます。
 たしかに「明らかに冤罪を否定できる」犯罪者も中にはいますが、死刑確定囚の中にも冤罪の可能性が否定できない者もいます。また、犯行は明らかでも「死刑に該当するほどの罪」は犯してない可能性もあるわけで、冤罪というのは単に無罪というだけの問題ではない、ということを知って頂きたいとおもいます。

その他、日本の司法の問題点は
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9139058.html
に私が書いています。


>一方、死刑になりたいがために犯罪を起こす者も少なからず居る現状から、そのような加害者の希望を叶えないためにも、絶対的終身制度の導入にも自分は賛成であります。
 自縄自縛ですよ。このような制度設計にして、犯人は「死刑になりたいから犯罪を犯した」といい、終身刑にしようとしたら、遺族が「絶対に死刑にしろ、犯人も望んでいるんだから死刑でいいだろう」と言ったらどうしますか。
 こういうのを「法の下の平等」というわけです。法設計というのは、こういう不平等というか矛盾が起こらないように長い時間をかけて設計・運用されているのです。

さて、私が死刑に反対な理由です。
それは「民主主義国家が人殺しをしてはならないから」です。
民主主義というのは、封建主義に対抗してできた制度です。封建主義は王などが権力をもち、王が「殺せ」といえば殺されてしまうような制度であり、今一番近いのは北朝鮮でしょう。北朝鮮の粛清をみて野蛮だと思いませんか。

民主主義というのは、こういう「一個人を政府や制度に殺されないために」みんなでやっていこう、という主義であるといえます。その民主政府が死刑とはいえ人殺しをするのは私は矛盾だと思いますし、有権者である私もあなたも人殺しである、といえます。国家がなぜ死刑をするか、それは「社会に平穏と正義をもたらすため」だとされていますが、民主主義の理念と死刑は矛盾していると思うので死刑は廃止したほうがよい、と私は考えています。

それと死刑に反対な理由がもうひとつ、それは「死刑は体罰である」ということです。
体罰は全面的に禁止されています。でも究極の体罰である死刑はなぜか残っています。死刑があるなら、なぜ「スリは指を切り落とす」「強盗は手首を切り落とす」「スピード違反はむち打ち」などの体罰がないんでしょう。これらの体罰がないのは、やはり民主主義の理念から「個人の幸福の追求」に反するとされているからです。むち打ちだって、二度と仕事ができない体になることもあります。手首や指がなくなれば、できる仕事が狭められるでしょう。改心して頑張るために体罰は問題点が多いのです。
 だとすればなぜ死刑だけは残っているのでしょうか。「法の下の平等」に照らして体罰である死刑は廃止すべきだと思います。

で、このように書くと、賛成論者は大体二つの反論をしてきます。
1 じゃあ、死刑を廃止して犯罪が増えたら責任を取れ
2 お前の身内が殺されても、反対を貫けるな

1への指摘をするなら、まず「明らかに犯罪が増え、死刑によって明らかに犯罪が減るなら考えます」と書いておきます。ただ、今のところ廃止でも存置でも大きな違いはありません。特にアメリカでは州によって違いがありますが、犯罪率に大きな違いはない、というより存置州のほうが犯罪率が高いところが多いです。

また、その前に「死刑になりたいと、犯罪を犯す輩がいるんだから、賛成派は今のうちに責任取らなくていいのですか」と指摘しておきたいです。廃止して犯罪が増えるのに「廃止派の責任」を持ち出すなら、廃止していないのに凶悪犯罪が生まれることに「賛成派の責任」はとらなくていいのか、ということです。
これに対して「いや、それは関係ない」というのであれば、犯罪の発生そのものに死刑の有無は関係ない、と言っているのに等しくなります。であるなら、廃止でもなにも問題ないでしょう。

2は厄介な問題です。いくら廃止派と言っても自分の身内が殺されて怒らない人はいないでしょう。でも「犯罪被害者になる」ということと「死刑反対派である」ということは二つの点で別の話であることが分かると思います。

 私は自分が加害者になったこともなく、被害者にもなったことがないから第三者として死刑反対を論じているのです。その点は、質問者様であっても同じです。

当事者になれば「犯人を殺してやりたい」と考えて当然ですし、「死刑」を願っても当然です(必ずしもそうではありませんが)、犯罪被害者が死刑の廃止を求めるのは高貴な行動ですが「法の下の平等」という観点からすればレアな経験をした少数意見として扱うことになります。

ですから、自分の身内が殺されて「殺してやりたい」と思わないか、と言われれば「思います」。ただ「死刑を望むか」と言われればそれは分かりません。誰だって分からないはずです。

そしてさらに「犯罪被害者」は特権ではないということです。
たとえばこういうことはおこりえるでしょうか。「AはBさんを殺したが、まったくなにも罪に問われなかった」
事件としてはありえないように思いますが、事故ならありえるでしょう。自動車事故ならいくらでもありえます。

人間の生き死に、というのは実はとても不公平です。「殺された」という状況であっても事件なら犯人を見つけて裁くのに、事故だと誰も責任を問われないこともありうるのです。
では「事故の被害者遺族の被害者感情は考慮しなくていい」のでしょうか。それこそ法の平等に矛盾しますよね。

人間社会は不十分で不公平で不確かな世界です。
社会に殺される人・病気に殺される人・制度に殺される人・事故で殺される人・事件で殺される人などいろんな死がありえます。しかし、分かりやすいからか、人は「犯罪を犯した個人」にだけ異様なほど死刑!と騒ぐように感じます。

昔ですが、トラックから外れたタイヤにひき殺された女性の事故で誰か死刑になりましたか?死刑どころか誰も責任をとっていません。明石歩道橋の責任は誰がとりましたか?だれも取っていないうえに不起訴になりました。

このような社会の制度的な問題点は直そうとしないし、追求しないのに、個人の犯罪ばかり死刑!死刑!というのは、とても問題があると思います。

私たちは「法の下の平等」に守られつつ、それが実際に機能する社会を作りだす担い手でもあります。だからこそ、死刑のある社会は「敗北」であると私は思いますし、社会を維持するために死刑という形で自分の手を血で染めることに忸怩たる思いがあります。

死刑賛成、というのもたしかに重要な意見ではありますが、単に「被害者感情」で賛成とするのは、あまりにも浅いとおもいませんか。
この回答への補足あり
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死刑制度に関しては廃止は時期尚早であり存続すべきと考えます。


更には、どんなに残忍な殺し方をしても一人しか殺していなければ有期刑にされると言う事については反対ですね。
裁判に於いての判例主義と言う事に関しては、正直バカか!としか思えません。
前例が無いから云々等と平気で言いますが、前例となった物に関しても第一歩があるので判例に囚われずに時代時代に合った
判断をすべきでありますが、思考能力が無いのか判例にしがみつき過ぎ。
判例にしがみついて居ればそれだけ選択肢も狭くなりますし。
死刑に関しては被害者家族の感情もありますが世の中への影響も考えるべきであって、疑問に思われる事も少なく無いでしょう。
先進国では死刑を廃止していると言っても、それはその国の事情であって日本での廃止はこれから外国人がもっと入って来る時代
凶悪事件も増えるだろうと予想も出来ますので、抑止力としての意味も含めて死刑制度は存続すべきであると考えます。
現状のままでも外国人にとっては犯罪天国に為ってしまう可能性は決して低くはないでしょう。
また、終身刑については導入すべきと思います。
世の中では無期懲役を終身刑と勘違いしている人達も少なく無いみたいですし、有期刑であっても刑務所内での態度や犯した
犯罪への反省度合い(人が判断するので問題有り)などを考慮して仮釈放などが行われたり刑期の短縮が行われたりありますが、
その制度についても廃止すべきでしょう。
終身刑とか完全無期系等に問題があると言うのであれば、アメリカみたいに懲役200年とかと言う合算方式を導入しても
良いとも思いますが。
日本は犯した犯罪の一番重い物で決まりますから、それを犯した分の犯罪全てを合算する方式も併用すべき。
また、刑期に関しては拘置されていた日数も含まれてしまいますのでそれも廃止。
それにらによって刑務所の収監人員が収監能力を超えると言うのであれば、刑務所を増設すれば良い。
住民の反対は当然あるでしょうから、街から離れた場所の集落跡などを有効利用すれば出来ない事は無い。
日本は犯罪者の人権は守られても被害者や被害者家族の人権は放置されていますからね。

書いて居ると熱が上がって支離滅裂気味になるので、この当たりで止めて起きます。(笑)
上手く読み取って下さい。
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冤罪を言い始めると、痴漢と間違われたヒトも何年も収監されたヒトも取り返しがつかないわな。

何も裁けなくなる。
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