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「考えている私」は今ここに存在していると思いますか?

もしいないとしたら、今ここは意志なんかしていないってことになっちゃいますよね?

意志はただの幻想だったってことになっちゃいますよね?

質問者からの補足コメント

  • 回答ありがとうございます。

    >意志はただの幻想だったってことになっちゃいますよね?
    ↑なりません。意思は意思だけで独立して存在するかもしれないからです。

    上記の回答についてなのですが、

    質問で私の言っている「意志」とは、「選択や判断の決定を自発的に自由自在にコントロールしている」というとこです。

    今ここに、「思考している主体」、つまり「行為者」が存在していないのに、,選択や判断の決定を自発的に自由自在にコントロールしている意志,が今ここに存在しているとはどういう状態なのでしょうか?

    >意思、と意思の主体は別に観念できます。

    ,選択や判断の決定を自発的に自由自在にコントロールしている意志,が観念であるとはどういう状態なのでしょうか?

    観念が、選択や判断の決定を自発的に自由自在にコントロールしていることなどあり得るのでしょうか?

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 13:21

A 回答 (8件)

小、中学生、の時代に。

誰もが考えた事だと思いますが。人間の知能は、脳細胞の増加、成長、と共に、12歳ぐらいがピ-クであり、人類の知能も、クロマニヨン人当あたりが最高潮であった、との説もあるようです。老子が商いと学門は重要視すべきものではない。と言っていますが。
商は、金欲と一体になり、知恵を失わせ、学門は、知識、として他人の考え方や定義、を正しいと思い込み、考える力、を低下させる。
近年は、西洋思想=ユダヤ思想、とネットの普及により、そういう傾向が顕著になっている。とも言えそうです。
ミノルベ書房、と言うのがありましたが、ご存知の、年代でしょうか。
ヘ-ゲルの「歴史哲学」にある「ミノルベの梟は夜の帳が降りてから飛び始める」からの、出版社名、でした。ミノルベの森の梟(実際にあった昼間の事実、歴史)は夜の帳りが降りてから、(過ぎてしまって、存在、しなくなってから、学門としての歴史研究や歴史認識、が始まる)と言うような意味でしょう。
考えている私、は今ここに存在するか、との質問を書く時には、既に存在しない、過去、になっています。過去は、姿を変えた、痕跡、や記憶、に転化しており。既に存在しないのです。
過去は万年前も昨日も同じ、終わっている事、なのです。
存在しない過去や意思に捕らわれず。これから起こるであろう、未来に対応出来る能力を高ようとする意思が、青少年の知恵、ではないでしょうか。
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「考えている私」は今ここに存在していると思いますか?


    ↑
それは解らない、という他ありません。

考えている私の存在は、思考の存在を示して
いますが、それ以上に思考の主体まで存在
していることにはならないからです。


もしいないとしたら、今ここは意志なんかしていないって
ことになっちゃいますよね?
  ↑
そうはなりません。
意思、と意思の主体は別に観念できます。
意思があるから、必ず主体も存在するとは
言えません。


意志はただの幻想だったってことになっちゃいますよね?
   ↑
なりません。
意思は意思だけで独立して存在する
かもしれないからです。
この回答への補足あり
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もし「無」を認識できたら、そこには「認識」する何者かが


介在する訳だから、真の無ではありません。
逆に言えば、「無を想像できない」ことの中に、“ある形式”
で無はあり得るのです。
その「ある形式」とは、“突き詰めれば無に還元される”=
絶対確定化により無限不確定化(=無)する不確定性原理に
基づく物理による世界です。

有限的存在の集合としての宇宙とは、無の潜在(全ての
存在は量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込む
と存在確率の山が平らになって無と等価)としての認識
可能性の感受表面(現在)における量子相互作用パターンに
対する、経験(過去)による予測(未来)として生じている
幻想に過ぎません。

その「自我仮説の相補たる時空仮説」に対する無の射影
として、絶対化に於いて無限不確定性に発散する相補的
不確定性に基づく量子性=光が生じ、それを原理的に確定
せず、階層現象性を表面的に捉える事によって、存在的
有限性が可能になっているのです。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に
まで遡った)補完なのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)
の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだ
けどね」という補完として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
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幻想の幻想による幻想のための私。

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と言うよりも:



 ○ いまここにわたしはいるというコトから たとえば考えている。

となるのでは? いることに殊更意志を用いませんが 考えることには
――意識せずとも――意志を用いていると見ることになります。通常。

《まぼろしのことを考えている》にしてもそしてその内容が《幻想》で
あったとしても その考えていたことは 経験事実であると一般に捉え
られます。

単なるそういう前提を取り決めているということです。
別に おれは取り決めたことなどはないがというようなことではなく 
人間が生まれてこのかた 日から日へ生活をおくっているということは
その事実において取り決めたことになっています。

その余は 観念論としてのいじくりです。
存在とは何か。本質とは何か。などなどです。
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あと、意志が渇愛のことだとしたら


仏教とかは智慧による解脱
般若波羅蜜多を説きますから
そして五蘊皆空ですから

考える私は存在しないことになります。

意志はただの幻想だったってことになっちゃいます。
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さっき道を歩いていたら


横断歩道の歩行者信号が青だったのに
車が平気で左折してきた。
殺されそうになった。

道徳を擁護しようとしたのに
世の中には平気で人をひき殺そうとする
ドライバーがいて、危険だった。

そんなドライバーは死ねばいいのにと思った。

もしかしたら既に
私は殺されていて
これは未練があるから
投稿したのかもしれない。

というか人が死ぬのを
なんとも考えていない
ドライバーの存在を認めるとしたら
考えていない人が存在していることになる。

我思うゆえに我あり
なんか
人殺し運転手の前には
ただの幻想だったということになりました。
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考えている私はすでに過去ですね。

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