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ローマがキリスト教を国教にしてから、ヨーロッパで教会が貴族や王族と肩を並べるほどの権威を持つようになったんだと思いますが、これって世界史でサラッと習うだけで、 歴史の当たり前の知識みたいですが、スゴいことじゃないですか?

国家って、国益を追求すると言えば聞こえはいいですが、国益のためなら時として他国を攻撃もする、国民に有無を言わさず徴税もする、国民に戦争を強要もする、つまり国家エゴイズムが体現されたものが国家ですよね?詰まる所国家の本質って悪だと思うんです。政治学でも、国家の本質は悪だと割りきって理解されてると思います。

その国家の権威の中枢に、愛を説くキリスト教とその教会が位置していたワケですよね?これって普通に考えて究極の矛盾ですよね?
ヨーロッパの聖職者たちは、それをどう解釈してきたのでしょうか?そもそも今の政治学とか歴史学ではそれはどう解釈されてるんですかね?おそらくは教会は単なる行政組織みたいなものになってしまって、キリスト教の本質とは大幅にズレたままなんとなく社会組織として存続してきただけじゃないか?と思うんですが…

アウグスティヌスの「神の国」とかも読んでみたいんですが、なかなかそういう時間も取れないのでここで直接に聞いてみたいと思いました(^_^;)

質問者からの補足コメント

  • 私もちょっと調べたんですが、ヨシュアというのは旧約聖書の話じゃないんですかね?モーセが神の言ったとおりに、来襲者を撃退した、という話じゃないんでしょうか?

    それと予定説というのは、カルヴァンが唱えた、キリスト教の一派にすぎないんじゃないでしょうか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/02 12:49
  • キリスト教の神議論が、予定説があるために完全無欠であるというのは…??

    なぜそう言えるんでしょう?難しそうですが、興味がわきました。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/02 16:35
  • 予定されていて、法の縛り、規範意識がないから堕落し放題、というのは宗教としてなんとも矛盾しているような感じがしました。

    運命はすでに決まっているのだから、努力したり、いい行いに勤めても無駄だ、ということでしょうか?よほど生まれつき性格のいい人だけが良い予定のもとに生まれているとみなされて、本人もまじめに生きたんでしょうか?

    社会学の業界で有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、予定説があったからこそ人々は勤勉に働き、資本主義が発達した、と説かれていますよね?私もあの論理を理解したワケじゃないんですが、予定説には人々を勤勉な方向に仕向ける要素もあったんじゃないでしょうか?

      補足日時:2016/03/03 01:51
  • それと、人間の意志で予定を変えることができない、神の国を追放された人間に善行など望むべくもない、となれば、それはあきらめの境地で、救いの余地がないんじゃないですか?宗教としてなんとも矛盾を感じます。

    一方でキリスト教には「信仰のみ」と書かれてますよね?仮に悪い境遇の人、心がすさんだ人が、自分の予定を変えられないと思ってしまったら、その人たちはどこに救いを求めればいいんでしょう?もう信仰する意味がないんじゃないですか?予定説を大勢が受け入れてしまったら、信仰する人は激減しそうな気がするんですが。境遇の良い人だって、それ以上良い境遇に上昇できない、予定で決まっていることだと思ってしまったら、信仰する意味がないんじゃないでしょうか?

      補足日時:2016/03/03 02:00
  • 信仰、宗教というものは、人を精神的に成長させるためのものではないんでしょうか?いい意味で人を変化せていく、それが宗教じゃないんでしょうか?予定ですべて決まっている、変化のしようがないという時点で、根本的な矛盾を感じるのですが。

      補足日時:2016/03/03 02:01
  • 大変詳しく教えていただいた上で恐縮なんですが、単純に質問します。宗教が人の精神的な成長を促すものである、という理解が間違いであるなら、宗教の意義とは何ですか?宗教家は、何を意図して人々に宗教の教えを説くのでしょう?

      補足日時:2016/03/04 01:26
  • なるほど、宗教というのはそういうもの、それはそれで勉強になるのですが、一方で新約聖書では色々と有名なイエスの説話が書かれてますよね?

    良きサマリア人だとか、自らを裁かずに人を裁くなとか、天に宝を積みなさいとか…

    これは普通にだれが見ても道徳的に人々を教化しようという内容、やはり宗教には人を成長させる目的がある、と言えるんじゃないでしょうか?

      補足日時:2016/03/04 02:58
  • そこに書かれていることは教えではなく現象、それはどういう意味でしょうか?

    そういう風に聖書を読むのはけしからん、というのはなぜですか?

      補足日時:2016/03/04 04:19
  • >カトリック教会の、人心教化の方法
    それそのものをよく知らないので矛盾も何もありません。中世カトリックがどういうものだったのかも専門家でないのでわかりません。無学ですみませんとしか言いようがないです。キリスト教は愛を説くものだ、と単純に思っていたので、愛とは関係ない、場合によっては愛の対極の存在ともいえる国家と組むのは矛盾だと考えました。

    信仰あるのみ、と何度書かれてもよく分からないのですが、宗教の教えを受け入れても、自分自身の向上につながらないんだとしたら、信者は何のために教えを受け入れるんでしょうか?人間的に向上する、向上しない、とは関係なく救いがあるということでしょうか?では逆に、人間的に向上しないのになぜ救われるんでしょう?

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/04 16:17
  • それではイエスの様々な教え、的な話は、なぜ新約聖書に載っているのでしょうか?そこに人を教化する意味がないんだとしたら?

    何の話でもいいんですが、例えば良きサマリア人の話を、聖書を読んだ信者はどう解釈すればいいんですか?

      補足日時:2016/03/04 16:17

A 回答 (23件中21~23件)

補足について。


キリスト教は、旧約聖書から始まりますよ。ユダヤの神も、イスラムの神も、キリスト教の神も同じものです。それぞれ、別の神ではないのです。神への解釈がそれぞれ違うだけです。
一神教の宗教は、それぞれが「神議論」を持って、神の存在を証明しています。でないと、宗教たり得ませんからね。キリスト教の神議論は、群を抜いて完全無欠。その最大の特徴が予定説であるからです。
カルバァン派らは、カトリック教会の堕落と教義破壊を徹底的に批判しているが、その宗教的根幹に差はない。教会が執り仕切る儀式や洗礼によって人が救われるのではなく、神への「信仰のみ」がカルバァン派らの主張。何故なら、キリスト教の神は予定の神だから。教会(カトリック)とカルバァン派らの(プロテスタント)は、如何なる態度が神への信仰たり得るかで、論争しているのであって、神への解釈そのものには差はないんですよ。
この回答への補足あり
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ローマがキリスト教を国教にしてから、ヨーロッパで


教会が貴族や王族と肩を並べるほどの権威を
持つようになったんだと思いますが
   ↑
キリスト教の力から国家を護るために
「政教分離」という制度が設けられました。
キリスト教に対抗するための国家、という
ことで人民に国民意識が芽生えた、と
言われています。
それまで、庶民には国民などという意識は
ありませんでした。
それを醸成したのが、キリスト教に対抗する
国家、という概念でした。



国家エゴイズムが体現されたものが国家ですよね?
   ↑
これはその通りです。
国益をいかに最大にするか、ということで世界中が
権謀術数の限りを尽くしています。


詰まる所国家の本質って悪だと思うんです。
   ↑
共産主義ではそう考えます。
だから、社会主義を越えて共産主義に到れば
国家は否定されます。
共産主義国家というのは存在しません。

しかし、一般にはそうは考えません。
人間一人では非力ですし、万人による万人の闘争
になるから、国家が必要なのだ、国民の利益を護り
発展させているツールとして、国家は優れた
存在だ、とする見解が強いですよ。
国家を持たなかったユダヤ人がどんな悲劇に遭ったか、
クルド人がなぜ年中いじめられているか。


政治学でも、国家の本質は悪だと割りきって
理解されてると思います。
   ↑
していません。
一度政治学の教科書を読んでみて下さい。


その国家の権威の中枢に、愛を説くキリスト教とその教会が
位置していたワケですよね?これって普通に
考えて究極の矛盾ですよね?
    ↑
国家の統治の技術として宗教があるわけです。
また、人民の幸福を最大限図るツールとしての
国家ということを考えると、矛盾しません。
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全く矛盾は、ない。


何故なら。キリスト教は、キリスト教徒の利益のみを追求する教義を持つからです。国が国教としてキリスト教義に則るのなら、国がキリスト教徒の利益を保証するというだけ。現世界に蔓延る資本主義社会もキリスト教の産物です。神がそれを予定するのです。
キリスト教の教義は、福音書に書かれてある事が全て。神が、かの土地へ行きそこの先住民を皆殺しにして、その土地を我が物にしろと言っている、と預言者が伝えたならば、その通りにするのが、敬虔なキリスト教徒であり、それが愛(アガペー)なのですよ。ヨシュア記にそう書いてあるからね。侵略し虐殺し略奪し、奴隷を売買するのも、愛(アガペー)なのです。
日本人が、このアガペーを愛と訳してしまったから、あなたは混乱するのですね。この愛は、キリスト教独特のもので、私達が使うような意味ではないのです。アガペーとは、無条件、無限が機能する事です。それが機能するのが、キリスト教の奇蹟です。
キリスト教を、日本人が理解するのは難しい。日本人にとって、キリスト教の神は、沢山いる神のひとりに過ぎないが、キリスト教とその教徒にとって、唯一絶対の神で、これ以外の神などいませんからね。その神は予定を示す神でして、キリスト教徒はその予定に従うのです。
神は、救われる者と救われない者を予め決定している。あなたが明日から、キリスト教徒になったところで、「悔い改めよ」という神の声を聞くことが出来なかったら、救われないのです。「悔い改めよ、されば救われん」は、悔い改めたら救われる、という意味ではなくて、「悔い改めよ」という神の声の届いた人は既に救われている、それは神の予定通りということです。ですので、救われるべきキリスト教徒は、悔い改める必要もなければ、その行いを正す必要もない。神の予定さえ、信じていればいいんです。福音書に書いてある事の全てを疑わずに信じる事が出来れば、いいんです。
で、キリスト教徒にとって、現世は神が人に与えた罰だから、この世を正しくしようとなんて、思わないのです。この世の苦難は神の罰だからです。富める者も、貧する者も、それは神の予定。それを人ごときが操作するなど神への冒涜なのです。神のおわす楽園へ帰れる日まで、神の予定を信じるのみなのです。それが、人の罪の全てを贖った、キリストの奇蹟だから。その契約を果たすのみなのです。キリストを仲介者として、神と契約するのがキリスト教徒です。
キリスト教の理解が皆無なあなたにどのように説明するのか大変迷いましたが、本質のみを書くことにしました。
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