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デカルトは世界を認識するもの(主体)と認識されるもの(客体)に分けて考えます。

デカルトは「意識」を発見したとも言われています。

意識が対象を認識するというのは、現代に生きる我々からしたら、ある意味当たり前のことだと思うのですが、

そこで、疑問なのが、私は、デカルト以前の世界を想像しにくいのです。

主観と客観が分かれていない世界(デカルト以前)とは具体的に言うと、どんな世界でしょうか?

A 回答 (1件)

意識と言うのは、自分の心の状態を知ると言う事だと思います。


だから“認識した事を意識した”と言う表現が正しい様に思います。

感覚が物事を認識し、その事を意識した、と成ります。
人間以外の動物は、認識はするけど、その事を意識する能力はない、と言う訳です。

デカルト以前の哲学が主観と客観がが分かれていなかったのか、或いはすでに分かれていたのか無知だから知りませんが、日常の生活で主観だの客観だのと意識するような事が無いところを見れば、具体的ではないけれど、「脳外の出来事」と言って見たいです。
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Q原爆はデカルトがつくった?

原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。
デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。

もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、
近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かったことを言い出したことが、本質的に重要なことだと思います。この神懸かりは多分西洋文化を除いて、他の文化には出て来なかった不思議な視点だと思います。確かに、ピタゴラスがそのことについて触れておりますが、ギリシャも凋落し、アラビヤが辛うじてギリシャやローマの知的集積を細々と伝えていた状況でした。やはり、それより千数百年を隔てたガリレオの数学に対する神懸かりを待つしか無かったのでしょう。ガリレオがその当時知っていた数学は、現在日本で言う、足し算引き算掛け算割り算の算数と、幾何学と言う超初等的な数学だけでした。微分積分などの高度な数学は、ガリレオより数十年後に生まれたニュートンを待たなくては,生まれて来ませんでした。こんな未熟な算数しか知らないガリレオが、「数学は自然を記述する言語である」などと、ほとんど証拠もなしに言い出し狂気が、現在の技術と原爆への道を切り開いたのです。デカルトは、ガリレオの引いたレールの延長上を歩いていただけです。

また、近代科学と近代資本主義を並列に置くとは、何とも乱暴な対置ですね。例えば、現在の銀行制度のほとんど全ての制度が、戦国時代の堺の町で存在していたそうです。その堺人で知らなかった制度はクレジットカードだけでした。何故なら、その時代まだプラスティックが発明されていなかったからだ、という古典的なジョークがあるくらいです。

金儲けの資本主義制度と、科学的認識を一緒くたにするとは、何ともはや、乱暴と言うか、物の本質を見ていない見解ですね。経済活動は合理的でなくては出来ませんが、必ずしも科学的でなければ出来ないわけではありません。非科学的ではあるが合理的である社会の良い例が、現在のアメリカです。今現在アメリカ人の80%以上がダーウインの進化論を認めておらず、キリスト教の神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。しかし、アメリカ人は本質的にビジネスマンですので、彼らは大変合理的です。合理的でなければ,ビジネスは出来ませんからね。また、経済活動は軍事力の発展も促すのもであり、その結果、欧米が経済的にも軍事的にも覇を握っているのです。覇権を握っていることと、高度な知的文化を持っていることを混同しては行けません。

こと程左様に科学的であるとこと、合理的であることは,同じことではないのです。それなら何処が違うのか、質問者さんご自身でその答えを見付けて下さい。我々は、科学的な社会を目指しているのか、合理的な社会を目指しているのか、それともそれとは何か違った社会を目指しているのか、面白い問題ですね。

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かっ...続きを読む

Q主観世界と客観世界を足すと。

こちらのカテか迷いますが。アンケートなのかもしれませんが、前に近い質問もしてるのですが再度。
話はまず、この世界を大きく分けるとすると、主観世界と客観世界に分けられると思います。
逆に主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在です。
そういう話を前提として、主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけることにつながるだろうと直感的に思い、ずっと昔考え始めました。今では一応の結論もでています。
が、あまり他の人の話を聞いたことがないのです。また同じ意見の人も探しましたが今のところ見つかりません。自分では主観論理学などと勝手に名づけてます。
なので、上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?意見が聞いてみたいです。

主要な結論として、主観世界では、存在=関係、と言うものがあります。存在と関係は等価で、この関係は直感的に人の脳には把握できないものであると言うものです。四次元立方体を直感できる人がいないように。物質とエネルギーが等価で、それが直感には響かないように。
もちろん、存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。(最近ミラー細胞なるものが発見されたらしく興味もってます)

こんな感じの(流れの)、話なんですが、なんといいますか、そもそもあまり関心をもってくれる人も周りにいない感じで、皆さんはこういう話を聞いてどう思われるのでしょうか?
あるいは同じようなあるいは逆の考えなど持ったかたおられましたら聞かせてほしいのですが。
よろしくお願いします。

こちらのカテか迷いますが。アンケートなのかもしれませんが、前に近い質問もしてるのですが再度。
話はまず、この世界を大きく分けるとすると、主観世界と客観世界に分けられると思います。
逆に主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在です。
そういう話を前提として、主観性と客観性の関係について(主観客観それぞれの性質とその関係について)考えることは、この世のありとあらゆるものを含む体系の法則ルールを見つけ...続きを読む

Aベストアンサー

~外界を見ている目玉自身は、自分を見ることができない~

>上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?

正直申し上げて、ちょっとマズいかなぁという感じのみがします。。。他の御回答者様からも御指摘が挙がっているようですが。
「主観世界と客観世界を足したものの存在」と仰いますが「足す」というのは、どのようにして、なのでしょうか?それは確かに可能なことだと思われますか?不可能だとすれば「存在」とは?
>存在も関係も、その言葉の定義を厳密にしないと意味のない話ですし、実際厳密に定義できます。

ならばまず、その定義(御質問者によるところの、ですね)を明らかにし、また、仰るところの「主観論理学」とやらの要点を先に御説明のうえで質問なされたほうがよかったかもしれません。このままでは「同じようなあるいは逆の考え」も述べようがないですね。。。「関心を持ってくれる人が周りにいない」としたら、このへんが原因なのではないでしょうか。独りよがりに陥っていると、やはり関心やら共感やらは得にくいものだと思います。相手の本意は無視して、こちらのつごうに従って勝手に述べるというやりかたもあるにはありますが、それじゃQ&Aの意義がありませんしね。一見コミュニケーションの形式をとっているかにみえて、その実は、お互い、あさってのほうを向いてブツブツ言ってるだけになっちゃいそうですし。相手の言わんとすることなど二の次三の次、つごうの悪い事は一切耳を塞いで自分の言いたいことだけ言わせてくれ分かってくれというのは幼稚な自己中心に過ぎますし。それだとムナシイですよね?察しがいいとか悪いとかいうのは別次元の問題です。

>主観世界と客観世界を足したものの存在を考えると、それはこの世のすべてを含む、まさにこの世のすべてのすべて、と言うべき存在

所詮、我々は「主観の檻のなかから抜け出られぬ者」であると言います。であれば、そういう者なのだということを見据える、そこから出発する。そこが重要ではないでしょうか。おそらく他者に対する倫理というものも、その姿勢の如何に関わってくるものだと思います。ですから存在・認識・倫理というのは切っても切れない一連の繋がりを持っていると思います。
ANo.9~12さんの御投稿は引用のなさりかたに問題がないのかどうか分かりませんが、普段、難しい本など一切読まない私としては、興味深く参考になりました。


ところでMクンデラの作品で、女がメタファーを使うとき、それは危険であり、愛の始まりなのである、ということが述べてあるそうですが、なるほどねぇ、と思いました(笑)
メタファーは願望の隠れ蓑であり、言い訳の道具にもできる。一般的に女という者は願望を隠しながら叶えたがる、それは他者によって叶えられなければならない、ゆえに受身的であり支配的である。そして不当な願いであることに気づいているがゆえ言い訳が多いものだ(笑)だから言い訳の多い男は「女々しい」と蔑まれることになる(笑)

御参考になりますやら?
過去質問から『視線の哲学 再版』
http://personal.okwave.jp/qa1281745.html
『存在の耐えられない軽さ』について
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0360.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yo-ta/words/words_miran.htm
『毎日の言葉』(柳田国男、新潮文庫)
『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(沖浦和光、文春新書)
『道化の民俗学』(山口昌男、岩波現代文庫)
『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディ・ムーア、矢野真千子訳、河出書房新社)
『グロテスク(上・下)』(桐野夏生、文春文庫)
『掟の門』~『カフカ短篇集』(フランツ・カフカ、池内紀編訳、岩波文庫)等々の書評、知的でオモシロく、私も参考にさせていただいてます。↓
http://blog.goo.ne.jp/jinfrusciante
『表象の光学』の著者小林康夫氏のブログ↓
http://www.suiseisha.net/tsushin/vol02/kobayashi01.html

コトバというのは、その「選びかた」に、まず意味があるのです。それは、その個人の内面世界―願望をも示します。ですから、どう選んでいくか段階を追うごとに即ち、その個人の内面世界の変遷を追っていることになります。だからコワイものなのです。ヘタすると全部バレちまう。たとえコトバ遊びであっても!

~外界を見ている目玉自身は、自分を見ることができない~

>上記のような考えのはじめ方、考え方の方向進め方について、他の人はどう思われるでしょうか?

正直申し上げて、ちょっとマズいかなぁという感じのみがします。。。他の御回答者様からも御指摘が挙がっているようですが。
「主観世界と客観世界を足したものの存在」と仰いますが「足す」というのは、どのようにして、なのでしょうか?それは確かに可能なことだと思われますか?不可能だとすれば「存在」とは?
>存在も関係も、その言葉の定義を...続きを読む

Qスピノザについて

哲学者のスピノザについていろいろと詳しく教えてください

Aベストアンサー

 
スピノザは、バルーフ・デ・スピノザと云い(ラテン語名は、ベネディクトゥク・デ・スピノーザ)、「明晰判明な判断」と「懐疑」の哲学者ルネ・デカルトと同じ頃の人です。

スピノザは、先祖がポルトガル出身で、オランダ生まれのユダヤ人で、若い頃から天才をうたわれ、ユダヤ神学界では、若きスピノザに期待するところが非常に大きかったとされます。

しかし、スピノザは独自の思索を続け、重ねて行くに連れ、伝統的なユダヤ教の教義や神学と、自分の思想が矛盾することを見いだしました。スピノザは、ユダヤ教の神の否定につながる主張を明確にします。

ユダヤ教指導者たちは、スピノザに様々に説得を試みますが、スピノザは態度や考えを変えることがなく、遂に、ユダヤ教指導者は、スピノザを神学教団から追放する決定をします。これは、当時たいへんな決定であったので、自己の存在基盤が、社会的に一切失われることをも意味します。

スピノザはオランダで、隠棲と思索の生活を続けます。社会的基盤をスピノザは失ったので、スピノザは、相当に生活に困窮したろうという考えがあり、貧困のなかで、レンズを磨いて(レンズを製作して)生計を稼ぎながら、思索を続けたという話が伝わっています。

しかしスピノザは、確かにレンズも磨いていたようですが、貧困とか困窮という状態ではなく、彼を評価する後援者や庇護者がおり、不断は慎ましやかな生活でも、結構、経済的に困らないだけの財産を持っていたとされます。

スピノザは、観照の思索を行う隠者のような人物の印象があるのですが、確かに、孤独で、深く思索を積み上げて行った人ですが、別に人間嫌いではなく、交友関係も国際的に広く、当時の哲学者や政治家たちとの交流も持っていました。

また彼は「行動の人」でもあり、その「倫理」の銘ずるところ、自己の生命を賭けても、ある災禍(戦争・内乱など)を防ごうと、単身、有力政治家に会見にでかけたこともあります。政治家が、目的とした場所にいなかったので、スピノザの活動は歴史に残っていませんが、そういう行動の人でもあったのです。

そこで、スピノザが築き上げた思索はどのようなものであったかと云うと、或る意味、この時代を超えていたとも言えます。デカルトは、中世哲学の「信仰」との調和を念頭した思考法を批判し(と云っても、彼が批判したのは、晩期スコラ哲学と呼ばれるもので、スワレスらが代表していた考えで、これは、13世紀前後の盛期スコラ哲学とは、相当に違うもので、デカルトは「中世」を乗り越えたつもりで、実は、晩期中世の思想に対峙していたのです)。

デカルトは、信仰の真理ではなく、「理性」の明晰判明な判断、論理的な理性的思索こそが、哲学にとって必須なものであるとし、「理性」の哲学、理性の世界認識の方法を提示します。これを、近世哲学の端緒とも見るのですが、デカルトはまた、ライプニッツらと共に、「大陸合理主義」の始祖ともなります。

大陸合理主義は、イギリス経験論哲学に対立して語られるもので、ヒューム、ロック、バークリーらが代表していた、イギリスのこの思想潮流は、その後、大きな意味を持ってきます。

しかし、そういう話ではないので、デカルトが「理性」を重んじたと同様、スピノザも理性を重んじ、論理学的に思索することが、至高の思索の方法であるとします。特に、「数学」は、論理のなかの論理で、数学こそ、理性の結晶であるとの考えを持っていました。

デカルトは、スコラ哲学の概念である「延長実体」と「思惟実体」を、純粋化してとりあげます。延長実体とは、広がりのあるもので、つまり「物質」のことです、思惟実体とは、意識や思考を持つ何かで、これは「精神」のことです。

デカルトは物質と精神を峻別します。それらは、それぞれ別の合理的法則でこの世にあるのだとします。しかし、物質と精神が完全に独立だとすると、何故、精神が物質の世界を認識できるのか、また何故、精神が物質の世界に影響を与えることができるのか分からなくなります。

デカルトは、精神と物質は独立した実体であるが、例外的に、人間の大脳のある場所で、両者が交差しているとしました。この辺りの話は複雑になります。

しかし、デカルトの合理主義では、善や倫理をうまく根拠付けることができなかったのです。合理論のカントは、理性には、実践理性があると主張し、あるいは「実践理性」を発明し、実践理性の原理には、善や倫理を志向する法則があるのだとします。

スピノザの思想は、最初から、この善や倫理の問題を、どう解決するかに関わっていました。彼の主著は、『エティカ』と云いますが、Ethica とは、「倫理学」という意味です。

「エティカ」において、スピノザは、世界を構成している物質や精神という「実体」についての考察・吟味から始めます。ここの辺りは、デカルトの考えに似ているのです。精神と物質という二つの実体があるのだ、という前提で話が進みます。

しかし、スピノザは「実体」という概念を、非常に厳密に定義します。スピノザの定義からは、精神と物質は、実は実体ではない、という結果になります。それは、根源の実体の二つの属性における「様態(モード), modus」であるとスピノザは主張します。

スピノザは、実体は、存在世界にただ一種類しかなく、それは無限の実体で、無限のモードを持った実体だとします。デカルトの合理論が、二元論なら、スピノザの世界合理論は、無限モード実体論ということになります。

無限のモードを持つこの実体を、スピノザは、「自然 Natura」と呼びます。人間には、何故、物質と精神しか認識できないかと云えば、人間が、モードにおいて有限で、精神と物質の二つのモードしか持っていないため、無限の実体である「自然」を真に知ることができないのだとします。

スピノザは、モードである物質と、モードである精神について、その法則を考察し、人間の感情や、価値意識や、精神の現象よ呼べるものを、整然と分類し、整理して行きます。

こうして、スピノザは、物質モードにおける自然の「必然法則」というものを主張し、また精神モードにおける自然の「必然法則」を主張します。しかし、この二種類の法則は、実は、「永遠の相のもと」では、「自然」の持つ必然法則の二つの側面でしかないのです。

スピノザは無限のモードを持つ唯一の実体を、「自然 Natura」と呼びましたが、またこの実体を「神 Deus」とも呼びます。世界の存在や現象は、人間の認識できるものもできないものも、一切は、この唯一の無限の実体にして「必然法則」を備える「神即自然 Deus sive Natura」の変容顕現だとします。

これがスピノザの「汎神論的一元論」です。この考察の結果として、スピノザの哲学では、「必然法則」に従うことが、倫理的法則に適い、かつ神の法則にも適い、これが人間の最高の「自由」であるとなります。

スピノザの思想は、必然であることが自由であるという「汎神論的一元論」で、それはまた「倫理学」でもあるのであり、スピノザは、彼の云う「神」に論理的信頼を置き、それは「神=自然」に陶酔しているようにも見えるので、スピノザを「神に酔える人」とも評します。

なお、スピノザの思想は、神秘主義的な面もあるのですが、彼自身は、理性主義で、合理的論理的であると確信していました。彼の汎神論的一元論は、「純粋論理」の思索の結果であると彼は考え主張しました。

「エティカ」の構成は、エクレイデスの「幾何学原論」と同じような体裁を取っており、無定義概念、公理、公準が並び、これらに基づいて、スピノザは、或る命題を一つ一つ、論証して吟味して行き、その結論が証明されたと最後に述べ、「QED」の文字を置きます。

一つ一つの命題を、彼は「定理」と呼び、彼の「汎神論的一元論」は、公理的・幾何学的秩序において証明されたものであると、スピノザは主張しました(彼の「エティカ」は、公理論的体系を持つ数学の本の形を取っているのです)。

スピノザの必然法則が自由であるという「一元論」は、彼の「神=自然」を、「物質」と置くと、マルクシズムの弁証法的唯物論の世界論とよく似ており、また、現代の物理学が構想する哲学的な世界論ともよく似ています。

スピノザの主張は、必ずしも純論理的ではなく、直観的でもあったのですが、スピノザの思想の重要性は、あらためて現代において見直されているとも云えます。
 

 
スピノザは、バルーフ・デ・スピノザと云い(ラテン語名は、ベネディクトゥク・デ・スピノーザ)、「明晰判明な判断」と「懐疑」の哲学者ルネ・デカルトと同じ頃の人です。

スピノザは、先祖がポルトガル出身で、オランダ生まれのユダヤ人で、若い頃から天才をうたわれ、ユダヤ神学界では、若きスピノザに期待するところが非常に大きかったとされます。

しかし、スピノザは独自の思索を続け、重ねて行くに連れ、伝統的なユダヤ教の教義や神学と、自分の思想が矛盾することを見いだしました。スピノザは...続きを読む

Q内観は主観か客観か

内観は主観か客観か・・・
案外答えに困りますよねぇ

Aベストアンサー

主観が内証として自ら自身と距離を置いて観ることに
「客観的」と名前が付いている訳ですから、形態になると思います。
より第三者的な眼を持つことを、どちらかに振り分けるのも変な話しかもしれません。

さて、けなされつつもベストアンサーは、自らの削除でしょうか?

Q主観世界の性質

こんばんは。

主観世界の性質について考えてるんですが、
以下、今のところの考えです。
他の方のご意見を伺いたくて質問させてください。

1.主観世界は、基本的に客観世界と同じ性質~時間空間、明るさを持っている。ただ、客観世界のようには数字では表現できないが、同じ時空間。

2.精神的変動があるときは、在来自分がいた主観世界を出て、新しい主観世界に入る。

3. その主観世界を移動するとき、主観世界の壁を越える。

4.壁を越えるときに感じる主観世界の壁面の性質は、無限、絶対、循環、という3つの感覚のどれか。

4-2.逆に言うと、普通の主観世界は、有限、相対、把握、が主な性質。

5.主観世界の移動は、集中の質の変化に対応している。

6.主観世界の違いは、無限の質=次元の感覚、の違い。

7.次元の感覚、とは、自己を内に含むところの存在に対する感覚

8.一つの主観世界には、一つの人格が対応している。

9.素の自分の人格以外は、すべて他人と共有する人格になる。なので、それに対応する主観世界も同じ。



以上思いつくまま書いたのですが、まだまとまってません。
要領を得ない箇条書きですが、まだ途中です。
基本、とりあえず論理的に構成したいと思ってます。
構成要素は、純粋に現実に観察できる主観の感覚を使ってます。

何か引っかかることがあれば、ご意見聞かせてください。直接関係なくてもかまいません。
よろしくお願いします。

こんばんは。

主観世界の性質について考えてるんですが、
以下、今のところの考えです。
他の方のご意見を伺いたくて質問させてください。

1.主観世界は、基本的に客観世界と同じ性質~時間空間、明るさを持っている。ただ、客観世界のようには数字では表現できないが、同じ時空間。

2.精神的変動があるときは、在来自分がいた主観世界を出て、新しい主観世界に入る。

3. その主観世界を移動するとき、主観世界の壁を越える。

4.壁を越えるときに感じる主観世界の壁面の性質は、無限、絶...続きを読む

Aベストアンサー

主観世界というのは脳の中で起こっている現象と考えれば客観的に取り扱えると思います。しかしこの現象は脳の外の世界(客観世界)を理解するための論理の対象になるかどうかはたいへん疑わしいのではないでしょうか。つまり我々が日常使っているような言語で構築できるような世界ではないと思います。想像するに超絶的に難しい数学のようなものでしか表現できないものではないでしょうか。論理的構成といっても日常会話の単なる延長のようなものでは荒っぽいたとえ話のようなものになってしまって所期の目的には到底適わないように思います。

Q人の主観を客観的に判断する方法はありますか?

医療関係で人に関わる専門職をしています。

私たちが関わる仕事はその対象者が私たちのアプローチを受けて満足したかどうかで結果が左右されます。

しかし、その満足度を客観的に評価することに苦慮しています。

笑顔が増えたとか、知人に良いと話していたとか・・・

私たちのアプローチの効果を知るために、つまりその対象者の主観を客観的にとらえる方法はあるでしょうか?

今は、主観的情報としてその人の発言、表情、第三者からの情報、その人を見る私たちの視点、そして、客観的な情報として医療情報、検査結果等を総合的に照らし合わせて、この人はこう思っているようだ、と判断しています。

しかし、こういうやりかたしかないのでしょうか?

Aベストアンサー

あと、構造構成主義というアプローチも一つの手段として可能かと存じます。

参考URL:http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Qスピノザの神とは何でしょうか?

「アインシュタインロマン」というビデオの中で、アインシュタインが、
「存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない」といっていました。
ここでいうスピノザの神とは何でしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

昔読んだスピノザの著書「神学・政治論」には、
『自然界の様々な現象の驚くべき秩序や調和はまさに神秘的な域に達している→これを「神」と考え、それに従って生活する人が真に宗教的にも正しい人間であり、自然現象にあれこれと解釈を付けて神話や経典にしたものは、人間の(特に多くの無知な人々の)行動を誤らせ、不幸せにする。』
というようなことが書かれていたと思います。

Q悟りとは主観と客観の一致である。

ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。

これについて、自由な意見をお待ちしています。

Aベストアンサー

#4さんのお礼欄によれば、森田療法の森田博士の言葉ということですが、
その解釈に限れば、意味はさほど広くありません。
自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。

砕啄同時といって、
雛が卵の中から「狭いよう、苦しいよう、やってらんないよう」と力任せに殻をコツコツし始めると、
親鳥が「もう卵から出る頃かな」と嘴で殻をコツコツしながらついばんでやるのです。
期が満ちて、そのときが来ると、殻を破るためには中と外で同時に働きかけがあるということです。

西洋の精神療法に比べ、森田博士は、主観・観念の打ち消しや矯正をはからないのが特色です。
思い込み、病のなかにある思考や判断といったものが、事実でないことを事実と思い込む、
そのような主観を捩じ伏せることなく、
自然に主観を離れられるような心のしつけを繰り返して、客観的な事実をありのままに素直に受け入れる時期が来る。
粘土をこねながら粘土になりきるかのごとく、闇鍋みたいな心の中を見つめていないでありのままの事実を見られるようになる時が来る、
ご質問のくだりはその程度の意味だと思います。


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