「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

第一次世界大戦はそれまでの戦争とどんな点が違ったのか。

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A 回答 (6件)

第一次世界大戦はそれまでの戦争と違って、大規模・広範囲の戦争としては、20世紀に入って初めてのものでした。

 20世紀には、その後も大規模・広範囲の戦争が起きたので、20世紀第一回目を第一次世界大戦、第二回目を第二次世界大戦と呼びます。 ベトナム戦争も長いですが、戦闘地域がそれほど広くないので世界大戦にはなりません。 過去にも、アレクサンドロスの起こした戦争、モンゴルの起こした戦争、オスマントルコの起こした戦争、ヨーロッパの七年戦争、ナポレオンの起こした戦争など、その当時の世界からすれば広範囲で甚大な影響を世界・社会にもたらした戦争はありますが、20世紀の戦争ではないので、世界大戦とは言いません。 (普仏戦争も影響は大きいですが、期間が短いし、19世紀です)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C …
王家、王朝が勢力争いをしたのか、国民国家が争ったのか、徴兵制の軍があったのかなどは、歴史的経過で社会体制が変わっていれば当然のことで、有名な戦争はその当時の社会としては最強に近い軍事組織が最新の強力な武器を使い、(王家や王朝、主権国家や国民国家の)総力を駆使して存亡消長を懸けているので、大きな影響が社会全体にでるし、負ければ当然ですが、勝っても政治構造や社会体制に変化を生じるのが普通です。飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器が出現し、国民国家では「国の戦いというモチベーション」が働いたでしょうが、それはそうした時代になっていたからです。
21世紀に大規模・広範囲な戦闘が長い期間起きれば、世界大戦とは言わずに、社会戦争と呼ぶかもしれません。もう、国家間の戦いではなくて、貧富や格差がバックにあって経済社会の既存秩序に対する怒りと反撃になってしまいそう。もう、民族、主権、宗教、国家、領土というものでもない「世界社会戦争」が東アジア、中東、アフリカ、アメリカなどで始まりつつあるのかもしれません。 きっと、長くて広範囲の始まりも終わりもはっきりしない、どことどこが戦っているのかもはっきりしない戦争になって行きそうな気がします。
~~~~~~~~~~~~~~~~
政治社会経済体制(専制国家、国民国家、社会主義、資本主義、宗教)が大きく関わって20世紀初頭に第一次世界大戦後の社会の変革や国際体制の新しいものが形成されたように、第一次世界大戦後も色々の変化が起きました。21世紀初頭に世界社会戦争が起きる(起きている)とするなら、その終了にあたっては20世紀の国民国家体制や宗教の社会的位置づけも大きく変わるのかもしれません。もう国家による国民統合や国家間の協調連携を主眼に考えるような社会ではなくなっていますから。
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主に兵器の面だけ。


 陸では特に機関銃が登場し、それまでの横隊や縦隊突撃のように兵士が密集して行動するかたちでは存在が莫大になることがわかったため、散兵・塹壕戦といったかたちに戦術が変化した。この塹壕を突破するための兵器として戦車も生まれた。また航空機がはじめて本格的に投入されるようになった。
 海では潜水艦が登場し通商破壊戦に大きな威力を発揮した。またユトランド沖で主力艦同士の砲撃戦が発生、その後の戦艦の設計に大きな影響を及ぼした。
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第一次世界大戦は、それまでの戦争とは、


戦い方も規模も大きく異なっていました。

1,大規模な戦争になりました。

ロシアとヨーロッパの列強、後に日本やアメリカが加わり、
世界が2つに分かれて戦った戦争だったんです。
しかも、悲惨な戦争でした。


2,どういう点が悲惨だったか。

戦場には、当時最新兵器だった戦車や飛行機、潜水艦などが
登場しました。さらには、毒ガスなどの大量殺りく兵器も
使われ、多くの戦死者が出ます。
第一次世界大戦は、産業革命で始まった大量生産、
大量消費が持ち込まれた戦争でもありました。



3,どういう戦い方の特徴があったのか。

各国は短期間で軍需物資を使い果たしたため、勝敗は
それぞれの国の生産力に左右されるようになります。
すべての物資や労働力を戦争につぎ込む総力戦の体制がしかれ、
女性も労働に駆り出されました。



4,どういう効果を生み出したか。

この総力戦は、ロシアに大きな打撃を与えました。
近代化に遅れをとっていたロシアに、総力戦に耐えられる
国内体制は整っていなかったのです。街からは生活物資が消え、
人々は苦しい生活を強いられました。
そこへレーニンが登場し、ロシアに社会主義革命が
起こったわけです。
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世界大戦というぐらいだから、戦闘可能な国がほぼ全て参戦。


戦場がヨーロッパだから、まさか日本は関係ないだろうと思いきや、ドサクサ紛れに中国大陸で要所を占領してたりして。。。

兵器開発、工場で武器弾薬を製造して戦地に送る生産力も含めての総力戦も、この戦争から。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2016/04/04 18:48

NHKオンデマンドですが、これを見ればよくわかると思います。



https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2015065575SA0 …
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2015064809SA0 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2016/04/04 18:49

兵器に関する部分では、近代兵器が登場してきた。


飛行機、戦車、潜水艦等、毒ガスも大使用された。

また、一般市民を巻き込む戦略的な兵器運用も行われた。
飛行機・飛行船による敵都市への爆撃、パリ砲による長距離砲撃等。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2016/04/04 18:49

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Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む


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