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(かなり昔、何千年も昔からある風習だと思いますが、)人は仏前や墓前に花を供えてそれを供養します。この行いの動機や意味、またそれを花でもって為すのは何故か、という事を問いたいと思います。
私は、花でもってそれを飾ると言うのは人のやさしさの表れと思うのですが、廃れた墓を綺麗に掃除し、花をもってそれを供養することで、供養した人の方が、(心に)笑みや満足を得て帰って行っている様に思えます。ある人にとっては問うまでもない当たり前の事かもしれませんが、その意味を言葉にするとどうなるのでしょう。
その花や行為には何が込められておるのでしょうか。
人間にとって死とは何であるのでしょうか。
質問するかしないか数週間迷っていたのですが、上述の様なこと、皆様に質問して回答をあおぎたいと思います。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 人が金銀、宝石などで廟や仏像を飾り、また、それをたった一輪の花で供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう、と記述してあるのは法華経ですが、これは約二千年ほど昔からある経典ですので、ここに記載されている風習の起源はもっと年代を遡る事になると思います。また、ロボットが墓碑に花を手向けるシーンが印象的だった天空の城ラピュタなどを見るにつけ、この行為がとても素朴な事であると私は思いました。もしかすれば、数千年と言わず、数万年の昔からこの行為は為されてきたのではないかとさえ思います。一先ず補足させて頂きます。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/09 15:33
  • この場をお借りして、ご回答いただけた皆様に御礼を述べたく思います。
    この度の質問にご回答下さりありがとうございました。
    ただ、どのご回答をBAにするか迷っており、もうしばらく考えたいと思います。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/16 18:32
  • この場を借りてBAを決めた流れを述べたいと思います。
    自然な気持ちを素直に述べてくれた回答、自然の成り立ちからアプローチした回答、論理的にその理由を探るのが難しい事を述べてくれた回答、日本文化から考えて下さった回答などなど、色々聴く事ができて良かったです。
    私の気持ちとしては、一番合点の行く、自然な気持ちを述べていたただいた回答群の中から選びたいなと思うのですが、あくまでもそれは私の個人的な性向によるものであって、頂いたご回答それぞれに分があることを忘れて居るわけではありませんのでご了承下さい。敢えて自然な気持ちを外して回答して下さった方もおられると思います。

    、、、という事で、一番新しい23番さんの回答が纏まっていて良かったので、これをBAとさせていただきます。
    ありがとうございました。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/18 15:44

A 回答 (23件中1~10件)

いろいろな方がご意見されているので、同じような回答もあったかもしれませんが、墓前に花を供えるのは、ここに眠っている人を大切に想っていますよという気持ちを形にするため、かなと思います。

亡くなった人にキレイなものを捧げて、故人の気持ちを慰めたいし、それによって自分の心も慰められたいという感じでしょうか。だから、キレイなものであれば花でも宝石でも、大切にしている小物や雑貨でもいいのではないかと思うのですが、花が一番手軽かなと思います。もともとはお釈迦様のいる浄土を模すという意味があったのかなとも考えてます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

なるほど、とても自然なご回答だと思います。実際、色々なご回答を頂いて、予想以上に多様な考えを聞く事が出来、自分の思っているのとは随分違う所を見る方も居られるのだなと一種驚きがありました。

故人、既に亡くなった人に花を捧げる気持ちと言うのはとても素朴なもので、古今東西あちこちに見られる普遍的な行為であると思い、何故人間はその様な行為をし、或いはその様な気持ちを持つのだろうと思っての質問でした。故人だけでなく自身にとっても慰めになるというのは一つの回答であり、その行為が行為者の胸に安らぎをもたらすものであると言うのは、私も思うところなのでした。

お礼日時:2016/05/17 14:54

なかなか通じないので、最初から書き直します。


①人は仏前や墓前に花を供えてそれを供養します。廃れた墓を綺麗に掃除し、花をもってそれを供養することで、供養した人の方が、(心に)笑みや満足を得て帰って行っている様に思えます。 ❶そう思えるのであれば、その行為をしている人が自己満足していると思っているのと同じだと思います。花を使うのは、そうするのがその人の固定観念になっているからでしょう。 故人の好きな食べ物を供物にする人も、手を合わせ目をつむり頭を下げる人も、経を唱える人もいます。 墓参では花を手向け、線香を焚くと思っているからでしょうし、掃き清めるのが《まっとうなやり方》と思っていれば、片手だけを挙げる、汚いママで放置する、雑談をしながら花を置くのは《いい加減で許せない気がしてしまう。参るからには正式に一応完遂したと自分が納得するレベル・満足できるだけのことをする》という傾向を多くに人が持っているからでしょう。墓参しないならしないで済ませるが、墓参するからには《ちゃんとやる》という行動を多くの人がします。料理する、仕事する、ゲームするなどでも同じようなことはあり、やらないでもいるが、やるときには通常の慣習や手順、ルールに従ってやるというのが普通です。 花で飾るか、灯明や電飾で飾るかは、経や呪マントラを使うか、専門の僧に供養を頼むかは、その人が育った社会からしきたりとして学習した結果なのでしょう。 これが「仏前や墓前に花を供える人が多くいる」事情であり理由です。

②墓参するのは何故か、墓参するとき類似の行為(Aさんは高い花束を使うが清掃はそれほど徹底はしてない。Bさんは隅々まで徹底的に清掃し磨き上げる線香もブランドものを使うが花は自宅から持って来る)を繰り返すのは何故か ❷墓参にも頻度の個人差があります。自宅の位牌や仏壇を毎日拝み、閼伽や飯を毎日替えるが、花は数日ごとに替える人もいれば、仏壇は持ってない人、毎月の命日に墓参にいく人もいます。それは優しさの程度に違いがあるためというよりは、その人の習慣や癖のようなものです。靴や服、バッグをどのくらい買うか、文具をむやみと買う、人形やぬいぐるみを部屋一杯に持っている人や、そうしたことには関心がない人がいるのと同じです。ガーデニングや生け花を絶やさない人が、そうではない人よりも優しさを持っているという意見を出すひとは少ないでしょう。花それ自体、あるいは花を手向ける行為、花束を贈る行為も、それそのもの、行為そのものに中に自律的?自立的?な固有の意味はないと思います。花嫁の花束、母の日の花、食卓の上の花、選挙事務所の花も、その社会が作り上げた習慣が持たせている人為的な意味だと考える方が正鵠を射るに近いでしょう。

③優しさとはどのような概念なのか ❸頑固さ、厳しさ、軟弱さ、冷酷さ、優しさなどは、行為・発言・書き物・表情・声のトーン・態度・状況への対応方法などの傾向を分類してその性質を名詞として使えるようにした概念だと思います。 「彼の非情さが彼女を苦しめた」「彼女の優しさが彼の頑なな心をゆっくり解きほぐした」のように、《【優しい】行為・発言・書き物・表情・声のトーン・態度・状況への対応方法など》が相手や他人、周囲に影響を与えるという説明や表現はあります。 《彼の優しい心が彼の態度を柔らかにしている》という表現もありますが、これは修辞表現であって、行為・発言・書き物・表情・声のトーン・態度・状況への対応方法などとは別のものとして、優しい心だけがあるということはないと思います。優しい行動や発言の仕方ということに関して知識経験がある場合、そうした行動や発言の仕方を自分もしたいと考えている場合に、「自分にも優しい心はあるんだ」という言い方は可能ですが、心そのものを測る方法はなく、修辞表現で「優しい心」といっているだけだと思います。花で飾る、花を贈るなどの行為をみて、優しい心があったんだと表現するのは構わないですが、{「優しい心があった」それが………の結果「花で飾る、花を贈るなどの行為を引きおこした」}と原因-結果の因果メカニズムとして説明するようなことは、もともと無理だと思います。
「心を基点にして、~~の心が××を起こした」と説明するのは、しばしば見受けられる説明ですが、実質的な因果説明にはなってないのがほとんどだと思います。 ついでにいうなら、「心のストレスが××を起こした」というのも、「心のストレス」の実体を抜き出して説明できて、その実体がどういう機序を経て××の行動や状態を起こしているのかをきちんと説明できないのであれば、それは事実の説明ではなく、信念体系に基づく説明と言うしかないと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

色々と元高校生さんの信念や考え方が伝わってくる内容でした。
私の考えは横に置いていてもらって結構です。それは質問に置いては添え物に過ぎず、私はこう思うということを述べただけですので、それについての批判や検証を欲しているのでは無いのです。
欲しいのは、繰り返しになりますが、人が仏前や墓前に花を供えるのは何故か、と言う問いに対する答えであり、元高校生さんはそれに対して、習慣だからと答えて下さりました。それはそれで一つのご回答として受け止めます。
沢山書いてくださったのに、元高校生さんの主張を理解出来たかどうか分からないのは申し訳ないことです。
優しさとは何かについては、また別の、大きな題材でもありますから、回答に於いては必要ならば、元高校生さんの思っている優しさというものをそのまま使っていただければと思います。そうそう私の思っている優しさと、乖離している訳でも無いでしょうから。
質問とは離れますが、心を起点にして何某の行為や考えが生まれるのは日常的な事であり、特に珍しい事では無いでしょう。心が手で掴んだり、匂いを発したりしないので、何某の行為や考えの基点に心があると思えないのかもしれません。この点については元高校生さんと私は見解を異にしておるわけです。

お礼日時:2016/05/12 01:06

◎実はこの質問の核心は、合理的に説明できない人の行為について尋ねたものであるのです。

人が死者を葬るのは、病気の蔓延を防ぐなどと言った合理的な理由がある訳です。しかし、そこに花を供える行為と言うのは、その様な合理的な意味の範疇にはない行為です。花を供えたから疫病が流行らないなどという事はないでしょう?
☆「合理的に説明できない人の行為」というのは、どのような意味でしょうか。「いちゃもんをつけられたと思って文句をいう」「大損したと感じて意気消沈する」「葬儀から戻って清め塩を使う」ような人の行為はしばしば見受けられるものですが、これらも「合理的に説明できない人の行為」に該当するのでしょうか。「合理的に説明出来る=ある種の目的達成に適う行動であると説明することもできる」というような見方をするのであっても、「それが社会習慣だからそれに従う」「おかしな人とみられたくないのでそうする」「こうすると落ち着いた気分になれるから」「綺麗にするのが好きだから」「頭にきたのでストレスを溜めないため」と言い出せば、大抵のことは「合理的に説明した」ようなことになります。 また「合理的に説明できない=AだからBになるという表現ができない。AなのでBになると言うと奇妙な主張や見解だと思われてしまう」というようなことでしょうか。 そして、《「花を死者に捧げるのは人がもつ優しさの表れである」という主張》は、合理的な説明なのでしょうか、合理的ではない説明なのでしょうか。

◎元高校生さんには、私が信念を述べているのでは無く、そうした非合理的な行為の意味を問うてるのだと理解していただきたいと思います。
☆不合理/非合理に関係なくいうと、多くの癖に合理性を基準とした説明をするのは難しいです。社会習慣やマナーとされるものも、なぜそうするのか、そうした順番やスタイルをするのかを説明するのは難しいです。手洗いや戸締まりの確認を(本人自身も止めたいと思っているが)執拗に繰り返す[強迫性障害]もそうした行為から離脱できない人がいるのは確かですが、説明は難しいです。 無理矢理合理的説明をするなら[そうしないと落ち着かないから、気を満足させるためにやっている]となるのでしょう。 怒り、恨み、哀しみ、苦しみ、憂鬱、喜び、楽しみ、愛着なども、そうした感情があると認めることが普通ですが、そのようなことに関してさらに別次元の意味を求めようとしても、難しいと思います。

◎論理的には何を言っているのか分からないのは当然です。何故なら、論理的に説明のつく事を題材にしているのではないからです。元高校生さんには、その論理的でない事の意味をどう考えるのか、と言うところで回答いただけると嬉しいです。
☆物理化学の現象は論理的な説明がされますが、《意味》を求められても困ります。社会現象でも似たようなものです。ニュースで為替や株価の上下を報道しています。こうした株価や為替変動の《意味》を求められても困ります。女性が多数の靴を持っているのにまた新しい靴を買うのですが、その行為の《意味》はなんでしょう。彼女は何十という靴の箱に新品に近い他人から見れば似たようなタイプの靴を持っているのです。服やアクセサリー、バックでも似たようなものでしょう。 《意味≒大事だ、重要だ、これも買いたい》と本人が思っているとしか言いようがないです。 草花を育てる、ガーデニングする、生きていることに苦しみを感じつらがっている、人間関係の悩んでいるなどでも、そのままに実態を捉えるのが普通だとおもいます。 その行為や思いに《合目的な意味・意義・合理性》を考えようとするのは自由ですが、そのような考えをすること自体に《合目的な意味・意義・合理性》はないと思います。
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この回答へのお礼

正直に言いまして、元高校生さんは何を言うためにこの質問を訪れてくださったのかわかりません。
沢山の例を出していただきましたが、随分質問の焦点が拡散してしまいました。
人が仏前や墓前に花を供えるのは何故か?という問いです。(靴に凝る女性の話をしているのではありません。)私は別に私の考えを主張している訳ではないのです。こう思うとは言いましたが。今の所、元高校生さんは、その理由は分からないと仰っておられます。別に、分からないと言う回答を受け付けない訳ではないのですが、。

お礼日時:2016/05/11 11:34

今一度、改めて見直してみました。



亡くなられた時は、愛情の「情」が優勢で強く感傷的になったり
自身の感情に振り回されたりしますが、残るものと言えば
「愛」ですね。

相手に受けた愛と、自分が純粋に相手を思う愛が残り
愛と共に大切に思う相手は自分の中で生き続けます。
愛ゆえに、花を贈るのだと思います。

そうやって人間は、愛を持ち続けるのでしょうね。

愛を持ち続けるから真の意味で強くなれるし、強く居られる。
暴力的な強さで無く、人として優しく居られる強さ。


最近は近代の歴史を調べていますが、この質問を鑑みて
日本人は強い愛を持ち続けるのかもと思いました。
日本軍の決意から来る強さは、類を見ないですね。

守るものを、身を呈するのは「愛」より他にありません。

後、嘘の歴史を教育で受けていたことも知りましたけどね(笑)
今でも戦後は終わってなかったことに、多少のショックがありました。

今でも敗戦国の立場に置かれたまま、日本人は生きている。
教育もメディアも、出さない・出せないタブーが多くあります。
知ってるつもり、分かっているつもりが自分にここまで根深いとは驚きです。
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この回答へのお礼

愛ですか。
様々な想いが花に託されますね。
愛もその一つでしょうか。
故人に対する忘れ難き想いの表れということですね。
対象が今は存在していないのに、それに花を捧げるというのは、とても静かな想いの残り香といったものが当事者にあるからなのかもしれません。

お礼日時:2016/05/11 12:02

NO.13です。


>《優しさ=優しい心=相手にとって受け入れられやすい態度や言葉・・・~中略~・・・存在しないもの、もう死亡した人や生物に対する優しさとは何なのでしょうか。《追悼する・献花する・哀悼を述べる・同情する・哀哭する・愁嘆する・回想する・哀惜の情をだすなどを自発的にしている》のを優しさの表れと考えるよりも、そうした感情の表出だと考える方が良いように思います。<
◎優しいという言葉に拘るわけではないのですが、(辞書的意味とは異なりますが)一種の慈しみがそこにあるのではないでしょうか。現代日本でも、人が亡くなると、火葬にする前に遺体を綺麗に拭いて、衣装を着せて、愛用の物などを棺に収め、そして葬送に出します。そう言う行為は、優しさの表れと言えないでしょうか。故人を大事に思う故の事だと思うのですが。他の回答者様も言って居られますが、実体としては存在しない故人ではありますが、心のなかには存在していると言えます。心のなかに他者の居場所を作っている、その事自体が、他者を思いやっている、つまり優しいということなのではないかと私は思います。
☆生存中の人や故人、今は遠く離れてほとんど直接の関係がない人、全く交流はないが好きでたまらないアイドルなどでも、大事に大切にし、他からあしざまに言われたり扱われたりすると自分の感情が大きく揺れるようなことは、結構多いです。そうした反応や行動を『優しい・優しさ』というか、私はそうした反応や行為を優しさの一種とは思いません。哀惜、愛着、大切にする、愛おしく扱うという心情や行為などは、優しさと同時に存在することもあると思うのですが、優しさとは別のことだと思います。

>昔から人は死んでいます。死なない人はいません。しかし、死というイベントに身近に遭遇する機会は現代日本ではどんどん減っています。死の危険さえも減っています。<
◎との事ですが、これらの事によって、現代では死が観念的なものになっているのではないかと思いました。観念的になるということは、そのことについて思い巡らすということと直結しているように思えます。
☆観念的になるということは、思いをめぐらすとは全く違うことであり、『具体的事実に基づかずに単純な観念を出発点にして順次頭の中で組み立てられただけで、現実に即していないさまを観念的と表現し、実態に即してない、非現実的な条件設定で思考されることを観念的になると表現します』『じっくりとあれこれと色々様々に考えるさまを思案するさまを思いを巡らすと表現し、結論をまだ出せない、論理や筋が絞り込めない、拡散状態で思いが巡ってしまっているのを、思いを巡らしていると、丁寧あるいは否定的色を消して中性的に表現します』
☆死が現実の身近に経験する出来事ではなくなり、死の連絡というだけ状態になって、情報の一種になりつつある面があるとは思います。またそれ以外に、自殺願望、希死念慮、実際の自死もありますが、そうしたことをする人は、{生の放棄・生に伴う苦痛や煩わしさ鬱鬱した感情や怒りなどを終わらせる・生の終わり}を考え、願望し、強迫的に念慮し、実行するのでしょう。それを《死を考える・死を思う》と表現することも少なくないとは思いますが、《死について熟慮思索している》というような意味で《死を考えている》のではないと思います。

>・・・実際には参加している参会者への心理効果をもたらすために行われていると考えてイイと思います。<
◎勿論そうでしょう。死に触れることで、やさしくなれる場合もあると思います。
☆[やさしくなれる]⇔[厳しさを維持する]と考えるのであれば、別離でも、共同参加でも、同情でも、相手の状況理解を機にでも、厳しく厳格である⇒優しくするへの変化はしばしばあります。自分が苦境から脱したり、自分に余裕が出来たときにも、ピリピリした状態から温和で優しくなることもあります。

>『人が持つ優しさが、こうした花で仏前を飾る、献花し供物を捧げる行為を人類にもたらしているのだ』<
◎逆説的ではありますが、花を供える行為によって、優しさとは何かを学ぶこともあると思います。小さな子供に、大人の代わりに線香をあげさせたりするのもそう言う意図があるかと。
ところで、元高校生さんは、墓参りには定期的に行って居られますか?
☆ある行為や発話の仕方、表情の作り方などが、社会的にどのように受け留められるかは、その社会の文化です。 それを教えたり、周囲の人の行動などの観察学習で、文化を身につけて行きます。花を贈る、花を生ける、花を飾るという行為がどのような意味を持つのかは、言葉での教説ではなくて、観察学習と行為への参加を促すことで行われるのが普通です。日常の挨拶についても、老人や幼年者、初対面、友人、異性、先輩や先生にどう接するかも同様です。小さな子供に手を合わせさせたり、線香をあげさせたりするのもそう言う意図を持っている人もいるでしょう。ですが、多くの大人は《そうするものだ》というスタイルを教えているとは思っているけれど、優しさの表現の仕方を教えているという認識はしてないと思います。
私は日課として線香をあげるようなことはしてません。墓参りは年三回が普通です。

誤解のないように補記しますが、{ 『人が持つ優しさが、こうした花で仏前を飾る、献花し供物を捧げる行為を人類にもたらしているのだ』という思想や信条をもつことで、安心や信頼を強める効果が期待できるなら、そうした信念を持っても良いと思います。 }と書いているのは、害が生じる危険性は少ないので、『人が持つ優しさが、こうした花で仏前を飾る、献花し供物を捧げる行為を人類にもたらしているのだ』という思想や信条、信念を持っても良いと思うというだけの話です。 思想信条は他に害を生じることが少ないなら、どのような思想信条を持とうが自由だと思いますが、事実に即さない、非合理的な思想信条というのは、あまり好きではないです。 キリストや如来などに関しての逸話は宗教的意味はわかりますが、事実ではあり得ないものが多いです。 『人が持つ優しさが、こうした花で仏前を飾る、献花し供物を捧げる行為を人類にもたらしているのだ』というのも、その論理展開に使っている《人の持つ優しさ》をロジカルに説明出来ないと、論理後半に持っていく筋がないと、私は思います。 『怒りや恨みが犯行を引きおこした』なら、その怒りや恨みをある程度イメージを共有出来るものとして説明可能ですから、犯行を引きおこしたという機序あるいはメカニズムを調べたり詳しく説明できたりしますが、『人が持つ優しさが、こうした花で仏前を飾る、献花し供物を捧げる行為を人類にもたらしているのだ』では、そうした信念を述べているのはわかりますが、論理的にはなにをいっているのだか、私にはわかりません。
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この回答へのお礼

実はこの質問の核心は、合理的に説明できない人の行為について尋ねたものであるのです。人が死者を葬るのは、病気の蔓延を防ぐなどと言った合理的な理由がある訳です。しかし、そこに花を供える行為と言うのは、その様な合理的な意味の範疇にはない行為です。花を供えたから疫病が流行らないなどという事はないでしょう?
元高校生さんには、私が信念を述べているのでは無く、そうした非合理的な行為の意味を問うてるのだと理解していただきたいと思います。

論理的には何を言っているのか分からないのは当然です。何故なら、論理的に説明のつく事を題材にしているのではないからです。元高校生さんには、その論理的でない事の意味をどう考えるのか、と言うところで回答いただけると嬉しいです。

お礼日時:2016/05/11 01:44

人の死に直面した時に起きる素朴な人間の心情、



死に対する恐怖、悲しみをやわらげたい、
弔いたい(この言葉を忘れてました)、
近しい人であれば繋がっていたい、

そういった気持ちが合わさって、「花を手向ける」という文化が
世界中に拡がったと言えると思います。

その素朴な心情の中に、日本的に言えば「氏神信仰」≒「祖先神信仰」
平たく言えば、「亡くなった家族が自分たちを守ってくれる」、
これがあると思うのです。

つまり、死んだ後に何か特別な力を持ち、自分たちを見守ってくれる存在に
対する、尊崇の念、ということです。

日本の文化には言うまでもなく、海外の文化というか、人間の普遍的な
文化として、これがありうるのではないかと思いました。
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この回答へのお礼

世界のいたるところの原住民、つまり未開の地の人々は、先祖崇拝をしている事が多いですね。霊や魂と言ったものを信じていて、死後の世界や死後の世界と現世の繋がりを神話や伝承の物語として持っています。それもまた、死という厳然たるものを受け入れるための緩衝材の役割を担っているのかもしれません。
花の意味は、どうぞ、、、と言うそこはかとない慰霊の気持ちの表れなのかもしれません。

お礼日時:2016/05/11 01:52

>墓参りや参拝の第一義は、死を思うところではなく、人を思うところなのではないかと。

微妙なんですが。。

確かに。ただ、メメント・モリと云ってしまえば「死一般」ということになってしまいそうですけれど、やはり「自分にとってかけがえのない人の死」・・・つまり「死」と、個別の「人」とを分かつのではなく、それは「固有の死」であり、「他の誰でもない、かけがえのないあの人の死」という風には考えられないでしょうか。

>死によって決定的に隔たれる事柄と、想いによって繋がっているという生の有様とが合わさる場所が、墓前なのかもしれません。

墓前であり、または仏前でもあるでしょう。昔は何処の家にも仏壇があったといいます。場合によっては仏間のある家も。
その意味では「死」は身近にあったし、同時に死んだ人たちもまた身近にいたという感覚だったのでしょうか?

亡くなった人たちと、同じ空間で生きているという感覚、毎朝仏壇に手を合わせて、挨拶をするという「繋がり」を、生きているものの側が持っていたいのでしょう。

お墓に何故お線香か?も気になります。
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この回答へのお礼

固有の死ですか。確かにそう考えられますね。
私の家では、祖父母が元気だった頃の写真が居間に置いてあり、毎日晩御飯の一部を供えたりしています。寂しさを埋めたり、死というものを受け入れる為の準備であったりするのかもしれません。
上のネコさんのご意見に通じるものを感じました。

お礼日時:2016/05/11 01:56

お礼ありがとうございます。



>そのような合理的な説明のつかない行いの意味は何か、問いたくなったのでした。

犬が亡くなった当時、私はとても小さかった。それまで、死に直面したことがなかったので、恐怖心が芽生えました。
大人達も、ただ、土葬するだけで何も供えてはくれなかったと記憶しています。

幼い私ができることは、学校で習った朝顔等の植物の栽培でした。
たぶんそうすれば、犬は救われると感じたのかもしれません。
そして、心が落ち着いたと思います。

最近の葬儀は形式化しています。葬儀場の花も持ち帰りです。
お墓のお供え物も個人の生前好きだった物です。
お供えの花に於いては、造花となっています。
母に訊ねたら、お墓になかなか来れないそうだからです。
合理的な世の中になりつつあります。

小動物の死骸もゴミとして扱われるのでしょう。
でも、私は生き物として扱いたいのです。
そのために、生きている植物を捧げます。
たぶん、私は変わっています。
日常、たくさんの植物や小動物を目にかけます。
彼らが、何かを語りかけているようで、楽しいですよ。
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この回答へのお礼

てふてふさんが変わっているとは思いませんよ(^ ^)
もしかすると、摘んだ花や切り花を供える前は、植物を直接植えたり、種を蒔いたりしていたのかもしれません。こちらの方が、供え物の原型であったかもしれないです。

お礼日時:2016/05/11 02:00

・・・その上で、なお、話を深めるとすれば、



墓前に萎れた花は取り除かれますが、そこに新たに添えられた花も、ほどなく萎れる。枯れる。
「切り花」というのはその瑞々しさのなかに間近の「死」を含みもつ、もっとも象徴的な表象ではないでしょうか?
それのいうところは「メメント・モリ」であるのかもしれません。

一方で、瀬里香さんのいうことももっともで、いなくなってしまった人の好きなものを供えることは、あの人と直結するなにかを供えることは、「形式的」ではなく、「あなたとはまだつながっていますよ!」という気持ちの発露ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

おっしゃるように、切り花を供えることはメメント・モリでもありえますね。しかしそれは、花を供えることの核心ではない気もするのです。墓参りや参拝の第一義は、死を思うところではなく、人を思うところなのではないかと。微妙なんですが。。

>あなたとはまだつながっていますよ!」という気持ちの発露ではないでしょうか。<
 
死によって決定的に隔たれる事柄と、想いによって繋がっているという生の有様とが合わさる場所が、墓前なのかもしれません。

お礼日時:2016/05/10 01:47

>しかし、しおれた花は墓前から片付けるものであり、しおれたる様も花・・・というわけではないようです。



そうですね。

ところで、日本の花というと桜というイメージがあります。「花と散る」ことが日本的な美意識であると。
でもやはりわたしはそういう「益荒男(ますらお)」ぶりよりも「しほれたる風体、かへすがへす大事なり」という幽玄の美学を好みます。

花というもののもつイメージに

「花の命はみじかくて、苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)

「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」 (小野小町)

といった、「果敢なさ」があるのでしょう。花とひとの身を考えれば「散る桜、残る桜も 散る桜」

墓前に花を手向けるわたしもまたはかない存在なのだ、という気持ちもあるのかもしれません。

極楽や天国の花は、おそらく、「散る」ことも「しおれる」こともないのでしょう。造花のように。

「散る」「しおれる」という花の佇まいが、生と死の循環を象徴しているように思います。

・・・ただ、率直に言えば、まさにあふぉなさんが質問の最中で云われているように、このような行為=今はいない人の前に花を供えるという行為について、いちいちもっともらしい理屈をつけることに対するそこはかとない「抵抗」のような感情もあります。

言語化し得ないこと、をもっと大事にすべきじゃないかという思いです。
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この回答へのお礼

率直なところをおっしゃっていただきありがとうございます。

>墓前に花を手向けるわたしもまたはかない存在なのだ、という気持ちもあるのかもしれません。<

それはあるかもしれませんね。

>・・・言語化し得ないこと、をもっと大事にすべきじゃないかという思いです。<

言葉に先立って存在しているこころがある気がしております。言葉を頼る癖は抜けた方が良いのかもしれません。

お礼日時:2016/05/10 01:41

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