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「なぜ茶髪はダメ」と聞かれたらどう答えますか。
私自身はダメとは思っていないのです。ただ社会的に認知されていません。なので説明が難しいです。
私は茶髪は社会意識の中でまだ、異質なものとされ、それで、排除されているのではないかと思っています。スケープゴートと同じ原理です。異質なものを排除して秩序を守るということです。
しかし、「なぜちゃ髪はダメ」の答えにはなっていません。
どうぞ、いい考えをおしえてください。

A 回答 (32件中21~30件)

No.5で書きこみをしたものです。

先程は勘違いで失礼なことを書いてしまってスミマセン(ハズカシー)。suyasuyaさんは学校の先生なのでしょうか?だとしたら、逆にひとつ質問なんですが、あなたの学校で「茶髪はダメ」ときめてるのは校則?学校長の方針?それとももっと上層部の行政の教育委員会や文部省方針でも有るのでしょうか?いずれにせよ誰か決めた人(または管理している人)がいるはずですよね。その人に聴いてみる訳にはいかないんでしょうか?その意見が納得できるものであれば正直に生徒に話してみるのもひとつの方法だと思います。
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 あくまで私の個人的な考えですが、この問題は「人を外見で判断してはいけない」と教えてしまった為の矛盾です。


 そして、人に迷惑をかけなければ何をしてもいいと思っている子が増えているために出てきている問題です。

 社会に出れば「人はまず見かけで判断する」し、生徒も意識的かどうかは別にして外見での判断は行っており、それは当然のことです。
 この、人の見極めは自己防衛本能のようなものであり、危機管理の一種でもあると思います。
 
 ちなみに私は身なりからの判断だけでなく顔も見ます。顔は生まれつきのものですが、その人の心は顔にずいぶん表れると思っています。

 話は脱線しましたが、自分が自由にする(茶髪にする)ということは、そのことで自分がどう見られようが構わないということです。
 自分の意に添わない評価をされることもあるのです。
 他の回答者の方が言われているように、茶髪が原因で悪い者に目をつけられたり、何かトラブルに巻き込まれることもあるでしょう。
 「そんなのは実際になってみなければわからない」という考えは正してやるべきです。危険性があるのなら近寄らない。基本と思います。

 生徒は「俺はそれでいいから染めたい」と言うと思いますが、それは学校という学びの場では主張することのできない自由です。
 ルールというものの意味を教えてあげて下さい。
 他の人間がルールを守っていることによって、自分が守られているということです。
 交通ルールを考えてみればわかりやすいと思います。
 
 学校の校則はそれを破ったからといって誰かが傷つくというものではないかもしれません。しかし、それすら守れないで他のルールが守れるでしょうか。
 自分を律する訓練の意味で校則があるのではと今は思います。
 注意せずにそれを肯定してしまえば、その子は一生気がつきません。
 私も先生に注意された時は「ちくしょう」なんて思いましたが、今では良かったと思っています。

 言い方は悪いかも知れませんが「悪法もまた法なり」です。
 そして悪法に疑問があれば、それを適法に変えていくのがスジと思います。
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私も補足させてください。


deagleさんの回答を読んで思い出したんですけど、もうひとつ、納得した答え(先生からもらった)がありました。
それは、「校則だから!!」でした。
校則を守ります、と入学時に約束して、それで入学しているのだから、校則を守るのはあたりまえ。
それがいやなら、自分で運動を起こして校則を変えなさい。
と言われたんです。

> 「そういったことができる生徒」を出すことができれば、ラッキーといえるのではないでしょうか(笑)

そのとおりですよね。自分をしっかり持っていて、いい生徒と言うか、いい大人になる生徒だと思います。
私は、「どうせ校則を変えようとしても、自分はすぐに卒業してしまうし…」と、何もしませんでした。お恥ずかしいです…。
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 補足です。



 なるほど、生徒さんに対する説明としては、生物学的なヒューマンエラー(と某番組で称していたようですが、ここでは「習慣的混乱」と呼ぶのが正しいでしょう)のことを押し付けるのは適切ではないですね。納得しました(笑)

 俺が小学5年生のときは、「上が古い人だからしょうがないんだよ。君らは大人になっても子供の自由を奪うようなことはしないで欲しい」と言われて非常に納得したものですが、今思うと、俺って単純だったんだなぁ(笑)

 事実をズバッと言い聞かせる説明の仕方をするときは、「茶髪禁止は、昔の風習に合わせたルールだから」という言い方が適切ではないかと思います。
 その昔、戦後からしばらくは、「絶対主義」といって、「国民が皆心を1つにしてがんばらなければならない」という風潮が残っていました。そうでなければ立ち直れないですからね。
 また、明治維新以降、日本は数々の戦争に見舞われ、そういった「絶対主義」でなければやっていけない時代を幾回か通っています。
 そのためには「はみ出し者」を出来るだけ少なくしなければいけなかったんです。
 それがゆえに、当時の先生達は「みんなで心を一つにするにはまず見た目から」として、坊主の強制などを行ったわけです。

 ですから、「どうしても茶髪にしたいのであれば、『その校則がすでに現代の状況には合わず、むしろ弊害となっている。しかもそう思う生徒が大勢いる』ということを自ら証明しなければならない。その証明ができれば茶髪はOKになるし、できなければならない」と言えばいいわけです。
 もっとも、こういう言い方は「社会の縮図的」で好きではないですけどね。

 これで納得しない人にはまた別の言い方を考えなければいけませんが、納得させることができれば、もしかしたらその生徒さんは署名運動なりを始めるかもしれません。
 「そういったことができる生徒」を出すことができれば、ラッキーといえるのではないでしょうか(笑)
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これは私が先生に言われたことなのですが、


先生は生徒にトラブルに巻き込まれてほしくないんだそうです。
そして、社会的に見て(皆さんがおっしゃっているように)茶髪の高校生は、つっぱってる(古い言い回しですが…)とか、遊んでるとか見られがちですよね。
そうすると、援助交際に誘われる率が高くなったり、喧嘩好きな人にからまれる率が高くなったり、頭の固い人に言いがかりをつけられる率が高くなったり…するんじゃないかと(私も)思います。
そうなってほしくないから、茶髪は禁止なんだ! っていわれて…。
私は、先生って生徒のことを考えてくれてるんだ、と思ってちょっと感動したのでした。
その先生がおっしゃってくださったようにうまく表現できてないですけど…。
もし参考になれば嬉しいです。
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お礼を有り難うございます。


生徒に納得させる、という意味ではかなり詭弁的な方法が必要なのかもしれません。
年齢の如何を問わず、個性は尊重するべきとする風潮があり、権利を認める傾向にあります。制服の是非等は象徴的な議論だと思います。公共のマナーに関しても礼儀の存在価値が危うくなり、「迷惑をかけない範囲であれば許される」という境界線を考える人が増えてきています。公序良俗の社会から権利主張の社会への移行段階にあるのかもしれません。これから社会に出ていく人に「没個性」を求める態度が正しいのかどうか、意見の別れるところであると思います。

そんな状況で「茶髪がダメ」と決めつけて納得させる為には、理由が明確でないルールというものの存在価値を認めてもらわなければなりません。社会で通用しないから、などというのは明らかな誤りであり、若い個性集団が旧体制を淘汰する可能性も否定できません。
説得には強引さが必要、と考える所以です。

会社、サークル、団体、など、社会にはそれぞれの独自のルールがあり、どこにおいても個人の権利が最大限に認められるわけではない、任意に所属する社会では、その都合で制限される権利もある、という事を具体的な例示を持って説明する事が有効だと思います。

たとえば、ある運動部では新入部員は丸坊主にする、というルールがある。これは個人の権利を侵している。ある会社では制服の着用を義務付けられる。仕事ができていればよいとはされない。あるサークルではマイカーにステッカーを貼る事を強要される。美観を損ねるから嫌だといっても認めてくれない。
このように、社会を律するルールというのは個人それぞれの価値判断とは無縁の所にあって、その社会に身を置く為の資格といった性格がある。社会の側の都合であって、その社会に身を置こうとするのであれば受け入れるべきルールである。個人の権利を最大限に主張したいのであれば、それを容認する社会を探すほかない。
この学校という社会は「茶髪は好ましくない」と判断しており、それが全体の利益にあたると判断している為にルールとしている。判断が正しいかどうかの意見を持つのは自由であるが、この社会の一員であろうとするならば、自己の判断とは別の問題としてルールに従う義務がある。今後属するであろう会社や地域社会においても同様の問題は必ずあるので、そういう意味でもルールに従う勉強、訓練を体験して欲しい。

というのはどうでしょうか。
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 色々意見はあるようですが、とりあえず質問中の「異質なものを排除する心理」を説明するのが一番だと思いますので、髪の毛とは関係ない話をしますね。



 もともと、人間の異質排除心理は「もしかしたら敵かもしれないもの」を排除するためのものでした。見た目が普通とはちょっと違う人間は、部族の外から来た者、あるいは外国から来た者として、「もしかしたら攻撃されるかも」と思ってしまうわけです。
 実際には攻撃される可能性が皆無であっても、これは気持ちの問題なので関係ないんです。

 で、時代は流れ流れて現代ですが、この古代から受け継がれてきた人間の特質はいまだ受け継がれており、鎖国時代が長かった日本はこの特質を色濃く残しています。

 ですから、髪の毛の色が違う人間はとっさに「外国人だ! スパイかも……」と思ってしまうわけです。
 これに対し、「そんなわけないじゃん」という意見はあくまで現代的、理性的なものであり、本能を否定するほど説得力のある反論ではないんです。

 あともう1つ。
 ときどき年取った人というのは、「昔はこうだった。今はこうだ」という人がいます。俺もやっぱり言います(笑)
 でもたいていの人は、単純に昔と今を比較しているだけで、今の物が駄目だと言っているのではないんです。ベーゴマと比べてベイブレードが劣っているとは決して思いませんし、むしろ親しみやすいという意味では非常に優れています。
 ところが、中には、「慣れてないから」というだけの理由で今の物を嫌う人もいます。特に40もすぎると、石を投げればそういう人に当たるって感じのオッサンが大量生産されます(笑)
 なぜなら、そういう人は「思い出の中の昔(つまり昔の最良の物)」と「今見える物全て(つまり今の平均)」を比較してしまう悪い癖がついているため、どうしても今の物は悪く見えるんです。
 そんな人はもはや、無視しておくしかありません(^_^;
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この回答へのお礼

私自身が異質なものを排除する心理と思っていたので、歴史的背景などより納得するところがありました。ありがとうございます。もし、学校で子ども達が、この質問をしてきたらどう答えればいいのでしょう?本能を否定するほど説得力のないものとして毅然と否定すべきなのでしょうか。できれば、子供達にも納得させたいです。その辺の回答もできればお願いします。

お礼日時:2001/06/20 14:58

私の仕事は建設業ですが、職人さんには大勢茶髪の方がいます。


つまり、「茶髪はダメ」じゃない職業の人も沢山います。
質問の意図が「茶髪にすると職業が限られるのはなぜ?」だとすると、他の方が回答している通りだと思います。ですが、なんか「茶髪の人でも出来る職業なんかだめ」といわれているようでさびしいです。質問の意図と違っていたらスミマセン。おまけに回答にもなってませんね。
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この回答へのお礼

この質問は学校では「なぜ茶髪はダメ」なのかを意図していました。「茶髪の人でもできる職業なんかだめ」と受け止められるとは、想像できず配慮が足りませんでした。自分でも思っていますが言葉が足りませんでした。すいません。

お礼日時:2001/06/20 14:46

私は日本人の肌の色には黒髪のほうが似合うと思います。


わざわざ肌の色に似合わない色に髪を染めることは無いと思います。

単に、美的センスの問題だと思います。
あまり参考にならなかったかもしれません。あしからず
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この回答へのお礼

はっきりとした答えで分かりやすいです。子ども達に毅然とした態度で「がつん!」といってやりたくなる言葉です。ありがとうございます。

お礼日時:2001/06/20 14:30

その人が自己主張していい立場にあるのかどうか、という事がポイントになっていると思います。


学生は教えてもらう立場です。謙虚な姿勢であるべきでしょう。知らない事も多く考えにも未熟さがあるかもしれないのだから自己主張は自制するべき、ということから、服装や頭髪に関してもあえて没個性的であることが要求されてきたのだと思います。
未成年についても同様でしょう。
社会人も、営業やサービス業については客を優位としますので、立場が下にあるものが自己主張をするのは好まれない、という分析ができると思います。仕事に直接関係のない事でも、自己主張を表現する事は相手にプレッシャーを与える事になります。相手は防御や対抗や畏縮、あるいは共感などの反応を起こすでしょうが、リスクが大きいので業務上好まれない、という事だと思います。
つまりは上下関係のあるところでは、そのような自己主張というのは上の立場にある人の気持ちに対する配慮の足りない自己中心的な態度、とする素地があるといえると思います。
自己中心的、というのは社会生活では受け入れられづらい性格のひとつでしょう。それゆえに価値観の異なる人の集まるなかでは、たとえ上下関係のない同格の集まりであったとしても、自己主張の強い人、独善的な人、協調性よりも個性を優先する人、という意味で異質に見られるのだと思います。茶髪は自己主張の表現であり、自分の価値観、個性を優先する人間である事を宣言している行為と判断されてきたのだと思います。

個性の尊重、という風潮で、髪を染める事にも抵抗が少なくなってきています。個性の表現にも以前程には勇気や覚悟、強い意志というものがいらなくなってきました。逆に言えば軟弱な者にも自己主張が可能になってきたということでしょう。髪を染める事のアピール度が下がり、誰にでもできる自己表現という認識が高まれば、「茶髪はダメ」という社会の拒絶反応も薄らいでいくのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。出る杭は打たれるといった感じでしょうか。日本の「和」の文化が背景にはあるのではと思いました。今回、「茶髪」といっても色んな切り口があることに驚きました。確かに、自己主張は教育界では求められていますが、社会では、疎まれるところもあるように思います。ただ、これをどうやって、子ども達に納得させるかがわかりません。そこのところも、できれば伺いたいです。

お礼日時:2001/06/20 14:26

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