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21世紀の今日においてはキリスト教を信じる欧米社会においても、聖書の中にある記述の多くはタトエであるとみなす考え方が定着しています。
キリスト教ではタトエのことをparableと言います。
聖書の中にあるイエス・キリストが行ったとされる様々な奇跡についての物語も、21世紀の今日では全てタトエであって文字通りに受け取るべきではないと考えることが普通になっています。
もちろん一部には例外がいて、聖書の記述をタトエではなく文字通りに受け取る人が今でも存在するそうですが、彼らはいわゆる原理主義者ということで一般社会では敬遠されているみたいです。
同じことは仏教でも言えることで、極楽浄土についての浄土真宗の親鸞上人の教えなども全てタトエで語ったものであって、21世紀の今日ではそのまま受け入れる類の話ではないのではないでしょうか。
しかし一方において、そもそも信仰をタトエで語ってよいのかという素朴な疑問も生じるわけです。
果たして初めからタトエばなしということで信仰が成り立つものでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

タトエと云うのは頭がいい人が頭の悪い人に説明する手法です。

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21世紀にもなって、超弦理論どころか、量子論も知らずに


生きている人がいるのだから、信仰(他律的第一原因)に
よって生きている人が多いのでしょうね。
(知った上で否定するのなら分かるが、分からないから
否定するというのは論外)
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この回答へのお礼

>信仰(他律的第一原因)

なるほど、さすがブータンで修行しただけのことはあるわな。
これでまた一つブータンヤマト語のボキャブラリーが一つ増えわけだ。

お礼日時:2016/07/23 20:51

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概要[編集]
本生譚(ほんしょうたん)ともいう。十二部経の1つ。法隆寺蔵の玉虫厨子には、ジャータカ物語として施身聞偈図の雪山王子や、捨身飼虎図の薩埵王子が描かれていることで知られる。
仏教経典には、さまざまな前世の因縁物語が説かれ、主には釈迦仏の前世による因縁を明かし、現世や来世を説いている。これをジャータカというが、広義には釈迦のみならず、釈迦の弟子や菩薩などの前世の因縁も含めてジャータカ、あるいは本生譚と呼ぶ場合もある。
しかし、本来ジャータカとは特別な形式と内容をそなえた古い文学の種類を称して呼んだものである。また漢訳仏典ではこれらの経典を『本生経』と総称し、パーリ語仏典には22篇に分けて計547もの物語がジャータカとして収録されている。この形式には、現世物語・前世物語・その結果(あるいは来世物語)という三世で構成されている。散文と韻文とで構成され、紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。
しかるに仏教がインドから各地へ伝播されると、世界各地の文学に影響を与え、『イソップ物語』や『アラビアンナイト』にも、この形式が取り入れられたといわれる。また『今昔物語集』の「月の兎」なども、このジャータカを基本としている。

ジャータカ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャータカ

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そういえばジャータカと思って
とりあえずウィキペディアを見たけれど、
この記述はあまりに仏教に都合のいい記述になっているが
本当なのだろうか?
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Parables[edit]
Jülicher also helped to change the understanding of the parables of Jesus among scholars, emphasizing that there was usually a single point of comparison between the story and what it represented.[7] He made a distinction between parable and allegory, claiming that a true allegory was a literary type of which Jesus was not aware and did not use. All specific allegorical interpretations of the parables, whether by later church fathers or in the gospels themselves, must have come from sources other than the historical Jesus.[8] In contrast, most Medieval scholars saw the parables as elaborate allegories, with each aspect representing something specific.[9] Later, scholars such as C. H. Dodd[10] and Joachim Jeremias[11] built on Jülicher's work, emphasizing each parable's significance in regard to the "Kingdom of God". Nearly all subsequent scholarship has followed Jülicher's ideas in this, although some have seen a slightly wider range of comparisons that he proposed.[12][13]

Adolf Jülicher
https://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_Jülicher

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疲労回復のため休みます。
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原典聖書研究


http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/folder/10258 …

イソップ寓話と聖書についてはそのブログが参考になるというか
それで知った。イソップ寓話もいつか調べることになるのかも。笛吹けども踊らず。


あと、ニルヴァーナは仏教のオリジナルではない
というのは、ジャイナ教にも出て来る。

だから沙門宗教に共通した思想でそれが仏教に取り入れられた。
ジャイナ教からというわけではないようだ。そのあたりが私はわからない。



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モークシャとしてのニルヴァーナ[編集]
「モークシャ」と「ニルヴァーナ」という用語はジャイナ経典においてしばしば同じ意味で使われる[2][3]。
ウッタラディヤーナ・スートラではパルシュヴァの弟子のケシにニルヴァーナの意味を説明するガウタマについて書かれている[4]。
“ あらゆる観点から言って安全だが行くのが難しい場所がある。そこでは老いることも死ぬこともなく、痛みも病もない。そこはニルヴァーナ、つまりあらゆる観点からの痛みからの解放と呼ばれている場所である。そこは安全で、幸福で、静寂な場所であって、偉大な賢者だけがそこへ行ける。そこはあらゆる観点から言って永遠の場所だが行くのが難しい。そこへたどり着いた賢者は悲しみから解放される。彼らは流れゆく存在を終わらせる。(81-4)


ニルヴァーナ (ジャイナ教)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ニルヴァーナ_(ジャイナ教)

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"There is a safe place in view of all, but difficult of approach, where there is no old age nor death, no pain nor disease." (81)

Kêsi said to Gautama, 'What is this place called?' To these words of Kêsi Gautama made the following reply: (82)

"It is what is called Nirvâna, or freedom from pain, or perfection, which is in view of all; it is the safe, happy, and quiet place which the great sages reach. (83)

"That is the eternal place, in view of all, but difficult of approach. Those sages who reach it are free from sorrows, they have put an end to the stream of existence." (84)


TWENTY-THIRD LECTURE 2.

KÊSI AND GAUTAMA.

http://www.sacred-texts.com/jai/sbe45/sbe4525.htm

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哲人ヤージニャヴァルキヤ -ジャイナ教の所傳-
中村 元
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/15/ …


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久しぶりにジャイナ教を調べたら
中村元の論文を見つけたので、メモ。
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順序が逆だと思います


信仰が成り立っているからメタファーとして解釈されるのだと思います
というのもまず正しいという前提があり、奇跡という非科学的部分を文学的解釈で濁すことで
この前提を否定から守ろうという信者の営みが成されるのでしょう
もとよりキリスト教圏の人は歴史にも文化にもキリスト教が食い込んでいてそれを否定することができないんですよ
日本人が天皇を絞首刑にできないようにキリスト教は嘘っぱちだと言えないんでしょうね
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★(№7お礼欄) ~~~~~~~~


タトエを持ち出すということは、その時点で信仰は死んだ
のである。
聖書はparableを持ちだした時点で、死んでしまった、信
仰ではなくなった。
何故なら真に正しい教えならば、タトエではなく真実を語
れば良いからである。
真理はタトエで語ってはならないのである。
~~~~~~~~~
☆ というのが あなたの神観である。あなたの神とあな
たとの関係としての信仰である。

聖書なら聖書という補助線を受け留めて そのようにみづ
からの心が動いたのでしょう。

聖書に限らず 世界のあらゆる事柄あるいはあなたの日常
のすべての振る舞いが そう見ようと思えば神からのメー
ルです。

つまり メールを読んであなたは 神よ もっと分かりや
すくはっきりとしたメールを打ってくれたまえ。と言って
いるのでしょう。

さて どうなりますか。
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★ ~~~~~~~~


イエス・キリストの話もタトエばなしで済むんであれば
イソップ童話と同じだ。

そもそもイエス・キリスト自体がタトエなのだからただ
の童話ってことで、補助線も何も無意味でしょ。
~~~~~~~~~~
☆ と あなたは見ている。そういう神観だということ
でしょう。



誰もが神に出会うとは限らない。

出会ったから 神とわれとの関係を保つとは限らない。

すべて 自由です。

そういうかたちで――まったく自由に 人それぞれにお
いてさまざまに補助線が機能するというかたちで―― 
信仰が成り立っている。

ということになります。
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この回答へのお礼

タトエ=parable=補助線
と言っている。

タトエを持ち出すということは、その時点で信仰は死んだのである。
聖書はparableを持ちだした時点で、死んでしまった、信仰ではなくなった。
何故なら真に正しい教えならば、タトエではなく真実を語れば良いからである。
真理はタトエで語ってはならないのである。

お礼日時:2016/07/23 07:30

自分には これがよいという補助線を見つければよろしい。



なければ 見つかるまで俟つか。

もしくは 探さないことにするか。

いづれも 自由。

いづれにしても 世界のすべてのものごとは 神からの手
紙であるから その中から自分によさそうな補助線を見つ
けること。

反面教師としての補助線もあるでよ。
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この回答へのお礼

タトエばなしで済むんであればイソップ童話はよく出来た話だ。
イエス・キリストの話もタトエばなしで済むんであればイソップ童話と同じだ。
そもそもイエス・キリスト自体がタトエなのだからただの童話ってことで、補助線も何も無意味でしょ。

お礼日時:2016/07/23 00:18

補助線は ひとりの人間にひとつふさわしいのがあればよい。



人が多くいるので いくつかの表現がある。
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この回答へのお礼

タトエばなしってのはそんなに都合のいいことばかりではありませんよ。
だいたいどこからタトエが始まってるのかさえ定かではないでないか。
そもそもイエス・キリスト自体が既にタトエかも知れんわけで、そーなると全てがタトエばなしってことでイソップ童話の世界と同じになる。
そんなんでイエス・キリストが信仰として成りたつの?
っつーの。

お礼日時:2016/07/22 23:13

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